お嬢様と執事
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第五章
第五章
「!?」
すると扉の向こう側でビクリ、とした感じが伝わった。彼はそれを感じてまた顔を顰めさせるのであった。どうもおかしいと思ったのだ。
「ココアです」
「え、ええ」
何故か応える紗智子の声が焦ったものになっていた。それは正人にもわかった。
「わかりましたわ。それでは」
「扉の前に置いておきますね」
「ちゃんと二つずつ持って来ましたわね」
「はい」
正人は素直に扉越しに答えた。
「全て揃えて」
「わかりましたわ。それでは」
彼女はそれを受けて言葉を返してきた。
「そこに置いて去りなさい」
「畏まりました。それでは」
正人はココアを置くとそのまま姿を消した。彼はこのまま姿を消して見なかったが扉から出た紗智子はそそくさとココアを置いたそのワゴンを部屋の中に入れた。そうしてまた部屋の中で話をするのだった。
「さあ、持って来ましたわ」
彼女はにこりと笑って部屋の中に顔を向けている。
「お話の続きを」
「はい」
何故か声はにこにことしたものであった。その中で彼女は話をする。しかし正人はそれを知らない。彼だけが何も知らず何も察していなかったのだ。
正人は相変わらず紗智子の我儘の相手をし続けている。それでいい加減疲れがたまってきていたところで急に携帯に電話がかかってきた。
「はい」
「あっ、正人君?」
彼をこの呼び方で呼ぶのは一人しかいない。
「元気にしてる?」
「元気にしてるって」
彼は苦笑いを浮かべて彼女に応えた。携帯の相手に対しての笑みだ。
「いつも会ってるじゃない」
「それもそうね」
「そうだよ。だって同じ場所で働いているんだし」
彼のその付き合っている相手の里佳子である。紗智子のお姉さんみたいな存在のその彼女だ。正人にとっては一番電話をかけて欲しい相手である。
「わかってるんだろ?それは」
「ええ、まあ」
電話の向こうの声は笑っていた。
「わかっていたけれどね」
「じゃあ何で電話をかけてきたのだ?」
「これは挨拶よ」
また笑って声をかけてきた。
「それでね」
「うん」
「今度の休みだけれど」
話は彼女のペースで進む。何時の間にかそうなっていた。
「身体の方は大丈夫かしら」
「大丈夫って?」
「疲れとか溜まってない?」
そう彼に問うのであった。
「最近どうかしら」
「あっ、大丈夫だよ」
紗智子の我儘のことは話さずにこう答えた。
「全然。平気だからね」
「平気なの」
「うん、全然平気だよ」
声はあえて笑ったものにさせていた。これは芝居であった。
「そうなの。よかったわ」
「よかったって。何かあるの?」
「そう、それなの」
また話が変わる。やはり里佳子のペースだ。
「その今度の休みだけれどね」
「うん」
「どう?遊園地でも」
「遊園地だね」
「いいかしら。それか映画館か」
「どちらでもいいよ」
穏やかな声で彼女の提案に答えた。
「里佳子さんがいいところにね」
「そう。それじゃあ映画館にしましょう」
里佳子の案で通った。といっても彼女だけが提案して正人は何も言ってはいないが。実は女の方が強いカップルであったりするのだ。なお二人は同じ歳である。
「それでかしら」
「いいよ。それじゃあそれでね」
「うん。じゃあそういうことで」
笑って電話の向こうで頷く。話が終わると里佳子は彼に別れを告げて電話から消えた。電話が終わると正人はまた疲れた様子を見せるのであった。
「まあとにかく」
その疲れた声で一人呟く。
「お嬢様の我儘とはまた別だし。頑張るか」
そう呟いてデートに思いを馳せる。彼は紗智子の我儘に耐えながらデートに備える。そしてすぐにそのデートに日になるのだった。
黒く長い髪を後ろで一つに束ねたほんわかした感じの白い顔の大人の女性だ。優しげな目元が美しい。目だけでなく口元も整い身体全体にほのかな色気を漂わせた美人だ。服は白い丈の長いワンピースで包んでいる。白が似合う女の人だ。彼女が里佳子である。
「お待たせ。待ったかしら」
「ううん」
にこりと笑って里佳子に答える。実は三十分遅れだがそのことは言葉にも出さない。しかし妙だとは心の中で思ってはいた。
(どうしてなんだろう)
彼が不思議に思うことは里佳子が遅れたことについてだ。実は真面目な性格で時間に遅れることはない。しかし今日は遅れてきた。それが不思議なのだ。
(まあいいか)
しかしそれについて考えるのは止めた。そうして彼女とのデートをはじめるのだった。
デートをはじめてみると里佳子の我儘はいつもよりも酷かった。酷いというよりはいつもはおしとやかで正人を立ててくれるのに今日は違っていたのだ。あれが食べたいこれが欲しいと次から次に言うのだ。
「ハンバーガーが食べたいわ」
「缶ジュース飲みたいの」
「あっ、あのネックレス買って」
「ちょっとコンビニ寄らない?」
「うん、いいよ」
その我儘に全部応える。しかしその我儘がどれもチープなものでありしかも彼女が普段あまり入らない場所にばかり入るので正人はそのことを不思議に思う。だがそれもやはり何も言わず彼女に合わせる。合わせているうちに何時の間にかメインの映画館も終わり帰り道に入った。すっかり暗くなった帰り道を二人で歩いていると不意に携帯が鳴るのだった。
「はい」
「私ですわ」
紗智子の声がした。
「すぐに来て欲しいのですけれど」
「何でしょうか」
それを聞いて紗智子に問うた。内心また我儘かと思ったがそれは出さない。ただ問い返しただけである。
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