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されど、我らが日々

作者:たにゃお
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第二章

―――俺は頭を抱えていた。

女の哀しげな寝顔と思いがけない美貌にほだされ、つい拾ってきてしまったが。
起きて正気に戻ったら、この女は俺をどう罵るだろう。
俺の万年床に横たえるわけにもいかず、何年かぶりに布団をたたみ、長いこと使っていなかった座布団を2枚敷いた上にそっと置いた。俺なりに精一杯気を遣ったつもりだが、女には伝わるまい。
警察に預けていれば、こんな胸苦しい思いをしなくても済んだというのに。俺は馬鹿だ。馬鹿で助平だ。…そうだ、俺は助平だ。
―――どうせ犬に食われるつもりだったのなら、俺が食ってしまおうか。
…それが出来ないから俺は今の今まで、この部屋で空閨をかこち続けていたのではなかったか。3年以上も。…重い溜息があふれた。煙草でも吸うか。
「………んん」
女が小さく呻いて、もぞりと動いた。…煙草をしまって、叫ばれた時のために身構える。
「………ん?」
女の目が、ぱちっと開いた。形のいい切れ長の目が数回またたいて、俺をじっと見返す。
「………ん」
また、とろんと半目になる。まだ寝るかこの女。
「………んー」
ぱたり、と倒れて、ふいっと寝返りを打ってしまった。…やがて薄い寝息が聞こえてきた。
「………おい、女、起きろ」
なんと言うかもう、この緊張感に我慢ができなくなって声を掛けた。叫びたければ叫べ。警察でもなんでも呼ぶがいい、女よ。
「………ふぇ?」
「ふぇじゃない、女よ。いい加減起きろ。そしてこの異常事態に頓着しろ」
「す、すみません…」
女はがばと起き上がり、ほぼ反射的に謝った。そしてきょろきょろと辺りを見渡すと、ぼそりと呟いた。
「……おうちじゃない……」
完全に目が覚めているわけではないようだ。
「えーと…あなたは…」
「…言っておくが、あのまま放置していたら野犬に食われて、俺が嫌な思いをするから、一旦回収しただけだ、女よ」
「それはご迷惑を…いつつ…」
そう言って女はわき腹を押さえてうずくまった。
「…おい大丈夫か」
「あぁ…歯形が…」
女がわき腹あたりを覗き込んで呟いた。服の影になって見えないが、さっき噛まれた場所に歯型がついていたらしい。
「早く医者に行け。狂犬病になるぞ」
「大丈夫…服のおかげで貫通してません。…痣にはなるかも…」
まだぼんやりしているが、彼女なりに事態をゆっくり把握し始めたらしい。一方的に叫ばれたり、痴漢呼ばわりされる展開は避けられた…とみてよさそうだ。
温厚な性格というか、無警戒というか…。
少し安心したところで、明かりの下で改めて女を観察してみる。
憂い(眠気か?)を含んだ黒目がちの瞳は昏く、深い。胸は若干薄めだが…それがむしろ華奢な体の線を際立たせている。ゆるく脚を曲げた横座りで俺を見上げる仕草には、古風な趣すら感じる。陰陽で言えば陰、昼夜で言えば夜の美しさ。

静かな湖面にうつりこんだ月影のような女だ。

俺の好みにどストライクだが、それは今考えるべきことではあるまい。何しろ相手は道端で犬に食われていたのだ。
「何故あのようなことになっていたか、聞いてもいいだろうか、女よ」
いつまでも女…と言っているのもどうかと思ったが、この状況で名前なり住所なり携帯なりを聞き出すというのはフェアではない。落ちていたとはいえ、拾ったのは俺の勝手なのだ。だから俺は遭えて名前を聞かず、この女を密かに『麗人』と呼ぶことにする。
「…あの、その前に…」
麗人は少し顔を赤らめて、もじもじし出した。便所か麗人よ。
「しらふで話すのは恥ずかしいので…ちょっと、頂けないですか」

――酒か!?

「…発泡酒しかないぞ」
「…それでいいです」

……なんだ、こいつは。

買い置きの発泡酒を卓袱台の上に置いてやる。酒ばかりというのも何なので、スルメを置いて、もやしを炒めてやった。俺の背後で、かしゅっとプルタブを立てる音がした。
「…死んだひとを、切ったことありますか」
まだ飲んでもいないのに、麗人はぽつぽつ話し始めた。
「あんたは、あるのか」
「……いえ」
ならばなぜ聞いた。
「でも、触ったことがあります。包んで、葬りました。…ごめんなさいね、って」
見習い検死官か、看護士か。
「…あれからいつも、思い出すんです。土気色に変わった肌の色とか、寂しそうな死に顔とか」
震えた鼻声が、徐々に細くなった。
「……お酒飲まないと、眠れないんです。…どうして私だけ、生き残ったんだろう。皆、ひどい死に方、したのに。食いちぎられて…首から血を迸らせて…誰にも看取られず、凍えて…」
……傭兵か!?
「ごめんなさい。イミわからないですよね、こんな話」
「…思ったよりも重そうな話だな」
もやしを置いて、俺も発泡酒をあける。…これは果たして、国内の話なのだろうか。
「重いです。…重くて、重すぎて、潰れてしまって。もう私なんか、死んだほうがいいのにって…酷い死に方、すればいいのにって」
空ろな視線を彷徨わせ、麗人は俯いた。
「辛かったら、無理しなくていい」
「……ありがとう」
力なく笑うと、麗人は缶を置いた。そして次の缶に手を伸ばす。おぉ、意外にハイペースだな、麗人よ。
「私、本当にダメで…いざとなったら、何も出来なくて」
「でも踏みとどまったんだろ。…頑張ったな」
ぐっと、麗人の口元が歪んだ。…泣き出しそうに。顔を直視できずに手元を凝視していると、缶を握り締めた指先に、ぽたぽたと涙が落ちた。
「あのひとが、死なせてくれないんです」
そう言って、缶をぐっとあおった。
「…走り書きの辞令をね、握り締めてたんです」
「辞令…」
「辞令。…次のことを禁ず。1、以後3年以内の自死。2、口外すること。3、年内の辞職。なお、読後このメモの焼却を命じる」
2、3回咳き込んで、麗人はくすくす笑った。泣きながら。
「笑っちゃうでしょ、そんな遺言」
「……いや」
麗人はしばらく、空になった缶を手の平で弄びながら、何かを考えていた。俺は俺で、麗人の細くて飾り気のない指先を眺めて、考え事をしていた。

――死んだ上司との不倫関係か?

気になる。すげぇ気になる。しかし無理しなくていいと言った手前、この話で一番の地雷原に踏み込むわけにはいくまい。
「尊敬、してたんだな、その人を」
結局、無難に話をふってみた。
「尊敬…そうですね。尊敬も、してたかもしれません。でもね」
もう一缶、手を伸ばすと、麗人はふぅ…と息をついた。
「放っておけなかったんです。私は」
――無理してるひとが分かるんです。そう言って麗人は上目遣いにじっと俺を見た。
「……お?」
「あなたは…そうでもないかんじです…ね」
そして目を伏せて微笑んだ。…なんという睫毛の長さか。明かりの下で見ても、充分長い。
「面倒見がよくて、そのせいでちょくちょく厄介事に巻き込まれたり、損をしたりするでしょう。…でもそれは全部、素のあなたで、変えようがない『自分』そのもので…」
もう酔いが回ってきたのか、少し饒舌になってきたようだ。…俺を今まさに、厄介事に巻き込んでいる当人に言われたくないことだが。…まぁ、いい。
「その人は、そうではなかった…と」
「…本当は、気が優しい人なんです。でも、立場が許さなかった」
ふいと顔を上げて、窓の外を見ている。見るものなんざ月くらいしかない、殺風景な下宿の裏庭だが。
「自分らしくある、ことを。…本当の自分じゃどうにもならないから、嘘の自分を作り上げて、塗り固めていくしかなかったんだと、思うんです」
「……はぁ」
気の抜けたような相槌しか打てなかった。気を悪くしていなければよいが。
彼女が傭兵なのか検死官なのかOLなのか知らないが、どれであるにしろ『仕事』だ。俺は、バイト以上の仕事を知らない。しっくりこなければ辞めればいいから、人格変更しなけりゃならない必要性まで感じたことがないのだ。
「みんな、勝手なんです」
かつん、と軽い音を立てて、卓袱台に缶が叩きつけられた。…おぉ、もう3本目が空いたのか、麗人よ。
「会社のピンチを見てみぬフリして、自分が貧乏くじ引くのイヤで、誰かがやってくれるのを待ってて。上層部だって、そんな調子だった。…だからあのひとは1人で…会社を守るために、薄氷を踏むような危険なやりとりを続けたんです。そりゃ、褒められたことじゃなかったと思います。でも…みんなよってたかってあのひとにばかり汚れ仕事を押し付けて…ほかに、どんなやりようがあったっていうんですか!」
悲鳴に近い声で叫んで、麗人は顔を覆った。指の隙間から、涙がにじんだ。
「お…おい、女よ」
「…ごめんなさい…近所、迷惑ですね」
鼻をぐずぐずいわせる麗人に、ちり紙を取ってやった。皿を片付けるフリをして席を外すと、背後でちーん、と鼻をかむ音がした。
「…誰かに、一番やりたいことを聞かれたときに、少し表情を和らげて言ったんです。家族を連れて、温泉で長逗留でもしてみたいですね、って」
「…模範回答というかんじだな」
「そうですね。模範回答です。非の打ちようがない…」
寂しげに微笑んで、麗人はまた俯いた。
「でもね…本心だったって、最期になって分かったんです。あのひとにとって本当に大事なのは、ご家族だった…だから自分は踏み違えたんだって、語ってくれました」
俺は月を見上げた。乱視の俺には、幾重にもだぶって見えて輪郭がはっきりしない。この話の輪郭すら、はっきりしない。
「だけどご家族には、なにも伝わってなかった」
麗人の声だけ聞きながら、もうぬるくなった発泡酒を呷る。…よく聞く話だ。家庭を持たない学生の俺には、まったくぴんとこないが、とにかくよく聞く話。
「奥さんもお子さんも、取り澄ましてました。大事な家族を亡くしたとは思えないくらい…とても冷静で、みんな『立派な態度』って…さすが、伊佐木さんのご家族だ…って」
―――深刻な話中に申し訳ないが、俺は別のことを考えていた。
この女の顔を、今もう一度月明かりだけで拝みたいものだ。電気を消せば、蒼白で華奢な横顔を月が照らし出すだろう。…しかしあらぬ誤解も招くのだろうな、麗人よ。
「……死んだ人の思いは、もう永久に届かないんでしょうか」
「………あんたが、伝えてやったらどうだ」
麗人が顔を上げて、俺の顔を凝視した。切れ長の大きな瞳に見据えられ、つい目をそらしてしまった。…目尻に光る涙のあとが、妙に艶かしくて目のやり場に困る。
「……でも、口外するなって……」
「嘘まみれの人生を送った男が、最期に残した言葉は何だろうな、女よ」
「………」
「それも、嘘だ。いちいち額面どおりに捉えるな。…可哀想だろ」
「可哀想…?」
「結局は強がりなのだ」
まったく…小利口なようだが、間の抜けた女だ。どっかの誰かのようだ。
「あんたは、分析が好きなようだ。だからなんだろうなぁ。行動パターンばかりを追って、本心を見落とすのだろうな」
俺の後輩にもそんなのがいる。分析ばかりが好きで、大局が見えない奴が。だからあいつは、能力はあるのに肝心なところでツメを誤る。…いや、奴は可愛い彼女をゲットした。誤っているのは俺のほうなのか…。
「…どうしたのですか?ひどく…落ち込んで見えます」
「いや、なんでもない。…つまりだ。憶測で言うが、その男は死ぬ前に『ついうっかり』あんたに家族の話をした。話さずにはいられなかったんだろう。でも後悔したんだ。…そいつもあんたと同じで、決めつけたんだよ。家族は、死に行く自分に『一番大事に思っていた』などと告白されても、困るだけだろうと。で、最期の最期に強がりで、あんたに余計な伝言を残した」
「………」
「でもな女よ。家族に『一番大事だ』と言われるのは嫌いか」
「……そんな…馬鹿な」
「そんな馬鹿なことを、あんたもその男も考えたようだがな。大局を見ろ、女よ。そいつの最期の本心を家族に伝えられるのは、あんたしかいない」
そう言い切って、俺は再度麗人と目を合わせた。俺を数秒見つめた後、麗人は発泡酒をぐいと呷り、泣き崩れた。
「……私…ほんと馬鹿ですね……」
俺の部屋で美女が大酒呑んで号泣している。
…大椿事である。今すぐこの号泣美女を写メして仁藤あたりに送信して羨ましがらせたいものだ。さらばブラックデー。…しかし、この状況で携帯持ち出して写メしておおはしゃぎで送信などしたら、折角いい事言ったのに『百日の説法屁一つ』を地で行くはめになるのだろうな。すごくウズウズしたが、溜息と共に写メを諦めた。
「……やっぱりダメです、私なんて。分かってるつもりで、何も分かってなくて…命令されると、自分で考えることを放棄しちゃって…」
半ダースの発泡酒を呑み尽くして、麗人は卓袱台に伏せた。
「さっきの犬さんに、食べてもらう価値もないです……ね……」
ふぅ…と深い吐息を残して、卓袱台に頬をつけたまま眠りに落ちてしまった。拾ったときと寸分違わぬ、哀しい幼子の表情を浮かべて。
―――不思議な女だ。

「あんたも、傷ついたんだろうに…」

不遇のうちに死んでいった上司を悼んで、散々に泣いた。見知らぬ俺の前で。
だが、あんただって傷ついたんだろう。俺には語ってくれなかったが、恐らく…。
自分のために泣いてやることが出来ず、癒されないまま放置されるあんた自身の傷は、どうなるのだろうな、麗人よ。

電気を消すと、窓から月光が差し込んできた。月光は、初めて会ったときと同じように、この人の頬を蒼白く染め上げ、長い睫毛の影を落とした。
起こさないようにゆっくりと座布団の上に倒し、お袋が送ってきたタオルケットを掛けた。時計を見ると、もう3時を回っていた。




――そろそろ、夜があける。

麗人を寝かせたあと、家を出た。
卓袱台の上にスペアの鍵を置いてきた。出るときは施錠して、ドアのポストに放り込んでおいてくださるように、と書置きして。
ということは俺は、彼女が起き、部屋を出るくらいまで外で時間を潰さなければならないのだ。
近所の公園のベンチで横になってみたが、春とはいえやはり夜中の3時は正直きっつい。もう眠るのは諦めて、暇つぶしにと持ってきた、よく知らない作家の短編集を繰る。しかしさっぱり頭に入ってこない。寒いのだ、絶対的に。
なにをしているんだ、俺は。散々なブラックデーにも程があろう。いや、もう15日か。
面倒見がよく、ちょくちょく厄介事に巻き込まれ、そんな自分を変えようにも変えられない?…その通りだよ馬鹿野郎。今だって、義理も何もないあんたの今後が気になって仕方がない。

…あんたは多分、幸せにはなれないな。

思わぬ十字架を背負わされたせいか。…否。あの人は背負うべくして背負ったのだ。今、この十字架を背負わずとも、遅かれ早かれ他の厄介事に巻き込まれていたことだろう。
底抜けに人がよく、気の優しい彼女は、絶対的に平穏な人間関係の中でしか自分自身を保てない。

湖面に映る月影は、水がざわめけば乱れ四散してしまう。

相手が俺だとどうだ?と一瞬考えたが、多分俺には無理だ。まっすぐ過ぎる人が相手だとどうも、引いてしまう。…なんだか申し訳ない気分になってくるのだ。
だから、惚れないように細心の注意を払った。…大丈夫、まだ惚れてはいない。あっちも、俺なんかには惚れないだろう。あの人は『放っておけない男』に強く惹かれるのだ。色々ぶっちゃけ話をしてくれたのは、俺が通りすがりの他人だから。もう二度と関わり合うことのない人間だと、分かっているからだ。
時間潰して、帰って、あの人が跡形もなく消えてしまっていても、俺の日常は滞りなく過ぎていく。今まで、常にそうだったように。
あれは幻だったのだ。…再度、自分に言い聞かせる。公園の池からほっそり突き出た蓮の葉におかれた朝露をぼんやり眺める。消え残った月影が、朝露にうつりこんでいた。
…そうだ。蓮の葉にうつった月影と同じなのだろう。朝露がころりと池に落ちるのが早いか、月が消えるのが早いか。いずれにせよ、もうすぐ消える。二度と現れることはない。
…なに感傷的なことを。
腹が減ってきた。いつのまにか太陽がビルの頭を離れ、結構高い位置に来ていた。そろそろドトールあたりなら開いているだろうか…。




俺は、この日初めての客だったらしい。
誰もいない客席を見渡して、窓際の隅っこの席に鞄を放る。温かいカップを両手で包み込み、半分程すすった辺りで、ようやく氷柱から人間に戻ったような心地がした。
一緒に注文したAサンドをかじりながら、また麗人の話を反芻する。彼女が包んで、葬った死体というのは、誰の死体なのだろうか、メモを残して死んだ上司と彼女の間には、どんな感情のやりとりがあったのだろうか…。
「……あ」
突然、気がついた。
上司が残したメモに、最後に書き添えられた一文。
「読後このメモの焼却を命じる」
何気なく書き添えられたこの一文が、一番大事な『遺言』だったのだ。…この一文がなければ、麗人はいつまでも形見として、そのメモとやらを持ち続けていたにちがいない。記憶は塗り替えられることなく、そこに留まり続ける。
だからその上司はあえて命じたのではないか?焼けと。
こんなもん焼いて、自分のことは忘れろと。
3年以内の自死と書いてあったが、若い女にとっての3年は目まぐるしい。死ぬほど辛い出来事が、遠い記憶に変わるに充分な時間であろう。

―――それも、強がりか。

思えば俺の行動も、いわゆる強がりなのかもしれない。彼女の前では、男はつい強がってしまうのだろう。

あの人が美しく、本当はとても強い人だから。

一切ラクな道に逸れず、わき目も振らずに忠誠を誓い続ける強さが、未熟な俺には怖い。
ただ、安心もしている。
あの人は3年経っても、その上司とやらを忘れることはないかもしれない。だがその記憶に押しつぶされるほど、あの人はきっと弱くはない。そいつの記憶を大事に抱いたまま、顔を上げて歩き続けるのだろう。…労多く、実りの少ない道を。




ちっとも頭に入らない短編集を繰っていると、胸元で携帯が震えた。着信は『姶良』。
「…何だ、こんな時間に」
『いやもう10時ですから』
「4年は授業ないから12時まで寝るんだよ」
『就職決まったんですか』
「………用件を言え」
姶良は少し間を置くと、声のトーンを少し落とした。
『……あの、折り入って話しておきたいことがあって』
「何だ」
『えと…昨日、やっと説得したんです。先輩には言っておいたほうがいいって』
「何を」
『その…いろいろ事後報告になっちゃって申し訳ないというか、お心一つにとどめておいて貰えると有難いというか…心の準備はいいですか?』
「柚木のことなら知っている」
携帯から言葉にならない悲鳴があがる。奴が落ち着くまで耳から離し、短編集の続き(といってもちっとも頭に入っていないので何処から読もうが同じ)を繰った。
『だっ…誰から!?』
ようやく人語が聞こえてきたので、携帯を耳にあてる。
「壁に耳あり障子に目ありということだ、姶良よ」
そのまんまの意味とは思うまい。
『他の奴らも、知ってるんですか!?』
心なしか、わくわくしているような姶良の声が耳朶を打つ。恐らく自慢したくて仕方なかったのだろう。
「口止めはしておく。用はそれだけか」
『えっ…いやその』
「今、短編集がいいとこなんだ。切るぞ」
まだ何か語りたげな姶良の電話を、ぼろが出ないうちに強引に切る。…若干むかつくが、何やらつかえが取れたような、黒雲が晴れたような気持ちで2杯目のコーヒーをすする。そろそろ、俺も帰ろう、俺の日常へ。
念のため、Bサンドとコーヒーを買って帰る。万が一、麗人が俺の部屋にいたら、きっと腹を減らしているだろうから。居なければこれは俺の昼飯になる。無駄なことは何もない。
―――最初から何の期待もしない。常に気持ちに逃げ場を作る。これが俺の処世術だ。

店を出て、予想以上の眩しさに目をしかめる。…念のため、公園を迂回して、遠回りのルートを選ぶ。とろそうな彼女のことだ、まだぐずぐずと出て行く準備をしているかもしれないから。
…まぁ、迂回するまでもなく、彼女はきっともう居ない。ポストには、錆びた鍵がことり、と落ちていることだろう。『ありがとうございます』の一筆も添えられて。
彼女があとかたもなく消えていても、選択している2時限目の授業がなくなるわけではなく、午後からのサークルの会合が取りやめになるわけじゃない。東から昇った太陽は西へ沈む。つまり、何も変わらないのだ。一夜限りの麗しい幻は露と消えうせる。
されど、我らが日々は…。
 
 

 
後書き
ご愛読ありがとうございました。ご意見ご感想などいただけましたら励みになります。来週あたりには「くらいくらい電子の森に・・・」本編のおまけをアップする予定です。 
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