空を駆ける姫御子
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第十六話 ~彼女たちのお話 -ティーダ・ランスターの章-【暁 Ver】
前書き
『暁』移転版の第十六話。原作でも全く明かされていない謎の人物であるティーダのお話です。以前書いた『花言葉 ~Language of flowers~』の発端になった話でもあります。
────── 兄が妹に願う事なんて
ティーダ・ランスター。階級:一等空尉(六年前当時)。所属:首都航空隊。違法魔導師を追跡中に交戦となり新暦六十九年七月七日、殉職。享年二十一歳。彼が亡くなった新暦六十九年は、奇しくも高町なのはが教導隊への入隊を果たし、フェイト・T・ハラオウンが魔導師ランクSを取得し、八神はやてが上級キャリア試験に合格したのと、同じ年であった。
───── 新暦六十九年 七月二日
夕暮れ。そのまま見続けていると、泣いてしまいそうな朱が空を染めていた。人によっては血のような赤だと揶揄するかも知れないが──── その青年にとっては今日の終わりと……明日への希望の朱だった。短めに切り揃えられた髪は、今の空と同じ色で。夏の到来を感じさせる風に遊ばせている。青年は特に何をするわけでもなく理智的な顔立ちを空へと向け、瑠璃色した瞳を泳がせていた。
「ティーダ」
恐らく。青年の名であろう言葉を口にした一人の男が、ティーダと呼ばれた青年の傍に来ていた。年の頃は青年と同じようであるが、長身痩躯で枯れ木のように立っている姿を見た青年は、なぜか鉛筆を想像した。青年──── ティーダは彼へ顔を向けること無く答える。
「ヨハンか。何か用?」
長身痩躯の男──── ヨハンと呼ばれた男は落ち窪んだ瞳をぎょろりと、ティーダへと向ける。
「……何か用ではない。報告書の提出はどうした。期限は今日までだ」
ティーダはその言葉を聞いて驚いたように彼を見た。ついでに困ったように頭を掻く。
「あれ? 明日までじゃなか」
「今日までだ」
ヨハン・ゲヌイトは内心で呆れたように溜息を吐く。このティーダ・ランスターという男は普段はしっかりしているのだが、肝心なところで抜けている事がある。そのことを指摘しても、遺伝かも知れないなどと阿呆な事を言い出す始末だ。そんな遺伝などあるものか。ヨハンはそこまで考えたところで、今度は本当に溜息を吐いた。しかし──── ヨハンがそのおかしな遺伝に気付く事になるのは、もう少し先の話である。
「今日は家に帰るのではなかったかね?」
ティーダは益々、困った顔をする。無理もない。激務が続き実に三日ぶりに家へと帰る事が出来ると思っていたからだ。これ以上──── 家で一人、自分の帰りを待っている妹の事を考えると流石に忍びなかった。そんな彼の様子を見ていたヨハンは、満足げに唇の端を上げた。
「安心したまえ。私が代わりに提出しておいた」
ティーダは最初こそ呆けたような表情を浮かべていたが、次第にそれは満面の笑顔へと変わった。やがて男に言われても、ちっとも嬉しくない事を口走る。
「ナイス、愛してるよヨハン」
「気味の悪い事を言うな」
ヨハンの表情がいつもの顰めっ面へ戻ったのを見るとティーダは快活に笑った。ティーダは一頻り笑うと、至極もっともな疑問をヨハンへと問うた。
「ところで僕に何か用かい?」
「だから先ほど言っただろう。……今日は妹と約束したから早く帰ると、朝から何回聞かされたと思っているのだ」
ティーダはそれを聞くと、ばつが悪そうに笑う。
「……そんなに言ってたっけ」
「朝から数えて実に、十八回だ。妹を溺愛するのは構わんが、呉々も道を踏み外さないでくれ」
もう三年の付き合いになる同僚から失礼な事を言われたのは取り敢えず捨て置くことにして、枯れ木のような背中について行く。ティーダはその光景を目に焼き付けるように一度振り返り──── 夕日に染まる屋上を後にした。
──── 新暦六十九年 七月三日
「違法、魔導師ですか」
「そうだ。容疑は窃盗。窃盗とは言っても、盗んだものが問題でな。ウチの研究施設からナノマシン技術を応用した試薬を盗み出した。投与するだけで身体能力の向上、知覚の鋭敏化……しかも副作用は無しときた。全く頭が痛いな」
上司は忌々しげに顔を顰めると、体格の良い体を椅子へと預ける。ティーダはそんな上司の樣子を見ながら疑問を口にした。
「向上って……どの程度ですか?」
「わからん。……そんな顔をするな。本当にわからんのだ。肝心のデータを出してこんからな。臨床試験はしていた筈だろうになぁ。まぁ、それはいい。肝心の容疑者はコイツだ。いい女だろ? 犯罪者じゃ無きゃ、是非お願いしたいくらいだ」
上司の不適切な言葉にヨハンは、露骨に顔を顰める。二人の上司は魔導師としても、上司としても優秀ではあったが、女癖が悪いのが玉に瑕……と言うよりも、それが全てを帳消しにしてしまっていた。その上、無類の博奕好きでリスクのない人生などつまらないだけだと堂々と公言する豪快な人物でもあった。
「人のケツを覗くのが好きなホモ野郎も、うろちょろしているらしいからな。ここらで手柄でも挙げて、本局にでも行きてぇもんだ。ここは女っ気が無くていけねぇ。……以上だ」
休憩室にある自販機から紙コップを取り出し、珈琲という名の泥水を啜る。案の定、泥水のような味がした。実際に飲んだ事はないけど。僕は珈琲の不味さに顔を顰めながら、座りもせず腕を組みながら壁に背中を預けている彼へと声を掛けてみた。
「一体何を目的として開発したんだろうね。超人でも作ろうとしたのかな」
「さて、な。実際に管理局が怖がっているのは、魔導師を簡単に殺害出来る『兵器』と、魔法をものともしない人間だろうからな。……毒をもって毒を制すか。考えられなくはないな。何の道、管理局など一枚岩ではないのだ。裏で何をやっているのか、わかったものではない」
僕だってそれはわかっているんだけどね。だけど……
「それを当たり前だと思っちゃダメだよね」
「それこそ当たり前だ、ティーダ。人はそれを当たり前だと受け入れた時に老人となるのだ。生憎、貴様も私もそれにはまだ早い。世の中を知らない半端物が、小賢しい知恵を身につけ『人間や組織など所詮はそんなもので、綺麗なものではない』などと、ご高説をたれても滑稽なだけだ。抗う事を忘れた人間など見るに堪えんな。……犬畜生の方がまだ高尚だ」
「そんな老人みたいな人間にはなりたくない、ね」
僕は飲み終えた紙コップをダストシュートへと放り込む。……動物は人間のような知恵がないから、抗い続けて生きなきゃならない。どちらが高尚かは、僕には判断出来ないけど。僕の言葉を合図として彼も動き出す。そうだ。
「ヨハン。偶には僕の家で食事でもどうだい? 妹にも紹介したいし」
「……厚意はありがたいが、遠慮しておく。泣かれでもしたら事だ」
彼は決して子供が嫌いではないらしい。だけど少し痩せすぎで背も高いし、何より、うち捨てられた髑髏みたいな人相が子供には酷かも知れない。彼はゆるりと廊下の闇へと消えていこうとする。だけど、甘いね。
「抗わなきゃ。ヨハン?」
「……吐かせ」
幽鬼のような目で睨まれた。
─── 新暦六十九年 七月四日
一日の始まり。一日の始まりの音は何だろうか? 母親が台所で朝食を作っている音? 家族が忙しなく廊下を行き来する足音? 人によっては、腹の虫の鳴く音と答えるかも知れない。だが、大抵の人はこう答えるのではないだろうか? 至福の時を邪魔する無粋で、無骨な音。そう、目覚まし時計だ。朝の静寂な空気を震わせるその音は、この部屋の主を起こすべく、先ほどからがなり立てている。多くの人はそれで目覚めへと、導かれるものなのだが──── 何事にも例外はあるようだ。
遠くからテンポの短い規則正しい足音が近づいてくる。その足音の主は未だ騒音を撒き散らしている部屋の前まで来てぴたりと止まると、なぜかポケットからコンパクトを取り出し、髪型や身なりをチェックする。やがて満足げに頷くと躊躇いがちにドアをノックし、部屋へと足を踏み入れる。その手にはフライパン。これが、フライパンとお玉であるならば、ベタな展開ではあるのだが何事にも例外はあるものだ。
「酷いなぁ、ティアナは」
男──── ティーダはダイニングテーブルの椅子に座りながら、向かい側に座っている少女へと恨めしげな視線を注ぐ。未だにじんじんと痛みを訴えてくる後頭部へ恐る恐る手をやると、見事なこぶが出来ていた。ティアナと呼ばれた少女はそんな視線も何処吹く風で、朝食のサラダへフォークを突き刺した。
「酷いなぁ、じゃないでしょ。いつまでも起きない兄さんが悪いの。どうせ遅くまで勉強をしてたんでしょ? 執務官を目指すのも結構だけど、体を壊しては元も子もないのよ?」
妹のにべもない言葉にティーダは肩を落とす。彼女は現在九歳。もうすぐ十歳にはなるが、随分と大人びた子供になってしまった。両親はすでに他界しており、家の細かい事を彼女に任せてしまった所為かもしれない。それに勉強に関しては、ティアナの言う通りであるので言い返す事も出来なかった。
執務官──── 事件捜査に関して高い介入力と権限を持ち、捜査に当たっている人員に対しての指揮権も持つ。事件捜査の専門職であり、高い権限を有するがその反面、法の専門知識や優れた判断力と、人員を纏められる能力も求められる故に非常に狭き門でもあった。稀少技能持ちが優遇されるような制度もなく、コネや権力を持っている人間からの紹介なども門前払いである。そのような事を許してしまえば、質の悪い執務官が雨後の竹の子のように増えてしまうのは、火を見るよりも明らかだからだ。基本的に管理局は自分の首を自分で絞めるような真似はしない。
ティーダの一等空尉という階級は決して収入が低いものではない。だが、執務官ともなれば桁が違うのだ。いつの世も需要が多く、成り手が少ない専門職は高給取りと相場が決まっている。収入が上がれば、生活水準が上がる。生活水準が上がれば、生活そのものが楽になるのは当たり前だ。ティアナという少女はどうやら魔導師を目指すらしく、ティーダから射撃の手ほどきを受けているほどだった。収入が上がれば、彼女を通わせられる魔法学校の選択肢も増える。自分よりも優秀な魔導師を付けてやる事も可能かも知れない。……女性限定ではあるが。兄として彼女に出来るだけの事を。そう思う事は決して間違いではないだろう。
己の敗戦をいち早く察知したティーダは、直ぐさま作戦を切り替える。微妙に役立ちそうで役に立たない能力だ。
「その、ね。偶には、クラナガンまで遠出するというのはどうだろう?」
それを聞いたティアナは首を片方へ傾ける。左右で結わえている髪がそれにつられてひょこりと揺れた。
「……買い物に行くだけなのにクラナガンまでだなんて交通費が勿体無い。買い物なら地元で十分よ」
いつの間にか所帯じみてしまった妹に苦笑を浮かべながら、ティーダは何とか勝利を納めるべく言葉を続ける。
「うん。唯の買い物ってわけじゃなくてね。せっかく明日まで休みだし、家でごろごろするのも魅力的だけど、偶には食事して映画でも見て……何だったら一泊しても良いしね。どう、かな?」
「そ、それってデー」
ティアナは何かを言いかけると、頬を染めて俯いてしまう。ティーダはそんなティアナの様子を見て首を捻ったが、取り敢えず笑っておく事にした。暫く俯いていたティアナは頬を染めたままの顔を上げると、ぷいとばかりにそっぽを向く。
「に、兄さんが、どうしてもって言うのなら、つ、付き合ってあげてもいい……」
ティーダは最初きょとりとした表情を浮かべていたが、人の良さそうな顔を笑顔で崩した。
「うん、どうしても一緒に行きたいな。僕は」
それを聞いて蚊の鳴くような声で返事をしたティアナを見てティーダは益々、相貌を崩した。
首都クラナガンにある中央公園。休日ではないのでそれほど人は多くないが、ちらほらと親子連れや恋人同士が見受けられる。その公園にあるベンチにティアナは座っていた。目の前には大きな紙袋が三つ。少々買いすぎたかも知れないとティアナは反省していた。久しぶりに兄と出かけられて彼女は浮かれていた。兄が執務官になろうとしている理由も何となく気付いてはいた。だが、それを口に出す事はなかった。それはティーダがティアナを大事に思っている証拠だ。ティアナにしてみれば大好きな兄を独占出来ているような優越感だった。
物心ついた時には既に両親はなく。学校へ通わずに自宅学習していた彼女にとって、身近な異性と言えば兄しかいなかった。ティアナにとってティーダは親であり、兄であり、そして異性であった。年頃の少女が陥りやすい勘違いではあるが、今の彼女にはそれに気付くだけの人生経験が圧倒的に、足りていなかった。だが、今はそれで良いだろう。いずれ──── 嫌でも気付く事になるのだから。
件の兄は最近オープンしたアイスクリーム店へアイスを購入するべく、使いっ走りをさせられていた。ティアナが購入したお気に入りのブラウスを確認しようと紙袋へ手を伸ばした時、遠くから男性の声が聞こえてきた。
「──ナ? 一体どこからぱくって……いや、拾ってきたんですか。……いえ、それは落ちていたのではなく、飾っていたんです、店先に。良い子ですから、返しに行きましょう。私も一緒に行って謝りますから、ね? って言うか、よくここまで持ってきましたね、それ」
ティアナは何だか面白そうな事になっているような会話の主を確かめようとしたが、待ち人の優しい声にそれは中断された。
「ごめんね、待たせちゃって。オープンしたばかりでかなり評判になってるんだね、驚いたよ。ミント&クッキーと、ブルーベリーバナナ。どっちがいい? 季節限定らしいよ」
ティアナは少しだけ迷うと、ブルーベリーバナナを受け取った。フローズンヨーグルトの冷たさと、果実の自然な甘さが喉を潤していく。一通り喉が潤ったところで、ティアナは先ほどから気になっていた疑問を兄へとぶつけてみる事にした。質問という名の詰問を。
「……兄さん。先ほどから後ろ手に隠している物は何?」
「ライター」
少しは動揺するか誤魔化すかすると思っていたが、真面目な顔をして答える兄を見て自然と形の良い眉がつり上がっていく。そんなティアナを見てティーダはやっと、己の失態を悟ったのか酷く狼狽し始めた。
「い、いや、唯のライターじゃないんだ。今から六十年以上前に作られた逸品でね? 状態もとても良いし、それほど高くなかったし」
兄の唯一の趣味であるアンティーク収集。それほど散財するわけではないので、家計には優しい趣味ではあったが、ティアナには何一つ理解出来なかった。煙草も吸わない癖にライターを持つ意味は何なのだ。
「兄さん? 使わない道具ほど意味の無いものはないのよ? いくらしたのかは知らないけど、またそんなガラクタを買ってきて」
「あぁ、あっ、ティアナは今とっても、言ってはいけない事を言いましたっ」
ここからはいつもの言い争いだ。周りにいたカップルや親子連れが、微笑ましげに彼らを見つめている。ティアナにとってはこれもコミュニケーションの一つであり、兄の温もりを感じられるこの時が堪らなく好きだった。それは恐らくティーダも同じ思いであろう。ティアナはこの幸せな時間がずっと続くのだと思っていた──── そう思っていた。
── 新暦六十九年 七月六日
「そっか。それじゃ、今日は帰れそうもないのね?」
日が沈んで暫くたった頃、兄さんと約束している一日一度の定期通信。モニタの中にいる兄さんは、申し訳なさげに眉を寄せている。兄さんはいつもこうだ。いつもの事なんだから気にしなくて良いのに。
「うん、今追っている事件が進展を見せてね。今日はちょっと無理そうなんだ。明日は大丈夫だと思うんだけど……」
兄さんの口調から、もしかしたら明日もダメかなと考える。それでも一応聞いておかないと。
「明日は何が食べたい?」
「オムライス」
子供のあたしが言うのも何だけど、また子供みたいなものを。あたしの視線に気付いたのか、兄さんは悪戯がばれた子供のように説明し始める。
「い、いや、オムライスとかカレーライスとかハンバーグとか。無性に食べたくなる時がないかい?」
言っている事はわからないでもないけど。
「あ、それとオムライスのチキンライスは、ケチャップのやつで。必ずマッシュルームを入れること。マッシュルームが入ってないチキンライスは認めません」
「はいはい、わかりました。それではお帰りをお待ちしております」
「はい、楽しみにお待ちください」
他愛のないいつものやり取り。モニタの中で見た兄さんは、あたしがこの世界で一番安心出来る優しい笑顔だった。
「終わったか?」
ティアナと一日一度の定期連絡を終えた僕の耳に、色気のあるバリトンが届く。僕は彼のこの声が少しだけ羨ましかった。僕は振り返る事なく彼の声に応える。
「明日から休暇だろ? さっさと帰って休まなきゃ」
「しかしだな……」
「進展があったと言っても、昨日より潜伏地区の絞り込みが出来たって程度なんだから。今すぐどうこうって話じゃないよ?」
彼は少々真面目すぎるのが困る。だから、僕とも気が合ったんだろうけど。僕はそう言って紙コップに入った紅茶を一気に飲み干す。紅茶なら大丈夫かと思ったけど、これは雑巾から絞った水の味がした。いや、これも実際に飲んだ経験は無いけどね。僕が椅子から立ち上がり、オフィスへ戻ろうとすると彼に呼び止められる。何事かと思ったけど、呼び止めた本人が何も言わない。どうしたんだろう。
「……私はなぜ貴様を呼び止めた?」
うん、これは重傷だね。僕は出来るだけ彼を刺激しないように優しい笑顔を浮かべながら彼の肩へ手を置いた。
「早く帰って休んだ方が良い。君は疲れているんだ」
我ながら完璧だ。
「……可哀想な人間を見るような目で私を見るな」
しまった。怒らせてしまったようだ。何がいけなかったのか。僕は彼の表情がおかしくて、からからと笑った。
「じゃあね、ヨハン。良い休日を」
彼はなぜか──── 何も答えなかった。
─ 新暦六十九年 七月七日
<ティーダっ、今どこにいる!>
定期巡回中の僕の頭に飛び込んできたのは、慌てたような上司の念話だった。
<D-23です>
<丁度良い。例のやつが現れたと情報が入った。D-18にある使われてねぇ廃倉庫だ。場所わかるな?>
<勿論。海辺に面したところですよね? 二年前に倒産した物産会社所有の>
<上出来だ。その中の第八番倉庫だ。でかく数字が書かれてるからすぐわかる。例の試薬の受け渡しの可能性もある。うまくいきゃ依頼したヤツも挙げられるぞ>
<単独犯ではないと?>
<その可能性もあるってこった。おめぇは先行してくれ。応援は俺がすぐ手配する。試薬は、呉々も傷つけるなよ。それと──── 無理すんじゃねぇぞ>
<了解しました>
<よっしゃっ、運が向いて来やがった! 以上だ>
いかにもこの人らしい物言いに苦笑する。ギャンブルじゃないんだから。いや、この人にとってはギャンブルか。『人生は博奕』が口癖だからなぁ。嫌う人間も多いけれど、僕は割とこの人が好きだった。……女性にだらしないのはどうかと思うけれど。ヨハンと言い、この人と言い……僕は自分と正反対の性格に憧れるのかも知れない。そんな事を考えながら僕は指示のあった場所へと飛んだ。
「抵抗はしないでくれると助かるよ」
らしくない冷たい声だと思いながら彼女へと警告する。上司から説明を受けた時に理解はしていたけれど、本当に綺麗な女性だった。僕はトリガーから外していた指を掛けると愛銃を彼女へ構えながら再度警告する。
「デバイスを待機状態に戻してこちらへ放ってくれるかな。もし抵抗するなら……管理局法第二十六条第三項に於て正当防衛を適用し反撃する。勿論その場合、身の安全は保証できない」
女性を撃つのは趣味じゃないけど、僕には帰る場所がある。半ば戦闘になる事を予想していた僕の決意は良い意味で裏切られる事になった。彼女は至極あっさりと……拍子抜けするほど簡単な動作で、待機状態に戻したデバイスを僕の足下へ放った。僕は気が抜けそうになるのを何とか堪え、彼女から目を離さずに放られたデバイスを足で蹴る。からからと剥き出しのコンクリートの床を転がっていく音を聞きながら彼女へバインドを掛けた。
「ティーダ、無事かっ」
「へ?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった僕を誰も責められないだろう。
「……どうして来ちゃうんですか」
上司は恥ずかしげに頬を人差し指で掻く。
「そう言うな。いても立ってもいられなくてよ。……どんな塩梅だ」
「え、ええ。全く抵抗しませんでしたので」
僕は目線で状況を伝えるように、バインドで拘束されている彼女を見る。上司も不思議そうな顔をして僕につられるように彼女を見た。
「抵抗しなかった? 全くか? ……まぁいい。どれ近くで面でも拝ませて貰うか」
また、悪い癖が出た。
「乱暴なことしないでくださいよ?」
僕の言葉にひらひらと手を振りながら彼女へと近づいていった。僕が遠ざかっていく上司の背中を見ながら再度苦笑を浮かべ、さて応援はいつ来るのかなと考えながら後ろを見た時──── 白色の閃光が僕の脇を駆け抜けていった。
「──── え?」
僕が立っている床の目の前にびしゃりとぶちまけられる赤黒い何か。次に感じたのは焼け付くような熱さ。怖々と脇腹に這わせた指が、空気を掴む。右脇腹が──── 無かった。腹の底からこみ上げてくるものを耐えきれずに吐く。赤い──── 朱。あの日に見た夕焼けを思い出して、綺麗だと思った。この時の僕は、まだ上司を信じていた。彼が心配になって振り向こうとした時、ぐるりと世界が回る。僕は操り主を失った人形のように──── その場へと崩れ落ちた。
「で、どうするのコイツ」
女は拘束されていた腕を摩りながら男へと問うた。
「コイツにはもう一働きしてもらうさ」
男は鈍色のアタッシュケースを拾い上げ愛おしげに撫でた。
「悪いな、ティーダ。コイツの事を知った時は、本当に運が向いてきたと思ったんだぜ? コイツは金になる。ちょっと改良してドラッグとして捌けば、飛ぶように売れるぜ。それに俺の趣味にもぴったりだ」
女が男の肩へと撓垂れ掛かる。
「ねぇ、ここに来る途中でストーカーみたいに付いてきたヤツが、ウザくて殺っちゃったのよね。通りかかった一般人を必死で庇っちゃって笑ったわ」
「おい、まさか……一般人まで殺っちまったのか? 内部調査室のヤツだな。そいつはちと不味い……いや、多分大丈夫だな。あそこはそういうところだ。よしゃ良いのに、うろちょろしやがって馬鹿が。それとおまえにも一働きして貰うぜ」
男はそう言って女の腰へ手を回すと唇を奪う。ぴちゃぴちゃと妖艶な音が、無機質な倉庫へと響いていく。唾液のアーチを掛けながら男の唇が離れた。情欲に染まった瞳を男へ向けながら女が問いかける。
「それで? 私はな、に……んっ……をすればいいの?」
男は無骨な手で女の乳房を揉みしだきながら答える。
「何、悪いようにはしねぇ。少しばかりリスキーだが、人生は博奕だ。だからこそ楽しいのさ。うまくいかなきゃそれまでの事だ。……おまえはこのまま捕まれ。何、心配するな。俺が手を回してすぐに出してやる」
男は──── ベルンハルト・メッツェルダーはそう言いながら、顔をぐにゃりと歪めた。女は知らない。もう自分は一生、日の当たる場所へは戻ってこられないことを。女は知らない。もう自分は、男に必要とされていないことを。そうして、男と女は──── ティーダに路傍の石を見るかのような視線を向けた後、立ち去っていった。
多分僕は死ぬんだろうな。我ながら人が良すぎると思うけれど。不思議と腹は立たなかった。人はこういう時にどうするんだろう。何かを願うんだろうか? 何を? 奇跡? ……違う。この世界に奇跡などありはしない。パンドラの箱に残っていたのは『希望』などではないんだから。では何を? ああ──── 僕はなんて馬鹿なんだろう。僕が願う事なんて決まってるじゃないか。
──── ティアナが幸せになりますように
これで大丈夫だ。……ん? これで? 僕は──── 何をしていたんだっけ。そうだ、帰らないと。ティアナが待ってる。ティアナのオムライスは絶品だ。ちゃんとマッシュルームも入れてくれるだろうか。偶にはケーキの一つでも買って帰るのも良いかも知れない。うん、良いアイディアだ。そうしよう。そうして僕は。いつものように家路を急ぎ、いつものように扉を開けると、彼女が笑顔で迎えてくれる。だから僕は──── こう言うのだ。いつものように。
「……た、だい……ま」
何かを掴むように──── 挙げられた手は。何も掴む事無く。びちゃりと血溜まりの中へ落ちた。
「……どういうことでしょうか」
ヨハン・ゲヌイトは怒気が溢れそうになるのを抑えながら己の上司──── ベルンハルト・メッツェルダーへと問いただす。
「どういうことも何も、説明した通りだ。情報を掴んだティーダのヤツが、俺の命令を無視して一人で突っ込みやがった。……ティーダは死亡。試薬も行方不明。挙げ句の果てに『海』の連中に手柄を持ってかれちまった。俺の責任問題も免れん。悪くて更迭。良くて左遷ってとこか」
「馬鹿な……あり得ません」
「……起こっちまったんだから仕方ねぇだろ。納得しろ。おい、何処へ行く?」
「私の方で調べます」
「なぁ、ヨハンよ。認めろ。現実から目を背けるな。……大人になれ」
メッツェルダーの物言いに、ヨハンは奥歯を噛みしめた。大人になれだと? 冗談ではない。ティーダ・ランスターとコンビを組むようになって三年あまり。ティーダが妹の為に執務官を目指し、それなりのキャリアを求めていたことも知っている。だが彼にはどうしても、ティーダがそのような無茶をしたとは思えなかった。
ヨハンは背中に突き刺さる上司の視線を振り切るようにして、部屋を後にした。必ず真相を突き止める決意を胸にしながら。
「……どういうことだ」
若い男──── いや、少年と言っても良いだろう。自分の上司である男へ怒気を隠す事無く問いただす。
「……上からの命令だ。ベルンハルト・メッツェルダーは挙げるな。そしていつものように処理しろ、との事だ」
上司は本当にそれがいつもの事であるかのように淡々と少年へと返した。
「同僚が死んでるんだぞ。一般人までっ……待て。いつものようにとは何だ」
「ティーダ・ランスターは上司の命令を無視し、犯人と交戦、死亡。ウチの人間と一般人が死んだ件は、全くの別件として処理する。事故死が妥当か」
「真実を捩じ曲げるのかっ。何故ベルンハルトを挙げない!」
「それが仕事だからな。挙げてどうする。現役の管理局員が違法魔導師と繋がっていて、しかも男女の関係。同じ管理局員を二人殺った挙げ句に一般人まで。……大スキャンダルだ。管理局にとってイメージダウンは免れん。内々で処理しようにも、自分の身に何かあったら事を公に出来る準備をしている可能性も否定出来ん。どっちに転んでも管理局にメリットはない。ならいっそのこと……生かさず殺さずって事だろう。捕まった女も……長くはないな」
少年は俯き拳を握りしめる。
「管理局の不正を暴く俺たちが、不正や不祥事を隠すのか」
上司はなおも淡々と答える──── 機械のように。
「……今から三年、いや二年前か。己の力量を顧みず体に無理をかけた挙げ句に、撃墜された馬鹿な魔導師がいてな。普通は放っておくんだが、その件も上からの命令で俺たちが内々で処理した。有耶無耶にしてな。その魔導師は当時おまえと同じ未成年。下手をすれば管理局の責任問題に発展する恐れがある。何より──── その魔導師は管理局にとって、利になる存在だった」
「……じゃあ、俺たちのやっている事って何なんだ」
そこで初めて──── 上司は笑った。
「アピールさ。ちょろちょろと管理局にとってたいした痛手にもならないものを摘発して発表する。するとどうだ。『管理局は不正を正す為に、こんなに頑張ってますよ』っていう世間へのアピール。管理局と言えども世論は無視出来んからな。そうじゃなかったら俺たちみたいなのを管理局が、いや『最高評議会』が放っておくわけがないだろう? 自分の首を自分で絞める馬鹿はいない」
少年は──── もう何も言わなかった。
「大人になれよ──── タカムラ。他人の手のひらで踊らされているのを理解した上で、笑いながら踊ってやるのが、大人ってもんだぞ」
上司は人形のような笑顔を少年へと向けた。この日……エイジ・タカムラは人と組織に──── 絶望した。
ポートフォール・メモリアルガーデンはミッドチルダ西部に位置していた。陽光が降り注ぎ、爽やかな風が吹くその場所は、死者の安息の地としては相応しい場所であった。その一角にある真新しい墓標の前に一人の男が枯れ木のように立っている。
「ティーダ。私が無様にも惰眠を貪っていた間に何があったのだ」
墓標は答えない──── 答えるわけがない。
「突然辞令が下りた。訓練校の教官だそうだ。しかも『陸士』だ。……どんな嫌がらせだ。貴様の妹にも会おうとしたのだが……やめておいた方がいいだろうな」
──── 恐らくは警告なのだろう。
「人や組織など所詮は」
──── 抗わなきゃ、ヨハン?
ヨハンは自分を嗤い、ティーダを笑った。
「その通りだな。私とした事が危うく老人になってしまう所だった。感謝するぞ、ティーダ。私は私のやり方で抗い続けよう。……では、な」
男は絶望すること無く。希望を乗せた後進を育てることで、抗い続けることを親友の墓前に誓った。男の決意を祝福するかのように──── 優しい風が吹いた。
───── 新暦七十五年 七月七日
「あれ? ティア、お出かけ?」
あたしが兄さんの墓参りに行こうと寮の玄関を潜ると、スバルとアスナに出くわした。因みに兄さんが眠っているポートフォール・メモリアルガーデンにはあたしの両親と、スバルとギンガさんの母親であるクイントさんも眠っている。意外と近い場所にあることを知った時は、御互いに驚いたものだ。
「あ、そっか。今日って」
スバルはこんなとき妙に勘が鋭い。そこであたしはふと思い立った。特に理由は無い。単なる思いつきだ。
「二人も一緒に行かない? アスナを兄さんに紹介したいし。……良かったらだけど」
二人は最初こそ目を丸くしていたが、途端にあたふたし始める。
「ちょ、ちょっと待っててっ、すぐ着替えてくる!」
「……おめかししてきます」
全力で走り去るスバルと、小走りで寮内へ消えていくアスナ。あたしは無駄だと思いつつも、二人の背中へ普通の格好で良いと声を掛ける。兄さんは辛気くさいのは嫌いだったから。今日は陽射しが強い。あたしは手のひらを日傘代わりにして抜けるような青空を見上げる。兄さんは今でもどこかで見てくれているのだろうか。安らかに眠っていて欲しいとは思うけれど、もしそうならいい加減に妹離れした方が良いと思う。そんなに心配しなくても────
──── あたしは今、幸せだと胸を張って言えるのだから。
~彼女たちのお話 -ティーダ・ランスターの章- 了
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