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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 後編
  Backside of the smile

 
前書き
 すっかり一ヶ月更新が当たり前になってきた今日このごろ。何とかしないとなぁ……(提督業務を続けながら) 

 
「……本当に、ここが……?」
「……うん」

 浮遊城アインクラッド第一層、《はじまりの街》。このデスゲームが始まってもう一年が過ぎたというのに、未だ約半数ものプレイヤーが身を寄せ合って暮らしている、言わずと知れたSAOの開始地点。
 わたしがマサキ君にしがみつきながら帰って来たのは、その裏通りに佇む、一見廃墟にも思えるレンガ造りの二階建てアパートの一室だった。赤のスプレーでわけの分からないアルファベットが吹き付けられたドアを開けると、あまりの惨状に、案の定隣の彼は言葉を失った。

「……入って」

 わたしは答えを待たず、隣で呆然としているマサキ君の腕を引いて部屋に入った。すぐ脇にある照明のスイッチを入れる。
 点かない。
 慣れた手つきでパチパチとスイッチを操作していると、四度目でようやく明かりが点いた。まるで死ぬ寸前の蛍のような――そんなに趣のあるものではないけれど――弱々しい光がぼんやりと部屋を照らす。
 僅か四畳半の空間に木製のベッドとボロボロの机、椅子があるだけのワンルーム。ベッドにはマットレスなんてものはなく、シーツ代わりのぼろきれと、どう考えても人一人を覆うことなど、まして防寒具として用いることなど到底できそうにない小さく薄い毛布一枚が横たわっている。壁には数センチほどの隙間があり、床は今にも踏み抜きそう。天井には、パッと眺めただけで雨漏りの後が幾つも見える。……お世辞にも、十代の少女が住むような部屋には思えない。

 彼の腕を掴んだまま、硬いベッドに腰掛けて顔を見上げると、いつも浮かべているポーカーフェイスの上に、驚きと戸惑いの色が滲んでいた。
 ちょっぴり可笑しくて、わたしは口元を斜めに歪めた。作り笑いは得意だったはずなのに、すぐに唇が震えだして、その脇を涙が零れ落ちた。

「おい……」
「……何なんだろうね」

 履いているニーソックスの根元辺りに視線を落として、わたしは泣き笑いの声で言った。滲んだ視界の中で、顎から落ちた涙がスカートの裾に吸い込まれていくのが辛うじて見えている。
 相変わらず口元は斜めに曲がったままだったけれど、それが自分で作った表情なのか、それともただ口角が引きつっているだけなのかは、もう判別がつかなかった。
 そして口から飛び出したのは、わたしの昔語り。涙も、言葉も、感情も。今まで制御出来ていた全てのものが、バラバラに叫び出して。その代わりに、わたし自身が何処かへ消えていってしまうみたいだった。



 母が大手ネット通販会社のキャンペーンくじで“ソードアート・オンライン”なるゲームソフトを引き当てたのは、今から一年と少し前。日に日に秋が深まる10月の下旬だった。両親ともゲームには縁がなく、また一人っ子と言う我が家の家庭事情も相まって、ソフトはわたしの手元にやってきた。それまでゲームは携帯ハードのものを数個ほどしか持っていなかったけれど、公式サイトやβテスト時の情報を集めるにつれ、わたしは無限の蒼穹に浮かぶ世界に段々と惹かれていった。そして、正式サービスが始まる二〇二二年十一月六日。早めに宿題を片付けたわたしは、午後三時頃にこの世界へと飛び込んで……そして、囚われた。

 ――『諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』。
 自らを茅場晶彦と名乗った巨大な赤ローブの宣言を、わたしはすぐに理解することが出来なかった。チュートリアルと言う名の告知が終了し、正気を取り戻した頃には、既にわたしは夜の闇に街ごと呑み込まれていた。

 デスゲームだなんて嘘だという現実逃避。
 このゲームを作った茅場に対する怒り。
 何故わたしがこんな目に遭わなければならないのかという、自分の運命に対する嘆き。
 かつて味わったことのない、すぐ傍に感じる“死”への恐怖。

 様々な感情が、まるでジャグジーバスの泡みたいに次々と浮かんでは弾けた。その度にわたしは泣き叫び、今にも神経が焼き切れてしまいそうなくらいに頭の中が沸騰した。
 だが、人の感情と言うのは、そんなに長続きするものではなかった。一週間、一ヶ月と部屋に篭っているうちに、徐々にではあるが現実を受け入れられるようになっていった。第一層が攻略されたこと、また、レベルが低くとも《はじまりの街》周辺のフィールドであればある程度安全に狩りを行えることが認知されていったことも大きかっただろう。恐怖や悲嘆、後悔はわたしの中からゆっくりと薄れていき――そして、その影で気付いてしまった。わたしが、今、この世界で、たった一人なのだということを。

 家族もいない。友人もいない。知り合いも、自分を助けてくれる人もいない。現実を理解したことで初めて見えたこの世界は、親元を離れたこともない十五歳の少女(わたし)には広すぎた。何処までも続く広大な砂漠に、たった一人取り残されたような錯覚を覚えた。ぞくりぞくりと背中に這い寄るような孤独から逃げたくて、部屋の隅で毛布に包まって膝を抱えた。怒りや後悔は時間とともに消えていったのに、孤独だけは一向に消えてくれなくて、むしろ日を追うごとに強さを増した。
 やがて耐え切れなくなったわたしは、部屋を飛び出して《はじまりの街》から100メートルも離れていないフィールドで狩りを行おうとしていたパーティーに飛び入りで参加した。とにかく、他の誰かと一緒に何かをしていると言う事実が欲しかったから。一緒にいてさえくれるなら、誰でも良かった。

 フィールドに出てしばらくすると、わたしたちと同じようにレベル1モンスターの《フレンジーボア》と戦っている一つのパーティーを見つけた。恐らくは、目的もレベルもプレイヤーのスキルも、ほぼ同じだっただろう。たった一つ違うとすれば、彼らがイノシシに追い回されていたことだった。
 わたしたちのパーティーは、すぐに彼らの救援に入った。敵は一頭のみだったので、囲んで全員でソードスキルを撃ち込んだ。全方位からの攻撃を受け、青イノシシはあっけなく四散した。
 追われていたパーティーと合流すると、わたしたちは文字通り泣いて感謝された。まだゲームに慣れていないプレイヤーが多く、パニックを起こして雑魚相手にも苦戦、場合によっては敗北してしまうことすらあったSAO最初期では、往々にして見受けられた光景の一つ。しかしそれは、初めて見たわたしに大きな衝撃を与えると共に、一つの感覚を呼び起こした。

 ――今、わたしは一人じゃない。
 生き延びた喜びを分かち合っている輪の中に、自分がいる。そう感じた途端、背中に纏わりついていた孤独が、ふっと剥がれ落ちたような気がした。ずっと欲していた、孤独からの逃げ方。これだ、とわたしは確信した。

 その日から、わたしは他のパーティーに参加して手助けを行うようになった。昼間は幾つものパーティーに代わる代わる参加し、夜はひたすら自分のレベリング。そこで得たお金は殆どを回復アイテムに費やし、参加したパーティーのメンバーに使った。住処は今の部屋を一日五コルで借り、明け方に三十分だけ、仮眠のために戻った。とにかく誰にも嫌われたくなくて、自分を出さず、常に偽物の笑顔を振り撒いて、相手の要求はほぼ全て呑みこんだ。誰かの役に立つことで、その誰かと繋がっていたかった。

「……バカみたい」

 激情に任せて全てを吐露した後、わたしは小さく息を吸い、嗤いながら吐き捨てた。悔しいことに、本物の笑いだった。

「……ずっと今まで、一人が嫌でこんな風に生きてきて、でも、やっぱり死ぬときはわたし一人だった。……でも、だったら、わたしがいままでしてきたことって、一体何だったの……? わたしがしてきたことも、作ってきた笑顔も、わたしも、全部意味が無くて、全部偽物で……だったら、本当のわたしはどこにいるの? 何がしたいの? ……もう、分かんないよ……! 誰でも、何でもいいから、教えてよ……!」

 立ち尽くすマサキ君の腕を掴む右手に力が入るのと同時に、わたしは縋るような視線を彼に向けた。途端に再び零れ出した涙が目元に溜まり、マサキ君の顔が滲んだ。マサキ君から目を切って、また俯く。瞼をぎゅっと絞ると、重さに耐え切れなくなった雫が二滴、ぽたぽたと(もも)を濡らした。

「……ごめんなさい」

 数十秒ほど泣いた後、わたしは左手で目元を拭い、再び顔を上げた。

「もう一つだけ、最後にお願いしてもいい?」
「何を」
「……わたしが寝るまででいいから、手、握ってて」

 わたしは彼の腕を握り締めていた右手を緩めると、ワイシャツの袖口をなぞるように下ろして左手と絡めた。彼はいつも通り無表情で、どう思っているのかは分からなかった。だから、わたしはそれを聞いてしまう前に、マサキ君とは反対を向いて粗末なベッドに横になった。すぐ後に椅子を引く音が聞こえてきて、わたしは放心しつつ目を閉じた。

「……この部屋何もないけど、わたしが寝た後は、中にある物は好きにしていいから。だから――」

 ――それまで、もう少しだけ、一緒に居て。
 泣いたせいか、いつもより強く、急に襲ってきた睡魔に抗うことができず、続く言葉はわたしの意識と共にまどろみの中へ消えていった。



 彼女が目の前で安らかな寝息を立て始めても尚、俺は彼女の手を握ったまま、古ぼけた丸椅子から立ち上がらずにいた。
 視線を手元に落とす。今俺の手に収まっている彼女の白い右手は、驚くほどに小さく、華奢だった。

「……孤独、か」

 自分はどうなのだろうと考えた。彼と出会う以前の、彼が死んだ後の自分は。
 きっと、孤独なのだろうと思った。彼女との違いは、それを感じていないか、諦めているか、それとも必死で抗っているのかだけ。
 だから、彼女のほうが、俺よりもまだまともなのだろうとも思った。
 俺は彼女の手を握ったまま立ち上がると、椅子を壁の傍に移動させた。壁にもたれるようにして座り直し、隙間風の音を聞きながら目を閉じる。

 涙の綺麗な人は心も綺麗なのだと、昔聞いたことがある。
 彼女の流した涙は冬の澄んだ夜をそのまま映し出していて、素直に綺麗だと感じた。
 自分では作り出せないものを見つけた時、人はそれを綺麗だと感じるのだ。



 ゆっくりと瞼を持ち上げると、(すす)けた石壁を窓から入り込んだ旭光(きょっこう)が照らしていた。アラームの設定時刻より早く目覚めたのだろう、電子音の代わりに小鳥のさえずりが耳を揺らす。このゲームに囚われて以来、初めて熟睡して迎えた朝。だというのに、わたしの心はずんと沈みこんでいた。
 ――これから、どうしようか。
 いつものように手助けに行く気にもなれず、他に何をすればいいのかも分からない。かといって、何もせず一人で部屋にいることなど、わたしに耐えられるはずもない。
 一人、という単語を思い浮かべた途端、また冷たい孤独感が胸に這い寄ってくるように思えて、わたしは身体を縮こめようとする。と、右手が何かに包まれていることに気付いた。
 慌てて首を振る。

「え……?」

 すると、ベッドの脇で壁にもたれながら、マサキ君がわたしの手を握ったまま眠っていた。どうしてまだこんなところにとか、ずっと手を握っていてくれたのとか、幾つもの疑問が瞬時に生まれて頭の中を駆け巡る。
 と、わたしの声で起きたのか、彼は眼鏡の下で目元を擦りながら顔を上げた。それまで俯き加減だった彼の表情が、そこで初めてわたしから見えた。

「ん……朝、か……」
「え、あ……」

 彼は笑っていた。いつものクールな無表情からは程遠い、朝日にも似た、優しげで柔らかい笑顔。疑問をぶつけようとしていたわたしは、思わず言葉に詰まってしまう。
 その間にいつもの無表情へと戻った彼は、わたしの手をベッドに置くと、わたしに背を向けて立ち上がる。

「あ、あの……」
「一九九一年」

 わたしの言葉は、今度は言葉で遮られた。マサキ君は一度言葉を切って短く息を吐き、もう一度吸い込んで続ける。

「イギリスの物理学者スティーヴン・ホーキングは時間順序保護仮説を提唱した。これによれば、場の力が無限大にならない限り過去へのタイムトラベルは不可能になる。そして、現状場の力が無限大になることはないと考えられているため、タイムトラベルは起こり得ず、よって因果律も保存される。そしてそうなれば、バタフライ効果だって起きる」
「……え?」

 いきなり専門用語らしきものを並べ立てられ、わたしは困惑するほかなかった。何一つ理解できないまま無言でマサキ君を見つめていると、振り返った彼と目が合った。マサキ君は一瞬迷うように眉をひそめ、今度は躊躇(ためら)いがちに、若干俯き加減で話し出す。

「……つまり、過去に行くことが出来ない以上、過去は変えられない。誰かのしたことが歴史から消え、無駄になることもありえない」

 そこまで聞いて、昨日わたしが求めた答えを出そうとしてくれているのだと、ようやく気付いた。少し冷淡なイメージがあっただけに、マサキ君がやり辛そうに人を励まそうとする光景は、ちょっぴり可笑しいものだったかもしれない。けれど、今のわたしにそんなことを気にする余裕などなく、わたしは彼の言葉聞き入っていた。

「……それと、もう一つ。どうせ、自分は自分からは逃げられない。見えないのは、波に呑まれて沈んでいるだけだ。だから、そのうち浮かんでくる。……じゃあ」
「待って!」

 再び背を向けて出て行こうとするマサキ君に、わたしはベッドから跳ね起きながら言った。足を止め、ドアノブに手をかけた状態でわたしに振り返る。

「……その、これから、何処に行くの?」
「これを直しに」

 わたしが尋ねると、マサキ君は蒼風をストレージから取り出して柄の部分を向けてきた。見ると、濃紺色の糸で飾られた柄の端に、幾つか細い亀裂が走っていた。

「え、えっと、じゃあ、その……」

 ――そんなことしても無駄だ。独りなのは変わらない。
 胸の何処かで、そんな声が響く。それもそうかもしれない。だって、今彼が言ったことが本当かどうかなんて分からないのだから。けれど。この人といてみようって、そうすれば何か見つかるかもって、それを言ってるのは、少なくとも偽のわたしじゃないような気がしたから。

「わたしも一緒に行かせて。……その、腕のいい鍛冶屋さん知ってるから!」

 わたしは、必死に声を張り上げたのだった。
 
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