月の通り道
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月の通り道
峠優(とうげゆう)は室内の電気を消して、何も考えずに外を眺めていた。男子学生寮の三階からの眺めは、良いとか悪いとか、一概に言えないようなものだ。山に近い学校の裏手に立つこの建物から見えるものは、草、木、ときどき動物。自然が多くて癒されますね、なんて側面もなくはないが、毎日見てれば、飽きるのは必至であろう。夜は当然人工的な明かりはほとんど消え去っていて、真っ暗闇が映るだけだ。しかし、室内の電気を消した時に外に月明りがあれば、薄くだけれども、外の様子を見ることができる。
優はときどきこうして部屋の電気を落として、窓際に座り込む。普段見飽きた外の景色が見せる別の顔を、なんとなしに眺めるのが好きなのもあるが、明かりを落とした部屋という、全ての輪郭――自分自身という明確な区切りさえも――をぼかす空間に浸ることが、彼に穏やかな時間を与えているのは事実であった。
暗い場所が好きで、この空気感の中で、本が読めれば幸せなのに、と、訳の分からないことを考えたりもする。けれど現実には文字なんてほとんど何も見えないから、だから結局外を見つめる。
風が吹いて、草木が揺れる。ざわざわと木の葉同士が擦れて音を立てる。
その音に耳を傾けていた優は、そのささやかな視界の中の変化以外に、小動物ではない、何か大きなものが動いている様子を確認した。
(……え?)
虚を突かれた彼は、素早い動きで消えていくそれを目で追う。二本脚で駆けていくそれは、紛れもなく人型をしていた。
(生徒か……)
優は壁にもたれかけていた体を起こし、もう見えない人影が向かった方を睨む。
それから小さな溜息を吐いて、自室を出て行った。
学校の敷地内とはいえ、夜間に無許可で外出するのは規則違反だ。それを知りながら、優は外へ出た。たとえ誰かに見つかったとしても、寮から出るための正当な理由がありさえすれば、自分は叱られることはないだろう、と確信していたからである。
もう一人の外出者が向かったと思われる方へ優は足を進め、茂みの中に割って入っていく。
室内から見つめていた外の様子は、実際に体験するとなかなか異なったものだった。暗さに目が慣れていると言っても、やはりまともにものが見えるわけではなく、優は何度か枝に顔を叩かれ、根に足を取られた。あれだけ静かでただじっとしているような世界に見えていたのに、それを構成していた一つ一つは随分な存在感だ。
(っ……)
長袖で来れば良かったな、と優は枝に引っかかれた箇所に触れながら思った。
しかし木々で覆われた空間がやがて終わりを告げる。優が出たのは、木がなくぽっかりと丸く開いている、まるで小さな秘密基地のような場所だった。
そして案の定、そこに一つの人影を見つけた。その人物は足音で優が来ることが分かっていたのだろう、彼の方に向いていた。優はその視線に気が付きながら、月明りの下まで進み出る。
相手はそこで、近づいてきた人物が誰かを理解して口を開いた。
「あ、す、……峠!?」
「ん、深江か?」
優もそこにいた人物を確認する。同じクラスの深江菜雪、一番小さく、活発な女子だ。
真夜中に寮を飛び出すなんてやんちゃは、男子がやったものと思っていた優は、少々驚き目を見開いた。
優の突然の登場に、向こうも困惑しているらしい。
「なんでここに……」
自分がしようと思っていた質問を先に言われてしまい、優は素直にそれに返答した。
「窓から外を見ていたら、人が歩いているのが見えた。もし生徒だったら規則違反であり、それは寮長として確認、注意すべきことであるし、もし夜間外出に伴って何かしらの問題行動をしているのであれば、それも同様に確認しなければならないんじゃないか、と思っただけだよ」
淡々と、事務的に述べられた口上に、菜雪は半ば呆れたように「……はあ」とだけ返した。
「深江は?」
逆に優からなされた質問に彼女は「ああ、いや」と我に返ると、人差し指を真上に向けた。
「別に何ってことはないんだけどさ」
つられて優も顔を上げる。
「ああ……」
見えたものに、彼は思わず感嘆の声を漏らした。そこにあるのは星空。視界を遮る高い建物も、木々もないこの場所に、大きく広がる暗闇と、その中に、本当に小さく、それでも確かにその存在を浮かばせているたくさんの星たち。
「窓から見てて、きれいだなあ、と思ったから」
「それで飛び出してきたのか?」
「うん、外出た方が見やすいじゃない」
優は見上げるのをやめ、後ろめたさも何もなくそう言い切った彼女の方を向いた。その瞳はまだ真っ直ぐに、星を見つめている。
優はその純粋さに触れたとき、反対に自分の中の何かが、ふっと曇ったのを感じた。彼は力のない声で「……へえ」と零すと、何の前触れもなく、まるで一枚の板がそうなるように背中からその場にゆっくりと倒れた。地に生える草が彼のことを受け止めて、どさっという鈍い音がした。
「え、何……」
視界の隅で倒れる優を捉まえた菜雪は、彼の突然の行動の意味を測りかね、訝しげに尋ねる。
「確かに、きれいだなと思って」
「あ……、そう」
その返答に納得できない菜雪は、しかし優はこれ以上説明をしないだろうと分かったのか、その場に座って空を見上げた。
優は寝転がって星を見る。このあたりは学校以外にほとんど建物がなく、だから本当に暗くて、小さな明かりがここまで良く届く。
それは優も知っている事実だし、実際部屋にいるときも、窓を開けて体を乗り出し、星を眺めたことも何度もあった。
けれど、一度として「外に出よう」と思いついたことなどなかった。わざわざ外に出なくても見えるし、そこまでするのは億劫だと思っていたということはあったかもしれない。だけれども、単純に「外に出る」という選択肢そのものが自分の中には存在しなかった。
何故か。至極単純に、それが「規則に違反する」からだ。
だからきっと無意識的に、真っ先に選択肢から排除していた。外に出ようという発想が、出て来ることはなかった。
「……あ!」
突然、隣に座る彼女が何かを思い出したように声を上げた。何だ、と思って優がそちらに目を遣ると、菜雪も寝転がる彼のことを見下ろしていた。暗くてはっきりと見えないが、どうも焦るような、怯えるような色が隠れているように思える。
「ああ」
その正体を了解した優は、彼女が何かを言う前にその不安を取り除く。
「別に、先生には言わないよ」
そっけなく言って、合っていた目を逸らし再び上を向く。しかし菜雪はそれを聞いても安心する様子はなく、それどころか固まってしまって、何の反応も示さなかった。無言でただ優のことを見ていた。
彼女の様子を横目で窺っていた優は、声を失い置物になった菜雪の状態がしばらく続くのを不審に思い、背けていた目を再度合わせた。
「何?」と尋ねようとして、それよりも先に菜雪がようやく声を発した。
「言わないの……?」
「え、それ?」
菜雪の動きを止めたのが、自分のその発言であったことを不満に思ったが、仕方がないかという思いがその不満の風船に穴をあけて、しゅう、としぼませた。
小さな溜息を吐いて、ぼそっと呟く。
「『優(すぐる)』の癖に、って?」
「……あ、いや」
「優(すぐる)」とは、影で使われている優のあだ名だ。それは優の目の前で使われたことはなく、彼は知らない体で過ごしている。しかし。
「同じ教室で話されれば、聞こえてくるし」
「いや、その……」
菜雪は気まずように目を泳がせて、その視線の先に言い訳か逃げ道を探しているようだった。
「すぐれた奴」、という意味で「すぐる」。勉強を真面目にやって、先生の言うことや校則を馬鹿正直に守って、学級委員で、寮長で……。絵に描いたような『優等生』だ、と揶揄している。それがこの呼び名の真意だ。
「別に、気にしてないから、良いけど。まあ、どっちにしたって深江のことは先生に言わないよ」
「でも、何で……」
「『何で』って、言ってほしいの?」
すると彼女は首を横に大きく振った。
「まさか。私生活指導の先生に嫌われてるから、絶対面倒くさいことになるよ」
「じゃあ、いいじゃないか。星を見ていただけで、別に問題行動をしていたわけじゃないからさ」
「いや、夜間外出自体が『問題行動』なんじゃ……」
それを聞いて菜雪は、歯切れの悪い言葉で自分の違反を申告した。
「そうだよ。一人でこんなところに来て、危ないからもうやめるんだよ」
菜雪の自白を受けても優はそれ以上追及することなく、無機質ともいえる声で言って、会話は終わりだと告げるように視線を外した。
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