日向の兎
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1部
日向 ネジ
前書き
次からは元のペースに戻りそうです
忍具の説明を終えて、仮面の下ではいつも通りの意地の悪い笑みを浮かべているであろうヒジリ様を見ながら、俺は静かに出会ったばかりの彼女の事を思い出す。
彼女が3つの時、俺は分家の人間として宗家に引き取られることになった。その時の彼女のひどく退屈そうで、全てを等しく無価値と断じているような赤い眼を覚えている。
しかし、その眼を除けば立ち姿は年齢不相応な程に凛としており、そんな彼女を美しいと感じた。
「綺麗な人ですね、父上」
「……ああ」
「……君が私に仕える男か」
「は、はい」
恐ろしく平坦な声のヒジリ様に少し恐れを抱きながら、不意に声をかけられた俺は慌てて頷いた。
「ネジ、君にとって私が仕えるに値しないと思えば、即刻私の首を落とすといい。私は呪印を使うつもりはない」
「呪印?」
「ヒジリ、黙れ」
「黙るのは貴方だ、父上。彼は私のものだ、それに対して貴方に干渉されたくない。
そして、ヒザシ。呪印について何も教えていないのか?」
「……申し訳ありません、ヒジリ様」
彼女は俺と同じ年でありながら次期当主として振る舞い、ヒアシ様や父上にも一歩も引くことのない態度に畏敬の念を持った。
そして、俺を当然のように所有物として扱った彼女に少なからず反感を持ったのも確かだ。
だが、彼女の側で暮らすようになってから、それがある意味で当然ともいえる振る舞いであるということを知った。
まず最初に分かった事がその桁外れの才覚だ。
俺自身、父上や他の分家から天才だと持て囃されていたが彼女を見てその賞賛が的外れだと分かった。
宗家の娘は異常、その意味を正しく理解したのは彼女の柔拳の稽古がただヒアシ様の動きを見るだけだと知った時だ。
彼女は至極当然とでも言うようにヒアシ様の動きを真似、もう一度見た時には既に自分の体に最適化されたものとなっていた。
正直、彼女を見ていると努力とは何かと考え込まずにはいられない。
今でも彼女はよく言っている眼の性能に頼っているだけと言って、反則と言っても過言ではないような精度の予測を行っているが、あんなもの悪い冗談としか思えない。
いくら相手の筋肉の動きが完璧に把握できるとはいえそれを一目見ただけで完全に真似たり、あそこまでの巫山戯た予測ができるわけがない。
「ヒジリ様」
「何だ」
「一手お手合わせ願えますか?」
「ネジ、無礼だぞ」
「ヒザシ、君は座っていろ。ネジ、何処からでも来るといい」
「はい!」
今にして思えば、あの時の俺は随分と子供だったな。いや、事実子供だったのだが、彼女に触れる事すら出来ず一方的に返り討ちにあってもムキになって挑み続けた。
だが、彼女は日が暮れるまで挑み続けた俺に対して手を抜く事はなく、俺が諦めるまで相手をしてくれた。
その後、落ち着いて自分のやった事を思い返した俺はヒジリ様に頭を下げに行ったが、その返事はいつも通りの平坦な声でかえってきた。
「何を謝る、君は私に挑みたいといい私はそれを受けた、それ以上でもそれ以下でもない真っ当な内容の契約ではないか」
「ですがヒジリ様は宗家の次期当主なのですよ!?」
その言葉を口にした瞬間、俺はヒジリ様の両腕に頭を固定され、彼女の赤い瞳に睨みつけられた。
「ネジ、次に君が宗家の次期当主と私を呼べば、私は君を解体してしまうかもしれない。二度とその言葉で私を呼ぶんじゃない」
「は、はい」
彼女は俺に初めて怒りを向け、その時俺は彼女に感情というものがあるのだと当たり前の事を知った。だが、そう感じてしまうほどに彼女は感情を表に出すことはそれまで無かった。
その歳の子供にとってなに一つ楽しみのない、ひたすら礼儀作法や教養を身につけ、彼女にとっては退屈な柔拳の鍛錬をするだけの生活を彼女は続けながらも弱音を吐いたことはない。
今の俺が同じことを出来るかと問われれば無理だと答えることを、たかだか3つで彼女は淡々とこなしたのだ。
とはいえ、彼女のそばに居続けて分かったのだが、そう言った態度は自身は律しているだけであると知ったのはその数日後だった。
朝食の時間になっても姿を現さなかったヒジリ様を呼びに行くために、ヒアシ様に命じられ彼女の部屋に向かい、障子越しに彼女を呼ぶと彼女はいつも通りの様子で出てきた。しかし、僅かに見えた彼女の部屋はまるで獰猛な獣が暴れ回ったかのように壁は抉れ、床には穴が空き、天井にも無数の傷があった。
その事を彼女に尋ねると、彼女は少し眉間に皺を寄せて不機嫌な声で答えた。
「私も所詮は餓鬼だということだ」
「ああ、八つ当たりですね?」
「……事実その通りなので否定せんが、その明け透けな物言いは気に食わんな」
そんな事が幾度もあり、俺の中でのヒジリ様は俺と同じ歳の子供でありながら日向の名を背負おうと足掻く少女という印象に変わった。
これが次に分かった彼女の優れたもう一つの点だ。どれ程苦しかろうと、どれ程辛かろうと表立って弱音を吐かない、上に立つ者の素質としてこれ以上の物はない。
分家は宗家の為にある運命、俺はそれが嫌だった。しかし、もし誰かの下で生きなければならないというのならば、俺はこの人の下で生きるだろう。ならば、その点俺の運命も悪くはない。
俺がそう思えるようになった頃、あの事件は起きた。
ヒジリ様の妹のヒナタ様が同盟を結んだばかりの雲隠れの里の忍頭に誘拐されかけたのだ。ヒジリ様はヒナタ様の事を大層可愛がっており、俺もその時まではヒナタ様の事を大事に思えた。
しかし、その事件でヒジリ様はその忍頭を屋敷の前で文字通りただの肉片に変え、それを条約違反として雲隠れの里は戦争回避のために、日向は現当主の死体の提供とヒジリ様の日向よりの追放を要求した。
当然、日向にそれを断れる筈などなくその条件を呑んだ。
そして、父上はヒアシ様の代わりに殺され、日向の家から勘当されたヒジリ様の代わりに俺はヒナタ様に仕える事になった。
俺はたった一日で父と主を失う事になった。
そんな俺に彼女は初めて涙を俺に見せながら、絞り出すような声で一言こう言った。
「ごめんなさい……」
俺はあの日の彼女が忘れられない。あれ程人前では強かった彼女がその年齢通りの子供のように泣いていた姿を思い出すたびに、俺は宗家への恨みを再認識する。
父上の犠牲とヒジリ様の苦悩をヒナタ様は何も知らずにのうのうと生きている事が許せない。そして、それを良しとする宗家そのものが憎くて堪らない。
俺はあんなものの為に殺されるのは絶対に御免だ。ヒジリ様と違い単なる温室育ちのお嬢様の為に生きるなど、そんなものは死んでも嫌だ。
「ネジ、何を苛立っている」
俺はヒジリ様に声をかけられ我に返った。
「いえ、少し考え事を……」
「ふむ、君の事だどうせいつぞやの事を思い返していたのだろう。それについては君の中で整理をつける他ないので私から言うことはないが……そろそろ先生の所へ戻るぞ」
「はい、分かりました……あの、一つだけいいですか?」
「なんだ?」
「貴女は恨んでいないのですか?」
俺は思わずそんな質問を彼女にしてしまった。それが一体なにになるわけでもなく、その問いに何の意味もないと知っていても俺は問わずにはいられなかった。
すると、彼女は仮面の裏で少し悲しそうな表情を浮かべて答えた。
「私は恨む側ではないよ、恨まれる側の人間だ」
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