季節の変わり目
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存在
塔矢には悪いので、一緒についてきてもらうことにした。それには和谷が嫌な顔をしたが、伊角さんが保護者のようにさとすから、仕方なく和谷は従う。その碁会所とは道玄坂のことだったらしい。行き慣れた道を辿りながら、ヒカルは胸元を握りしめ、胸の高鳴りを何とか抑えようとする。そんなヒカルの様子に三人は首をかしげた。和谷は前回のことを知っているから、ヒカルに大丈夫か、と珍しく神妙な顔つきをして声をかけた。
道玄坂の扉をくぐると、何やら人だかりができていた。客がみんなその一帯に集まって、ある人は顎に手をあてて唸り、ある人は驚きを隠せずにいる。直感的に輪の中心にいるのが佐為だと確信したヒカルは、その場に足を運ぼうとした。すると、カウンター席から中年太りの道玄坂のマスターが満面の笑みを浮かべながら近づいてきた。
「進藤君!それに伊角君に和谷君まで!」
そして後からついてきた塔矢が伊角の後ろから現れ会釈すると、マスターは心底興奮した。
「塔矢先生も!」
マスターたちのやりとりに客たちの視線が集まり、それから一気に周りを囲まれる。平日だったことが幸いして、客は少なかった。握手やらサインやらをねだられるヒカル達はそれを早々に終わらせ、席料を払う。ヒカルは誰よりもはやく佐為の姿を確認し、おぼつかない足どりで進んだ。佐為の背後に身をひそめ、盤面を注視する。それは三面碁だった。
ぱち・・・。ぱち・・・。
佐為の碁を見て思ったことは、これはあの佐為の碁ではないということだった。院生にちらほらいる、一般的に「かなり強い」という強さだ。古い定石は見当たらず、現代の囲碁指南書に倣っている。白い、細長く整った指が、石を掴み、盤上に置いていく様は、静かなようで力強かった。
そして、この姿をヒカルは院生時代の自身と重ねていた。こんな風に、佐為は俺を見守っていたんだろうか、とヒカルは不意に涙を目に溜める。こんな風に、後ろに立って。自分も打ちたいと思っただろう。その時、ヒカルは悟った。見守るだけの佐為はもう居なくて、今こうして自分で打てる喜びを噛みしめているのはまぎれもなくここにいる佐為だ、と。佐為はもう誰の手を借りずともいいんだ、と。
「負けました」
最後の対局者がそう告げ、佐為も感謝の意を告げる。
「ありがとうございました」
その言葉が妙に心に響いて、ヒカルの頬に涙が伝った。拍手や称賛の言葉を浴びる佐為にどうしようもなく感動する。石を片づけ終わった佐為が、ふと振り向いた。そして、目が合うと同時に目を見開いて呟いた。
「進藤さん・・・」
後書き
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