スペードの女王
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第三幕その二
第三幕その二
湿地帯に築かれたこの街の特色は運河が多いことである。冬の運河もまたそのうちの一つである。運河が縦横に走っているがその一つ一つに名がつけられている。それがこの運河の名前なのである。
遠くにペトロハバロフスク要塞が見える。中央には寺院がありそこに歴代の皇帝、皇后の棺が置かれている。要塞は政治犯の監獄ともなっている。その要塞がやっと見えてきた月明かりに照らし出されて夜の世界に白く浮かび上がっていた。
リーザはその要塞を後ろにして橋の上に立っていた。青いマントとフードで身体を隠し青い顔をしていた。
「もうすぐね」
暗い顔で呟く。
「もう真夜中。もうすぐあの人が来る筈よ」
彼女はゲルマンを待っていた。手紙で呼んで待っていたのだ。
「昼も夜も考えるのはあの人のことだけ。彼に全てを捧げてしまった」
心はもう彼のものとなってしまっていた。リーザはそれを感じていたがゲルマンはそうではなかった。ゲルマンは手に入れたものにすら気付いてはいなかったのだ。
「それに疲れ果ててしまったけれど。それでも私は」
ゲルマンを待つのであった。俯いて、暗い顔で彼を待っていた。
「時計がもうすぐ十二時を告げる」
要塞の時計である。
「早く来て。さもないと私は」
姿を見せないゲルマンに対して語り掛ける。
「貴方がいないと。もう生きてはいけない」
心に恨みが宿る。
「私は貴方しかもう見えないのだから。だから」
そして闇に向かって言う。
「来て、愛しい人」
だが時計の音が無慈悲に聴こえた。リーザに死の宣告をするかの様に闇の中に鳴り響いた。
「そう、やっぱり」
その時計の音に絶望せざるを得なかった。
「これが私の運命なのね。あの人にまで裏切られて死ぬのが」
彼女は生きている意味を失ったと思った。そのまま暗い川へと目をやる。その時だった。
「リーザ」
「ゲルマン」
側にゲルマンが姿を現わした。まるで舞い降りるかの様に。
「来たよ」
「来てくれたのね」
「うん」
笑顔を見せる彼女に対して頷く。
フードを外してその顔をまじまじと見る。青くなり、やつれてはいるがその青さとやつれが彼女の儚げな美貌をさらに浮かび上がらせていた。
「来ないかと思っていたわ」
「済まない」
「けれどそれはもういいわ。来てくれたのだから」
リーザは言う。
「それだけでもういいの。貴方が側にいるだけで」
「リーザ・・・・・・」
二人は抱き合う。だが温かくはなかった。冷たい抱擁だった。それは夜のせいであおるか。それともそれとは別の。だがそれは二人にはわかりはしなかった。
「これは本当のことなのね」
「そうさ、僕達が一緒にいることは」
「来ないかもと思うのは悪夢だったのね」
「そうさ、眠りの中の只の悪夢だったのさ」
「そう、じゃあ」
「うん、これからが本当なんだ」
ゲルマンは答える。
「苦悩も涙ももうない、僕は天使と一緒なのだから」
「何処までも。私達は」
「そうさ、じゃあ行こう」
「何処へ?」
リーザはその場所を何処か問う。
「何処かって?決まってるじゃないか」
「私達の愛の巣じゃないの?」
「賭博場さ」
ゲルマンは答えた。
「賭博場だって」
「僕は夢を掴むんだ。そこで夢を」
「何を言っているの、ゲルマン」
リーザは行こうとするゲルマンの裾を握った。
「行っては駄目よ、今の貴方は」
「そこに僕の全てがあるんだ、何もかも」
「私だけじゃ駄目なの?私は貴方さえいれば」
「リーザも何もかも。そう、僕はリーザを手に入れる為に賭博場へ」
「私はここにいるわ」
必死に訴える。だがゲルマンの目にはもう現実の彼女の姿は映ってはいなかった。
「三枚のカードの秘密を知ったから。それで僕は」
「待って、行かないで」
「行くんだ、リーザも夢もそこにあるから」
「どうして、私が見えないの!?」
「見えるさ、そして聴こえる」
見ているのは遥か遠くだった。もう現実も夢幻も彼には同じものとなっていた。全てが怪奇に混ざり合い一緒になってしまっていたのだ。
「彼女が」
「どういうことなの・・・・・・私の声まで聴こえないの!?」
「リーザ、今行く!」
そう言ってリーザの手を振り解いた。
「今君を手に入れる為に。待っていてくれ!」
「ゲルマン!」
そして橋から去り停めてあった馬に乗った。蹄の音が遠くに去っていく。それが彼が去っていく音に他ならなかった。
「どういうことなの・・・・・・」
リーザは橋の上に倒れ込み呟く。
「もう私のことは・・・・・・現実には目に入ってもいないし耳にも聴こえていないというの?」
もうゲルマンは狂っていた。この世界にはいない。それを今感じずにはいられなかった。
「全てが終わるのね。もう彼がここにいないから」
それを悟った。ふらふらと立ち上がる。
「それなら・・・・・・もう」
泣いていた。涙が川に落ちる。そして。
リーザもまたその身を落とした。暗い川の中に。今ゲルマンは天使を失った。しかし彼がそれに気付くことはなかった。その天使を手に入れる為に今向かっていると自分では思っていたのだ。
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