星々の世界に生まれて~銀河英雄伝説異伝~
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激闘編
第百話 激戦の予感
宇宙暦796年6月15日10:00
バーラト星系、ハイネセン、ハイネセンポリス郊外、自由惑星同盟、自由惑星同盟軍、統合作戦本部ビル、宇宙艦隊司令長官公室、
ヤマト・ウィンチェスター
大画面のモニターには生中継で捕虜返還調印式の様子が映し出されている。生中継といっても距離が距離だけに多少のタイムラグはあるけど、そこまで気にする程でもない。
「いよいよじゃな」
そう言うとビュコック長官はソファに座り直した。捕虜交換自体が無事終了した事は、既に我々にも伝えられている。これから調印式の締めくくりとして互いに調印書を交換して、式典は終了という訳だ……画面中央には向かって右に帝国のミュッケンベルガー、左にトリューニヒトが映っている。おそらく調印書だろう、お互いがペンを走らせている。サインが終わったら、互いに調印書を交換して式は終わりだ。式が終わったらマスコミによる質疑応答が始まる。まあ、こういった公式の場では、あらかじめ質問内容と回答は決められているものだ。そうじゃないとお互い何を言い出すか分からないし、それが新たな火種になりかねない。同盟と帝国は戦争中なのだから、尚更だ。
『歴史的な瞬間が訪れました、銀河帝国軍と叛乱軍軍部による捕虜交換が今、成就いたしました!』
一斉にカメラのフラッシュがたかれる。確かに歴史的な瞬間だろう、互いの軍部のみの同意とはいえ、一種の合意が成立したのだから…。
『フェザーン中央放送局のドロテア・カルテンブルナーと申します。ミュッケンベルガー元帥閣下、トリューニヒト氏お二人にお聞きします、この捕虜交換を機に両陣営が和平に向かう…という事は考えられるのでしょうか』
先にマイクを手にしたのはミュッケンベルガーだ。
『あくまでも両陣営に囚われた捕虜の返還に合意しただけであり、この事が帝国の戦争遂行について何ら影響を及ぼすものではない事を明言する』
続いてトリューニヒトがマイクを取る…プロレスのマイクパフォーマンスみたいだな…。
『今ミュッケンベルガー元帥が仰った様に、今回の捕虜交換式は両陣営の戦争遂行について…現時点では何も影響を及ぼすものではありません』
現時点…?トリューニヒトの奴、思わせぶりに話しやがる…。
『トリューニヒトさん、現時点ではと仰いましたが、この調印式が将来、または近い将来に何か影響を及ぼすとお考えですか』
『近い将来…未来の事は私には分かりません』
トリューニヒトはそこで言葉を切ると、せっつこうとするインタビュアーを力強く制止して立ち上がった…いちいち芝居がかってるよなあコイツは…。
『我々自由惑星同盟は…いや、この場では敢えて叛乱軍と名乗りましょう、我々叛乱軍の国是は専制政治の打破であります』
会場がざわついている…こりゃあらかじめ用意したスピーチじゃなさそうだ。ミュッケンベルガーも少し不機嫌そうな顔をしている…。
『ですが、それは帝国そのものを打倒するという意味ではありません。あくまでも私見として聞いていただきたいのですが、私はそう考えています……現在と、近い将来とでは、状況はそれほど変わらないでしょう。ですが未来の為政者は思い出すかも知れません、両陣営が手を携えた今日という日を』
会場のざわめきは一層大きくなった。ミュッケンベルガーが立ち上がる…表情は渋いままだ。トリューニヒトがミュッケンベルガーに向き直って右手を差し出した。少しの間をおいてミュッケンベルガーもそれに応える…式の体裁は整える、という事だろう、お互い握手を終えると式場から出て行った……。
「流石は我等が国防委員長だの、あの様なハッタリをかますとは…肝は座っとる様じゃ」
長官もトリューニヒトの答えた内容が事前に用意されたものではない、と思った様だった。
「わざわざ私見です、って言いましたからね。何を考えているのか…」
トリューニヒトの喋った内容は微妙な内容だった。専制政治の打倒と帝国の打倒は別だ、と言ったのだ。この放送が帝国でも流れているとしたら、帝国に住む人々は奴の発言をどう捉えるのだろう。放送を観た人々が属する身分階級で奴の発言の受け取り方が変わってくる筈だ。同じ事は同盟にも言える。トリューニヒトは今まで帝国打倒を唱えて来た。にもかかわらず帝国打倒と専制政治打倒は同意義ではないという考えを明らかにしたのだから、同盟市民の中でも様々な反応が生まれるだろう。
「まあ、どう評価するかは別として、改めて帝国に喧嘩を売った事は間違いありませんね」
「そうじゃな。心強いというか、先行き不安というか…失言じゃったかの、これは」
「いち有権者の言葉として聞き流しておきます」
俺がそう返すと、長官は大きな声で笑った。トリューニヒトの言葉の真意は分からないけど、もしかしたら会見自体を打ち切る為にあんな事を言ったのかも知れない。だから発言後すぐに握手を求めた…
「予定では、式終了後直ぐにフェザーンを出立するのだったな、委員長一行は」
「はい。すでに小官以外の各艦隊は出撃しております。遠征部隊の行動目的は、表面上は訓練と帰還兵の出迎えとなっておりますので、まずジャムジードにてフェザーンより帰投した第十三艦隊及び帰還兵輸送船団と会合します。それ以後の行動は通信管制を敷き秘匿行動に移ります。ジャムジード到着以後の遠征部隊の行動に関しては、欺瞞情報のみとなります」
「遠征部隊との通信が回復するのは、彼等のハーン到着後じゃったな」
「はい。補給の為にイゼルローン要塞を経由する以外は、遠征部隊の行動が表に出る事はありません。要塞にて補給を受ける事も欺瞞計画の中に入っておりますので、これについても問題はありません」
「ふむ…貴官はいつ出発じゃったかな」
「本日一八〇〇時です」
「そうじゃった。本意ではなかろうが、健闘を祈っておるよ」
「ありがとうございます。必ず無事に戻って参ります」
さあ、出発だ。執務室に戻るとミリアムちゃんが用済みになった書類のコピーとかをシュレッダーにかけていた。しばらく留守にするんだから必要な措置でもある……本意ではない、か…。確かに本意じゃない。本格的に帝国に攻め入るのは、せめて皇帝が死んでからの方が望ましかったんだ…原作の様に帝国はラインハルト頼りという訳じゃないから、ああも鉈で竹を割った様にハイ内戦、ラインハルト鎮圧宜しくね、とはならない筈だし、こっちの戦力も健在だから内戦が発生しても付け入る隙は充分にある。だけど、気になるのはフェザーンだ。フェザーンがおとなしい、というかおとなしく見えるのだ。まあ、転生前の様に全ての陣営を俯瞰して見れる立場ではないからそう思えるのかも知れないけど…ルビンスキーの性格からいって、捕虜交換の裏でテロとか企んでいてもおかしくはないのに、その捕虜交換もすんなりと終わってしまった…。
「どうかなさいましたか、閣下」
「え?」
「なんだか浮かない顔をしていらっしゃるので、何かあったのか思いまして」
「いや、何でもないよ。書類整理はどうかな」
「終了です」
「じゃあ…少し早いけどランチにしようか。しばらく食べに行けないから、今日は豪勢に三月兎亭にでも行こうか」
「了解いたしました。奥様に連絡いたしますか?」
「頼むよ。ああ、副司令や参謀長達にも声をかけてくれるかい?」
「かしこまりました」
帝国暦487年6月20日18:35
アイゼンフート宙域、銀河帝国、銀河帝国軍、宇宙艦隊総旗艦ヴィルヘルミナ、
エーバーハルト・フォン・ヒルデスハイム
まさか、まさかこの艦内でこんな事が起こるとは…。
「自白はしたか」
「いえ。申し訳ありません」
「卿を責めているのではない、リューネブルク。責めてもどうにもならん…艦長」
「はっ」
「卿はリューネブルク少将と協力し、艦内保安の指揮を執れ…グライフス総参謀長」
「はっ」
「この後だが、どうする」
「どうする…と申されますと」
「元帥閣下が賊の手にかかって倒れたのだぞ。総参謀長として腹案があろう」
「賊の背後関係を明らかにし…」
「それだけではないだろう、総参謀長」
こんな想定しにくい状況で腹案というのは少々酷かもしれない…グライフスも気が動転しているのだろう、まずは統帥本部総長に報告しなければならない事を忘れている…。
変事が発生したのは三十分程前だった。ミュッケンベルガー元帥が襲われたのだ、このヴィルヘルミナの艦内で…捕らえられたのは閣下の従卒だった。従卒は、閣下の夕食に毒を盛った上、刺したのだ。閣下の部屋の外に立っていた警護兵が室内から聞こえてきた異音に気付き、急いで室内に跳び込んだところ、震えながら血塗れの短剣を構える従卒を捕らえたのだという。従卒の名はコンラート・フォン・モーデル、幼年学校の二年生だった。出自は…リッテンハイム一門の末端に連なるコンラート家だ…。
「閣下、軍医大佐から連絡が入っております。医務室においでいただきたいと」
参謀のオーベルシュタイン大佐が医務室からの連絡を告げてきた。
「了解した。大佐、総参謀長の補佐を頼む」
「了解いたしました」
司令部艦橋を出ると、グリューネワルト伯爵夫人とヴェストパーレ男爵夫人が駆け寄って来た。私の事を待っていたらしい。
「伯爵、元帥閣下が賊に襲われたとリューネブルク少将から聞きました。閣下は大事ないのですか」
「分かりません、今から医務室に向かう所です。同道なさいますか」
「はい」
襲われたのは閣下だが、二人も標的という恐れは充分にあった。目の届く所に居た方がいいだろう…。
警護兵を付き添わせて医務室に行くと、軍医は意外にも明るい口調で状況を話し始めたが、内容はその正反対だった。
「閣下の容態ですが、正直申し上げて芳しくありません。毒の方は問題ありませんが、刺傷が思いの外深く、重傷であります」
警護兵はモーデルを捕らえた後、閣下の口に手を突っ込んで強引に毒を吐かせたらしく、それが功を奏して全身に毒が回る…という事態は回避出来た様だった。だが刺された腹部の傷はいかんともしがたいらしい。傷は肝臓に到達しており命に別状は無いものの、完治には少なくとも三ヶ月はかかるという。
「不幸中の幸いであったな」
「実にその通りです。ですが、一つ気になる事が…モーデル幼年兵ですが、サイオキシン麻薬を常用している痕跡があります」
「なんだと」
軍医は閣下の怪我の事を忘れたかの様に沈鬱な顔をした。
「このような年端もいかぬ若者が麻薬常用者とは考えにくく…強制的に投与されたのではないかと」
「何故サイオキシン麻薬を使用していると分かったのだ」
モーデルは捕らえられた直後過呼吸を起こして気絶し、閣下と共に医務室に運びこまれていた。目が覚めれば事情聴取は可能と考え、監視の兵士を付けてベッドに拘束状態で寝かせられていたのだが、突如目を覚まして暴れ出したというのだ。軍医は、この一連の流れはサイオキシン麻薬の重度の中毒患者に見られる典型的な症状である、と教えてくれた。
「今は鎮静剤を投与して眠っております…サイオキシン麻薬患者は洗脳にかかりやすく、条件さえ揃えば患者を暗殺者に仕立てあげる事も可能だと…これはリューネブルク少将が仰っていた話ですが」
自白が取れない筈だ……分からない話ではない。だが麻薬中毒患者を暗殺者に仕立てあげるには、昨日今日の麻薬投与では済まない筈だ。
「了解した。閣下が目を覚まされたら教えてくれ」
医務室を出て、応接室に向かう。何が起こるか分からない、今後は応接室の警護を厳重にせねば…警護兵が先に応接室に入り、異常の有無を確かめる…異常はない様だ。
「室内は大丈夫ですな、お二人共お入り下さい…許可が出るまで応接室を出るのを禁じます。お二人の安全の為です、では」
ヴェストパーレ男爵夫人は何やら言いたげな顔をしたが、諦めて頷いた。こういう時には女共には何も言わせないのが一番だ…艦橋に戻ると、グライフスが頭を下げてきた。
「狼狽し、お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。統帥本部総長に事態を報告したところ、事態の究明に全力を尽くせ、との事です。帰投日時の変更はありません」
「頭をあげよ。私は宇宙艦隊の命令系統に入っておらんのでな…私が報告するより卿が報告した方がいいだろう、と思ったのだ。そうか、変更なしか」
「はい。急に予定を変更すれば騒ぎだす輩がおるやも知れん、とも申されておりました」
「そうか、充分に考えられる事だな」
艦内には箝口令が敷かれているから、しばらくの間はこの変事が洩れる事はないだろう。このまま予定通りの日程で往路を進めば、実行者の背後に存在する者達も状況は掴みづらい…。
「だが、何時かはバレる。総参謀長、元帥閣下は自らの後任について何か卿に言ってなかったか」
「いえ…特には」
「そうか…軍医の話では、閣下の傷が癒えるまで最低でも三ヶ月はかかるそうだ。宇宙艦隊司令長官の代理が必要になるが、卿の目からみて、誰が適任だと考える?」
「代理という事であれば、副司令長官がその任にあたるのが適当でしょうが…」
グライフスが言い澱むのは理解出来た。ミューゼルは辺境守備の為に副司令長官職に任じられたばかりであり、奴を代理にするとなると辺境守備の指揮を執る者がいなくなってしまう。仮にその点をクリアして代理に任じたとしても、首都に残る艦隊のほとんどはミュッケンベルガー閣下の腹臣がほとんどだ。若くそれほど実績のないミューゼルの指揮を受け入れるかどうか…かといって他に適任の者が居るのか…。
宇宙曆796年6月23日19:00
アムリッッア星系、カイタル、自由惑星同盟軍、アムリッッア方面軍司令部、司令部作戦室、
ヤン・ウェンリー
「司令官、現在の状況は我々の対処能力を越えているのではないですか」
ラップはお手上げだ、と言わんばかりにそう言った。
「そうだね。少なくとも、今のところはこちらから手を出せないな」
ヴィーレンシュタイン宙域で消息を絶った通報艦の報告によると、帝国軍は同星系に大規模な根拠地を造りつつあるという。辺境領域の入口であるヴィーレンシュタインに根拠地を造るという事は、ここを拠点に腰を据えて我々に対処するという決意の表れだろう。
「手出すなんてとんでもない。シャンタウにも十万隻の帝国艦隊がたむろしているって話じゃないか。捕虜交換は済んだが…それはそれ、これはこれ…って事なんだろうな、あちらさんも」
十万隻、途方もない数だ。帝国軍は元から辺境防衛に五個艦隊を進出させている。更にシャンタウに七個から八個艦隊規模の増援…考えただけで頭が痛くなる。アムリッッア方面に展開する各艦隊の統率を任されてはいるものの、一斉に寄せて来られたら対処のしようがないな…。
「ですが、敵は何故全軍でヴィーレンシュタインに集結しないのでしょうか。全軍で集結した方が我々に対して圧倒的に有利だと思いますが」
ムライ中佐の言う事はもっともだ。
「命令系統が違うのでしょうか」
パトリチェフ少佐が自分の言葉を信じていないかの様に呟いた。
「そんな訳はないだろう。位置関係から考えても、シャンタウの帝国艦隊は増援、後詰だ。我々同盟は再出兵を発表している、それに呼応した動きと見ていいだろう。であれば命令系統は一本化されていると見るのが普通だ」
「…仰る通りですな」
ムライ中佐に反論されて、これが俺の仕事だと言わんばかりに深く頷くパトリチェフの姿には苦笑せざるを得ない…中佐の言う事は至極常識的だが、二つの宙域の帝国艦隊の命令系統が同じなら、その片方…シャンタウの艦隊はミュッケンベルガーの率いる十個艦隊のうちの幾つかという事になるが…ミュッケンベルガーは捕虜交換式を終えたばかりで、どう考えてもフェザーンを出たばかりの筈だ。とすれば、シャンタウの十万隻…七個から八個艦隊という大兵力の統率を部下に任せている事になる。これまでの戦い方を見ても、ミュッケンベルガーは陣頭に立つ男だ。奴が麾下の艦隊の指揮を他人に任せる、そんな事があるのだろうか。しかも後詰という重要な役割を、だ…。
「ビロライネン中将、現在の哨戒状況はどうなっていますか」
ビロライネン中将は、私が来る前まで暫定的にアムリッツア方面軍の指揮を執っていた方だ。退官を控えており、本人もまさか最前線で指揮官として勤務するとは思ってなかったという。そのビロライネン中将が端末を操作しようとした時、警報が鳴り響いた。居心地の悪くなるような警報音とは裏腹に、オペレータが落ち着いた声で報告を上げた。
「ボーデン宙域を哨戒中の第十一艦隊より通報……我、所属不明の帝国艦隊ト遭遇セリ…ボーデン宙域中心部、敵ノ規模凡ソ一二千万隻、彼我ノ距離、約一千光秒。我、後退中」
「了解した…フォルゲンでも同じ様に第六艦隊が哨戒を行っております。どうなさいますか、司令官」
ビロライネン中将は私に呼び掛ける時はいつも司令官、という部分を強く発言する。彼の本来任務はこのカイタル基地の管理維持にあるから、重責から開放されたのがよほど嬉しいのだろう。だが、そうあからさまに態度に出されると、此方としてはあまり気持ちのいいものでもない…。
「そうですね…第六艦隊はアムリッツァ外縁まで後退させて下さい。第十一艦隊も敵状を見つつアムリッツァ外縁まで後退させましょう。不必要に帝国艦隊を刺激する必要はありません」
「了解致しました…では後は宜しくお願いします」
ビロライネン中将は形ばかりの敬礼をすると、作戦室を出て行った。私が大きくため息をつくと、グリーンヒル大尉が心配そうな顔をしていた。
「ビロライネン閣下はあまり…協力的ではないように見受けられますが」
「昨年の戦い以降上役が居なくなって、いきなり指揮を任されたんだ、嫌にもなるさ。非協力的、というよりは本来の任務に戻れてホッとしているんだと思うよ。退官間近でもあるしね」
突如最前線で六個艦隊の統率を任されたのだから、その心労は察するに余りある…しかもそのうちの五個艦隊の司令官は自分と同格なのだ。思うように口に出せない思いもあっただろう……私はどうなのだろう、自分の艦隊も含め六個艦隊。うまく指揮出来るだろうか。方面軍司令官として着任した私を、駐留の艦隊司令官達はどう思っているだろうか…いけないな、これではいけない…。
6月24日08:00
フレデリカ・グリーンヒル
「閣下、おはようございます」
「やあ、おはよう大尉」
…どうしたのかしら。閣下が朝に弱いお寝坊さんなのは分かっているけれど、今日は何時にもまして覇気が感じられない…。
「大尉、朝食は作戦室で食べる事にするよ。ユリアンが準備してくれているから、済まないが受け取って来てくれるかい?」
「了解致しました」
作戦室に向かう背中はまるで、エル・ファシルの頃の中尉時代みたい……あ、朝食を取りに行かないと。
「おはようございます、大尉」
「おはようユリアン。閣下の朝食を取りに来たんだけど、支度は済んでいるかしら」
ユリアンは部屋の奥に引っ込むと、大事そうに朝食の載ったトレーを運んできた…彼なら何か聞いているかも知れない。
「あら、サラダラップね。美味しそう」
「まだ余分にありますよ。大尉も食べますか?」
「いいの?実は私も朝食まだだったのよね…ところでユリアン、閣下があまり元気がないようなんだけど…何か心あたりはない?」
ユリアンは首を傾げて考え込んだ。
「そういえば…此処に来てからは酒量が増えていますね」
「酒量…」
「はい。提督は詳しくは話してくれませんが、何か悩んでいる印象はありますね」
やっぱり何か気にかかる事があるんだわ…。
「ありがとうユリアン。じゃ私も一つ頂いていくわね」
ユリアンと別れて作戦室に向かう途中、ラップ参謀長に声をかけられた。参謀長は何かご存知かしら…。
「うまそうなサラダラップじゃないか。一ついいかな」
「あ」
参謀長は言い終わらないうちにサラダラップを一つつまんで口に入れた…もう。
「あれ、これもしかしてヤンの朝食かい?まあ、奴は見てないし大丈夫だろう」
「……参謀長、閣下から何か聞いておられませんか?」
喉につっかえたのだろう、参謀長は胸を叩いて苦しそうにしている。
「あ、ああ…ヤンに何かあったのかい」
「いえ、何だか元気がないご様子なので。何か心配事がお有りなのかと思いまして」
「うーん…君に何も言わないって事は大丈夫なんじゃないか?」
「ユリアンは最近酒量が増えていると言っていました」
「それでも任務に支障が出る程飲んでいる訳じゃないだろう?」
「それは…そうですが」
「意外に繊細な所があるからなアイツは。多分方面軍司令官なんて私にはとても…とか考えてるんじゃないか。大丈夫だよ」
「そうでしょうか」
「どうも自分には能力がないと思っている節があるからな、ヤンには…奴にとって、一皮剥けるいい機会だと俺は思ってるんだがな」
「一皮剥ける…ですか?」
「ああ。指揮官には違いないが、これまでは艦隊司令官として戦場の駒に過ぎなかった。だけど今回は駒には違いないがキングとして振る舞える…自分の采配で戦えるんだ。指揮官として成長するチャンスだ」
どういう事だろう…艦隊司令官としてヤン閣下は実績を示された。しかもその当時は半個艦隊の司令官だったのだ。それでは足りないというのだろうか。ワタシの表情に気付いたのだろう、ラップ参謀長は私の疑問に対する答えをくれた。
「艦隊司令官として優秀な事と、艦隊司令官達を統率する軍司令官として優秀な事は別…と言う事さ。ヤンは確かに艦隊司令官としては優秀だ。だけど今回の任務の様に艦隊司令官達を統べる任務はまた別なんだ」
「それは…ヤン閣下が同格の艦隊司令官に命令を出さなくてはならないから、でしょうか」
「それもある。だが、一番重要なのは、命令を受ける側の艦隊司令官達が、ヤンを認めているかどうか、なんだ。階級はあまり関係ないんだよ。今アムリッツァに居る艦隊司令官達はヤンと共に戦った事がないからね」
言われてみれば、ヤン閣下はウィンチェスター副司令長官としか戦場を共にした事がない。過去の戦いもそうだ、閣下の能力を認めて部下として幕下に加えていたのはシトレ元帥の他はウィンチェスター副司令長官しかいないのだ。言い方を変えれば、常に副司令長官の庇護下で戦って来たとも言えるのよね…。
「それは、他の艦隊司令官の方々がヤン閣下のお力を認めていない、そういう意味でしょうか」
贔屓になるのかも知れないけれど、ウィンチェスター副司令長官を除けば、ヤン閣下は数居る艦隊司令官の中でも屈指の戦術能力と統率能力をお持ちだと思う。その事実を認めないというのは、いささか…。
「それに近いものはあるだろうね。だからこそ指揮官として成長するチャンスなんだ。俺はね、悔しいんだよ」
「悔しい…と仰いますと」
「ヤンが評価されていない事が悔しいのさ。ウィンチェスター副司令長官が居るからな。確かに副司令長官はすごい。だけどな、ヤンだってすごい奴なんだ。だけどヤンは自らを誇示しようとはしない。副司令長官に負けない才能の持ち主なのに。それが俺は悔しいんだよ」
ラップ参謀長はベレー帽を握りしめて沈鬱な顔をした…意外だった。参謀長だって過去には副司令長官の下で任務に就いていたのだ。同期の、親友の才能を認めているからこその憤りなのだろう…。
「参謀長はどうなのです?」
「…え?俺かい?」
「はい。小官ごときが申しあげるのも僭越ですが、参謀長も優秀なお方だと思っているのですが」
ラップ参謀長は私の発言の意図に気付いたのだろう、大声で笑い声をあげると、ベレー帽を被り直した。
「俺は司令官の器ではないと思うね。他人の評価は気になるし、参謀長として虚勢を張っているのが精々だよ。それに…」
「それに…?」
「もし艦隊司令官にでもなってみろ、ヤンや副司令長官と比較されてヘコむのが関の山さ……さあ、作戦室に行こうか。つまみ食いした事、ヤンには黙っててくれよ?」
参謀長は私の肩をポンと叩いて先に行ってしまった…副司令長官のせいでヤン閣下は正しく評価されていない…閣下を支える私にとって、この言葉の意味は重い。正しく評価されないが故に不当な扱いを受ける可能性があるからだ。正当な評価を受けるにはまず実績をあげねばならないのだけど、閣下はその点についてどうお考えなのかしら…。
作戦室に入ると、室内の空気は緊張に包まれていた。
「すみません、遅れました」
「ああ、気にしなくていいよ。朝食、ありがとう」
ありがとうという言葉とは裏腹に、閣下は朝食に手をつけようとはしなかった。スクリーンの概略図を見ると、どうやらボーデンの状況が映し出されている様だ、参謀長が説明してくれた。
「どうやら帝国軍はやる気らしい。後退する第十一艦隊を追撃しようとしている。おまけにその後方には増援と思われる艦隊も現れた…国防委員長のスピーチが効いたのかな」
概略図には第十一艦隊に向かう帝国艦隊のはるか後方にもう一つ、敵艦隊を示すシンボルが映し出されていた。
「ヤンは自分の艦隊で向かいたい様だが、そうするとフォルゲンの状況が見えにくくなるという事で、第七艦隊、第十二艦隊とが今出撃準備を整えているところだ。他の艦隊も順次出撃準備に入る」
概略図にはボーデンに向かうのが第十二艦隊、フォルゲン方面に向かうのは第七艦隊である事が表示されている。ボーデンに敵が現れたのだからフォルゲンにも…至極順当な戦力配置だ。また昨年の様な状況になるのかしら。いや、昨年より状況は悪い、何しろ帝国軍は辺境配置の五個艦隊に加えて十万隻に及ぶ増援が存在する。再出兵の発表に対する反応として敵ながら最大級のものよね…今なら父の苦悩の一端が理解出来る、最前線で指揮を執る重圧を…おそらく同じ苦悩をヤン閣下も感じている…参謀長が一皮剥けるチャンスと言ったのはこの事も含むのだろう。でも、確かにそうかも知れないけれど、その前に生き残らなくてはならないのだ…。
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