季節の変わり目
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歓談
「ごめん、寝不足で」
すぐさま涙を拭い、笑ってみせた。すると、周りの客から、「進藤君感動して涙が出ちまったんじゃねーか?」などとヒカルに都合の良いヤジが次々と飛ばされる。ヒカルはそれに乗っかりながらも、笑いで済んだことに安心していた。
「佐為、今日は和谷と伊角さんに誘われて、一緒に来たんだ。この前はごめんな」
ヒカルの心は慈愛に満ち、その瞳は佐為の瞳をじっと見つめる。もう疑わない、佐為は戻ってきたんだ。射抜かれたように一瞬固まる佐為だったが、すぐに笑顔を繕う。
「・・・いいえ、気にしてないですよ。今日は来てくれてありがとうございます」
それからヒカルたちは佐為に指導碁を打ってあげたり、話に花を咲かせたりした。途中河合さんが現れてヒカルにちょっかいを出し始めるが、佐為に気づいて「こりゃ上玉だ」と面食らう。「誰の彼女だ」と河合さんが追及すると佐為が「私は男です!」と言ってふて腐れた。その光景に碁会所全体が笑いに包まれたが、ヒカルは密かに河合さんの意見に納得していた。
「佐為は院生にいたわけでもないんだよな、こんなに強いのに」
「え、はい。そうです」
当然とでもいうような伊角さんの口ぶりに佐為は戸惑うが、みんな伊角さんに同調した。
「しかし、君が院生でなかったのに驚くよ」
「そういうおめーは外来組だろーが」
塔矢にツッコミを入れる和谷はだいぶ塔矢に慣れた気がする。伊角さんは和谷の成長を微笑ましく見守っていた。そして佐為も二人のやりとりに苦笑している。
「院生になったらいろんなやつと対局できるから棋力に磨きがかかるよ。まあ和谷もプロ試験の最後になってやっとふくに勝てたし」
「そうなんですか」
「伊角さん!」
持参してきたポッキーをかじり、和谷をいじる伊角は心底楽しそうだ。和谷はふくれながらも、ヒカルについて言及した。
「そういや、進藤はプロ試験の間に強くなっていったよな。飯島さんがいらついてたぜ」
「確かにそうだな。進藤も越智みたいに誰かに指導碁してもらってたんじゃないのか。はは」
「碁会所巡りのおかげかもな」
伊角さんは地味に鋭い。今日は笑いに助けられてばかりだが、ヒカルはその言葉にはさすがに心をかき乱された。刹那、隣に座っていた佐為と視線がぶつかった。とっさに目をそらすのは、きっと辛かったからなのかもしれない。一緒に居たときの記憶のない佐為に対して悔しさが湧く。
時計はすでに6時を知らせていて、これでお開きということになった。曇り空は相変わらずだが、雨はもう止んでいて、湿り気を含んだ空気が体に纏わりつく。みんなで駅に向かおうとしたとき、佐為が不意にヒカルの腕を軽く掴んだ。
「あ、いえ、また会ってくれますか?」
言葉に詰まりながらも言い切った佐為の頬には朱が差していた。掴まれた腕から全身に熱が渡る。電話番号とメールアドレスを交換してからいつでも連絡がとれる、という安心がふと、こみ上げてきた。
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