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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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―3―

 3.

 ニブレットとサルディーヤは黙々と馬を進めた。荷運び用の馬の手綱を握るサルディーヤは、自然とニブレットの後ろに立つ形となる。ニブレットはそれを腹立たしく思った。サルディーヤが憎く、殺してやりたかった。自分がされたのと同じように。
 一方、この男はそうそう隙を見せまいという事も、ニブレットは理解している。この漆黒の剣の柄に手をかけるや、彼はたちまち腐術を解き、ニブレットを屍に返すだろう。むしろ隙を見せているのは、未だに彼に背を向けているニブレットの方である。かといって、荷運びの馬の世話を代わってやるつもりもない。ニブレットは嫌がらせのように馬の歩を早め、サルディーヤを急がせた。そうする事で自分の性格の悪さに満足した。
 王の荒野を覆うラピスラズリがどれほど深い地層に達しているか、知る由もなかった。蹄の音は硬く、遮る物のない青い荒野に波のように広がった。雲は厚く灰色に垂れこめ、そのさなかに時折渦巻く血にも炎にも喩えられぬ朱色が、古き世の禍根を呟いていた。
 やがてニブレットは、荒野の奥から吹く風に操られ、ラピスラズリの地を掃き進む白い粉に行き当たった。粉は荒野の奥に進むにつれ、数を増した。英雄イユンクスの遺体袋から流れ出た粉と同質の物に違いなかった。
 白い塩原に行き当たり、ニブレットは馬を止めた。後ろのサルディーヤもそれに倣う。
 これまで平坦に続いていたラピスラズリが、所々で奇妙に盛り上がり、意味ありげな形を作っていた。
 それがかつての野営のテントや、櫓であると気付くのに、時はかからなかった。ニブレットは馬を下り、青い石のテントに手を触れた。テントは冷たく、固く、渦巻く雲と星の模様を閉じこめており、もはやラピスラズリ以外の何物でもなかった。その垂れ幕から中を覗きこめば、散乱する兜や剣が、同じく青い石と化しており、それらの持ち主の不在を、床に溜まった白い塩が明らしめていた。
 塩に足跡を刻みながら周囲を探索する内、タイタス旗が掲げられた大型のテントを見つけた。その旗も石化を免れておらず、表面の僅かな凹凸が、かつての模様を知らしめていた。
「ラピスラズリ」
 その語を口にすると、恍惚とした気分にとらわれた。ラピスラズリ。その言葉は虚無より古く、暗闇よりも美しい。
「瑠璃の界の力がここで対流を起こしている」
 サルディーヤが追いついて来て、言った。ニブレットは荒野の奥から流れて来る力のそよぎに意識を集中したが、サルディーヤが言うほど明確にはわからなかった。
「ここで何かにぶつかった……抗した魔術師がいたか。いいや……」
「私には瑠璃の界以外の属性の力は感じられんがな」
「力はこの野営地を境に、二方向に分岐している」
 サルディーヤは何もない荒野の西と東の方角を、順に指差した。
「君は力の流れを遡り前進してくれ。私は西方向に分岐した力の流れを追うとしよう」
「よかろう。せいぜい背後に気を付けて進む事だな」
 明らかに嘲笑とわかる笑みを声もなく唇に乗せ、サルディーヤは馬を止めた方向に、黒いローブを翻して戻って行った。
 ニブレットは一人、前進した。野営地を抜けると、地を覆う塩も減じ、景色は元通りの荒涼とした様を取り戻した。
 暫く歩くと地を這う石化した草が現れ、前進が困難になった。ニブレットは生前身につけた馬さばきで、平らな足場を探しながら進む内、その草がもともと野苺であった事を見て取った。
 悪くない光景だと、ニブレットはささやかな愉悦を覚えた。
「ラピスラズリの荒野には、ラピスラズリの苺が実る」
 草地を抜け、窪地に出た。
 見下ろす窪地の底には、石化した絞首台が聳え立っていた。脱走兵の処刑にでも使ったのだろう。三本の縄が、先端を輪にしたまま、二度と揺らめく事もなく残っていた。点々と残る塩が、ラピスラズリを汚している。何かの気配を感じ、ニブレットは額に意識を集めた。背後で緋の界と現世を結ぶ通路が開き、魔力が体に流れこむ。その魔力で以って、ニブレットは見えざる者たちを見た。それは、黒く醜い小人に姿を変えた地霊たちだった。処刑台を取り囲み、踊っている。
 人間は大地を流血で汚し、森を焼き、川に死の脂を浮かせる。それゆえ地霊たちは人間を憎む。地霊たちは甲高い声で騒ぎ、彼らの言葉で喜びを分かちあっている様子だった。
 これに似た光景を、どこかで見た事があった。
 絞首台と、人の死を喜ぶ者。
 ニブレットは目を閉じ、更に意識を額に集めた。

 頬に吹きつける粉雪を感じた。王宮前の広場が見下ろせる。
 ニブレットは城壁の上に立っている。
 広場には絞首台が建てられていた。
 女が吊るされ、見世物にされている。
 第二王妃イヴィタ。正王妃ベリヤが実妹。処刑台に至るイヴィタの暗い道は十年前から始まった。
 娘盛りであったブネの生誕日、イヴィタは祝いにカナリヤを贈った。人に馴れたカナリヤであった。それはブネによく懐いたが、ニブレットが半ば強引に捕まえると、嫌がりニブレットの唇を噛んだ。唇から流れ出た血。ベリヤは逆上し、カナリヤの首を捩じって殺し、その場でイヴィタを面罵した。
 同じ年、ニブレットの生誕日。イヴィタは祝いに深々(しんしん)とした光を放つ、赤い貴石のブレスレットを贈った。当時のニブレットには些か大きかった。身に着けて一日を過ごす内に、手から滑り落ちたのだろう、ニブレットはブレスレットを紛失した。ベリヤは近辺の者を厳しく取り調べるよう警護に命じた。ブレスレットはイヴィタの従者の手荷物から出てきた。
 イヴィタの最大の不幸は、これらの出来事とベリヤによる誹謗中傷があってなお、聖王ウオルカンの好色の目から逃れられなかった事だ。手籠めにされ、王宮に囲いこまれてから、彼女は処刑される日まで、この前門を出る事はなかった。かつてブネに贈ったカナリヤと同じ運命を彼女はたどったのだ。
「あな、嬉しや、楽しや」
 城壁の上に聞こえるほどの大声で、老人が独り言を言いながら、絞首台まで来た。胸まで伸びた顎髭と不潔な髪。埃をかぶった服と破れた靴。貧相な痩躯。あれはどこの物乞いかと思ったほどだ。老人は脱げ落ちたイヴィタの靴に滴る、死後流れ出た汚物を素手で集め始めた。眉を寄せるニブレットの視線にも気付かず、寄せ集めたそれをずた袋に入れてゆく。
 連隊長カチェンが城壁の上を歩いて来て、ニブレットの横に立った。
「相変わらず悪趣味な爺さんだな」
「あの不快な老人は何者だ」
「大きな声で言うな、聞こえるぞ」
 カチェンは、それがかの高名な渉相術師レンダイルである事を、ニブレットの耳許で囁いた。
「無念の内に死んだ美しき女。その臓腑に、怨念と共に蓄えられていた不浄なもの。奴の忌々しい研究に必要な物だ」
「奴は今、何の研究をしている?」
「知らんな。知りたくもない。それよりもう、歩けるほど回復したのか」
 ニブレットはカチェンの浅黒い顔を見て頷く。
「ああ」
「早いな。まあ、今日に限ってはあの老人の悪口ばかりも言ってられん。今回の仕事はレンダイルなしには成り立たなかったからな」
 カチェンはマントを翻し、ついて来るようニブレットに言う。
「待ち人来たり、だ」
 レンダイルの不気味な魔術書館と隣接する石塔に、カチェンはニブレットを連れて行く。
 カチェンは塔の最上階の扉を開けた。四方の矩形の窓から風雪が吹きこむ、寒い部屋だった。
 部屋の中央には寝台があり、何かが寝かされている。黒いローブ。横たわる者の顔を隠すヴェール。そのヴェールから覗く顎と唇。体型で、男だとわかった。
「呼び名を付けろ」
 カチェンが言った。

 硬い蹄の音が近付いてくる。ニブレットは記憶の海より帰還した。サルディーヤがラピスラズリの草地を越えて来る。
 サルディーヤは人間ではない。緊張を堪えながら、サルディーヤの様子を窺った。機人には見えない。屍でもなさそうだ。では、この男は何者だ。
「分岐した力の流れは付近を一周した後、野営地に戻って来た。そしてここに至る」
「随分と無駄な動きをするな。迷ったのか?」
「わからんが、今瑠璃の界から力を垂れ流しにして荒野をさまよう存在は、やはりレンダイルではないと考えられる。これより先、力の量と密度は減じていくようだ」
 サルディーヤはニブレットに顔を向ける。が、ヴェールの下に果たして二つの目があるか、ニブレットにはわからない。ニブレットは頷いた。
「魔術の力を継ぐ者には追跡をつけよう。我々は予定通り荒野の奥を目指す」
 ニブレットは弓を取り、矢をつがえた。
 背を反らし、弓を引く。人ならぬ呼び声で、緋の界の力を求めた。魔術の力が右手から矢尻に流れこむ。風が矢を放つべき瞬間を教えた時、手を離した。矢は、灰色の雲へと消えていった。
 地に映る矢の影が膨張し、戦火の神ヘブが使いの、巨大な三面馬が湧き()でた。忌まわしき地獄の軍馬は、召喚者が望む相手を地の果てまでも追い回す。三面馬は毒性の涎を大地に垂れ流し、前脚を振り上げていなないた。いななきは世界を震わす波となり、地霊たちを恐慌に陥らせながら広がった。その灼熱の蹄が青い貴石に下ろされて、焦げ跡が刻まれる。三面馬は荒野の彼方に消えていった。
 ニブレットは木巧魚に後を追わせた。
「ヘブの使いが何者かを捕らえたらば、直ちに都で待つオリアナに伝えにゆけ」


 
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