されど、我らが日々
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第一章
―――ブラックデーを、ご存知だろうか。
2月14日は、バレンタインデー。女子が男子に、チョコレートを添えて愛を告白する日。
3月14日は、ホワイトデー。バレンタインデーにいい目をみた男子が、女子にお返しをする日。
そして、4月14日。
呪われたブラックデー。
バレンタインデーにもホワイトデーにも縁がなかった独り者が、黒い服を着てジャージャー麺をすするという、誰に何の得があるのかわからない、自虐的な行事が韓国の随所で繰り広げられているという。
その悪しき風習は近年日本にも知られることとなり、4月14日、都内のジャージャー面を出す飯屋で、極少数だが黒い服を着込んで、ジャージャー麺を食す者が見られるようになった……。
俺は今、後輩2人と、暗い目をしてジャージャー麺をすすっている。
…とはいっても、俺が率先してこんな自虐的な真似をさせたわけじゃない。
むしろ逆だ。俺は被害者だ。
数日前、サークルに参加していた仁藤と佐々木が、声を掛けてきた。
「うーす鬼塚先輩。ブラックデーって知ってますか?」
知らん。知りたくもない。どうせろくでもない日だろう。確かそう言った気がする。事実無理やり聞かされたイベント内容は、最悪に自虐的なものだった。
「…お前ら、本気でこんなことする気か」
「絶対流行りますよぅ、流行を先取りしましょうよぅ」
―――流行を先取り。
その一言が、何をやってもださくなる俺のコンプレックス魂に火をつけた。…しかし、こうしてジャージャー麺をすすりながら冷静に考えてみると、こんな哀しい流行先取りしたからどうだというのだろう。げっぷと共に、重いため息がこぼれた。
…そもそもがだ。このイベントには、欠員が1人出ている。
―――姶良も誘ってやろうぜ。
仁藤がそんなことを言い出した。どうせあいつも寂しいバレンタインデーを過ごしたのだろうから…と。
こんなことになったから言うのではないが、俺は少し嫌な予感がしていた。
最近のあいつは、妙に付き合いが悪い。最初はあんな事件に巻き込まれた後だし、まだ色々と落ち着かないのだろう。そう、高をくくっていた。一緒に巻き込まれたらしい柚木は、不自然なくらいに姶良とからむのをやめた。奴も女の子だし、あんな怖い目に遭ってさぞかし…いや、しかし。
最近サークル内で距離を置いているあの2人を見るにつけ『つり橋効果』という言葉が頭をかすめていた。一緒に危険な目に遭った男女は恋に落ちる確率が高いとかそんな意味だった…曖昧な俺の記憶を頼りにすれば。
奴の下宿は、学校から歩いて5分もない場所に位置する。これを知った時、つくづく馬鹿な奴よ姶良、と思ったものだ。…大学という所がどんな人外魔境か分かっていれば、こんな激近物件を選ばなかったことだろう。案の定、姶良の下宿は悪しき部員たちの溜まり場となり、買い置きのカントリーマァムとじゃがりこは常に食い荒らされることになった。…まぁ、俺達もまさに奴の下宿を襲撃し、非モテイベントに連行しようとしているのだが。
姶良の部屋の明かりは、ぼんやりとにぶく灯っていた。ふわり、と何やら旨そうな匂いがもれてくる。奴は料理中らしい。
「…哀しい、哀しいぞ姶良!」
仁藤が袖で涙をぬぐうフリをした。
「独りで食べる手料理は、豪華であればあるほど哀しいなぁ…」
佐々木も追従する。俺もこの時点では、一抹のもの哀しさを感じていた。姶良、お前結構哀しい奴だな。…分かってる。その哀しみ、俺達と分かち合おう。今初めてブラックデーの意義をひしひしと感じたぞ、姶良よ。
「おい、鍵出せ」
佐々木に命じて、鍵を開けさせる。
数ヶ月前、合鍵の件が柚木経由で姶良にばれた。(俺はそこも怪しいとにらんでいたのだが)珍しく怒った姶良に待ち伏せされ、残りの鍵も没収された。だが実はもう一つだけ、スペアの鍵を作っておいたのだ。…これはしかるべき時に使い、怒る姶良に笑いながら返してやろうと思っていた。
鍵を開けてそっとドアを引くと『かつん』と音を立てて止まった。
「…奴め、チェーン掛けてやがる」
佐々木が小さく舌打ちしてドアの隙間から覗き込んだ…瞬間、凍りついた。
「………どういう、ことだ」
玄関の隅にちょこんと揃えられた、小さな女物のサンダル。薄茶色いシューズの横に寄り添うように置いてある。仁藤が吼えた。
「……おっ女!女か!!」
「即断するのは早い!…奴に女装の趣味があるのかもしれん」
「なるほど、彼女ができる確率よりは、そっちのほうが高そうだ」
―――お前に彼女ができる確率よりは、姶良のほうが若干高いだろう…仁藤よ。
「MOGMOGのエロい着せ替えツールを喜んで持ち帰るような奴だぞ!」
―――それはイタいな。あとで拝見しよう。
「オムライス、できたよ」
―――よく通る女の声が、部屋の奥から聞こえた。
ドアの隙間を覗き込んでいる2人の顔を、横から覗き込む。…埴輪のような顔が一対、ドアの隙間を挟むように対峙していた。そいつらがゆっくりと俺の方を振り返り、埴輪のまま呟く。
「…先輩」
「何だ」
「埴輪みたいになってますよ」
「俺もそんな顔をしていたか、佐々木よ」
女だ。明らかに奴の部屋に女が1人いる。
「いや即断するな!…エロDVDかもしれん」
「オムライス作りから始まるんじゃ、コトに及ぶのはだいぶ先だな、仁藤よ」
「裸エプロン系ならありえるじゃないですか!つまり奴は女装で料理しながら裸エプロンを鑑賞しているのですよ!!」
「…属性のはっきりしない変態だな、仁藤よ」
「いや、思い切って女装のセンは捨てよう」
佐々木がずり落ちぎみの眼鏡をくいっとあげて、仁藤を押しのけてドアの隙間に鼻を突っ込む。…思い切っても何も、最初から女装のセンには無理があろう。
「あいつには妹がいるはずだ。春になって上京してきたのかもよ」
成る程。佐々木にしては論理的な。
「奴の妹か…童顔系だな。意外といけるかもしれんな」
仁藤が埴輪から一転、変質者の顔つきになった。自分の妹を友人にガチで狙われる気分はどうだ、姶良よ。
「姶良―、Tシャツ干しっぱなしはダメだよ。色が焼けちゃうよ」
「あ、うん…ありがと」
「…兄妹同士が苗字では呼び合うまい」
2人の表情は、見えない。無理に見ようとも思わない。それでも衝撃の気配だけは、ビシバシ伝わってくる。
「で…デリヘルだ!」
「あいつにそんな金があるか」
このぼろい下宿を見れば分かろうが。そう言おうと、下宿のぐるりをざっと見渡した。
「………」
そうか。
ドアの隙間で、いまだに親戚だ、恋愛感情ない幼馴染だ、と不毛な議論を展開している彼らの肩を叩いた。…俺は、非情な発見を伝えなければならない。
「…なんすか」
「議論は終わりだ。あれを見ろ」
下宿の門の少し手前。街灯の明かりがぎりぎり届くその場所に、それはひっそりと停めてあった。
ビアンキの、自転車。
回想、終了。
俺達は、逃げるようにして姶良邸を後にしたのだった。
そして現在。男三人、空ろな目をしてジャージャー麺をすすっている。
「……世の中、間違っていますよね」
佐々木が、ジャージャー麺の山から顔を上げた。あまり食が進んでいない。
「よりによって…柚木ちゃんなんて」
「間違っているのは、世の中なのか、俺達なのか…」
一応、口にしてみた。今日の俺達の行動を鑑みれば、間違っているのは確実に俺達のほうなんだが。
「……誰だよ、ブラックデーやろうとか言い出したのは」
仁藤の口ぶりからすると、言いだしっぺは佐々木か。…なぜこいつは、こう軽はずみなのか。…俺も、か。
「……ジャージャー麺って、苦いっすね」
「気のせいだ。苦いのはお前の気持ちだ…佐々木よ」
「…俺ら馬鹿みたいだな」
完食した皿に割り箸をからりと投げ込み、仁藤が呟いた。
「俺らだけで決行してれば、ここまでの落ち込みはなかったんだろうな…」
「そうだ!あいつが悪い。これ見よがしにブラックデーに平和に彼女と飯を食いやがって。あいつとはもう絶交だ!」
…佐々木。姶良は恐らく、ブラックデーという行事を知らない。
「絶交ってお前…小学生じゃないんだから…」
「気軽に使える溜まり場が一つ、減ったことは確かだな…佐々木よ」
店内に、黒服の奴はほとんどいない。このイベントが日本にさほど浸透していなくてよかった。…そう思いかけたが、浸透していればこの空間は似たような黒服だらけで、それはそれで満たされた気分だったやもしれん。俺達は黙って箸を置くと、勘定を済ませてとぼとぼと店を出た。…花冷え、というには少し遅いが、春らしからぬ冷気が、暗闇と一緒に俺達を押し包んだ。
神田川沿いをゆっくりと歩きながら、下宿へ向かう。別れ際に佐々木に押し付けられた姶良の鍵を、右手で弄びながら。…もう、笑いながら返すわけにはいかなくなった。独り者の鍵と、そうでない者の鍵とでは重みが違う。
少し考えて、右手を大きく振りかぶった。
鍵は空中で、僅かな街灯の光を捉えてきらきら光りながら放物線を描き…その光が消えた頃、ぱしゃり、と水がはねる音がした。
―――わびしい。
水の音を聞いた途端、心がへし折れそうな自分に気がついた。
…何がそんなにショックだったのか。後輩に彼女が出来ることなんて、よくあることだ。もう慣れたと思っていたが。
じゃあ、柚木をゲットした事か。…いやちがう。
こんな形で、知ってしまった事。…そうだ、それだ。
ランドナーを継承した事や、何か知らんが一緒にピンチを切り抜けた事で、俺は奴とは何か特別深い縁が出来たものと思っていた。のっぴきならない悩みも、嬉しい報告も、まず俺と分かち合ってくれるんじゃないか…と、勝手に勘違いしていた。
あぁ…呪わしい勝手に勘違い。
勘違いの恥ずかしさに胸をかきむしるような油っ気も、最近は消えうせた。ただただ、重い溜息に紛らわせて忘れるだけだ。…忘れることだけが妙に上手くなっていくな、俺よ。
川沿いの公園で足を止め、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出す。ここは禁煙区域だが構うものか。こんな時間、こんな寂れた公園…誰も通らない。そう思い、火を点した。
…ふと、鼻息のような、吐息のような、おかしな音が耳を掠めた。
音のする方に目をやると、ちかちか点滅する街灯に照らし出されたベンチに、黒いものが寝そべっていた。なんだ、浮浪者かと一瞬思ったが、どうも様子がおかしい。一箇所だけ、もぞもぞ動いているのだ。…胸騒ぎがする。
「ぐ……」
寝そべっているものが、声をあげた。意外にも若い女の声。街灯が照らし出す女の髪も、よく目をこらすと光をきらきらと照り返す、上等な毛だ。…なんといったっけ。あれだ。キューティクルというやつ。じゃ、あの鼻息は女のか?…いや、ちがう。あれは鼻息じゃない。へっへっへっへ…そう聞こえる。
放っておいて帰ってもよかったのだが、何だか嫌な予感がしたので、そろりそろりとベンチに近寄る。水飲み場で漏れた水を舐めていた猫が2匹、逃げた。
「へっ…へっへっへっへ…」
もぞもぞ動いていたのは、中型の雑種犬だった。…首輪がついてない。この女の飼い犬というわけではなさそうだ。
犬はへっへっへ…と荒い息をしながら、女の手首や二の腕をためらいがちに噛んでいる。…肉食獣の端くれとして、都会の常識と野生の本能の狭間で揺れ動いているようだ。
様子をうかがっていると、やがて犬は「……よし!」といったかんじで、脇腹のあたりにがぶりと噛みついた。
「いつっ……」呻いた。
……いや、それはまずいだろう!
咄嗟に駆け寄り、犬の隣で「ダン」と足を踏み鳴らした。犬は我に返ったような顔つきで、ひょこひょことその場を離れた。
――危なかった。明日の朝刊の三面に、少々猟奇な記事が載るところだった。
「おい、あんた。大丈夫か」
犬の餌を横取りしたような塩梅で気分悪いが、一応声を掛けた。長い黒髪で顔が隠れてよく見えないが、寝ている…というより、酔っているようだ。膝のあたりに缶ビールが転がっている。
「………なんで、邪魔したんですか」
リクルートスーツに毛が生えたような黒いスーツの肩が、もぞりと動いた。顔は見えないが、泣いているようで、地べたに小さな水溜りが出来ていた。
「私を食べれば、あの犬さんは飢えをしのげたんです……」
「アンパンマンか。あの犬があんたを食べていれば、明日にはガス室だぞ」
「……もう、うんざりです……みんな、どこまで殺せば、気がすむのかしら」
「いや、気晴らしでやってるわけじゃなかろうが…」
俺の台詞の途中で、女の首ががくーんと垂れた。…信じられん、こいつまた寝やがった。
「……おい、起きろ。さっきの犬が戻ってくるぞ」
5回ぐらい揺すぶると、ようやくもう一度首をあげた。地味な眼鏡のレンズが点滅する街灯をちかちかと反射して、ますます顔がよく見えない。
「放っておいて下さい…私なんて、どうなったっていいんです…」
「そういうセリフは鶯谷あたりで言え」
「鶯…はいけません。私なんてついばんだら、澄んだ声が濁ります……」
「……まぁいい。どうなったってよくても、犬の餌はまずいだろう、公衆衛生的に」
「はぁ…私は…浅はかです…」
…また首が落ちた。同時に点滅していた街灯が、ぷつり…と瞬くのをやめて、辺りが真っ暗闇になった。
「………うぅむ」
散々だ。…今日はなんて散々な日であろうか、姶良よ。
お前の隠し事を知ってしまったうえに、自殺志願の酔っ払い女を拾ってしまった。とりあえず警察呼んで、こいつを引き取ってもらわなければ。…あぁ、めんどくせぇ。
少しして目が慣れてくると、公園のベンチやジャングルジムが、蒼い影を落としているのが見えた。見上げると十六夜の月。
ふと、女の顔を見ていなかったことに気がついた。…今日はさいわい、月の光が強い。警察の前にちょっとだけ…。そっと脇に手を入れ、首ごと持ち上げてみた。酔っ払いにキャメルクラッチを掛けているようで気分が悪いが…。長い髪が邪魔だったので、かきあげて肩に寄せた。月光は眼鏡のレンズを透かして、その奥を蒼く照らしあげた。
―――おぉう、美しい。
長い睫毛が、蒼白い頬に影を落としている。品のいい切れ長の眦に、まだうっすらと涙が滲んでいた。
親に捨てられ、泣き疲れて眠ってしまった幼子のように。
俺は携帯を懐にしまいこみ、この女を抱き上げていた。
後書き
第二章に続きます
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