樹界の王
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22話
ラウネシアは迷い込んだ人から遺伝子を取り込み、子孫を残す種族だ。
彼女は人の生存に必要な食料を創りだし、そして、人を模倣する能力に長けている。
ラウネシアの樹体は植物そのものでも、樹体から生えるラウネシアそのものは人間と呼んでも差支えが無いほどに完成されている。
そして、その愛情表現も、人間のそれそのものだった。
彼女の唇は人のように柔らかいものではなかったけれど、人と同じように愛情を表現する彼女にボクは内心驚いていた。
反射的にラウネシアを突き飛ばそうとするも、理性がそれを制止した。
ラウネシアを拒絶することは、不利益に繋がるだろう。いや、そもそも拒絶する必要があるのだろうか。何故、ボクはラウネシアを拒絶しようとしているのだろう。
何故、という自問に、由香の顔が頭に浮かんだ。
「カナメは、本当に花が好きなんだね」
夕暮れの中、花壇の前で屈みこんでいたボクに、由香が声をかけてくる。
中学の卒業式を間近に控えた冬。
ぱらぱらと降る雪を払うように、ボクは立ち上がって彼女を見る。
「そうだ。知っているかい、カナメ。実は私にも花が咲いてるんだ。下半身の、ちょうど股の辺りなんだが」
「真面目な顔で下ネタ言うのやめない?」
呆れて言うと、彼女は肩を竦めて、それから薄暗くなった空を見上げた。
「まあ、つまり、何が言いたいかというと」
珍しく歯切れが悪く、由香は躊躇するように言った。
「その、私たち、付き合ってみないか」
ボクは由香を見つめたまま、予想外の言葉に息を止めた。
彼女は、夕暮れの空を無意味に見上げたままで、ボクの答えを待っていた。
「付き合う……」
小さく反芻すると、彼女はバツが悪そうにボクを見て、それから視線を彷徨わせた。
「そう、つまり、別に、難しく感じる必要はない。あー、だから、男女の意味合いを将来的に含めるという意味で、今すぐに、という話でもなく、私はただ、いや、カナメ、君が、私に対して、少しでもそういう意味を持てるならば、私はそれだけで良いんだ」
動揺した様子を見せる由香の姿があまりにも見慣れないもので、ボクは小さく笑った。
「……少しだけ、時間をくれないかな。ちゃんと考えてから、返事を出したいから。多分、良い返事を出せる。でも、その前に一度、自分の中でしっかりと整理したい」
ボクの言葉に、由香は安堵の表情を見せる。
「……わかった。いつまでも待つ。どういう答えでも、受け止めるから」
答えは、すぐに出すつもりでいた。由香を待たせるつもりはなかった。でも、結果的に、そうはならなかった。
由香から告白を受けた直後、父が倒れたと連絡が入った。脳梗塞だった。発見が遅れて、父はそのまま帰らぬ人になってしまった。
残されたボクは、父と離婚していた母に引き取られる事になった。母は既に県外に住居を移していて、ボクは予定していた高校とは別の学校に通う事になった。
唯一尊敬していた父の死はボクに多大な絶望を与え、卒業式を含めたそれらの予定を全て欠席した。暫くは、植物以外の何かとは対話をしたくなかった。由香との関係は、そこで切れた。正式な答えを返す機会は、失われた。
彼女と再開したのは、新しい高校に入ってから数ヶ月経過した時だった。母を介して電話があり、久しぶりに会わないか、と言われた。彼女の家族を含め、一緒にキャンプに行こうという話になり、ボクたちはそこで再会した。
束の間の再会だった。ボクたちは二人でキャンプ場を抜け出して、彼女と川沿いを歩いていたはずだったのに、気がつけばこんな森に迷い込んでいた。
結局、しっかりとした返事を出す事はできなかった。
それでも、帰還願望はない。
人間で溢れている人間社会。そこにボクがいたこと自体が間違いだったのだと、今は思う。
ただ、由香に返事を出す機会が失われてしまったのが、唯一の心残りだった。
由香への返事が出せなかった事が、罪悪感のようにボクの心の中に堆積し、ラウネシアを無意識に拒否していたのだろうか。
ラウネシアの強い抱擁を受けながら、ぼんやりと、ボクは彼女との関係について考えを巡らせていた。
『カナメ。貴方は、私を拒絶しますか?』
ラウネシアの思考が、ボクの思考を押し流す。
拒絶。
何故。
もう、由香はいない。
ラウネシアは、今まで出会った中で唯一、感応能力を双方向的に利用できる植物体だ。ボクが心のどこかで望み続けていた存在そのもの。
この森におけるボクの生存に於いて、彼女の存在は必要不可欠なものだ。そして、ボクは彼女の闘争において、それを有利に進めうる知識を保有していた。
実体のない、漠然とした拒絶を続けるのはもう、止める時期なのだろう。
ボクは目の前のラウネシアを、そっと抱き返した。
途端に、ラウネシアの歓喜の感情が周囲に広がった。
『ああ……私を、受け入れてくれるのですね』
森が、ざわめいた気がした。
ラウネシアを中心に、森全体に歓喜の色が広がっていく。
森そのものが一つの生命体のように、一つの感情に支配されていく。
感応能力がそれら全てを捉え、どこまでも広がる彼女の感情がボクの心を侵略するのではないか、と危惧する程の感情の波。
その変化に、ボクは恐怖にも似た何かを覚え、身体を小さく震わせた。
あまりにも巨大な、感情の渦。
感応能力によって、これだけ巨大な感情を拾い上げるのは初めてだった。
森全体が、揺れていた。
感応能力の許容能力を超えたように、ボクと彼女の境界が崩れていく気がした。
ボクの感情と、彼女の感情の境が、なくなっていく。
感情は行動原理を決定づける原始的な種で、その喪失は自己の喪失を意味する。
曖昧になる自己認識の中、漠然とした危機感がボクを突き動かした。
「ラウネシア!」
叫ぶ。
途端に、ラウネシアの感情に変化が訪れ、森中に広がっていた一つの巨大な感情が霧散した。
全身の力が抜け、ボクはラウネシアにもたれかかるように倒れこんだ。
『カナメ?』
ラウネシアが動揺するのが、感応能力でわかった。
自然と、息が荒くなる。気がつけば、全身が汗がぐっしょりと濡れていた。
感応能力でこれだけの感情を拾い上げるのは、初めてだった。
「……あまりにも強い感情を向けられると、感応能力の許容を超えるようです」
『ごめんなさい。カナメ。あまりにも嬉しくて、私は……』
ラウネシアの動揺が大きくなる。先ほどの歓喜の感情ほどではないにしろ、全身を呑み込むような感情だった。
感情の振れ幅が、異常に大きい。
『ああ、カナメ……』
ラウネシアが、再び身体をすり寄せてくる。
それに伴い、甘い香りがした。
甘ったるい香りと、ラウネシアの腕がボクに絡みつく。
食虫植物に捕食された、ハエの姿が脳裡をよぎった。
今のボクはきっと、それと大差がないに違いがないと思った。
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