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空を駆ける姫御子

作者:島津弥七
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第十五話 ~暗雲来たりて【暁 Ver】

 
前書き
『暁』移転版の十五話。ブログ版の『訃を告げる足音』と統合、再構成したもの。相変わらず読み難いなと思いつつ、ぶん投げてみる。 

 


────── ごぽり




 暗い、昏い、水の中。それは確実に人間の息吹をしていた。いや、真似ていたのほうが正しいだろうか。それはもう──── 人では無いのだから。男と女。白衣を着込んだ知性的な男は子供のような好奇心と、子供のような残虐性を秘めた視線をそれへと注ぎ。女はそんな男の横顔を切れ長の美しい瞳に、畏敬の念を乗せながら見つめていた。

「ふむ。少々苦労はしたが、第一段階は成功だ。管理局も無能揃いだね。これだけ稀有(けう)な存在を放置するとは。度し難いな。魔導師として利用出来なくなったのなら、幾らでも遣り様はあるだろうに。……このようにね」

 男の言葉に促されるようにして女は視線をそれへと這わせるが、すぐに逸らした。藤色した髪が僅かに揺れる。白衣の男は、そんな女の樣子を見て取ると、大袈裟に落胆して見せた。

「どうやら、我が娘にはお気に召さなかったようだ」

「そ、そんな事はありません」

 女の狼狽ぶりが楽しかったのか、白衣の男は少し笑う。

「いや、いいのだよ。これは明らかに私の美的センスからは大きく外れているからね。力を引き出す為に、余計なものは必要なかっただけの話だ。それに……私の芸術的なセンスが大いに発揮されたのは君たちだけだ。何故かわかるかね?」

 女は白衣の男の退廃的な瞳に引き込まれそうになりながらも、首を振る。

「もし私がそんなものを作り上げて……それに君たちが心奪われてしまったら、私は嫉妬してしまいそうだからね」

「あり得ません」

 女は先ほどとは違い、微塵の動揺も無く言い切って見せた。白衣の男はそれを聞くと満足げに笑いながら、それを見る──── この世界に於て生体ポッドと呼ばれる培養液に満たされた中を、海月のようにゆらゆらと漂うモノ。脳髄、脊髄、臓器。ホルマリン漬けにされた蛙のよう。ゆらゆらと。二人の視線の先でそれは──── ごぽりと息をした。





────── くるりくるり

 目紛るしく。くるくると回転木馬のように回る視界の隅。それを成し遂げた蒼髪の少女が、好機とばかりに走り込んでくるのが見えた。口元が自然と三日月を生す──── おもしろい。未だ風に弄ばれる木の葉のように空を舞う少女は、蒼髪の少女……スバルと対峙するべく──── (そら)を掴んだ。





 高町なのはが、エリオとキャロを熱心に教導しているのを視界の片隅に捕らえながら、スバル・ナカジマは桐生アスナへと声を掛けた。午後の訓練終了間際のことだ。

「アスナ? 壁に向かって体育座りは止めなさいって、ティアにも言われてるでしょ。見てると悲しくなるから止めて」

「……何かご用?」

「うん。なのはさん達はもう少し掛かりそうだし、久しぶりにスパーでもどうかなって。軽く」

「……スパークリング?」

「惜しい。それだと、弾けちゃうよ。そういうボケはティアにやってあげて。……どう?」

「……やる」

 以上のような経緯で始まったのであるが、いざ始めてみると軽くどころの話では無かった。スバルの疾風迅雷と言っても過言では無い初動で、アスナは瞬く間に懐に潜り込まれ、対処しようと思った時には、投げ飛ばされていた。スバル・ナカジマという少女を決して侮っていたわけでは無い。だが、アスナは脅威とも感じていなかったらしい。アスナはそんな自分を嗤い、叱咤しつつ空を両手で掴む。重力に逆らい横っ飛びしている体に急制動を掛ける。鉄棒宜しく、くるりと回ると地上へ────

──── 着地。瞬。動。肉薄。笑う。拳打。連撃──── 鳴動。

 水月を中心に拳の弾幕を浴びせられ、スバルは防御もままならず吹き飛ぶ。満足な受け身も出来ずに、蹴られたサッカーボールの如く二度、三度と地上をバウンドしながら──── スバルは動かなくなった。こうして。スバルとアスナの戦いは終わりを告げたのであった。

「終わりを告げたのであった、じゃないよ」

 高町なのはが、両手を腰に当て仁王立ちしながらアスナを睨んでいる。どうやら、怒っているらしい。

「……次回へ続くのほうがよかったですか」

「そう言うことを、言ってるんじゃないの。……何でジャンプしてるの?」

「……お金なら持ってません」

「カツアゲじゃないよっ。それと怒っているのは、カルシウムが足りない所為じゃないよ。だから煮干しは、しまってなの」

 エリオはそんな光景を諦めたかのような目で見ていた。怒りのあまり語尾が少々怪しくなり始めた高町なのはが、桐生アスナの差し出した煮干しをぺしりとばかりに叩く。くるくると宙を舞う煮干し。ついと下を見ると、くるくると目を回しているスバル・ナカジマの頬を、キャロが木の枝で突いている。

 エリオはそんな光景を見ながら肩を落とした。ティアナがいれば、この事態を息をするように収拾してくれるだろう。彼女の姿を探すように視線を彷徨わせるが、目に入ってくるのは気絶した少女と、木の枝は飽きたのか直接鼻を摘みだした幼女と、語尾が退行しているような気がする女性と、騒動の元凶のような気がするが、他人事のような顔をしている乙女だけであった。事態を収める事を無理だと判断した少年は、青空を見上げ──── 流れる雲を見つめる事に決めた。





────── くるりくるり

 相手先へ繋がるまでの待ち時間を示す六課の部隊章(ロゴ)が、スクリーンの中で回る。こつりこつり。自分でも綺麗に手入れされていると思う爪先がデスクを叩く。手持ち無沙汰を誤魔化すように部屋へ戻る途中に自販機で購入した紅茶を啜る。不味い。雑巾を絞った水のような味がする。実際に飲んだ事は無いけど。紅茶の不味さに顔を顰めているとやがて。待ち人の姿が、スクリーンに映し出された。

「人を騙す方法、ですか?」

 お兄さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。そりゃぁそうよね。普通こんな事を妹の親友に聞かれるとは思わないだろう。

「はい。あたし達は魔法を使って、どんぱちするだけじゃありませんから。そういった技術も憶えていなければいけません。ご迷惑でしたか?」

「いえ、決して迷惑では無いのですが……確かに駆け引きも必要ではありますが。どうして、それを私に聞いてくるのか……何か釈然としないのは気のせいでしょうか」

 お兄さんはそう言いながら、作業用のデスクに載っていた金属製の箱の蓋をぱかりと開ける。蓋にはこちらまで香りが漂ってきそうなクッキーの絵が描かれていた。蓋に書かれている店名も、あたしが買うのに躊躇するくらいの有名な洋菓子店のものだ。蓋をこちらへ見せるように置くと、お兄さんはクッキーを一つ摘まみ上げ、口へ放り込んだ。

「ふむ。ティアナさんのお願い事ですから、断る理由もありません。そうですね……ティアナさんは本をお読みになりますか?」

「雑誌、ではないんですよね? はい、それなりには」

「小説というのは人類が生み出した最高の娯楽です。ものによっては教養や知識を身につける事が出来ますし、感受性も良くなり語彙も増えます。そうなれば豊かな文章を書く事も可能でしょう。そうですね……」

 お兄さんはそう言うと紙を取り出し何事かを書き始めた。そして書いた文章をあたしへと見せる。話している内に主題からどんどん話題が外れ、最終的に煙に巻いてしまうのが、この人の常套手段だ。

『僕は目覚ましの音で目を覚ますと、大きなあくびをしながら目覚ましを止めた。ベッドから降りて部屋のドアを開けリビングへ行くと、朝食がすでに用意されていた。僕はお母さんに挨拶すると朝食を食べ始めた』

「小説の文章として、どこかおかしなところはありますか?」

「……いえ、特におかしなところは無いと思います」

「では、こうしてみましょうか」

 お兄さんは先ほどの紙へ一文を書き入れると、再度あたしへと見せた。

『3月16日 天気 晴れ
僕は目覚ましの音で目を覚ますと、大きなあくびをしながら目覚ましを止めた。ベッドから降りて部屋のドアを開けリビングへ行くと、朝食がすでに用意されていた。僕はお母さんに挨拶すると朝食を食べ始めた』

──── 日記だ。

「そうですね。日記若しくは作文。実のところ、日記や作文と小説の違いは非道く曖昧ではあるのですが。昔の純文学には正に日記のようなものもあります。尤もそれらのものは言葉の言い回しが、とても美しいのですがね。私は小説とは『言葉で遊ぶ文学』だと思っています」

 お兄さんはクッキーを口へと放り込む。

「誤字脱字は少なく。……そんな文章は誰でも書けるんですよ。知識であり技術ですから。出来て当たり前。言葉で遊ぶ。韻を踏んで言葉を並べてみたり、同じように語呂や語感で言葉を並べてみたり。印象的な言葉の繰り返し。違う場面で違う登場人物に同じ台詞を言わせてみたり。そうやって()()()()の文章を作り上げていく」

 どうやら興が乗ってきたようだ。先ほど思った通り、本題とはまるで違う話題だが、お兄さんは良くこういう話し方をする。本題とは違う話を冒頭または途中で話し始めるのだ──── 聞いている人間の思考を本題から逸らす為。恐らく本題に関係あるのだろう。必ずどこかで繋がってくる筈だ。嘘と騙し。あたしは気合いを入れる。それにしても……

「どうかしましたか?」

「随分、高級なクッキーを食べてるなと思いまして。美味しそうですね。デバイスマイスターって儲かるんですか?」

 あたしは嫌みを込めて、お兄さんへと毒を吐いた。

「高級ではありませんよ? 食べ慣れた味ではありますが」

 高級じゃないとか、食べ慣れてるとか、セレブ発言を返された。それこそ嫌みだ。この人は全く動じないから腹が立つ。

「話を元に戻しますね。登場人物の台詞も重要です。私達が普段使ってる……つまり口語。この口語をそのまま文章に起こしたところで、違和感が出てしまう。小説だけじゃなく、ドラマなどで言う台詞も私達が普段使っている口語とは、違うでしょう? 小説には小説の、言葉や言い回しがあると言うことです」

 あたしにはよくわからなかったが、そんなものかと思いながら不味い紅茶を口に含む。そんな時。お兄さんが爆弾を落とした────

「さて、ティアナさんは()()に騙されているわけですが。どこかわかりますか?」

 お兄さんの言葉に思考が停止する。すかさず再起動。騙されている? あたしが? どこで? 今までの話が全て嘘っぱち? 違う。人によっては嘘かも知れないが、それは唯単に見解の相違と言うだけだ。そう考えれば、話自体に嘘など無かったはずだ。じゃあ──── あたしはどこに騙されている?

「実は、これです」

 そう言いながら、お兄さんがクッキーの箱から摘まんであたしに見せたのは……クッキーではなかった。

「そう。あられとか、おかきとか呼ばれる菓子です。なるべくクッキーと見分けがつき難い物を選んでいました。クッキーの缶に入っているからといって中身がクッキーとは限りません。そちらから見えるように蓋を缶に立てかけて置きましたしね、絵柄と店名が見やすいように。この時点でティアナさんは、缶の中身に疑問など抱かなかったでしょう?」

 蓋の店名や絵柄をあたしから見えるように置いたのは、より強く中身がクッキーであることを印象づける為か。それに、小説の話を持ち出したのも、『言葉』に意識を向けさせる為。思惑通り、あたしはお兄さんの言葉だけに集中していた。

「言葉で嘘をついて騙す方法を教えるとも言ってませんしね。ヒントはありましたよ? クッキーが高級か問われたので、高級じゃないと答えました。クッキーではありませんし、庶民価格ですからね。食べ慣れているとも。私は何一つ嘘をついていません。……場の状況だけで全く嘘をつかず、相手が勝手に勘違いして騙されてくれる状況を作り上げる。そんな方法もあるよ、という話です」

「ヒントって……あたしが、クッキーに関して聞かなかったら」

「その時は、私から話題を振っていました。ヒントとしてね。その為の用意もしてありましたし」

 その時、クッキーに意識を向けなかったあたしのミスか。

「……詐欺師。捕まえますよ?」

 スクリーンの中でお兄さんが両手を挙げる。

「捕まるのなら、アスナが良いですね」

 どちらからとも無く笑い出す。スクリーンの中で笑うお兄さんは、詐欺師とはほど遠く。まんまと悪戯を成功させた子供のようにだった。ひとしきり笑いあった後に、あたしはもう一つのお願いをお兄さんへと話してみた。

 あたし達の恩師である、ヨハン・ゲヌイト教官が行方不明となったのだ。あたしには彼が、意味も無く失踪するなどとは思えなかった。そんな人間は既に六課に一人いるので、もうお腹一杯だ。あたしは藁にも縋る思いで、お兄さんへと、あの日のことを。教官があたし達に会いに来てくれた時のことを事細かく話した。

 お兄さんはあたしが話し終えるまで何も言わずに聞いていたが、やがてこう言ったのだった。

「ライオンに寄生して食い殺す寄生虫が本当にいるか、否か。アスナに聞いてみて下さい」





「何が起こっとるんやろな」

 先週からすでに四件。管理局関連の研究施設が、何者かの襲撃を受けていた。目的は不明。盗まれたものも無く。唯、襲い、暴れ、逃走を繰り返していた。まるで、何かを確かめるように。試すように。

 幸いにも死者はまだ出ていないが、重軽傷者を含めて二桁をすでに超えている。監視カメラに残されている映像はジャミングが掛けられている為か、酷くわかり難い。かろうじて女性数人だという事が判別出来る程度だった。だが、八神はやてが気になったのは一つの静止画だった。一人の女性と思われる人間の手のひらから、まるで生きているかのように顕現(けんげん)した──── 氷の竜。こんなものを使う人間の心当たりは()()しかいない。

 あり得るのだろうか。映像に残されているのは判別し難いものの、確かに女性。同じ稀少技能(レアスキル)? はやては、馬鹿なと思いながら頭を振る。二つと無いからレアなのだ。彼が六課から消え、未だに消息が掴めない事実。そして六課に届けられた荷物に入っていた彼のIDカード。それらの記憶がフラッシュバックする。あの時感じた嫌な予感が、はやての背中を、ぞろりと舐めた──── 悪寒から目を背けるように、窓の外をはやては見る。ミッドチルダに冷たい雨が降り始めていた。





──── ……雨


 雨は嫌いだ。数分前から鈍色した雲が大好きな蒼を隠し──── ぽつりぽつりと涙を落とし始めていた。ふと気がつくと、部屋の隅で見知らぬ人間がじっと自分を見つめているような気がしてくる。それをティアナやスバルに話すと、何とも言えない顔をしていたのが思い出される。自分は他の大勢の。自分にとっては然程意味を持たない人間とは、少々違うらしい。あの二人は私が変わったと思っているようだが、私の根本は何も変わっていない。だが、変えようとは思わない。変えてはならない。それは()である証なのだから。

 新たな目標も出来た。()を救う事──── 全ては私の為に。それはとても嬉しい。嬉しいどころか、天にも昇りそうな心地だ。人によっては崇高だと評するかもしれない。だが、それは人が持ってはいけない望みだ。それがどれほど歪んでいるか、彼は。兄は。気付いていない。

 それに気付いたのは、ごく最近。何気なく。そう何気なくだ。唯の戯言。意味など無かった。……無かったのに。


──── ……私が任務で死んだらどうする?

──── 全ての者に苦痛を。死よりも辛い快楽を。黄泉路の果てから亡者の嘆きを。私はその後。怨嗟の声を浴びながら命を絶ちましょう。


 虚偽でも虚言でも無く。硝子のような笑顔だった。私は、泣きそうになるのを堪えるので精一杯で。何も、言えなかった。私に兄を救えるだろうか。暗闇の中を母親の姿を探す幼子の如く。今はまだ何も──── 掴めていない。

 湿気に軋む髪が気になる。少し自慢でもある長い髪を手櫛で梳きながら、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出すと、足でぱたりと閉める。下着しか身につけていない事に今更ながら気付くが、どうしようか考えるも、それも一瞬で。ペットボトルのキャップを捻った時には忘れていた。

 ここに来た当初よりも随分と賑やかになった部屋を見渡しながら喉を潤す。デスクに乗っている小さな鉢植えに目が留まった。小さな体に小さな蕾を付けた仙人掌(サボテン)は、どうやら近いうちに花を咲かせるらしい。その時はこれをくれた彼女に真っ先に見せよう。

 ペットボトルを簡素なガラステーブルへ置くと、ベッドへと身を投げ出す。色々と考えなければいけないような気がするが今は──── 眠い。私は猫のように丸くなると、雨が降り始めてから自分の出番だとばかりに鳴き始めた彼の声を子守歌にして。そっと瞼を閉じた。





──── 雨かぁ


 雨粒がぱらりぱらりと硝子を叩く。彼女の蒼髪を映し込んだかのような綺麗な蒼は。今は灰色の絨毯に覆われてしまっていた。家族に宛てた手紙(メール)をぱたぱたと打っていた手を休める。手を休めると、自分の手が視界に入るのは必然で。彼女は同年代の少女よりも、少しだけ無骨な手を煌々と灯る人工的な明かりへと翳した。彼女の戦闘スタイルを考えれば、致し方ない事ではあるのだが。光に翳してみても無骨な手が綺麗になるわけでも無く。彼女は溜息を零しながら、雨脚が強くなってきた窓の外を見つめた。

 雨跡残る硝子を見ながら、アスナは雨が嫌いだった事を思い出す。その理由を聞いた時はティアナと一緒に部屋の隅を見つめたものだった。今もきっと。部屋の隅で膝を抱えているか、丸まって寝ているかに違いない。そして彼女は、桐生アスナが何かを抱えているのに気付いていた。親友なのだから何でも話して欲しい。そんな事を考えるが、ティアナ同様に彼女は聞けなかった。恐らく、ティアナ・ランスターと言う名の少女が抱えていた物よりもっと深い。黒き深淵からずるりと這い出した、白き手に引きずり込まれるような。そんな──── 暗闇。

 乾いた音が鳴る。二度、三度。彼女は自分の頬を両手で叩く。大丈夫だろう。抱えている物の深さなら──── 負けはしないのだから。全く自慢にならない事に今更ながら気付き彼女は苦笑する。彼女は思い出したようにメールを送信し終えると、冷蔵庫を開けた。とっておきのデザートを両手一杯に抱えると、部屋を飛び出すように件の少女の部屋を目指した。





──── 雨ね


 涙雨。ティアナはあの日のことを思い出していた。兄が物言わぬ亡骸となり、もう二度と笑う事も無いのだと理解してしまったあの日も、大粒の雨が降っていた。自室のソファに寝転びながら特に面白くも無い天井を見上げる。何の気なしに首を傾けると、窓際には紫陽花の植木鉢。花を愛でる趣味は無かったが、彼女がくれたものだ。……カタツムリのおまけ付きで。ティアナにとっては、カタツムリとナメクジの違いは家を背負っているか否か程度の違いしかなかったので、丁重にお断りしたのであるが。

 今更だが、ティアナは桐生アスナと言う少女の事を考えていた。兄共々、次元漂流者であった事までは聞いている。ミッドチルダでも有数の大企業であるバークリーの人間である事も。だが。それ以前の事は何も知らない。スバルのように何でも話して欲しいなどと言うつもりは無かったが、何も言わない彼女をほんの少しだけ。そう、本当に少しだけ、ティアナは寂しいと感じていた。このまま寝てしまおうかと目を閉じようとする前に、先ほど言われた彼女の言葉が、脳裏を掠めた。


──── ……ライオンに寄生して殺すようなむしは、いない。


 教官の話は全くの嘘だったのかと考えたが、すぐに思考から追い出した。今から思えば、唐突にあんな話をした理由も、ティアナにはわからなかった。教官にとっては其の場凌ぎの、戯れ言だったのかも知れない。だが、ティアナにはどうしてもそれが、頭の隅に引っかかっているのだった。

 いつものように思考の海へ深く潜り込もうとしたティアナの意識を浮上させたのは、端末から聞こえるコール音。額に少しだけ貼り付いた髪を払いながらコールに応えると、スクリーンの中にいたのは。満面の笑みを浮かべながら頬に餡子を付けたスバルと、その後ろで今正にショートケーキのイチゴを攻略せんとしている、アスナの姿だった。





──── 雨、か


 雨景色。彼女は自室の窓から()()()に濡れる風景を、窓際に頬杖をつきながら見ていた。今日もいつものように事件捜査へ向かう予定ではあったが、八神はやてに止められたのだった。彼女曰く、働き過ぎだと。頻繁に部屋を訪れる高町なのはも、今日は一度も姿を見せていなかった。最初はなのはと同室の予定だったが、()()()理由で別室とした。謂れなき中傷など無視しても良かったが、エリオとキャロの事を考えれば、これで良かったと彼女は思っている。雨音しか聞こえない静かな空間にいると改めて考えることが多いことを思い知らされるようだった。

 自分の事。はやてから聞かされた近い将来現実に起こるかも知れない事と、六課の存在理由。そして……頻発している研究施設を狙った襲撃事件。彼女が休みを削ってまで捜査に没頭していたのは、襲撃事件の為であり、感が彼女へと囁くのだ。()()()の影を。

 彼女は既に割り切ってもいたし、自分という存在を認めてもいた。だが、エリオは。自分という存在を知った時、彼がどれほど苦しんだか──── 彼女は音を鳴らして奥歯を噛みしめた。彼女とて理解している。技術と研究成果は既に出てしまっているのだ。男を捕まえたところで、エリオのような存在が、もう生まれてこないとは言い切れない。だが、彼女はもう決して止まることは出来ないのだから。もう一度窓の外を見る。

 考える事は多い──── 雨に沐い風に櫛る。そのような苦労をしろと言う事か。ならば、やってみせようではないか。彼女が思いを新たにした時。何度聞いても慣れない、恐らくこれからも慣れる事は無いであろう音が、彼女の形の良い小さな耳へと届けられる。緊急招集──── 雨は。まだ止まない。





 ミーティングルーム。六課のメンバー。八神はやての険しい表情。事件の概要。数人の女。能力──── 騒めき。

「今回の事件で五件目。加え……以前起こった事件で負傷し、病院で治療を受けていた研究員の一人が、本日亡くなりました。因って、本日七月十六日、十七時三十分をもって機動六課がこの事件の担当となる。本局からの通達(命令)や。今回に限って、ジャミング無しで映像が残っとった。故意なのかそうでないのか。いずれにせよ、あからさまな挑発やな」

 そう言いながら八神はやては一枚の映像をスクリーンへと映し出す。そこには。スプレー缶で書き殴ったような赤い──── 文字。


──── 六課の淑女諸君。月夜に踊る準備は出来ているか?


 ヴィータが怒鳴り声と共に、拳をデスクへと叩きつける。

「困ったわ。生憎とドレスって、持ってないのよね」

「ティア、不謹慎だよ」

 スバルから咎められたティアナは、沈黙をもって返答とした。アスナは窓の外を見ており、最初からスクリーンなど見てはいない。八神はやては皆の様子を見ていたが、次に同じ現場に残されていた()()()をスクリーンへと映し出した。……一人の女性を気遣わしげに見つめながら。


──── Jail Scaglietti.


 がたりと。椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がる。優しげな赤い瞳は鋭く細められ、豊かな金糸がざわりと揺れる。そんな彼女の様子を幾人かは心配げに。幾人かは興味深げに。一人の少女は不思議そうに。彼女を見ていた──── 遠雷轟き、雨未だ降り止まず。






 ~暗雲来たりて 了
 
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