| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

月の通り道

作者:もり
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
次ページ > 目次
 

月の通り道2

 菜雪は規則違反をした生徒への優等生からの厳しい注意、という典型を想定していたのだろう。やんわりとした忠告で話は終わったことをまだ受け入れきれないのか、呆けた様子で彼の方を見ていた。
面倒だからと気が付かないフリをしていたが、いまだに続くしつこいほどの無言の確認に、優はさすがにいらつきを覚えた。
「だから……」
 文句の一つでも言ってやろうと、視線だけでなく上体を起こして彼女の方に向く。
 しかしその動作とほぼ同時に彼女の表情がぱっと急に変わった。それを見て、菜雪の優に対する不信がなくなったのが分かった。なぜなら――彼女は笑ったからである。
「え……と」
 予想外の事態に、逆に優が言葉をなくす番だった。
快活に笑う、ということではなく、しかし微笑む、と言うほど大人しくもない。一体なぜ彼女は笑っているのだろう。
 優の戸惑いを放って、菜雪は笑顔のまま、バンバンと彼の肩を叩いた。しかも、力強く。
「った……、何」
 攻撃ではないかと思えるほどのスキンシップに、優は驚きと当惑と痛みで顔を歪ませる。
「いやあ、なんか私、峠のこと誤解してた。もっと堅物って言うか、意外と融通が利くんだね!」
「それは……褒めてるのか」
「うん」
 屈託のない笑顔に毒気を抜かれた優は、脱力すると同時に息を吐いた。
「そりゃどうも」
 そのまま体を完全に起こし、菜雪の隣にあぐらをかいて座る。
「でもさ、勉強もできて、真面目でさ、しっかりしててね、優等生なのは立派なことでしょ? 先生にも褒められてるじゃない」
 それからフォローのつもりか、菜雪は言葉を添えた。しかし優は嬉しそうな様子を一切見せることなく、むしろ冷めた目を宙に寄越してぼやいた。
「『優等生』なんて、誰にでもなれるさ」
「ええ? そんなことないでしょ」
 菜雪はその優の変化を謙遜だと捉えたのか、「またまたあ」と言うような調子で返す。その軽さに反して、優の表情も、声色も、温度を下げていく。
「簡単だよ。言われたことだけやっていれば良いんだ。与えられた価値観を飲み込むだけで、何も考えなくてもいい」
「峠……?」
 さすがに優の異変に気がついたのか、自分は何かまずいものに触れてしまったのだろうかと菜雪はおそるおそる尋ねる。
優は不意に溢してしまった感情が、そのまま流れ出て行くのを感じていた。
「言われたことを言われた通りにやるだけだよ。たったそれだけのことなのに、そのくせ『優等生』ぶって、学校の中では『出来る生徒』っていう見られ方をする。『優(すぐる)』っていう皮肉で呼ばれるのも、尤もだと思うくらいだ」
 何もなくていい。むしろない方がいい。「自分」すらない、その方が自分以外のものに楽に従える。例えば、夜中外に出ないように。外に出てはいけないという事実が当然になっていて、そこに不自由を感じないように。
誰にも言わずにいた、自分の底の方でくすぶっていた思いを、優は口から零れるままに言葉にしていた。こんなことを誰かに言うつもりはなかったが、今はなんだかどうでも良かった。
「だから羨ましいよ。深江みたいに、自由な人が」
「え、自由かな。違反ばっかりで、いつも怒られているだけだよ」
 優の発言とその意味について行けない菜雪は、ただ困ったように眉を下げる。
「俺からすればね。『規則を守るか破るか』という選択肢が存在する分、自由に見えるんだ」
「ふうん……、そんなものですか」
 彼女は腑に落ちたような、落ちていないような、ぼんやりとした返答をした。
 恐らく、菜雪は自分が言ったことを理解していないだろうということを知りながら、優はこれ以上話をするのをやめた。別に分かってもらおうとしてした話ではない。
「そんなものですよ。まあ、隣の芝生は青いくらいの話だと思ってください」
「……はあ」
 菜雪も何を言っていいのか分からなくなったのだろう、すっかり黙ってしまい、二人は並んで空を見上げた。


 その沈黙を破ったのも、菜雪の「あ!」という叫びだった。
「そろそろ戻らないとまずいかな」
 優は手に付けている腕時計を見る。ここに来てから、大体十五分が経過していた。
「ここにいること自体がまずいんだけどね、本来は」
 優のぼやきに対して、菜雪は苦笑する。
「まあ、ね。そういえば峠も無断外出なんでしょ、大丈夫なの?」
 彼は立ち上がると、ジャージやTシャツについた草を払った。
「俺は大丈夫だよ。いざとなったら脱走者を探していましたって言えば、無罪放免だから」
「先生の追求はそんなものでは済まないよ」
「済むよ。普段の素行が良ければね、時々嘘をついてごまかしたって、ばれないんだ。これはこれで便利だよ」
 そう何でもないように言ってのける優に、菜雪は信じられないと言わんばかりに目を見開いた。その反応の意味が取れなかった彼が「今度は何?」と聞くと同時に、菜雪は盛大に吹き出して、また彼の肩を乱暴に叩いた。
「だから、いたっ……」
 菜雪に抗議しようとする優の声を遮って、笑顔のまま言う。
「何だかんだ峠も好きなようにやってるじゃない。沈んだ顔してたから、どうしようかと思ってたのに」
 菜雪は良かった良かったと勝手に納得しながら優の前を歩き出した。
「……はあ」
 優は菜雪の気分の変化について行けず、叩かれた箇所を押さえてその場に突っ立っていた。
 好きなように、とは、自由に、というつもりだろうか。
 論点がずれている、と優は思った。自分は彼女の方が規則に縛られない行動の幅を持っている分「自由」だ、と称したのだけれど。
 それを指摘した方が良いのか迷っている間に、菜雪がくるっと振り返った。
「でもやっぱり私からするとね、『優(すぐる)』には尊敬とか、それを越えて、妬みもちょっと入っているんだ。峠のやることはきっちりやりきるストイックさというか、誠実さというか、そういうのって、なかなか得られるものでもないと思うんだよ」
 距離が少し離れてしまっていて、ほとんど彼女の顔は見えなかった。けれどもそれは、お世辞でも、気遣いでも無いことは、どうしてか分かった。それだけの器用さを彼女が持っていないんだろうな、なんて理由付けは失礼だろうか。まあ、お互い様ってことで許されるだろう。
 優は肩を竦める。
「ね、隣の芝生は青いんですよ」
「ええ? そういうこと?」
 冗談めかしにあしらわれて、菜雪はせっかく良いこと言ったのに、とむくれた。
 捻くれずに、ありがとう、と言えれば良いのだろう。けれども、自分の自分に対する分析が、どうしようもないくらい卑屈だから、素直に受け取ることが出来ない。
 本当は彼女の奔放さに表裏の評価があるように、自分の性格だって、批判するところばかりではないはずだと、頭では分かっている。
 分かっていたとしても、ないものねだりだとしても、「ないもの」を持っている人が眩しく見えるのは、仕様のないことだとも思う。
 それでも、自分が他者にとって「青い芝生」らしいという事実にこうして触れて、何かが溶けていくような、軽くなるような、そんな心持ちになった。
 嬉しかった。
全く単純な生き物だよ、と優は呆れる様に首を振る。
 菜雪は再び星空を見上げ、囲いのない空間から去ることを惜しむように大きく伸びをしていた。それから「さてと」と零す。
「別々に行った方が良いよね?」
「だろうね」
 自分の、あっさりと規則や決まりに絡め取られてしまう性分について、漫然と悩んでいた。一人で考え続けても答えは出なくて、思考の終わりない連鎖の中に呑まれていくだけだった。
「じゃあ、お先に」
「気を付けろよ」
 茂みの中に消えていく菜雪に声を掛けると、彼女は首だけで振り返って手を振った。優はその姿が見えなくなったのを確認し、更に十秒を心の中で数えてから歩き出した。
けれど、誰かに認められただけで、どうしてか気が楽になる。まあ、こんな状態にも良いと言える部分はあるものか、と。
(まあ結局、そんなものなんだろう)
 靄の中から少しずつ抜け出すときって。
 溶けきらなかった何かは胸の中に残って、穏やかな熱を放っていた。そのじんわりとした温かさを離さないようにしっかりと掴む。
 今日は久しぶりにゆっくり眠れるかな。
 木々の間に入ると暗さが増した。月上がりが届かない分、いつもの自室より闇の濃度は高い。
その暗さの中に滲み出した自分は、昨日よりも寛く自分を受け入れてくれていた。
 
次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧