Eve
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第一部
第一章
虚実から現実へ
急速に覚醒する意識。虚実の世界から、意識はまたこっちの世界で……。
「……」
僅かに開く目蓋。眼球が乾いているせいか、視界がぼやける。まだハッキリしない俺の視界に飛び込んでくる、見慣れた俺の部屋。
……部屋と呼ぶには、あまりにひどい有様だけれども。
やがてレンズのピントが合うようにハッキリと映り込んでくる、焦げ茶色に劣化し、赤錆びに覆われたトタン屋根。所々には強烈な酸性雨に溶かされたトタンの穴を補修するための木の端材が打ち付けられている。隙間風もひどいが、この時期はまだいい。
重たい身体を起こすと、さっきから漂う悪臭が俺の鼻をより強力に突く。どう表現すればいいかわからない、腐臭と言われれば腐臭ともとれるし体臭とも言われれば体臭ともとれる、そんな悪臭。あっちの世界の人間が嗅いだなら、顔を歪めざるを得ないんじゃないだろうかと、それほどの異臭。外からも廊下からも隙間風に乗って、それは俺の部屋まで流れてきている。
俺が今胡坐を掻いている、古錆びたトタン製のベッドもひどいもんだ。寝ているだけで腰を痛める。暖かい敷布団や掛け布団なんてものもなく、トタンのガタガタに歪んだ板の上に体を横たえるだけ。掛け布団や敷布団のようなぜいたく品を手に入れられるような身分でもない。
見渡す部屋もボロボロの木材や布、トタン製の小物が無造作に投げ置かれていて……慣れたとはいえ、改めて見てみれば本当にひどい状況だと。
「はぁ……」
海より深いため息が無意識のうちに出る。体感数分ほど前に感じていた幸福と相反する負の感情が俺の心を支配していく。
イブ……。
夢の世界で腰を休める彼女の姿が鮮明に鮮烈に脳内を駆け巡る。イブの容姿から髪の質、仕草に性格のその全て。目の前にハッキリと映り込むように。
今日の始まり、もうくじけそうになる。できることなら今すぐ再びここに伏せて、眠りにつきたい。今すぐあっちの世界に戻りたい。
「……」
それでも現実から目を背くことはできない。どうしても俺はこっちの世界で、毎日欠かすことなくやらなければいけないことがある。唯一の希望をかけた今日の現実世界を絶望せずに生き抜くために、俺はあの世界で深い休養をとったんだ。
また、今日一日が始まる……こなすことをこなして、頑張った身体と心をまたあっちの世界で癒そうじゃないか。
「……よしッ!」
俺は一発、自分の両頬を思い切り引っ叩き喝を入れ、俺はベッドから軋む床の上に足を下ろした。階下の住人様の迷惑も、この時代には関係のない話だ。ギシギシと床を軋ませながら俺は公共の通路との唯一の隔てである布きれ一枚を手で掻き、そのまま廊下へと出た。比較的広めの廊下だが、ここも異臭がひどい。俺の部屋よりも格段に強い異臭は、ここら一帯からも漂ってくる。勝手に放置されているゴミやら食物の残りカスの腐汁が廊下に浸っているせいか。それともろくに水も浴びれず、身体も拭けずにただ望むわけでもなく眠りにつくしかない人間の体臭のせいなのか。
俺が脇を通ろうとするたびに、死んだような目で俺を睨み付けてくる彼らは、部屋も宛がわれずに、唯一雨風を凌げる場所を這い求めてきた、低層に分類された人間の中の屑として蹴落とされた存在。何の罪もなく、上層部の人間の一存で人間としての権利を剥奪された彼らの心理状態を思えば仕方のないことかもしれないけれども、それでも気分のいいものじゃない。俺はその脇を、彼らと目を合わせないようにしつつすり抜けていく。
ひたすら長い廊下。長い長いその抜けた先に現れる、階下と階上に行き来ができる階段は、このひたすらに広く広大な集合住宅とも言えない住居群の唯一の階段だ。ここを通らなければ階層を移動することもできなければ、外へ出ることもできない。住居群の端に部屋を構える人なんて悲惨なものだ。この街の住居群の基本的な規格は幅は50m程しかないのに、長さは数kmにもなるのだから。
俺は一歩一歩、狭く古ぼけた階段を下っていく。大量の人間がここで衣食住、人らしからぬとはいえ精一杯の生の営みを育んでいるというのに、人の話す声どころか物音一つしない。
「……」
ふと、いつだかの日に俺の隣人が話していた言葉が鮮明に俺の脳裏に焼き付き、急に脳内にリフレインした。
『外に出る理由がほとんどないやつが、余計な体力を使って外に出ることに何の意味があるんだい?体力の浪費以外の何物でもないじゃないか。』
生きる目的を持つような余裕もない人間がいる。隣人との関わりすらも断絶し、人としての最小限度の生活すらも保証されないこの世界に、生きる目的を見出すことは難しいことなのだろう。
かくいう俺だって、例の世界という心のオアシスがあるからこそこの世界にもそんな希望を見出せているだけだなのだと思う。あの世界がなければ、俺もそこらで見るも無残な肢体を晒し、希望すらも見失った貧賊な民と同じだ。
やがて差し掛かった階段。鉄製だろうか。赤錆びに覆われた階段は狭く細い。照明とも呼べる照明はなく、一階ごとに備え付けられた薪木のぼんやりとした明かりだけが夜の頼りない道標で……。昼間でも暗いこの時世だけれども、この程度で貴重な薪を消費することはできない。それは今を生活している人々ならば、だれでもわかっているはずのことだった。
足を踏み外さないように降りていく、幅が2mほどしかない階段。下る間にもそこに座り込んでいたり寝そべっている人間の数は減る様子を見せない。むしろ階下に下れば下るほど、その人数は増えていく一方で階段を下るにも、足元に気をつけなければ彼らを踏んでしまいそうなほどで……。
みな、髪に髭は伸び放題。纏う布きれは薄汚れ、ボロボロにすり切れて、果ては布を纏っていない人間さえもいる。みなが痩せこけ、棒切れのような腕に張り付く皮と、盛り上がるようにして浮き出る細々とした骨のライン。その腕にも腹にも脹脛にも頬にだって、肉と呼べるような膨らみはもう彼らにはついていない。その瞳に映る俺の姿の奥に見える真っ黒い影に、彼らの生気の欠片すらも見当たらないのは希望を見失ってしまったから……。
くそ……ここにいると、もう何がなんだかよく分からなくなってくる……。現実の世界と虚実の世界。二つの世界を知っている俺にとっちゃ、最早こちらの世界が虚実の世界だ……。
緑の自然と真っ青な空。鳥たちは人の傍でその生を謳歌し、そよぐ涼風に香るのは青々とした若草の涼やかな香り。そして人と人との交わりが初々しく、人と人との触れ合いが幸福で……そんな美に溢れた生の息吹を感じられるような世界が、俺にとっての現実世界。俺の夢の中の世界。自我が花開く夢の世界だ。
……こんなドス黒く汚物に塗れた世界のどこに、人が求める理想があるってんだ。
虚実の世界への憧れは、このリアルに触れる度に強くなっていく一方で、俺の心は俺の夢に触れたあの日あの時から、言うまでもなく虚実の世界の虜だった。
こんな荒廃した世界に何がある。人口の大半が不衛生の産物に侵され、一年足らずのうちに死に絶えた。一部の生き残った人間さえも、貧富の差で全てを隔絶した。一握りの上流階級に属される人間だけがその生を謳歌し支配する、賎陋に賎劣を重ねた糞だけが優越に浸るどこまでも糞な世界の……俺たちのような貧賎で下等な生物には、どこまでも攻撃的で慈悲の欠片も与えない、病原菌の感染から栄養失調。全てが死に直結するだけのこんな世界のどこに生きる価値を見いだせる!?。糞で糞で糞で糞で糞な世界だッ!!糞以外の何物でもないッ!!
「ッ!!」
俺は無意識のうちに強い憤怒が口をついて出ていた。ついでに俺の歩調の一歩一歩に力がこもっていることにも……。
日頃から蓄積され続けてきた、この世界への鬱憤……いや、この世界に対してじゃあない。下等階級の人種のすべてを見放した、上流階級と呼ばれる、彼らの主観的な尺度を持って非民主的な決定のもとで選ばれた屑の中の屑人間に対してだ!
俺の拳は硬く硬く握られていく。
……くそったれめ!この荒ぶる俺の怒りの矛先はどこへ向ければいい!!
俺の歩調は自然と早くなっていく。階段に群がる生きた屍を避けることすら煩わしくなってきてしまうほどに俺の心は荒れているのがわかる。必死に抑えようとするけれども、ダメだ。俺の心は全くと言っていいほど落ち着かない。生きる屍に向けることはできないこの怒りも、行く宛を失い俺の心のなかで八岐にも分かれそうな大蛇の如く暴れ狂う。
そんな調子のまま、必死に平静を取り繕う。
……暴れたってなにもいいことはない。俺がここでブチ切れて暴れまわったとしても、それが賎陋な連中の耳に留まることすらない。もはや連中にとって俺らは蚊帳の外の蚊も同然。蚊帳の外にでさえしなければ噛み付かれないし、俺達も何をすることもできない。
そうだ、だから今は落ち着くんだ……。
やがて、20階ほど下ったあたり、ようやく地上階にたどり着いた俺の目の前。しかしそこにもまだ、生ける屍の廊下は続いていた。
「……」
「イ……イタイ……」
「……ガッ……」
俺がみなの横を通ろうとするときに聞こえる、断末魔のような声。今にも死の世界へと引き込まれんとする者たちの、生ける屍たちの現世への執着心が奏でる死の音色。決して目は合わせない。決して気にかけてもいけない。気にかけたらきりがない。ここまできてしまっては、俺にはどうすることだってできやしない……。
俺は必死に計り知れぬ無力感と悲しみにあらぶる心を抑えつつ、生ける屍たちを避けつつ避けつつ外へと向かう。
早く。ここを曲がれば外界。とっととこの光景から目を背けたい。早く、世界の中心となる街。そう詠われる、人類最後の砦に。
解放されっぱなしで辺りにバラバラに散らばっている木枠のドアの破片。躊躇もなく破片を踏みつけ、俺は外界との隔たりを跨いだ。
「……」
サァッと、季節すらもよくわからなくなってしまった世界の生ぬるく湿った、腐臭を孕んだ風が俺の頬を撫でていった。建物の中にいたときのような身近に感じる腐臭はなくなったが、でも今はそれよりも凄惨な光景と、もっと胸を突くような死臭を孕む風が俺の三感に触れた。
……人生に絶望していない。この権力支配には絶望していても、生きる意味と気力、希望を保ち続けている俺のような人間には……この光景はいつものことながら、素通りすることなど到底できそうにもない。早く過ぎ去りたい気持ちと、俺のいつもの仕事から目を逸らすことができないというジレンマに悶つつも、必死の思いで歩を進める。
目の前の大通り。街の中央から放射状に幾本も伸びる大きな通りのうちの一つ『第一大通り』。俺たち下等民が勝手にそう呼んでいるだけの道に転がるのは、その下等民たちの屍。無数に、見るも無残な様相で。まだ小さな赤ん坊も。ひ弱な女子供も。補足痩せこけた男もみな。
飢餓で死んだ者。同じ賊民から襲われ、身ぐるみを剥がれ、慰み者として最期の最期まで弄ばれた末に、その全てを掻っ攫られた女子供。必死の思いで手に入れた僅かばかりの食料を奪われ、挙句の果てに集団で暴行され、長く悲痛な苦しみに満ちた人生を最悪な形で閉幕した老人。彼らの表情見るだけでわかってしまう。
さらに歩みを進める先から途切れもなく、通りを埋め尽くすほどに転がる屍。死後数ヶ月が経つ屍でも、たった今息を引き取った屍だって、誰からも供養の念を受けることもなくただ孤独に死に絶え、これから先も孤独に、ただそこにあるだけの遺骸。
腹部の無数の穴からは赤黒い臓物をまき散らし、体に纏ったボロボロの布切れは朱に染まりその身に張り付き、道にも酸化した鈍血を垂れ流す。黄色の脂肪と腹膜がはみ出た腹部の切り口から覗くのは、ウジャウジャと自由自在に蠢き、死肉に腐肉をかっ喰らう大量のウジ。古い死体はすでに眼球の奥から食い抜かれ、風化した白骨を野に曝す。酸性雨に溶け、骨繊維がスカスカの残骸も湿った外気に晒される。
ざっと俺の目に入ってきただけでもまだまだ一切を表現しきれない。こんなもんじゃ済まないほどの屍が転がる通り。まだ死の鋭き眼光から逃れ生きている人間も痩せこけたその身を地に横たえ、はたまた地面に座り込み動くことはほとんどない。小さな焚き火から暖を取る人間は、さながら床に散らばるゴミのカスのごとく無数に。それなのにも関わらず、普通に歩いている人間は数えるほどしかいない。
活気という言葉など、ここには存在しない言葉。存在してはいけない。もうその言葉の真意をこの世界が取り戻すことは、きっとない……。
「……」
歩調を緩めてちょいと上を見上げれば、大量の排ガスや微粒子レベルの産業廃棄物が織りなす、太陽の光すら通さぬほどの分厚いスモッグが空を覆う。黒に近い黄土色のスモッグの若干薄い層からは、僅かながら黄土色のフィルターを通した陽光が漏れるが、それも僅か。昼なのに世界はどんよりとした暗さに包まれている。この世界を如実に表しているかのような空。一度雨が降れば、高濃度のスモッグを通過した雨は様々な物質が溶け合い、強烈な酸性雨となって人々や動物、建物、外気に晒す物質全てを襲う。少しでも逃げ遅れ、数分の間だけでも酸性雨の直撃を喰らおうものならば、雨に濡れたところの表皮はめくり上がり、真皮から皮下組織までは真っ赤に焼けただれ血が滲み、強烈な焼けるような、アイスピックを躊躇もなく突き刺すような痛みに藻掻きつつやがて感染症からの死が待つ。万が一にでも目に入ったものならば、その目はもう使い物にならなくなる。硫酸の雨、とでも呼んだほうがしっくり来るかもしれない。
視線を少しだけ下げれば、まだ街の民衆たちに活気が残っていた頃、そんな酸性雨を凌ぐために軒並み急ピッチで建築された、大通りに面して巨壁のように連立する住居群がその目に留まる。大小様々な小部屋が突起物のように全体の構造物から突出する後作りの構造。日を増すごとに形状は歪になっていくが、今や木製の部屋ばかりで、酸性雨を完全に防ぐことができるようなものではなくなっていた。というのも、俺の部屋のようなトタン製の材質で部屋を作れる人はもういなくなってしまった。材料が枯渇してしまった上に加工できる職人はもうほとんどがいないのではどうすることだってできない。もう、構造物自体を増やすことはできないし、小部屋を付け加えることもそろそろ限界を迎えている。
何もかもがギリギリ。いや、いくつかはきっともうアウトだ。
……正直なところ、この世界。といっても俺ら下等人種の生活するこの街のことだが、この街自体が生の営みを続けていくには、もう何もかものキャパシティが間に合わなくなっているのが現実の示すところなのだろう。
病原菌の蔓延と強酸の雨が降り注ぐ世界。その酸性雨から身を守るための住居群はこれ以上増やせない。でもまだ住居を求めている人はまだまだ無数に、数えきれないほどいる。さらに食料の配給のようなものはほぼ皆無で、調達能力のない人間は死ぬのを待つか、自ら命を断つ他にはない。どんな手を使ってでも食料や水は自力で調達しなければならないのに、その食料の供給源すらすでに枯渇し始めている。つまり、簡単に食料を手に入れるすべはなくなってくるわけで……。
法というものの拘束力など遥か昔に消え、今や無法状態のこの世界では、自力で食料を調達している人間を襲い、細々と延命している人間の方がむしろ多いこの現状で、人は何が正義なのだと知りえるのだろうか。高い地位につく賎陋なゴミ共は全ての貧賊な民を蹴落とし、その貧賊な民は同族から全てを奪いあいながら明日すらも危ぶまれる人生を只管、明日を見るためだけに足掻く。多くの人間が他人を愛し尊重し共に生きるという、この人間らしい心を失ってしまったこの世界に未来はあるのかと問われれば……。
「……」
もう限界だろうということは、多分誰もが薄々感じつつある。そんな気がした。
そんな思いに脳内を支配されながら俺は大通りから逸れ、一本の細い路地へと入った。細々とした路地裏にはゴミやら死体、肉片に遺骨が散乱しているが、一つ一つを避けながら俺は路地を進んでいく。焦げ茶色に錆びきり、電気すらも通電していない使い物にならなくなった換気扇の横を過ぎ、茶色に変色した苔がびっしりと生える階段を下り、小さな小屋が乱立する小さな通りを抜けたこの先。先ほどまでの死に瀕した街の光景から一転、小さな広場に集う大勢の人だかりが見えた。広場に集まる多くの人間は住居群、大通りに伏していた貧賊な民と同じようにやせ衰え、誰もが今にも倒れそうな風貌をしているが、みなどことなく和らいだ雰囲気を感じさせる。みんながみんな列をなしているわけではないが、そこに集まる多くの人々はきっちりと自分の番を待っているかのように列を形成していた。
もうこんなに集まってるのか……。
俺は気怠いままだった足腰に鞭打ち、足早に人だかりの元まで小走りで向かった。
「ん?」
「ありゃあ、恭夜くんじゃないか?」
「……おお、そのようじゃな。」
彼らの近くまで走り寄れば、みながみな俺のことを見るなり笑顔で出迎えてくれる。この世界の唯一の良心……というより癒やしの瞬間だ。
「みんな、早いですね。」
俺は列の横を沿って行くようにみんなに語りかける。
「おにーちゃんおそいよ!もうおねーちゃんは来てるんだよ!」
「お、そいつは悪かったなミレア。今準備するからな。」
小さな少女……ミレアという子だが、俺のことを見るなりお怒りのご様子。遅刻だ遅刻だと俺のことをポカポカ叩いてはご立腹だ。周りの老若男女もその様子を見て始終笑みを浮かべている。
……遅刻はしていないはずなんだけど。
俺はミレアの頭を軽く撫でてその場に留めつつ、列の先頭へと向かう、のだが……。
「恭夜くん遅いよ!」
どこからともなく聞こえてくる声。さっきから頭のなかで渦巻いている『遅刻はしていないぞ!』という俺の思いは、その一言のもとに打ち消される。
俺は小さくため息を吐き、苦笑いを浮かべるみんなに苦笑いを返しつつ、列を辿っていく。列の前の方から聞こえた、聞き慣れた声の主がいるであろう列の先頭を目指して歩みを進めていくと、いかにも憤怒なうですよという立ち振舞の少女が一人、やはり列の先頭にいて……。
「美羽……早いんだな。」
「恭夜くんが遅すぎるだけだよ!」
そういうなり頬を膨らませ怒りを露わにする、ミレアよりもご立腹なご様子の少女、美羽。プラチナブロンドのミディアムヘアーで、とことん幼い顔立ちが印象的で、あまりに幼すぎてお前は本当に俺と同い年なのかと小一時間ほど問い詰めたくなるほどには幼い。肌は白く、少し薄汚れてはいるが純白のワンピースがその肌に映える。
そうだな。夢の世界で俺が心を寄せる人がイブならば、この世界での俺の良心……と言えるのかは果たして微妙なところだが、少なくともこの世界の誰よりも俺が信頼している人ってんのが美羽だ。
俺はぼちぼちと、列の先頭で一人で黙々と作業をしていたであろう美羽の側に移動する。
「だからー……俺は遅刻していないって何度m」
「ボクが先に来た時点で、恭夜くんは遅刻なの!」
「」
「こんなにみんなを待たせちゃったのも、恭夜くんが遅いから……」
列に並ぶみんなの方をちらっと見る美羽。俺もつられてそちらを向けば、困り顔のみんなの数だけの視線が俺の心を亜高速で貫いていく。
おい待てや、そんなバカな話があるもんかい。どう考えても理不尽だ。
冗談だとはわかっていても、みながみな困り顔をしていては俺のアウェー感は高まるばかりで、俺としては自分の無実を証明したいわけなのだが。
「……理不じn」
「早く準備するよ!これ以上待たせられないもん。」
「」
完全にアウェーだった。これ以上ないほどに。
そう。アウェーなのだけれども、確かにみんなをこれ以上待たせるわけにもいかないのも事実で……きっとみんな腹を空かせていることだろう。
「……」
……まぁ、いいか。
俺は心の片隅で蟠り燻っている、どことなく釈然としない気持ちをどうにか押し込め、俺は俺の横に積み重なる所々に穴が空き、ささくれが目立つ木箱へと手をかけた。二段重ねのボロ木箱が3セット置かれていて、そのうちの右端の上段の箱を持ち上げ、列を成すみんなの前に置いた。美羽も同じように、俺が移動させた木箱の下に置かれていた木箱に手を伸ばし、俺の横に移動させた。その間、列に並ぶみんなはその様子じーっと眺めては待ち遠しそうに微笑みを浮かべている。
「もう少しだから、みんな待っててね。」
美羽の言葉に、みな元気そうに各々が返事を返していた。
老若男女の誰もが順番を守り、列に並ぶ。人の問い掛けに笑顔で返事を返す……この街にあるべき光景がここにだけ、本当にここにだけはあった。
そんな光景を見せられては、さっきまで心の奥底で燻っていた蟠りもどことなく和らいでいっちまうような、そんなほんわかとした暖かい、ハッキリとしない気持ちで満たされていく。
……まったく単純なもんだ。
俺は誰にも聞こえないほどに小さな小さなため息をひとつだけつく。
さっきまではイブと別れたことであんなに心が荒んでいたのに。上流階級の連中の非情な行いにひどく立腹していたのに。今は小さな女の子やおじいちゃん、おばあちゃん、いつもの集まりに囲まれるだけでこんなに心が落ち着いているんだからな。隣に美羽がいるこの状況に、ひどく安堵感を感じているのだから。
「……」
口元が自然と綻んでいるのがわかった。
ミーハーなもんだよな、俺も。また明日になれば、同じようなことを繰り返しているんだろうと思うと、なんだか馬鹿らしくなってきちまう。
そうは思っても、やっぱりこの世界への希望は捨てられるものじゃなかった。だから俺は今、ここでこんなことをしているんじゃないかなとか、この世界が俺の……あの夢の世界のような姿に戻る日が来るんじゃないかなーとか、そんなふうに思うから俺はあの世界の虜でありながら、この世界を捨てられずに日々を奮闘しているんだと。
そんな俺らしくない、夢に溢れた想いに満たされた。
「……さて。」
俺は早々と木箱の蓋を取り外そうと取っ手を掴むが、雑な封の仕方だったのだろう。なかなか蓋は開かない。ちょっとやそこらの力では簡単には開かないようだが、ふっと目一杯の力を込めて引っ張れば弾けるように上蓋が飛散した。
その様子を見ていた美羽も『うーんうーん』と唸って蓋を必死にこじ開けようとしているが、どうにも美羽の方は開きそうにない。確かにこの蓋の封は固い。幼女モドキの力じゃこの蓋は無理か……。
「かしてみろ、美羽。」
「え?」
俺は美羽が引っ張っている横の取っ手を思い切り引っ張り、ちょいと壊し開けた。
「ほら。」
取れた取っ手を横に放り投げる。美羽は少しあっけにとられたような表情で。
「恭夜くん、力は強いよね。」
「……んまぁ、幼女に負けるほど力は弱くないけd」
ゴッ……
鈍い激痛が俺の頭部に響いた。
「……ッ!」
「ボクは幼女じゃないって何度も言ってる!」
美羽が片手で箱の中身を整理しながら、俺の頭部をぶん殴っていたらしい。お怒り模様。そしてものすっげぇ痛い。
「……確かに、その幼女とは思えない無限のパワーにh」
ゴッ!
「うるさい。」
「……」
今度は突き刺さるような鋭利な痛みだった。言葉に出ないほど。
ちょっとした冗談のつもりだったんだけどな……。それに、どこをどうすればそんな鋭利な痛みを人に与えることができるのか、俺には永遠に解き明かせない不可解な謎だ。
「ほら、早く手を動かす!」
「……はい。」
俺は痛む頭を抑えつつ、箱のなかに詰まっていた食料を脇にある台の上に並べていくほかにはなかった。
……ま、今回ばかりは俺のせいではあるんだけどな。
とりあえず目の前に置いた箱から取り出して横に並べていく品物のほとんどが果物や野菜、後は比較的新鮮な水の入ったボトル。そいつらを箱に入っている順に上から取り出していく。一つの箱が空いたら次の箱。それも空いてしまえば、また次の箱と6つ全部の箱が開け終えるまで、俺達の手は休まらない。
「おお、今日もたくさんあるな。」
「ね。いいことだよ。」
「まぁな。」
お互いが話している間だって手が止むことはない。着々と空の箱は増え、やがて6つ全部の箱から食料と飲料を取り出し、脇の台の上に開け終えるまでが大体10分くらいか。広場のみんなの輝いたたくさんの瞳が注がれる、食料や飲料が一杯に積み上げられている大きな台と、俺達の後ろに積み上げられた空の箱が6つ。
ん、こんなもんか。
ようやくすべての準備が終わった今、俺たちは頷き合い、みんなの方を見据えた。みんなもじっと期待に胸を膨らませたような、生気に満ち溢れた目を俺たちに向けている。そしてその前で美羽は、列の形成するみんなに向かって高らかに言葉を投げた。
「じゃあみんな!順番に1つずつ、ここにある在庫がなくなるまで取って行っていいよ!」
そんな気前のいい言葉。そう叫んだ瞬間、列に並んでいたみんなはワッと湧いた。
列の一番先頭に並んでいた一人が早くも配給台の前に走り寄って来る。
「じゃあ俺はまずは……こいつだ!」
一人目の男の人が取ったのは、少し虫食い穴が目立つがとても美味しそうなリンゴ。この配給での人気の品物だ。
「僕はこれ!これにする!」
二人目の男の子が迷わず手に掴んだみかん。彼もよくここの配給に顔を出すが、決まっていつもみかんを始めに持ち帰っていた。
そのまま順々と順番はめぐり、一巡。二巡。三巡と、一人が幾つかの品を手にしたあたりで俺達の配給の在庫が尽きた。今日は50人以上が集まっただろうか。集まった人たちの手や持ち寄りの布切れにはたくさんの食料が包まれ、彼らの顔にも満面の笑みが灯っていた。配給が終わった後も広場で各々談笑を繰り広げる老若男女の様子は、それはこの荒廃した世界に僅かながらに灯る希望の光のようで。俺は唯一ここだけにこの世界の可能性を感じていた。
「……恭夜くん。」
「ん?」
一仕事が終わり、逆さにした配給の木箱の上に座る俺の隣に美羽も同じように腰を下ろした。そのまましばらくお互いにねぎらうわけでもなく、言葉を投げかけるわけでもなく、無言の時が慈悲もなく流れる。耳に届く広場の談笑。子供たちの笑い声。そんなこの世界でのイレギュラーな光景と音が、耳に心地よい。
「楽しそうだね。みんな。」
ふと、子どもたちの喧騒に乗って聞こえてくる美羽のつぶやきも、意識していなければ聞き逃してしまいそうなくらいの声。その美羽の柔らかな微笑みは、広場のみんなに向けられていた。
俺も広場のみんなを見据える。荒れ果てた広場の一角で他の男の子たちと一緒になって走り回るミレア。男の子二人。カルアとフリードも三人して楽しそうに駆け回っている。心の底から愉しそうに遊ぶ三人の姿が俺の視線を捉えて離さない。
「……そうだな。」
なんの他意もなかった。子供たちから目は逸らさずに、俺は自然と肯定していた。
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