約束
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第一章
第一章
約束
「ねえ、お願いがあるんだけれど」
その時俺は従妹の家に遊びに来ていた。そして当の従妹の里恵にこう言われた。
「何だよ、いきなり」
俺はそう言って里恵をじろりと見た。俺はこの時こいつの家の廊下の柱にもたれかかって座っていた。ただ何となく外を見ていた。
俺はこの時十四だった。中学二年だ。里恵は十歳、小学四年だ。俺の親父の妹の子供だった。俺の姓は松井といったがこいつのお袋さんは結婚して上林になっていた。顔はまあどこにでもある顔だ。よくもなければ悪くもない。ただ黒い髪が綺麗だったし童顔で可愛らしくはあった。といっても十歳やそこらで童顔も何もなかったが。
俺の方は別にいい話も悪い話もなかった。バレー部でそろそろレギュラーになろうかって話だったがこれは先輩達がそろそろ引退するからだった。成績はこのままだったらそれなりにいい高校に入られるといったところだった。特に変わったところはない、平凡な学生だった。
「よかったらさ」
「ああ」
ここでこいつはとんでもないことを言いやがった。
「結婚してくれない?」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
俺はすぐにこう返してやった。これは本心から言ってやった。
「何で俺が御前と結婚しなきゃいけないんだよ」
こんなガキと。本当に馬鹿なことを言っていると思った。
「だって好きなんだもん」
「何で俺のことが好きなんだ?」
俺は問うてやった。まずはそれを聞かないと納得がいかないからだ。
「格好いいから」
「俺がか」
「うん、それに小さい頃から優しくしてくれたじゃない」
「当然だろ」
本当に当然のことだと思う。親戚の女の子でしかも年下じゃ優しくするのが普通だろう。だがそれでいきなり結婚を切り出されるとは思わなかった。何があるかわかったものじゃないってのは本当にこのことだ。とにかくそれと俺のルックスが理由でこいつに今結婚を切り出されているのは紛れもない事実なのがわかる。それだけは今の状況でも何とかわかった。
「勿論すぐにじゃないよ」
「当たり前だ」
俺はまた言ってやった。
「十歳で結婚なんて出来るわけねえだろうが」
「じゃあ後でならいい?」
「後でって?」
俺はわざと呆れた顔で応えてやった。
「うん、後で。今は駄目なんだよね」
「結婚は十六歳からだよ」
俺は憮然とした声で教えてやった。
「せめてそうした話は十六になってからしろ。いいな」
「うん。だったらそうする」
それでこの時は話は終わった。里恵はとりあえずはその場は大人しく引き下がった。赤いスカートがヒラヒラと動いていたのを覚えている。
「何考えてやがるんだ」
そう思ったがこの時はすぐに忘れた。一週間経ったらもう考えることもなくなった。そのまま中学から高校、そして大学に入った。何事もなく過ぎていった。
気がついたら成人式に行って二十になっていた。ここでまたあいつが出て来た。
「ねえ」
里恵は高校に入って暫く経っていた。秋に法事で集まっていた時に俺に声をかけてきた。
「ん!?何だよ」
一族の者が集まっての飲み食いの後で一息ついていた時だった。俺は一人部屋に戻って残った酒を飲みながら一息ついていた。俺は黒い葬式用に使う服を着ていた。里恵は学校の制服でブレザーだった。法事に出るには少しどうかと思う赤いブレザーに赤と青の派手な柄の丈の短いスカートだった。靴下は黒のハイソックスだ。髪はもう茶色に染めていて完全に今時の女子高生になっていた。そんな里恵を見て俺は何を思うわけでもなかった。
「あの」
「何だ?飲みたいのか?」
俺はこっそり酒でも飲みたいのかと思った。まだ開けてないビール缶を一つ差し出した。
「よかったらどうだ?」
「あたし飲まないから」
「そうなのか」
じゃあ別のものかと思った。
「煙草か?」
俺は思ったことをそのまま口にした。
「悪いけどな、俺は煙草はやらねえんだ」
高校の頃ツレに勧められてやってみたことはあるがあまりにも咳き込むので止めた。それ以来一度も吸ったことはない。正直あれの何処がいいのかわからない。だから俺は二十になっても酒だけだ。もっともこれは二十になる前から知っていて親に隠れてやっていたが。
「それも違うよ」
「じゃあ何なんだよ」
俺はこいつが何で来たのかわからなくなってきた。
「クスリとかシンナーだったら絶対に止めろよ」
「そんなのしてないから」
「そうだよな」
馬鹿なことを言ったと思った。こいつはそんなことをする程馬鹿じゃなかった。
「ジュースでも飲むか?」
見ればビールに混ざって缶ジュースがあった。林檎のジュースだった。
「これでよけりゃ」
「もらっていい?」
「ああ」
俺はそのジュースをやることにした。里恵はクッションを持って来て俺と向かい合って座った。正座だった。
「で、どうしたんだ?」
俺は砕けた姿勢のまま飲み続けていた。そして尋ねた。
「何かやけに物々しいけれどよ」
「前の話、覚えてる?」
「話!?」
俺は酔った顔と頭を捻った。
「何時の話だ?」
いきなり言われてもわからねえ。そもそもこいつと話をしたのかどうかさえ覚えちゃいない。最近話した記憶がないので何年前の話かとも思った。
「私が十歳の時の話だけれど」
里恵は畏まって言った。
「覚えてるかしら」
「つっと六年前か」
中学生の時だ。その時の記憶なんて殆ど残っちゃいない。
「どんな話したんだっけ」
「結婚だけれど」
「結婚」
「私と陽一兄ちゃんが。結婚するって話」
「お、おい」
そういえばそんな話もしていた。あの時俺は何となくこいつの家の廊下でだべっててそんな話を言われた。その時は適当にあしらった記憶がある。そのことを急に思い出してきた。酔ってるってのに急に頭が回りだした。
「あの時の話かよ」
酔ってはいたがやけに冷静にその時のことが思い出されてきた。はっきりと頭の中に浮かんでいた。
「うん、あの時」
里恵は答えた。
「思い出してくれた?」
「あ、ああ」
俺はビールを一口飲んで落ち着いてから答えた。
「あの時かよ」
「それでね」
次に言うことはわかっていた。嫌になる程よくわかった。
「私、十六になったし」
「馬鹿言うんじゃねえよ」
俺はあの時の態度のまま言葉を返した。ただ違うのは酒が入っていることだった。もうほとんど自分が何言ってるのかわかっていなかった。後で言われてやっと思い出した位だ。
「御前まだ高校生だろうが」
「高校生でも結婚出来るよ」
「法律じゃあな。けれどな」
俺は言ってやった。
「普通高校で結婚してる奴なんかいねえだろうが」
「それでも」
「よく考えろ」
俺は缶を置いた。そして姿勢を正して言った。
「結婚してあれこれやって学校なんか行けるか。大学でも辛いんだぞ」
「そうなの」
「だからな、そんな話は後にしろ」
この時俺は諭したつもりだった。だがそれは結局話を先送りにしただけだった。だがその時それには気付いちゃいなかった。そもそも何で俺なのかさえわかっていなかった。
「いいな」
「高校卒業してからだったらいいのね」
「それで主婦になるなり働くんなりだったらな。まあ相手が働いてりゃ学校に行っててもいいな」
俺は自分が言われているのを完全に忘れてしまっていた。よく考えたらこれこそが酒のせいだった。酒の神様ってのは本当に意地悪なものだ。それに引っ掛かる俺も間抜けなんだが。
「相手次第ってことね」
「そういうことだ」
ここで俺はまたビールを手に取った。
「まあもう少し先だな」
「うん、わかったわ」
この時の話も話している側から忘れていっていた。何か里恵の奴がにこにこしているのが見える。
「じゃあ約束だよ」
「ん!?ああ」
もう何の約束だかわかっちゃいなかった。
「高校卒業した時ね。また来るから」
「またな」
気が着いた時には俺は親父に声をかけられていた。
「おい」
「ん!?」
どうやら酔い潰れて寝ちまっていたらしい。目を開けると親父が苦い顔をしてそこにいた。少しうとうととしちまっていたらしい。酒臭い息を大きく吐き出した。
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