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空を駆ける姫御子

作者:島津弥七
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第一話 ~始まる前のお話 前編【暁 Ver】

 
前書き
第一話 『暁』移転版 

 


──────── 私は人間が嫌いだ。






 私がこのような存在になってからどれぐらいの年月がすぎたのか。それすらも覚えていない。人間とは異なる進化を遂げ、人知を越えた超常の力を持ち、人間とは異なる世界・理に沿って生きるモノ。

───── 人間はソレを『神』と呼ぶ。

 尤も、太古の昔から宗教者が人心を掌握する為に捏ち上げた都合の良い『神』などではないが。人間から見れば理解し難く超常的な現象を引き起こせる為に便宜上、『神』と名乗っているに過ぎない。どのみち自分から名乗らなくとも人間という生き物は自分達に理解出来ない存在に出会うと『神』か『悪魔』と呼ぶのが相場だ。

 今まで多くの人間を違う世界へ転生させてきた。「こちら側の不手際」「こちらのミス」「あなたはまだ死ぬべきではなかった」そんなとってつけた理由を述べて、時には人間に頭を下げてまで。……そんなワケないのに。『神』と呼ばれる私が、土下座をし頭を下げている顔が嗤っているのを誰も気がつかないのだ。愚かなことだ。

 今、私の目の前にいる人間もそうだ。私の不手際で死なせた事を告げると憤慨し、私に罵声を浴びせてきた。頭を下げる。いつもの事だ。私はその詫びと称して、あなたが望む世界……それこそ人間が娯楽として創造した世界へ転生させると告げ、ついでとばかりに望んだ『力』も与える事を告げると一転、大喜びし始めた。現金な事だ。

 次々と出される理不尽な要求。これもいつもの事だ。その人間は自分の名前も容姿も捨て去った。私が上手く誘導しているとは言え、今までの人生に誇りはないのだろうか。……吐き気がする。それをおくびにも出さず、穏やかな仮面を被り要求を叶えていく。その人間の思考を読む。「これで最強」「どんな女も思いのまま」などといった単語が読み取れた時点で中断する。これ以上、不快になるのはゴメンだ。

 その人間は礼も言わず、喜々として転生していった。礼など欲しくはないが。嗤いがこみ上げてくる。今の私の表情はひどく歪んでいるだろう。何もない空間で私はひたすらに先ほどの人間を嘲笑していた。最強? 思いのまま? やれるものならやってみるがいい。そんなもの

──── 私が介入しなければ不可能だ。

 そう、いくら『力』を与えたといっても人間が星を消し飛ばしたり、大陸を消しさったり、拳一発で戦艦を沈めたり、周りにいる女性が押し並べて簡単に好意を寄せるようになったり……そんな事が出来る筈もない。それは私のような存在がそういう状況を『故意』に作り出しているからに過ぎない。まぁ、そんなことは本人には教えないし教えようとも思わないけれど。転生する際の『矛盾』にも誰一人として気がつかない。

──── 本当に愚かな事だ。





 胃癌と告げられた時に憶えているのは医師の瞳に乗った僅かばかりの哀れみの色と、こちら側から見えない場所で雑談に興じる看護師達の甲高い声だった。自分でも不思議なほど落ち着いていたと思う。淡々と。事務的に手術の日程や経過治療などを医師と相談し、胃の三分の二を亡くす事になった。

 食事のスピードは酷く遅くなったし、一度机の下に落ちたボールペンを拾おうと屈んだだけで吐いてしまったのには辟易もしたが、それ以外は特に問題はなかった。そんな人とは少しだけ不便な日常を過ごしながら二年ほど過ぎたあの日。──── 医師からリンパ節や肝臓に転移していることが告げられた。

 人によっては、つまらない人生だと思うかも知れない。だが。仕事にやり甲斐を感じてもいたし、友人知人もそれなりにいた。人生最大のイベントでもある結婚もした。……離婚も経験する事にはなったが。多くの人と接していく中で一人称が変わり、話し方も変わった。決して。そう、決してだ。平々凡々ではあったが、つまらない人生などではなかった。

 そんな事を病院のベッドで考えていた。やっと睡魔が襲ってきた頃合いで目を閉じる。何となく。母が作ったカレーを食べたいと思いながら意識を手放した。それが──── 最後だった。






 その人間を見つけたのはただの偶然。選んだのは気紛れ。私が『終わらせた』人間では無いが喜んで転生するだろう。何しろ闘病生活の末の病死だ。健康体でいや、病気とは無縁な強靱な肉体で転生させる事など容易い。おまけに人間には無い能力を与えると言えば……この人間も他の人間と同じ。そう思っていた──── その言葉を聞くまでは。

「カレーが食べたいんですよ」

「え、は?」

 この人間はいったい何を言ってるんだ? 今の状況を理解する為に他に聞くことがあるだろう。『ここはどこ?』そして『あなたは誰?』だ。いや、そもそも今の状態は霊体……魂だ。空腹など感じるわけがない。

「すみません。聞き取りにくかったでしょうか?」

「い、いえっ、聞こえました。大丈夫です」

 ……不覚にも動揺してしまった。急いで仮面を被り直す。

「……お腹が空いているのですか?」

「いいえ、空いているとか空いていないとかではなく。カレーが食べたいんです」

 思わず脱力しそうになる。私は人間に揶揄われているのだろうか?

「お腹が空いてんじゃないの?」

 少し『素』が出てしまった事に内心で舌打ちをする。項垂れながらも『人間』の顔を伺って見たが気付かれた様子はない。それにしてもこれと言った特徴のない風貌をしている。あまりにも弱い為に『個』でいることを嫌い。『全』の中を息苦しく泳ぐ魚のような種。実に滑稽だ。さて、この『人間』は──── どんな『欲』を見せてくれるだろうか。心の中でほくそ笑みながら顔を上げた瞬間、背筋が。凍り付いた。

 先ほどまで人畜無害な笑みを浮かべていた『人間』は。あろう事か私を。この『私』をだ。嗤っていた──── だが、それも一瞬で人の良さそうな笑みへと取って代わった。

「あぁ、最後にカレーを食べたいと思ったものですから。私は病院のベッドで寝ていた筈なんですがね。それどころか痛みを抑える薬の副作用による倦怠感や不快感がまったくありません。まるで……『生き返った』みたいです」

 この『人間』は恐らく気付いている。自分が置かれている状況を、だ。私を試すつもりなのか。

「あなたは生き返ったのではなく、死んだんです。病院で」

「そうですか」

 やはり全く動揺していない。

「随分と落ち着かれているんですね」

「その話し方、疲れませんか」

 全身が。ぶるりと震えた。

「煙草を吸っても?」

「……どうぞ」

 『彼』は何故か煙草を持っていたが珍しい事ではない。死んだ際に慣れ親しんだ物を持ってくる場合がある。持ってくるとは言っても実際に持ち込んだわけではなく、当人の強いイメージが形になっただけだ。彼が持っている煙草もライターも幻に過ぎない。だが、本人がそう思い込めばそれは『本物』になる。現に彼が今着ているのも病院着などではなく、ダークブラウンのスーツだった。ワイシャツにネクタイまでしっかりと締めている。傍らには仕事で使っていたのであろう鞄もあった。それだけ、イメージが強いのだろう。

 彼は慣れた手つきで煙草を咥えると火を付ける。肺一杯に煙草を吸い込むと、ゆっくりと紫煙を吐き出した。煙草特有のつんとした香りが鼻腔を刺激したが不思議と不快では無かった。

「美味しいですね。入院してから医師に止められてまして。……久しぶりです」

 彼はポケットから携帯用の灰皿を取り出すと灰を落としながら口を開く。

「死ぬ前は人事課にいましてね。面接の担当をすることも多かったんですよ。十年以上、色んな人を見てきました。だから何となくわかるんですよ。ちょっとした仕草や言動の端々から」

「……何が、でしょうか」

 彼はどうも理屈っぽい人間のようだ。このタイプは苦手だ。……とっとと終わらせてしまおうか。

「敬語で話すのが酷く苦手そうであったり、今何を考えているか、とか。私との会話のテンポも遅れてきましたね。面倒になってきた或いはやっかいだな、と思ってませんか?」

「そんな事はありません。あなたがここにいるのはお察しの通り既に死んでいるからです。その死も……こちらの不手際で結果的にあなたを死なせてしまった事になります。あなたはまだ死ぬべきではなかったのです」

 予め用意してある台詞を今までと同じように諳んじる。彼が何を考えているかは知らないが、私のやることは変わらない。それが、私の──── 存在意義だ。

「あなたには転生出来る権利があります」

 私は彼の言葉を無視することに決めた。

「元の世界へ転生させる事は出来ませんが、あなたの世界でフィクションとして描かれている世界……漫画やアニメ、小説やゲームなどと言った世界へ転生させる事も可能です。勿論、あなたが望む様々な能力を与える事も可能。あなたがその世界に存在している『証』や『歴史』でさえ捏造可能です。あなたが望みさえすればあなたの『思い通り』に事が運ぶようにすることも吝かではありません」

 どうですか? と、私は目の前の彼へ問うた。いつものように。浮かべている『笑顔』も完璧な筈だ。──── だが、その人間は。

「……なぜ、私が生きていた『元の世界』ではいけないんですか?」

「あなたが生きていた世界では、もうあなたは死んでいることになっていますから。肉体も既にありません」

「何を隠しているんです?」

 彼は吸い殻を携帯灰皿へ押し込むと、私へと真っ直ぐに視線を合わせる。

「二つほど疑問に感じたことが。私が元の世界へ『戻る』事が出来ない理由が、明確ではないんですね。あなたは私が既に死んでいるからと言いました。それはそうでしょうね。死んだ人間が況してや火葬済の人間が生き返ったらパニックでしょうし。……ですが、あなたはこうも言いました。「あなたがその世界に存在している『証』や『歴史』でさえ捏造可能です」と。これをなぜ、元の世界でやらないのかと言うのが一つ」

 彼はそこまで言うと乾いた唇を濡らすように『缶コーヒー』へと口を付けた。……あんな物まであったのか。恐らく生前からよく飲んでいたのだろう。

「二つ目は、あなたは不手際と仰いましたが……私を生き返らせてくれた時点で『対価』としては成立してるんですよ。だと言うのに、能力や生きていく為に必要な物。更には私の思い通りになるとまで。お詫びと称するには些かサービスが良すぎますね。疑問に思わない方がおかしいです。あなたは──── 私に何をさせたいんですか」

 私が舌に乗せた言葉の矛盾や疑問点を的確に突いてくる。今までこんな人間はいなかった。どんな人間も例外なく、到底持ち得ない『力』を望んで転生していったというのに。大きな『力』を持つ意味と、責任の重さなど欠片ほど考えずにだ。何とかこの状況を打開する手を考えようとして……煙草とは違う香りを感じた。思わず、顔を上げた私の視界に入ってきた光景は。コイツ──── カレー食ってやがる。

「何故か、鞄の中に入ってまして。その所為で鞄の中が大変なことに」

「知らないわよ」

「あれ? 先ほどまでと雰囲気とか話し方とか変わってませんか」

「五月蠅いわね、これが『素』なのよ」

「はぁ、そうなんですか。……一口、如何ですか?」

「いらないわ。食べなくても生きていけるし」

「え? それじゃ、その口と舌と歯は、何の為にあるんですか。飾りですか、それ」

 コイツ、ムカつくわ。

「食事はコミュニケーションの手段でもあります」

 彼は半分ほど平らげたカレー皿をスプーンと共に床へ置きながらそんな事を言い出した。随分と話が飛ぶものだ。

「コミュニケーション? 食事が?」

「気の置けない友人と一緒にする食事は楽しいですよ。昼休みも大抵は誰かと一緒でしたね。話ながら食事の仕方などを観察しても人となりがわかるものです。……一人は味気ないものですよ」

 彼はそれだけ言うと残りのカレーをやっつける作業に戻った。今までそんなことを言われた経験もないし、思ったこともない。私のような同じ存在に会ったこともない。私は、『私』を認識した時には既に孤独だった。いや、違うか。それを孤独とすら思わなかったし、これからもないのだろう。集団を作らなければ生きていけない脆弱な生き物とは違うのだから。だが、目の前の彼は。それを。『味気ない』と称した。

 『味気ない』とは、どんなことだろう。私は食事が必要ではなく、病にもかからない。老いることもない。知識はその都度学習する必要もない。私は成長しない。それどころか『死』すら、ない。対等な存在などなく。自分の『役目』を決められたロジックに従うプログラムのように。悠久の時を。永久に。終古の果てまで。未来永劫──── ただ、一人で。あぁ、なんてことだ。それは確かに……味気ない。『それ』に気付いてしまったが最後、もう戻ることは出来ない。だからと言って、私は『私』という存在を放棄することなど出来ない。

 私は彼が食べ終わるのを待つことにした。『それ』に気付いてしまった責任をとって貰おう。彼は濡れ衣だと言うかも知れないが。話してみよう。私の『役割』と世界の『仕組み』を。あの『スカした』顔が驚きに変わるのを見れば多少なりとも溜飲が下がるだろうから。






 『彼女』の口から語られた真実に私は少なからず驚いた。彼女の役割は世界と呼ぶ『箱庭』の調整──── バランサーだ。要するに人間の『間引き』。世界を恙なく維持する為の『作業』。世界を荒廃させない為に天災を。場合によっては人間を誘導した上で人災を引き起こし適度に間引く。間引いた人間の『魂』は他の世界へ振り分ける。そうすることにより世界の広さに対して人間の数を調整し、世界そのものの破滅を防ぐ。まるで、シミュレーションゲームだ。

 彼女が私にやろうとした事も、その一環だと言う。選んだ人間を様々な要因で『死ぬ』ように運命と言う名の『パラメーター』を操作する。元の世界に転生させない理由も納得だ。間引く意味が無くなってしまう。そうして死んだ人間に転生を持ちかけ無限に広がるIFの世界、所謂『平行世界』へ転生させる。力を与える理由は、言わずともわかるだろう。問われた人間は、ほぼ例外なく喜々として転生したそうだ。それが──── 理由だ。

 私が疑問に思ったようにやはり、デメリットはあった。彼女の手で転生させた人間は死んだ時点で──── 消滅するそうだ。人間は死を迎えると『輪廻の環』という『洗浄システム』によって魂は洗浄される。これは生前の記憶や経験をリセットする為らしい。洗浄された魂は『天界』と呼ぶ『貯蔵庫』へ一時的に保管され決められた周期に従い転生する──── 出荷だ。工場のベルトコンベアに流れていく商品を想像した私を誰が責められようか。

 彼女曰く『異能』は『魂』に依存する。彼女は意図的に魂を加工し異能を付加する。希ではあるが、自然に魂が変質する場合があると言う。魂の変質は肉体だけではなく、精神にも影響が出ることが多く精神的な疾患と診断されるケースの何割かは、これに該当すると言う。魂の変質が酷い場合には人間的な思考は失われ、肉体も人とは言えないほどに変わってしまうこともあるそうだ。彼女はそれを何と言ったか……あぁ、そうだ。人から帰ってこられないという意味を込めて──── 『カエラズ』。「あなたには関係のない『話』だ」と言われ詳しくは教えて貰えなかったが。閑話休題。

 自然に変質した場合は問題はない。だが、彼女の手で加工された魂は自然の摂理と呼ばれる『システム』に従わない。肉体の機能が停止すると魂は肉体から離れ『輪廻の環』がそれを回収する。ここで問題になるのが『輪廻の環というシステムが加工された魂を『魂』として認識出来ない』と言うこと。要は原材料のチェックだ。益々、工場染みてきた。一種のエネルギー体である魂は肉体がなければ生きていけない。維持する為の栄養を摂取する為の手段がなくなるからだ。存在し続ける為に持っているエネルギーをどんどん消費させていき……最後は消えていく。

 魂という存在になり人として生きてきた記憶や経験を全て『システム』に消されるのと、どちらが良いのか。私には判断がつかなかった。『輪廻の環』へと帰り、再び人として生まれたとしても。以前の自分はそれを知る術はないのだから。






「あなたが転生させた人へ、この話をしたことがありますか?」

 彼に問いかけられた私はそのまま俯いてしまう。……あるわけがない。話しても良かったかも知れないが、以前の私には『話す』という選択肢すら思い浮かばなかった。たかが、人間にだ。彼に話したところで私のやることはこれからも変わらない。ただ。『転生』の作業はもうしないことに決めた。元々、やらなくても特に影響はないことだ。『力』を与えた人間が人外の力を惜しげもなく振るい優越感に浸る姿と、自分の思考や行動がトラブルを呼び込んでいることに気付かずに身の上を嘆く滑稽な姿を見るのが愉快だっただけの話だ。

「……そうですか。それでは転生のお話をしましょうか。私が転生する世界と……あぁ、能力も頂けるのでしたか。必要ない気もしますが、転生する世界次第ですね」

「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ。あなた私の話を聞いてたの?」

「聞いてましたが? 私はあなたがした話の矛盾や疑問点を指摘しただけですよ。そもそも転生しないなんて一度も言っていません」

「あなたも……あんたも他の連中と一緒なわけ?」

「あなたに必要なのは友人や家族だと思いますね」

「……同情なら真っ平よ。羽虫と変わらない脆弱な生き物の癖に」

「桐生です」

「は?」

「私の名前ですよ。ご存じでしょう? 友人の第一歩は名前を知ることです、たぶんね」

「呆れた話だわ。友人や家族って価値観や倫理観が対等な立場だから成り立つのよ。それがなければ主従と変わらない」

「主従、ね。そんな可愛らしい姿で言われてもですね」

 彼の目には私がどのような姿で見えているのか。私の容姿は見る者によって違う。私自身も『本当』の容姿を知らない。鏡を覗き込んだその姿でさえ、偽りなのだから。人間とはかけ離れた姿なのかも知れないし、そうではないのかも知れない。いずれにせよ今更それを考えるのは──── 詮無きことだ。

「名前」

「ん?」

「付けなさいよ、名前」

「まさか、名前がないんですか。……名前とはその人を現す大事な物だと思いますがね」

「集団で生活するあなた達にとっては、でしょう。人間だって必要のない『力』や習慣、文化なんか忘れていったじゃない」

「それは、まぁ。名前ですか……」

 彼は暫く考え込んでいたが、やがて口を開く。

「妹夫婦に子供がいましてね。この姪っ子が凄く可愛いんですよ」

「黙れ」

「いや、話を最後まで聞いて下さい。妹の影響を受けたのか花が好きでしてね。花の名前や知識を覚える度に教えてくれたんですが……『lily of the valley』というのはどうでしょう」

「lily of the valley……鈴蘭?」

「そうです。白くて小さい可憐な花ですが……毒草でもあります。あなたに相応しいと思いますが」

 そう言いながら彼は皮肉気に唇の端を持ち上げた。一言多いが悪くはない。

「少々長いので名乗る時は、lily……『リリー』でいいでしょう。どうで」

 彼はそこまで言うと目を見開いて驚いている。何をそんなに驚いているのか。

「えぇっと……何故、姿が変わったんでしょうか」

 彼の一言に一瞬だけ思考が停止した。変わった? 何が? 自分の姿が? 私は再起動を果たすと目の前に直ぐさま鏡を『創造』した。鏡に映し出された姿は。私の。見慣れた物ではなかった。

「あなたには『どんな姿に見えてる?』」

 声が震えるのを抑えられない。

「どんなと言われても……何故か、私が学生の頃に通っていた高校の制服ですね。背は、160……いや少し足りないでしょうか。肩に掛かるくらいの黒髪に黒目。目に力がありますね、気が強そうです。年齢は……高校生くらいに見えますが。スタイルも良いと思いますよ。……私の独断なので保証は出来ませんがね」

 色んな人間を見てきたと言った彼らしい物言いだ。服装は恐らく彼にとって一番イメージが強い学生時代が強く反映されたのだろう。だけど、容姿が変わったのは何故? 彼の態度や言動から知り合いに似ているわけではないらしい。まさか────

──── 名前とはその人を現す大事な物だと思いますがね

 名前を付けられたことによって、本来の姿に固定された? そうとしか説明できない。もう一度、鏡の中の自分をまじまじと見る。本当に気が強そうな面構えだわ。服装は兎も角として、彼が言ったようにスタイルも悪くない。うん、本当に──── 悪く、ない。視界が滲む。そうか。泣いているのか、私は。

「え、ちょっと待って下さい。何故、泣いてるんでしょうか」

 慌てふためく彼の声を聞いただけで今は満足しておこう。考えなければいけないことは山積みだが、差し当たっては彼が天寿を全うした時に魂を消さない方法。私に『本当』の姿を教えてくれたことに比べれば安いものだ。そして。

「ありがとう、桐生」

 彼が息を飲んだのが気配でわかる。何せ視界が滲んでよく見えないのだ。

「気に入って頂けたようで何よりです……どういたしまして」

 私が言った『ありがとう』の意味は少し違うけれど。いつか教えてやろう。






「その扉を潜れば異世界だから」

 私は自分でも綺麗だと思える細い指先で扉を指し示す。

「なるほど。便利なものですね」

「本当に良かったの?」

 今更にして意味のない質問をしてしまった。魂の『加工』は──── 既に終わっている。

「……今まで生きてきて後悔などないと胸を張れたら良かったんですがね。現実は甘くないです。色々と後悔しっぱなしではありましたが、それを他人の所為にしたことは一度もありません。自分で決めたことですので」

 彼は今までもそうやって。自分が選択した結果に悔いを残しながらも前を見て生きてきたのだろう。そして、これからも。

「要領が悪いって言われない?」

 私がそう言うと、わかりやすく苦笑した。

「会社の先輩に「おまえは人生の器用貧乏だよな」と言われました。言い得て妙と言いますか。意味はわからないのに何となく納得できてしまうところが腹立たしかったですね」

 割と何でもそつなく熟せるが、自慢できるような突出した物もない、か。……何となく理解出来るわ。こう、醸し出す雰囲気が。背景にいそうだもの、彼。

「何か失礼なことを考えてませんか?」

「そんなことないわよ、とっとと行け」

「わかりましたよ……痛い、蹴らないで下さいってば」

 扉を潜りながら一度だけ振り返った彼へと手を振る。こうして。私にとって忘れ得ない邂逅をもたらした彼は未知の世界へと旅立っていった。彼とはきっと。……長い付き合いになりそうだ。







 ~始まる前のお話 前編 了

 
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