樹界の王
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21話
人と植物の差異は、何なのだろう。あるいは、動物と植物の差異、と考えるべきか。
細胞壁の有無? 葉緑体の有無?
あるいは総体としての死、という概念の違い?
過去に何度も考え、そして、結論が出なかった問い。
種族とか、分類とか、それにどれだけの意味があって、そこからどれだけの価値が生じうるのか。
ここから先の分類は食べても構いません。ここから先は遠慮して必要がある時だけ食べてください。ここから先は殺人罪や死体損壊罪に問われるから気をつけてください。
馬鹿馬鹿しい。
タンパク質の動的平衡が維持され、ATPサイクルが正常に機能し、総体として生きている状態にある。それ以上に、どういった判定が必要なのだろう。
ボクたちが生物に抱く感情というものは、多くのものが錯誤によって形成される。
原生動物が引き起こす走性は自由意志とは何ら関係ない、むしろ無機的なロボット的な反応だし、一見して生きている樹の大半は死滅している状態にあることもある。生と感じるものが、死に近い現象である事は非常に多く、ボクたちの他生物に対する認識というものは非常に誤りやすい。それはボク達の共感能力が同族である人間に合わせたものであって、他生物に対して徹底的に無理解であることを示している。
更に言うならば、フォーカスが当たった人間に対しても、理解は難しい。そして、人は無理解に対して、錯誤を引き起こした共感能力そのものではなく、共感能力から離れた対象の人間を非人間的であるとして糾弾するのだ。
「先輩は、本当に植物が好きなんですね」
中学三年生の夏。園芸部の後輩の女子から、そんな言葉をかけられた。
花壇以外の花に水をやっていたボクは、不意の言葉に思わず振り返った。
「先輩は、花壇とか野草とか、そういう事を全く意識してませんよね」
ボクは手を止めると、じっと後輩の顔を見つめた。
「きみは、花壇に生えているからという理由で花に水をやるの?」
「え、いえ、あの、それ以外までは責任を持てないな、と思って」
責任。奇妙な話だ、と思った。
それを望む声が聞こえるからやっているだけだ。植物に責任を求められて、花壇の世話をしているわけではない。彼らは人よりも光受容体が発達していようと、像として人間の個体を識別できないし、それを判断する中枢神経系を持たない。
ただ、猛暑によって水分が不足し、葉温が上昇している。タンパク質で構成される以上、熱は毒になる。ボクの感応能力は、そうした悲鳴を拾い上げてしまう。
「あの、先輩は、どの高校を受験されるんですか?」
緊張した様子で、後輩が言う。
「第一志望は東かな。一番経済的だしね」
「……意外です。先輩は、もっと上を目指すんだと思っていました」
「それは、買いかぶりすぎじゃないかな」
水やりを再開する。猛暑の中、水しぶきが気持ち良い。
「先輩は、そこでも園芸を続けられるおつもりですか?」
「どうかな。学内の活動にこだわるつもりはないし、家の庭でも出来る事だからね」
「お父さんが、植物学者なんですよね。すごいです」
「うん。その影響が強いかもしれない」
ボクは雑談を続けながら、順番に水をやっていく。後輩は、ボクの後を追いながら話を続けた。
「珍しい植物とか、お庭にあるんですか?」
「国内では珍しいものも多いよ。管理が難しいみたいだけど、父がよく見てるから」
「あの、先輩」
不意に、どこか力が入った声で後輩が言う。
「私、あの、今度、先輩のお庭を見せてもらってもいいですか?」
意外な言葉に、ボクは水やりをしていた手を止めた。
水をやっていた野草から目を離し、後輩の方を見る。その時、彼女の後ろにもう一つの影があった。
「カナメ、後輩に手を出すのは感心しないよ」
由香だった。後輩の背後から現れた彼女は、後輩の肩を軽く叩くと、にこやかに言った。
「ちょっと外してもらっていいかな? カナメと話があるんだ」
「え、あ、はい」
突然現れた上級生に、後輩は頭を下げるとすぐにその場を離れていった。
怪訝な顔をするボクに、由香が困ったように言う。
「カナメは、東を受験するのか」
「今のところは。由香はもう決めた?」
ボクの問いに、由香は少し悩むような素振りを見せた後、悪戯っぽく笑った。
「そうだね。カナメと同じところ、という風に答えておこう」
「……県外には行かないんだ」
「最終学歴以外はどうでもいいし、環境に左右されるほど脆弱ではないつもりだよ」
「ある程度の、コネ作りにはなる」
「どうでもいいよ。学閥なんて今時流行らない。それに、そんなものが必要な環境に入るつもりもない」
それから、由香は面白そうに笑った。
「私はね、今一番、カナメが気に入っているんだ。特異だよ、君は。お受験用の勉強が出来る奴なんていくらでもいる。でも、君はそういう分類からは一線を画している」
だから、と由香は言葉を続ける。
「私は当分、キミと遊ぶ時間が欲しいと思っている」
「例えば、違法猟で捕まっている猪を実験に使う遊びとか?」
水やりを止めて、嫌味を言う。ただ、由香に嫌味は通じないらしい。彼女は面白そうに笑うだけで、反省する様子は微塵もない。
「そうだよ。キミ以外では、あんな遊び出来ないからね」
「あまり趣味の良い遊びじゃない」
「カナメ、キミはそうやって忠告する振りをするけど、本気で嫌がったり、嫌悪感を覚えている訳ではない。そうだろう? そうするのが普通だと思ったから、身につけた常識に従って普通に振舞っているだけだ。心の中では、全てがどうでもいいと思っている。違うかな」
ボクは何も答えなかった。由香を相手に嘘をつく必要もなかったし、かと言って肯定する必要もないように思えた。
「まあいい。後、一つ、確認だ。カナメはあの後輩と仲が良いのかい?」
「特には。園芸部員として以外は、交流もないよ」
由香は、そう、とだけ言うと、踵を返して背を向けた。
気まぐれに話しかけてきて、気まぐれに帰る。由香には良くあることで、ボクも特に気に留めず、水やりを再開した。
その後日、後輩が階段から転落して入院したと顧問から聞いた。
ボクの心は。当然のように何も動かなかった。
『カナメは、自分を人ではなく植物に近しい存在と定儀づけているわけですか』
ラウネシアの問いは、何度も自問したものだった。
ボクは、一体何なのだろう、と。
「そうかもしれません」
植物が水不足を訴えていれば、水をやるくらいの利他的な部分はあると自負している。
それでも、同族である人、それも見知った個体の事故に対しては何も感じない。
幼少期から続くこの状態は、今でも変わらない。
ボクはラウネシアを破る方法を知っている。敵の迷い人も同様にそれを解し、ラウネシアの敗北をボクは予想している。それでも、ラウネシアに肩入れすることを止めないのは、感情が見えてしまう故の情けだ。
『カナメは、私の事をどう思っていますか』
不意に、ラウネシアが核心に触れる。
今までも好意を隠そうとしてこなかったラウネシアだが、直接こういった確認はしてこなかった。ボク自身も、ラウネシアのそうした動きはもっと先だと考えていた。
予想外の問いかけに、反応が遅れる。
食料を依存している以上、下手な返答は出来ない。
「……今まで、植物に対しての感応能力は一方的なものでした。植物の心は読めても、植物がボクの言葉を理解することはありませんでした。ラウネシアは、ボクが初めて双方向的なコミュニケーションを可能とする植物で、特別な存在です。だから、ボクはラウネシアに肩入れする事を決めました。相手の迷い人の思考、考え方。それに対する対抗手段を、ボクは惜しみなくラウネシアに提供するつもりです」
質問の意図を理解しながらも、真っ向から答える事なく、協力関係であることを強調し、それ以外の感情についての言及は避ける。
ボクの言葉に、ラウネシアは一瞬の空白を空けて、それから告げた。
『カナメ。貴方のそれが本心であることはわかります。確かに貴方は、人間と植物という種族の間に立ち、自己同一性に対して疑問を抱いている。そして、私は貴方の考える植物と人のどちらにも属さず、貴方と同じように二つの種族の境界に立った存在であり、貴方は私を特別視している。しかし、それ以上に踏み込もうとはしない。私の好意に対し、貴方は一線を引き続けている。私がそれに気がついていないとでも思っていましたか?』
背筋を嫌な汗が伝った。
対応を誤った。偽りでも、向こうの望む答えを返すべきだったか。あるいは、ラウネシアの問いは、初めから答えが決まった確認作業でしかなかったのかもしれない。
しかし、ボクの思考に反して、ラウネシアは想定外の言葉を続けた。
『貴方が私に対し、一線を引く理由はなんですか? 種族が違うからですか? しかし、貴方は種族というものに対して懐疑的になっていたはずです。そして、自分と同じように曖昧な存在を求めていた。違いますか?』
何故。
そう問われて、ボクは答えに詰まった。
種族の違い。そんなもの、どうでもいいとさえ思う。反対に、ボクは普通の人よりも、植物としてのラウネシアに対して好意的でさえある。
何故ボクは、昔から夢見た双方向的なコミュニケーションが可能な植物体に対して、距離を置こうとしているのだろう。
『私は、魅力的ではありませんか?』
ラウネシアの手が、ゆっくりとボクに向かって伸びる。
改めてラウネシアを見ると、その整った容貌が目を引いた。
樹体から突き出るような上半身は、一糸纏わない木質化した綺麗な裸体を晒し、長い髪に隠れるように、若草色の透明な瞳が不安そうに揺れていた。
彼女の手が、ボクの頬を撫でる。体温のない、冷たくて硬い手だった。
『何故ですか? カナメ自身も、わからないのですか?』
困惑の感情が、ラウネシアから伝わる。
人に対して感じてきた異物感。理解できないという感情。それとは裏腹に、ラウネシアの感情は手に取るように分かる。まるで、同族のように。
そんな彼女に対して、ボクは何故、必要以上に警戒し、距離を置いているのだろう。
根源的な問いに、ボクは答えられない。
『拒否は、しないのですか?』
彼女の腕が、ボクの身体に絡みつく。
獲物を捕らえる食虫植物のように、彼女はゆっくりとボクを取り込み始める。
間近で、彼女の唇が湿っている事に気づく。
そういえば、植物も性的興奮状態にあれば、粘液を出す事もあったな、とどうでもいい事を思い出す。
そして、気がついた時、ボクはラウネシアに強引に引き寄せられ、彼女の硬い唇と接触していた。
間近に、彼女の瞳があった。恐ろしく人間味のある、濡れた瞳がボクを捕らえるようにじっと開いていた。
『私は、貴方に好意を抱いています。激しい好意です。ずっと、何十年も、何百年も、ずっと、待っていた』
互いの口が塞がっていても、感応能力が彼女の心を拾い上げる。
『貴方の生存を確約します。私は、貴方の全てを肯定しましょう。私は、人間が生きる環境を整える種族的な能力を保有しています。その全てを、貴方の為に使いましょう。その代わり、貴方はその命が尽きるまで、私を愛してください。そして、二人の種を残すのです』
口の中に、彼女の舌が侵入する。ラウネシアに舌という機構が存在することに驚き、同時に納得する。彼女は人と生殖するために進化した種で、その模倣は完全らしい。
背中に回された彼女の腕が痛いほどに強く絡みつき、瞬きすらせず間近でボクを見つめ続ける透明な双眸に、ボクは身動き出来ず、捕食行為にも似た彼女の愛情表現に為す術もなく蹂躙されるしかなかった。
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