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蛭子

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第一章


第一章

                      蛭子 
 これは私が祖父の知り合いから聞いたことである。遠い過去の人知れぬ山里での話である。
「こういうことは聞いたことがありますかね」
 彼は私に対してまずこう言った。この時私は自分の家にいた。たまたま祖父を訪ねてきたこの人と話をしていたのである。祖父はこの時外に出ていた。他の家族も同じである。私だけが留守番をしていた。
 何もすることがなかったので一人酒を飲んでいた。そこでこの人がやって来たのだ。
 見れば白い髪に深い皺を持つ方であった。だが温和そうな顔で嫌な感じはしなかった。私は老人のそんな様子を見て安心できると思い家にあがってもらったのである。どのみち家の者は帰っては来ない。祖父は近くに出ただけなのでもうすぐ帰って来るだろう。その間酒でも飲みながら二人でお話でもしようと思ったのである。
「どうぞ」
 私は彼に酒を勧めた。
「安い酒ですが」
「いやいや」
 老人は謙遜しながらも私の酒を受けてくれた。
「すいませんねえ」
「寒いですからね」
 私は笑いながら言った。
「これで温まりましょう」
「いや、これだとまだ寒いうちには入りません」
 だが老人はここでこう応えてきた。
「私のいたところは。もっと寒くて」
「はあ」
「ストーブもありませんでしたしなあ」
 そう言いながら側にあるストーブに目をやってきた。
「こんな便利なものもなかったです。精々火鉢がある程度で」
「またえらく昔の感じがしますね」
 私は火鉢という言葉を聞いて思わずこう言ってしまった。
「何か。本当に」
「そうでしょうね」
 彼は私のその言葉を聞いて少し寂しい様な顔になった。
「貴方みたいな御歳の方には」
「はい」
 その通りであった。火鉢と言われてもほんの子供の頃にちらりと見た記憶がある程度である。話には聞いてはいるが実際に使ったことすらないものであった。
「けれど私等の子供の頃は普通にあったものです」
「そうだったのですか」
「それだけでもいいものでね。冬は本当に寒いものでした」
「はあ」
 そう言われても残念ながら今一つピンとこなかった。
「あの人もこんなに寒かったですかな」
「あの人!?」
 それは誰のことだろうかと思った。
「それは一体」
「あ、いや」
 老人は自分がふと漏らしてしまった言葉に対して困惑した顔を浮かべた。
「それは」
「まあ出した話のついでです。お話しましょうか」
 それではじまった話であった。偶然の為であろうか酒の為であろうか。それともこの寒さの為であろうかそこまではわからない。だがこの話がはじまったのは事実であった。それは私にとって決して忘れられぬ話であった。
「人にはある筈のものがない人のことを」
「ある筈のものがない」
 私はそれを聞いた時まず首を傾げさせた。
「それは一体どういうことでしょうか」
「身体のことですわ」
 老人は何かを見る目でこう語ってくれた。
「身体、ですか」
「私等はこうやって目とか耳がありますな」
「はい」
 私は答えた。
「それはまあ」
「手や足も。けれどそれがない人も中にはおますなあ」
「はい」
 私は頷いた。そうした障害を持つ人の話も当然知っている。そうした人達の施設にもお伺いしたことがある。多少は知っているつもりではある。
「これはそんな話なんですわ」
 老人はそう前置きをした。やはりその目には何かを見ている。だがその何かがよくわからなかった。少なくとも私を見ているのではないことはわかった。
「もう遠い昔のことですわ」
 老人は言った。
「本当に。あれからどれ位の月日が経ったのか」
「どれ位前ですか?」
 流石に気になった。私は彼に尋ねた。
「そうですなあ」
 彼は目を細めてまた何かを見た。ここで私は彼が何を見ているのかに気付いた。
 彼は過去を見ていたのだ。遠い昔のことを。そして私に語っていたのだ。
「戦争より前のことですわ。少なくとも」
「戦争ですか」
「はい。あの長くて辛い戦争よりもまだ前でして」
 第二次世界大戦よりも遥かに前の話であることはすぐにわかった。だがそれより前となると。もう私にはどれだけの過去のことなのか見当がつかなかった。
「私がね。爺様から聞いた話なんですよ」
「はい」
「子供の頃に。ですからもうあの戦争よりも前の戦争の話になりますな」
「第一次世界大戦の頃でしょうか」
「いや、もうちょっと前です」
 彼は言った。
「日露戦争の頃の話ですかなあ。本当にそれ位の頃のお話です」
「はあ」
 もう完全に遥かな過去の話だと思った。そこまでくると私の観点では歴史上の話である。既に第二次世界大戦ですら歴史上の話だというのに。祖父が満州に出生していたと言われてもピンとこない人間である。それでどうして日露戦争の頃が現実のものとわかるのだろう。人の世界の時間の感覚とは実際にその時代にいないとわからないものだ。
「その頃は今よりずっと寒かったです」
「はい」
「私の生まれたところはね。飛騨の田舎でして」
 そのわりには訛りがないと思った。だがここは黙って話を聞いていた。
「何もないところでした。そして冬には雪ばかり積もって」
「そうらしいですね」
 あの辺りは行ったことはないが冬になると深い雪に覆われるということは聞いている。日本アルプスのところだけに山も相当険しいらしい。
「そこの庄屋さんの話ですわ。まだそこに家があるのかまでは知らないですが」
「庄屋さんのですか」
「ええ。村で一番大きな家でしてね。大きな蔵を何個も持っておられました」
「蔵を」
 それを聞くとかなり羽振りのいい家であったことがわかる。
「飛騨でも有名な家だったそうです。そこの家でのお話なんです」
「はい」
「御聞きしたいですか」
 こう言われても今更引くわけにはいかなかった。私の好奇心がそれを許さなかった。
「はい」
 私は頷いた。
「是非共教えて下さい」
「そこまで仰るというのなら」
 どうも御自身から出されたお話だがやはり躊躇うものがあったらしい。一度は引っ込めようとしたのがその証であった。だが私に言われて話す決心をしてくれたのであった。だが今考えるとこれが正しいことであったかどうか疑問である。この話はそれ程深いものであったからだ。
「その蔵の一つのお話です」
「はい」
 私は酒を飲む手を止めた。見れば老人もであった。それまでの温和な顔が消えていた。こうして話ははじまったのであった。
 
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