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第四章
第四章
「知らないよ。あいつは」
「そう。本人だけなのね、知らないのは」
「僕達も。お医者さん達も」
「知らせていないの」
「そんなこと。できるわけないじゃないか」
こうも言うのだった。
「まだ。十五なのに」
「しかもあと僅かしか時間がないなんて」
「何でなんだろうね」
忌々しげな言葉になっていた。
「あいつが。あいつがこんなに早く」
「ずっと。一緒だと思っていたわ」
小夜の言葉は今にも泣きそうなものになっていた。
「けれど。もう」
「それでも。母さん」
「わかってるわ」
息子の言葉にこくりと頷いた。何とかそれだけの心の強さは残っていた。
「それは。言わないわ」
「あいつの前ではね」
「そうしてくれ」
二人の前を行く白峰が妻に声をかけてきた。声はかけるが顔は前を向いたままだ。正面を向いたままで妻にも息子にも表情は見せない。だがどんな顔をしているのかは既に声でわかるものだった。
「必ずな」
「父さん・・・・・・」
今は舞台でも稽古の場でもないので砕けた言い方をする市五郎だった。
「じゃあ。もうすぐだから」
「うむ。それでは母さん」
「ええ」
「あれは持っているな」
「これね」
見れば彼女はその手に二つのものを持っていた。それは。
「この二つを渡せばいいのね」
「そうだ。そうしてくれ」
見れば語る白峰の顔は少し前に傾いていた。表情こそは見えないがその身体から出ているオーラは暗く沈んだものであった。
「その二つをな」
「わかっているわ」
そんな話をしているうちに病室の前に来た。三人は表情を仮面にさせて。そのうえで病室に入った。三人の姿を見ると佳代子はこれ以上はない程の笑顔を浮かべてから言ったのだった。
「今日は皆で来てくれたのね」
「そうだ」
父が一家を代表して微笑んで娘に答えた。
「丁度時間が一緒になってな」
「そうだったんだ」
「それで佳代子」
父は柔らかい笑みの仮面で娘に問うてきた。
「昨日兄さんからドーナツを貰ったそうだな」
「もう全部食べてしまったの」
「そうか、全部食べたか」
「看護婦さん達と一緒にね」
こう答えるのだった。
「全部食べたの」
「一人では食べなかったのか」
「だって。一人で食べるより皆で食べる方が美味しいじゃない」
その明るい笑顔で父に対して言うのだった。
「だから。看護婦さん達と一緒に」
「そうか。それもいいな」
娘の話を聞いて納得した顔で頷く父だった。そのうえでまた彼女に対して言うのだった。
「それでな。今日はだ」
「どうしたの?」
「いいものを持って来たぞ」
こう娘に言うのであった。
「御前が欲しかったものをな」
「何?」
「母さん」
ここで小夜のほうを振り向いて声をかけた。
「あれを出してくれ」
「ええ。佳代子」
「何?お母さん」
「はい、これ」
こう言って娘に対してあるものを差し出してきた。見ればそれは二つあった。
一つは大きな熊のぬいぐるみ。そしてもう一つは。
「チケット・・・・・・」
「今度の舞台のやつだ」
父が娘に説明した。
「今度のな。御前が行きたいと言っているな」
「お父さんとお兄ちゃんの舞台の」
「そうだ」
娘に対して告げるのだった。
「その舞台のチケットだ。行くな」
「ええ、勿論よ」
明るい笑顔で父の言葉に応える佳代子だった。
「絶対に行くわ。退院して」
「もうすぐだからな」
微笑みを作って娘にまた言う白峰だった。
「もうすぐだからな。それは」
「退院したら。最初はその舞台を観て」
「次はどうするの?」
「退院祝いして」
今度は母の問いに答えていた。
「退院祝い。いいわよね」
「ええ。勿論よ」
彼女もまた笑顔を作っていた。しかし彼女のそれは夫のものと比べると遥かに苦しく辛いものがあった。強張ってしまうのを必死に動かして。そうして作っていた笑顔であった。
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