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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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死の谷―発相におけるネメス―
  ―2―



 2.

 奇妙な夢を見た。
 夢の中でリディウは、誰かの腕に抱かれてまどろんでいた。その誰かに甘えてみたくなり、寝返りを打って相手の腹に手を置いた。
「お母様?」
 するとリディウの指は腹の肉の中にずぶずぶと沈み、吐き気を催す悪臭が辺りに立ちこめた。死者の臓物と(おぼ)しき物に触れ、悲鳴を上げて飛び起きた。眼前には塩の塔が聳え建ち、その頂きで冬の星座が輝いている。
 汗をかいて目を覚ませば、周囲は暗く、空に(まが)つ星ネメスが輝いている。夏の星だ。リディウは暗闇の中で水筒を手繰り寄せ、もう一度眠り薬入りの茶を飲んだ。
 死者と黒い水と、腐臭の夢を見続けた。もう一度目覚めた時には、東の山の稜線から白々と夜が明けようとしていた。
 今夜、とリディウは薬の影響で朦朧としながら頭を働かせた。
 今夜、大聖堂図書館のテラスでリディウは踊らなければならない。凶つ星ネメスに舞を奉じるのだ。それが生贄の務めだ。その為に生きてきた。
 その後何が起きるのか。何が起きるがゆえ、この自分は世界中から永遠に不在となるのか、予想さえできない。
 リディウは馬車を下り、白い砂の上で伸びをした。体中が痛んだ。山の空気は冷涼で、肌寒い。座席のヴェールに手を伸ばし、しかし、触れずに手を引っこめる。もはや自分の顔を見る人間は誰もいない。馬車の戸を閉ざし、足跡を刻みながら、白い砂の上を大聖堂図書館の建物へと歩いた。
 中に入れば、エントランスに優しい夜明けの光が満ち、白い列柱の影が石造りの床を淡く染めている。
 足音が聞こえた。
 リディウは耳を澄ませた。自分の足音の反響ではないようだ。まだ暗く、見通すことのできない廊下の奥から誰かがやって来る。
 柱の陰に身を寄せた。
 硬い足音は、何かを探るように、慎重にエントランスに向かって来て、リディウが隠れる柱の前で立ち止まった。
 そっと顔を覗かせてみた。
 男だと、体格でわかった。砂にまみれたマント。編み上げのブーツ。背が高い。横顔はマントのフードに隠れている。無精ひげと、閉じた唇だけが見えた。
 男が腕を動かした。右の掌を上に向けて、じっと見つめている。
 掌の上に、赤い魔術の炎が燃え上がった。炎は指し示すように、リディウが隠れる柱へと伸びた。
 男が素早く炎を目で追った。身を隠す暇はなかった。その鋭い視線とリディウの視線が、夜明けのエントランスで音もなくぶつかった。

 窓から射しこむ光が刻々と角度を変える中で、リディウは男と黙って凝視しあった。彫りの深い顔立ちで、肌の色は濃い。歳は、三十辺りだろうか。リディウは柱の陰から出て、声をかけた。
「どちらから、お見えになられたの?」
 男は掌の炎を消した。掌をマントにこすり付けるような仕草をし、きまり悪そうにそっぽを向いて、
「セルセト国から」
 と、低い声で答えた。
「どの相のセルセト国から」
 リディウは尋ね返した。
「発相におけるセルセト国は、五百年前に凍りつきました。ここタイタス国との終わらない冬戦争によって」
 男は黙りこむ。
「高位魔術……渉相術の使い手ですね?」
 柱に手を添え、リディウは一歩、男に歩み寄った。
「あなたは何に導かれて、ここまでいらしたのでしょう」
「導かれて? 何故そのように思う」
「あなたが、何故私がこのような場所にいるのかをお尋ねにならないからです。私は私の必然によってこの場所に導かれた。あなたもそうであるから、私の存在を不思議に思わないのではありませんか?」
「……お前は生贄だな。発相では歌劇の力を得た代償として役者を求められると聞く」
「はい。私は神に差し出された身の上。あなたも何らかのお導きにより、この山深くの大聖堂図書館に到達めされたのならば――」
「俺は神の役者にはならんぞ」
 言葉を遮られたリディウは、はっとして目を上げた。男の表情は険しい。男はリディウの緊張に気付くと、溜め息をついて力を抜き、頭を軽く左右に振った。
「ミューモットだ」
 男は立ち尽くしているリディウに苛立ち、言葉を重ねる。
「名前だ。お前の名は何だ」
「リディウと申します」
「念の為聞くが、一人か」
「はい」
 ミューモットと名乗る男は頷きながら歩きだし、リディウとすれ違って、エントランス正面の両開きの扉に歩いて行った。リディウは後を追った。
 ミューモットが扉を開けた。
 天井が高い部屋だ。ネメスの神殿の、三階分の高さはあるだろう。壁には頭上から天井付近まである細長い窓が並び、心もとない夜明けの光でも十分に明るい。床には埃一つなく、チョークで円陣が描かれ、それを描いた人間の気配さえ残っているようであった。
「時が切り離されたな」
 リディウはミューモットの顔を見上げ、無言のまま視線で意味を問うた。
「歌劇の上演が行われた水相の歌劇場は、その魔力によって時を奪われた。結果、連続した時間が流れる水相から切り離された。それと同じ効果が一度、この部屋にももたらされたようだ」
 リディウは部屋に入り、朝の光の中で両腕を広げた。天井を仰ぐと、そこにも床と合せ鏡になるように円陣が描かれていた。
「あなたの仰る通り、歌劇場は連続した時が流れる全ての相から切り離された。それゆえ歌劇場の在り処は、時の流れに依存する人間の意識には決して現実として認識できない領域に存在すると伝えられております。それで、この部屋の時が切り離されたとは? 私達はこの部屋を、現実に存在するものとして認識できているではありませんか」
「切り離されたのは」
 ミューモットも部屋に入ってくる。
「ある一区切りの時間だけだ。水相で歌劇の上演が行われた時間帯に関係しているかもな。勘だが」
「何故あなたに、そのような事がおわかりになるのです?」
「経験と場数だ。魔術の残滓が教える。不自然な時の流れ、断絶された流れ、ここには『いつでもなかった時間』があると」
 この男は渉相術の使い手だ、と、リディウはすれ違うミューモットの背を見て、改めて考えた。他の相へ(わた)る力の代償として、相は時間を支払う。この男は、常人にはない、時に対する特殊な感受性を持っているのだろう。
 ミューモットは部屋の奥の小さな扉を開けた。その先の廊下を歩きながら、彼はまた口を開く。
「お前の言う通りだ。歌劇場は人間には現実として認識できない領域にある。どの相にも存在しない一方、どの相も歌劇場を顕現しうる可能性を秘めている」
「私は歌劇場に行かなければなりません。ここから」
 リディウは後をついて行く。
「必ず」
「お前は歌劇の何を知っている?」
 中庭を巡る白亜の回廊に出た。回廊を、北の棟に渡りながら、リディウは小走りになってミューモットを追い抜いた。
「多くは知りません。この大聖堂図書館で書かれたという事以外は。大聖堂図書館についてなら多少の知識はあります。ここに来る以前に何度も見取り図に目を通しましたから」
 渉相術の間の奥の扉から回廊に出、北の棟に渡って最初に行き当たる部屋。その部屋の扉を、リディウは迷いなく開ける。
「〈星図の間〉です。水相に凋落をもたらした歌劇は、託宣を受けたネメスの巫女により、この部屋で書かれました」
「書かせた神は?」
「死の神ネメスとする説が多数派です。陰陽と調和の神レレナであるとする説も少数ですがあります」
「その両方である可能性は?」
「歌劇は二部構成になっておりますので、その可能性は考えられます。一部ずつレレナとネメスが書かせたと」
「実際にペンを執った巫女ははっきりした事を伝えなかったのか」
「巫女は何も語らず亡くなりました」
 そこはあまり日が射さない、小さな机が一台あるだけの狭い部屋だった。
「歌劇の内容や書かれた経緯を知る者は、その巫女だけではあるまい」
「みな、亡くなりました」
 リディウは部屋の真ん中で、ミューモットに語る。
「その巫女も多数の神官も、そしてタイタスの都の王も、歌劇の内容を知る者は、みな塩になりました。歌劇の力が及んだ水相の陸地と同様に」
「それほどの滅びの力を秘めた歌劇のために、何故また発相では役者が集められなければならない?」
「歌劇が、第一幕の上演のみで水相を没落せしめたからです。人は歌劇の力を恐れ、第二幕を封印した。しかし神々は第二幕の上演をお望みです。その為の役者が必要です」
「上等だ」
 その言葉に戸口のミューモットを振り向くと、彼は皮肉っぽい笑みを唇に浮かべ、挑発的な目でリディウを見ていた。
 歌劇について、この男に語っていたのではない、語らされていたのだ。つまりこの男に試されたのだと悟り、リディウは不愉快になった。
「歌劇場に行かなければならない、と言ったな」
 ミューモットも星図の間に入ってきた。
「まるで生贄が自力でそうしなければならないような言い方だが、神が自ら選んだ生贄ならば、それを迎えには来ないのか?」
「私は」
 リディウは、歌劇の執筆が行われたという白塗りの机に寄り、指を添えた。
「……私の世話役の神官が、生贄を育てるのが私で三人目であると知った時、奇妙に思ったのです。何故立て続けにネメスの都から、贄が選ばれなければならぬのか。私は十四を迎えた日から、少しずつ調べました」
「そしたら?」
「私も、私の前の贄も、その前の贄も、ネメスの託宣により与えられた役は〈占星符の巫女〉であった事がわかりました」
 ミューモットは腕を組み、深刻な表情で話を聞いている。リディウは続けた。
「ネメスの星は贄の選定までしかしません。贄は自力で神々のお気に召す役者となり、歌劇場への招待を得なければならない。私はそう推測いたします。もしも私が贄としての役を果たせなければ、またもネメスから新たな〈占星符の巫女〉が選ばれるでしょう」
「神官達がそう言ったのか」
「いいえ。ネメスの神官達は口を閉ざしました。そして私の推測を誰一人として否定しませんでした」
「相応しくない娘たちは、歌劇場にたどり着けなかったのならネメスの都に帰ってもよかった筈だ」
 リディウは顔を強張らせた。
「当然その疑問を抱いた筈だ」
 ミューモットが部屋の奥に歩いて行く。
「来てみろ」
 彼は部屋の物入れの戸に手をかけた。
「神官達が誰も答えなかったのなら、答えはこういう事だろうな」
 物入れの戸が、勢いよく引かれた。
 その先の空間は、物入れではなかった。
 冷たい山の風が、室内に吹きこんできた。
 向かいの山肌が、リディウが立つ位置からでも見える。
 リディウは震える足で戸に歩み寄った。
 戸の先は断崖になっていた。
 朝日が、消え残った夜を打ち払わんとその光輝を増して、深い谷へ、谷の底へ、光の矢を伸ばしていく。

 ※

 広い大聖堂図書館内部をひとしきり見て回った後、リディウは南棟のテラスの、長い間風雨にさらされた痕跡を刻む石のベンチに腰かけて時を過ごした。魔術師ではないリディウに、大聖堂図書館から、何らかの情報や過去を読み取ることはできなかった。
 テラスには涼しい風が吹き、木々が囁く。鳥たちが鳴きかわし、どこからか、流れ落ちる滝の豊かな水の音が聞こえてくる。今日が人生で最期の一日であるとしても、のどかな光の中で、なかなかその実感を持てずにいた。その内、体の中に残っていた眠り薬が効いてきて、リディウはうとうとし始めた。
 頭がこくり、こくりと垂れ、石造りの大聖堂図書館を包みこむ森に意識が溶けこんでいく時、リディウの頭の中をある閃きが走り抜けた。
 リディウは目を大きく見開き、背筋を伸ばした。そして、立ち上がると、ドレスの裾をはためかせて走り出した。
 テラスの端の、曲がりくねった堅牢な石の階段を駆け下り、そのまま森に続く石畳の小径を行く。
 森が開け、舞台が現れた。半月状の舞台と、それに向かい合う半月状の客席。階段の形になっている客席を駆け下りて、リディウは舞台に上がり、激しく舞い始めた。原初の混沌を統べる神、すなわち陰陽と調和の神レレナを讃える舞である。踵が石の舞台を打ち、長い髪が踊った。一番上の客席に、ミューモットが現れた。第一の舞を終えたリディウは、汗も拭かずにミューモットと見つめ合った。
「何をしている?」
「贄は夜、歌劇の力を発相に与えた神ネメスに舞を奉じなければなりません」
 ミューモットが客席の間の階段を下りてくる。
「ですが、巫女に託宣を授けた神がネメスだけでなくレレナでもあるのなら、夏の夜に輝くネメスの星だけでなく、冬に輝くレレナの星にも舞を捧げなければならないのではと私は考えました」
 リディウは細い顎を晴れ渡る空に向けた。
「天球の回転にまつわる講義によれば、目には見ねども、冬の星は夏の昼の空に存在するものとされております」
「考えたものだな」
 ミューモットは皮肉っぽい笑みを浮かべ、立ち去って行った。リディウは彼の事など気にせず、第二、第三の舞を空に捧げた。
 舞が終わった後、リディウは舞台の中央に直立して風を感じた。激しい舞の恍惚が去り、目を開けると、ミューモットはとっくにいなくなっていた。
 リディウは舞台を下り、舞の疲労で呆然としながら石の小径を辿り始めた。テラスに至る階段の途中から空を見上げると、テラスからこちらを見下ろす人影が目に入った。
 ミューモットほど大柄ではない。
 人影は、さっとテラスの手すりから離れた。
 リディウは足を急がせた。
 テラスに上がると、誰かが建物内への扉を内側から閉めた。リディウはドレスの裾をつまんで走り、その扉を開けた。ひんやりした空気が体を包んだ。人影が、白亜の回廊へと廊下を曲がって行った。
「待って」
 リディウはその人に追いつき、並んだ。
 まだあどけなさの残る少年だった。髪はきれいに切り揃えられ、身なりは正しく、顔は緊張に強張っている。少年はリディウを気にもせず、回廊を進んだ。中庭には様々な花が咲き乱れ、磨き上げられた彫像には苔一つついていない。
 少年は星図の間の戸を叩いた。
「神官長の酌人を務めております、タイスと申します。神官長の命により台本を預かりに参りました」
「入りなさい」
 リディウは少年と一緒に星図の間に入った。戸に背を向けて、灰色の髪の巫女が机に向かっていた。部屋の壁には、断崖に通じるあの戸はなく、同じ位置に丸い鏡が取りつけられていた。
 巫女が椅子を引き、立ち上がった。こちらを向くと、その顔には大小の皺が刻まれていた。老いている。
「これを」
 巫女は糸で綴じられた紙束を少年に差し出した。巫女の手は震えていた。次の句を継ぐまでに、しばしの間を要した。
「これをタイタスの王のもとへ」
 紙束の表紙に午後の光が当たり、白く輝いた。表題が端正な文字で綴られていた。
『我らあてどなく死者の国を』
「道中、ゆめゆめ盗み見ることのなきよう」
「しかと承りました」
「酌人」
 力んだ動作で立ち去ろうとする少年を、巫女は呼び止めた。
「はい」
「筆を走らせている間、私は怖いものを見た」
「何でございましょうか」
「滅びだ。永劫に続く最期の一日、空に厚い雲がちぎれ浮き、高らかに喇叭(ラッパ)が響く。病みし太陽は狂ったように照りつけ、海は干上がり、草木は枯れ、大地は千々に引き裂かれ、死を失った人間が、痩せこけて徘徊する」
「それは、どの相の光景でございましょうか」
「どの相でもない。地球全てだ。前階層の地球だ」
 色を失い立ち尽くしている少年に、行きなさい、と巫女は言い、背を向けた。少年は挨拶も手短かに、早々に退室した。
 その後巫女は、長い間机に手をついて、窓に顔を向けていた。しかしその目はきらめく緑もささやく陽光も見えていない様子だった。
 巫女は思いつめた様子で鏡の前に立った。そして、何かを読み取らんとするように曇りない鏡を凝視し、そこに映るリディウを見つけた。
「何者ぞ!」
 リディウは星図の間を飛び出した。回廊を渡り、走る。エントランスから外に出た。
 そこに白い砂はない。緑薫る大草原が大聖堂図書館の外に広がっていた。リディウは草に躓き、倒れた。そのまま仰向けに転がって、空を仰いだ。
 数えきれない雲の塊が凄まじい勢いで流れていく。見えない人、透明な人、その気配がせかせかと、早すぎる時の流れの中を行き来する。
「死者の国よ」
 リディウはしかと目を見開く。
「死者の国よ!」
 その目に星図の間が映る。
「神々の力を借りてまで、人と人は争わねばならない」
 灰色の髪の巫女が頭を抱えている。巫女の前で、花瓶に挿された花が急速にしおれ、枯れる。
 草原で花を摘む少女は、雲が流れてゆく下で、高らかに響く喇叭の音を聞く。少女の手の中で、全ての花が枯れる。
 喇叭の音を聞いた農夫は、空に顔を向ける。厚い雲が南から押し寄せてくる。彼が手掛ける果樹は急に枯れ、果実も腐る。
 風が、世界中に喇叭の音を運んだ。世界中の花が枯れ、麦が枯れた。木が枯れ、土が痩せた。水が、木を失った山から村に押し寄せて、濁流の中に呑んだ。道端に餓死者が積まれ、ネズミが走り回った。
 リディウは更に目を見開く。更に。更に。大聖堂図書館では額に汗する魔術師が、渉相術を執り行う。別室では有力な神官と巫女が、神々に慈悲を乞うている。
 まだ動ける人間が、死者を積み上げ火をつける。動物の脂が絶えず次ぎ足され、炎は天を焦がす。
 夜明け、後に残った骨を、男も女も子供も砕く、砕く、砕く、砕いて白い砂にする。
 リディウが横たわる草原で、枯れた草が全て除去される。
 そして山と峠を越え、荷車の列がやって来た。
 荷車は白い粉を、大聖堂図書館の前庭に撒き始めた。
 リディウは瞬きし、体を起こした。
 白い砂の中に、馬のない馬車と、リディウだけが存在していた。

 
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