ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第108話 凶報
前書き
お世話になっております。
そういうわけです。
宇宙暦七九一年 五月 ハイネセンポリス
投資ファンドによる新会社の設立と、その新会社がSRSBの傘下に入ったことは、同盟経済のごくごく一部に嵐を巻き起こした。何しろファンド総額がSRSBの時価総額の三倍以上。SRSBが今最も注力しているのが何であって、新会社が元は資材会社の開発部門であることを十分に承知している造船大手各社は総毛立った。
新型高速巡航艦計画は本来次期標準型巡航艦計画とは別物であって、軍の戦術的要求を満たす試験部隊用、あるいは既存艦を改造して作られる嚮導巡航艦に代わる新しい艦種の試験計画と思い込んでいた大手各社の首脳部は、ファンドに集まった三三億ディナールというとんでもない額を見て、自社の開発計画をこのまま進めるか中断するかの決断を迫られた。
彼らの誰もがインサイダー取引であろうと理解していたが、この大波に乗り遅れてはならないことも分かっていた。業界中堅のSRSBには次々と、大手各社の経営管理者や金庫番・開発主任が乗り込んできて土下座してまで『スパルタ王妃』計画を確認し、何故SRSBが首謀して無謀な投資ファンドを募ったのか同業者として十分すぎるほどに理解して、投資ファンドへの自社からの出資と、それに伴う『まだ制式採用されていない』新型高速巡航艦のOEM生産契約を結んだ。
「アナタが何かを為さんと動く時、周囲がみんな引き摺られ実力以上の事を成し遂げ、余計なものまで引っ張ってきて、予想した未来の斜め上に事態が進行してしまうのは、重々承知していたつもりなんですがね? ちょっと今回は酷過ぎやしませんかね?」
心温まる交流の跡が残る右手を見ながら店から出て来た俺が、人気のない路地裏で無人タクシーを呼んで待っていた時、蟀谷に青筋浮かべたバグダッシュに叩きつけんばかりの勢いで壁に押し付けられ『ドン』された。殺気バリバリの色男に俺は必死に成果を話したので、その怒りは呆れに代わったが、それから三週間が経って事態の進行がハッキリと形になり始めた今日。いつものレストラン『ドン・マルコス』のいつもの特上フルコースを前に、バグダッシュはワインを手酌で飲みながら恨み節を零している。
「直後に種明かしをされたウチ(軍情報部)も大混乱ですけどね。S(中央検察庁)はインサイダーでマル対(捜査対象)をギチギチ締め上げてやろうとしたら、『後ろ』から『ちょっと待って』されて欲求不満が溜まってます。まぁ、これは予想されていたんですがね」
「がね?」
「一番ヤバいのはC(中央情報局)ですよ。ウチと彼らとは普段は仲良しなんですが、今度の一件で真正面から土下座して協力して欲しいって言って来ましたよ。頭を踏んづけようとした足が思わず止まる位には、ウチの上(層部)も彼らに同情しています」
普段どれだけ『仲良し』なのかよくわかったような気がするが、俺が要らぬところから恨みを買ったことは間違いない。流石にフェザーンの触手が伸びていることを知った軍情報部が、一応は『タダで』国益を守ったことになる俺を彼らに売るようなことはしないと思うが、それも薄氷だ。
注視すべき中央情報局にはフェザーンのスパイが居た。十分承知の上で国防委員会に潜り込ませて『使っていた』とは思いたいが、今回の件でどうなのか分からなくなった。何しろ中央情報局自体は国家安全保障に関する情報を収集分析することを任務としており、今回の件で本来だったらフェザーンの『シノギ』を事前に察知して阻止すべきだったのに、結果的には企業と軍部だけで解決してしまった。
盗聴器だったはずのチェン秘書官が機能していなかったこと。さらには姿をくらましていたことで、国外諜報を任務とする第七部の面子は丸つぶれ。中央情報局自身が国内企業から信頼されていないという現実もさることながら、政府内でも相当肩身が狭くなった。それで殺気立っているのか。例の高級クラブが三日後には火事になったという話も耳にした。死者・負傷者が出てないのが幸いだが……
「……あの童顔の姿が消えていたことで、アンタも相当疑われています。ただCに居る連中はみんな苦労人ばかりなので、アンタのことはヨブさんお気に入りの世間知らずの男妾としか見てませんが」
「それもあながち間違っていない」
別邸や深夜の議員事務所には何度も呼ばれていたし、予算審議ではヨブ氏と協力して関係各所と折衝して来たから、氏の手先だと思われても仕方ない。顔も量産廉価品優男だし、普段から言葉遣いには気を付けているから、エベンスのようなイメージを軍人に対して持っている人間からしてみれば、俺が男妾に見えてもおかしくない。納得して怒りもしないのを見て、バグダッシュは小さく鼻息を吐いてから皮肉っぽく肩を竦めた。
「ここ最近仮面を被った色男達が、街中に姿を現していないことに気が付かない程度の連中です。ま、アンタの中身に辿り着くには、あと一〇年くらいはかかるでしょうよ」
「良い画、取れてた?」
「アマチュアアクションムービーとして配信したら、なかなかイイ感じに『お小遣い』が手に入りそうですな。公開前に検閲が入ってしまうのは残念な限りです」
いい気味だぜと言わんばかりの気持ちのいい笑顔でグラスの中身を一気に飲み干し、口を尖らせて軽く息を吐きながらワインの香りに浸る。だがそれも数秒。音を立ててグラスをテーブルに置くと、バグダッシュはホテルシャングリラ襲撃前にシェーンコップ相手に話していた時と同じような、これまで俺に見せた事のない真剣な目付きで口を開く。
「『童顔』の行く先を教えてください。まさか親が病気になったから故郷に帰るって話、本気で信じたわけじゃないですよね?」
「そのつもりだけど?」
「C-七は行方を血眼になって探しています。近いうちにアナタのオフィスにも訪れるでしょう。居場所をご存知なら軍が先回りして保護することもできます」
何故そこまで今回のシノギ『程度で』そこまでC-七が怒り狂っているのか。バグダッシュの言う通りなら、近々訪れる人達がきっと教えてくれると思うが……
「悪いけど『知ったことか』だね」
個人的には俺が書き上げた『Bファイル』がワレンコフへの暗殺の引き金になった可能性が高いだけに、チェン秘書官の命を懸けた行動を、直接の敵ではない軍情報部であっても縛らせたくはない。仮に保護したとしても、チェン秘書官になんら恩義のあるわけでもない軍情報部だ。中央情報局との取引材料に使わないとも限らない。
「チェンさん、このままだと殺されますよ。アンタそれでホントに良いんですか?」
シミ一つない白いテーブルクロスに皺が寄り、音も立てず料理の位置が僅かにずれ、怒りと失望がないまぜになった瞳が俺を射すくめる。原作のアニメーションでも見たことのない、暑苦しいまでの情熱が籠った表情だ。まだ『若い』からなのか、それともこれも挑発の表情なのか、俺の乏しい脳味噌では分からない。
「彼女は覚悟の上だよ」
俺が視線を向けることなく、ワイングラスを置いてナバハスに手を出したのを見て、バグダッシュも口を割らないと見たのか、同じようにナイフとフォークを取ってナバハスに取りかかる。歯ごたえの良い、濃厚な旨味が口の中に広がるのを感じながら、ワインを口に送り込むのを繰り返しているうちに、バグダッシュの顔から情熱が消えて冷静さが戻ってきた。
「……つまり人の良いアンタは、私や情報部が知らないヤバそうなネタを知っていて、あの女狐に好きなようにやらせてるっていうわけですな」
「まぁね」
軍情報部も可能性ぐらいは検討しているだろうが、今年中にフェザーン自治領主が暗殺されるかもしれないなどという戯言を言ったところで、バグダッシュ自身は容易には信じないだろう。しかし少なくともチェン秘書官は、いつもの余裕をなくすくらい可能性が高いと思っている。
「……ということは、『結論』はすぐに出そうなんですな」
「さぁね」
明確な時期は分からない。とりこし苦労の可能性だってある。それならそれでいい。残り半年。ワレンコフの命運がチェン秘書官によって救われるのであれば重畳。俺ののらりくらりとした対応に、バグダッシュは小さく鼻で笑うと、少しだけ余所見をしてから口を歪ませつつウィンクしてくる。
「秘書官がいなくて随分お困りって聞いてますよ? どうです。ウチにイキのイイ若いのがいるんですが?」
「……流石に情報部の選り抜きはご遠慮したいかな」
「勇気と忠誠と格闘戦において比類なきブルネットの女の子でも?」
「能力の前に、誰に対する忠誠かの方が重要じゃない?」
「C-七の態度、どう思います?」
「アンタの話を信じる限りにおいては、控えめに言って『糞喰らえバーカ』だね」
「フフフフフフフッ」
毒の無さそうな含み笑いをしつつバグダッシュは肩を竦める。モンテイユ氏もそうだが一応は短期派遣となるにもかかわらず、俺の手元に人を送り込もうとするのか。しかも若い女性に限っているところに腹が立つ。俺が口をへの字に曲げているのを見て、さらにひとしきり笑うと、バグダッシュは降参といった表情を浮かべてグラスを掲げる。
「わかりました。秘書官を送り込む代わりと言ってはなんですが、今回の件の迷惑料として、何か私にネタくださいませんかね?」
俺をスパイするつもりだとゲロしながら無心してくるその態度は、主義主張は生きるための方便と言い切る男らしい。だからこそ中央情報局の件を教えてくれた対価を支払わなければ、バグダッシュは俺から少し距離を取ることになるかもしれない。俺はグラスに残っている赤を飲み干してから溜息をついて応えた。
「モンテイユ氏のことは?」
「アンタと言葉通りの意味で仲の良い堅物の財務官でしょう? 彼がどうしたんです」
「彼には昨日話したばかりだから、一日遅れになるんだけど」
「結構ですよ。予算と税金に関係のないことでは、財務委員会の神経伝達速度が遅いのはよく知ってますからね」
濃厚なナバハスに飽きたのか、さっぱりしたボケロネスを摘まみ始めたバグダッシュは、皮肉そうな口ぶりで言う。
「それでも財務官殿に関わりがあるってことは、お金に関することなんですな」
「資源系投資会社のユニバース・ファイナンス社、知ってる?」
「いや、知りませんが……で、そいつはアンタが『気に入らない奴』ですか?」
「調べた後でどう処分するかは、そちらにお任せするよ」
「OK。調べてみましょう。ですがまぁ……想像するにまたC(中央情報局)の人達から嫌がられそうな話になりそうですな」
それはそれで愉快痛快ですがね、と人の悪い笑みを浮かべてバグダッシュは小さくグラスを掲げるのだった。
◆
宴席から三日後。予想通り中央情報局の担当者と名乗るものからアポイントの依頼があり、俺は快く受けることにした。国防委員会のオフィスに中央情報局の人間を入れること自体あまり好ましいとも思えないが、『公式には』何もやましいことがあるわけでもない。
それでも一応は防諜として部屋のあらゆるところに監視カメラと録音装置を仕掛けることは忘れない。ソファに座れば見えるように、妨害防御のないタイプを設置するのがコツだ。
「中央情報局作戦本部二課のジョン=エルトンさんと、七課第三班のヒュー=ピースさんですか」
相対してソファに座る、俺から見て右手のニコニコ顔の壮年がジョン=エルトン氏。名刺に書いてある職責は諜報課課長。分かりやすく言えば同盟国内におけるスパイ狩りの元締めだが、パリッとしたスーツを着ていてもどこにでもいる中小企業の営業課長にしか見えない。
一方左手で俺に向けて軽蔑と警戒の視線を向けている三〇代半ばのすっきりと出来るエリート臭を漂わせる男がヒュー=ピース氏。職責から言えばフェザーンや帝国の内情を探るスパイ。班長ということは工作員の纏め役というところ。
「予算審議が厳しくなる時節に、お邪魔して申し訳ないです。ボロディン中佐」
ソファに座りつつ深く頭を下げるエルトン氏と、不承不承で小さく目礼するピース氏の対象は、良い警官と悪い警官のテクニックだろう。それに乗る必要はなく、いつも通り師匠譲りの穏やかな笑顔に、ほんの僅かな焦りを込めて応える。
「いえいえ。確かに忙しいですが、中央情報局の方からたってのお願いとのこと。いつでも言って頂ければ」
「そうおっしゃられると、こちらとしても気が楽になります」
はぁあああ、と右手で頭を掻きながら溜息をつきつつ、エルトン氏は目の前のカモミールティーに視線を落としながら指をさす。実にその動きが自然で、気味が悪いくらいだ。
「これはもしかして、中佐自らお淹れになっていらっしゃるので?」
「えぇ、そうです」
先に口を付けて味わえば、教科書通りのすっきりとした味わいが溢れる。
「本来ならば秘書官が淹れてくれるのですが、生憎家族が重病だということで、ちょっと席を外しているんですよ。味が悪くて申し訳ない」
「とんでもない! 全然問題ないですよ。なんならウチの嫁さんに教えていただきたいくらいです」
ややオーバーな手振り。これで安っぽくてよれよれのレインコートを着ていたら、サスペンス・テレビ映画の名警部(補)みたいな感じだ。恐らく嫁さんという存在に出会うことがないのも同じだろう。いきなり本題を軽く小突いてくるというのも同様に嫌らしい。
「あぁ……実に落ち着きますね。私もこういうオフィスでのんびりと茶道楽をしたいものです」
「そうですねぇ。時間があれば、私もエルトンさんと全く同じ思いですよ。ほんと軍の仕事なんてろくでもない」
「士官学校、それも戦略研究科でしかも首席で卒業された中佐でもそうなんですか? 辺境でも前線でも銃後でも見事な武勲を上げていなさるのに。いやぁ心の同志というものは、意外なところに在るものですなぁ」
「なかなかお互いにうまくいかないものですねぇ」
はははっと俺とエルトン氏の笑いがソファのテーブルの上で重なるが、ピース氏の表情も仕草も全く変わらない。これはこれで気味が悪いが、まったくの世間話風のおだてに含めてお前の経歴など早々に洗っているぞと言ってくるエルトン氏に比べればマシだ。
「それで……緊急のご用件とは?」
「ウーという人物に関することなんですがね。ウー=キーシャオ」
「ウー=キーシャオ(武妃紗麻)?」
初めて聞く名前だが、恐らくそれが中央情報局におけるチェン秘書官の名前だろう。だが馬鹿正直に此方から答える必要はない。
「初耳です。名前の響きからしてE式の方のように思えますが」
「はい。おっしゃる通りです。きっと中佐の前でその名前を口にすることはなかったでしょう。中佐の秘書官を勤めているチェン=チュンイェンの、それが別名です」
「別名?」
「はい。他にもいくつか名前を持っておりますが、まぁ名前などいくらでも書き換えられますからね。問題なのは彼女の本性です」
そう言ってとエルトン氏は仏頂面しているピース氏を肘で促すと、ピース氏はビジネスバッグの中から三次元投影機を内蔵した折り畳み式の端末を取り出し、テーブルの前に広げる。全画面式のそれの数か所を、ピアノを弾くように指で叩くと、一人の女性の胸像が画面から浮き上がる。切れ長の一重の目、小さな鼻と口、頬横で切り揃えられた黒い髪と大きめの胸。チェン秘書官の変装(お化粧)前と言われれば納得できる姿だ。
「この女は一〇年前、亡命者の家族と偽りこの国に潜入した帝国の諜報員だ」
ようやく口を開いたと思ったら、あまりにも直接的なピース氏の物言いに呆れたが、思わず視線を逸らして見たエルトン氏も、その言い方に困ったといった顔をしながらも肯定するように小さく頷いている。それで俺が納得したと思ったのか、ピース氏は責め立てるように言葉を続ける。
「容姿が幼く見えることを利用し、年齢を偽って我が国の公務員となり、優秀な事務職員としての皮を被って各組織内部に食い込み我が国の機密情報を収集し、フェザーンを通じて帝国に流し込んでいた」
そんなことは百も承知……と言っては流石に不味いのは分かるが、いきなり帝国の諜報員というのは無理がある。彼女の本当の主を通じて帝国に流出した可能性はあるだろうが、バグダッシュの情報が正しければチェン秘書官はピース氏と同所属の人間だ。その彼女が今更諜報員だというのは虫が良すぎる……
「お言葉ですがピースさん。チェン秘書官が仮にそのウー=キーシャオだとして、いきなり帝国の諜報員というのはいささか信じられません。少なくとも人種的にありえないのではないですか?」
「人種など関係ない。使い捨ての駒であれば猶更だ」
「使い捨ての駒扱いというのであれば、相応の見返りが必要でしょう。有色人種でしかも亡命者であれば、帝国に戻って安定した生活など送れるわけがないから同盟国内に留まざるを得ない。そうなると見返りとして金銭が提供されたとして、使用するのは同盟国内となります。そうなると裏切らないように監視されながら、となるわけですが」
仮に敵地に在って膨大な報酬を抱え込んだとして、ずっと『使い捨ての駒』として帝国の為に献身するなどありえない。家族が人質に取られているというケースもあるだろうが、そうなれば裏切らないように監視役の人間が必要だ。チェン秘書官が帝国の諜報員と言うならば、それこそお前(ピース氏)が帝国の監視役と疑われてもおかしくないぞ、と俺が言ったのが分かったのか、ピース氏の顔はさらに険しくなる。
「亡命者が帝国に逆亡命すれば厚遇される。それはつい先頃、軍自らが証明したではないか。よりにもよって高級士官がやってのけている」
「勇名天地に轟く薔薇の騎士連隊連隊長と、冴えない国防委員会参事補佐官の秘書では帝国にとっての宣伝価値が全く違うでしょう。ましてやリューネブルク大佐は生まれながらの帝国貴族といった容姿をもつ偉丈夫。そのウー=キーシャオとやらは、到底門閥貴族の深窓令嬢には見えませんが」
「容姿ではなく能力と結果が評価されてのことだ」
「能力が評価されるというのであれば、秘書官に居続けた理由はなんです? 国防委員会付属国防政策局戦略企画参事補佐官と名前は立派でも、内情は単なる国防委員会参事の使い走りでしかない。それこそ中央情報局国外情報部に所属していた方が、余程機密情報にありつけるのではないですか?」
「流石にそれはご自身のお立場を過小評価しすぎですぞ、ボロディン中佐」
席を立ちそうになったピース氏の右肩を瞬時に左手で押さえつける早業を見せつつ、エルトン氏は俺に顔だけの笑顔を見せて言う。
「補佐官殿は政治家から官僚、軍人、軍関係企業の上層・中堅幹部と顔を繋ぐことができます。その中で中佐が誰と会っていたのか、なにを話したのか。その情報だけでも十分すぎる価値があるのです」
「打ったボールがスライスしてどうしようもないといった話ででもですか?」
「言った相手が『鋼鉄の心臓』と謳われた、名うての元統括安全運航本部長なら尚更です」
はぁぁ、と深い溜息を吐きながらエルトン氏は、小さく首を横に振る。
「貴方が顔つなぎした相手に、ウーはいつでもアポイントを取ることができる。やる気になれば貴方の名前を騙ることで、相手から金も情報も引き出すことができるのです」
それが今回の新装甲材騒動に繋がるということだろう。三〇億ディナールも動く取引の音頭を取ったであろうラージェイ爺に、要らぬことを吹き込んだのは俺の名を騙ったチェン秘書官で、事前にその話を上司である第七課ないし中央情報局本体にしなかったことを怒っていると見ていい。そういう点では今回はタイミングがあまりにも悪すぎた。
つまりそれ『だけ』で怒っているというわけではない。事態の前後で姿をくらましているということで、チェン秘書官が中央情報局の統制を離れ、勤務中に得た情報を持ってフェザーンに逃亡した(ように見えた)ことが問題なのだろう。中央情報局も清廉潔白な組織ではない。あくどいこともさぞかしやっている。
帝国のスパイだと俺に言ったのは、フェザーンのスパイと言ったところで軍人はピンと来ないと考えたから、かもしれない。軍情報部はフェザーンとのチャンネルを閉ざすことは極力避けたいと考えている。それに隠すまでもなく俺はフェザーン駐在武官としてものの見事に失敗している男だ。より『わかりやすく』チェン秘書官を敵と認識してもらうように言っているだけだろう。
「私は軍人です。見ての通り若輩で過分な地位にありますが、こういう機微にはとんと疎くチェン秘書官が頼りというところもありました。だから中央情報局の方にお伺いさせていただきたいのですが……」
「なんでしょう?」
「皆様は何をお望みなんです? 欲しいものがあったらハッキリと仰っていただかないと、愚鈍な私にはわかりません」
チェン秘書官の身柄を帝国のスパイとして『拘束』したいのであれば、明白な証拠をチェン秘書官の(一応)管理者である俺に提示しなければならない。フェザーンとの通信記録の内容と入金記録でも残っていれば満貫だが、その通信が『どこから』なされたかによって話は変わる。
おバカな俺の手元で得た情報を、もし中央情報局を通じて送っていたとすれば、チェン秘書官は『中央情報局のスパイ』として国防委員会内で活動していたことを公式に認める話になる上、中央情報局の情報漏洩も認めなくてはならない。つまり自分達が傷つかないようにするには、一切合切を秘密にした上で、チェン秘書官を密かに始末する必要がある。
「帝国のスパイであるウーの、現在の居場所をご存知でしたら、教えていただきたい」
そう俺に『お願い』するしかない。正式な要請となれば書面が必要になる上に、証拠も添付する必要があるから時間がかかる上、恥を晒すことになる。内々に処理することが至上命題だ。であれば、チェン秘書官にとっては最悪のタイミングで休暇を出してしまった俺としては、もう少し馬鹿なふりをして時間を稼ぐ必要がある。
「彼女から上がった休暇申請書には、彼女の故郷であるパラトループ星域プルシャ・スークタ星系と書かれておりますが?」
「……まさかそれを本気で信じているんですか?」
「履歴書に書いてある通りでしたからなにも問題はないかと思いますし、往復二ヶ月ならなんとか予算審議の事前調整時期に間に合いますから」
「亡命者とその家族は本籍地を変更することができます。プルシャ・スークタ星系惑星プラクリティは、亡命者の便宜上の本籍地として使われている場所なんです。もしかして中佐はご存じないんですか?」
「そんな裏事情など、私にはどうでもいい話です。私はチェン秘書官を信頼しております」
もちろん知ってても知らんぷりでにっこりと笑って応える俺に、エルトン氏は眉を顰め、ピース氏はこれほどのバカは見たこともないといった表情で俺を見つめている。
「それでも彼女が『帝国のスパイ』であると仰るのであれば、物的証拠と逮捕状をお持ちください。そうでなければ私は信頼する部下の為に、あなた方を名誉棄損で訴えなければならない」
「中佐。これは真剣なお話しなのです。中佐がこれまで頼りにされてきた秘書官の事を信じたいというお気持ちは充分理解できますが、現実はそう甘い話ではないのです」
「ですからその『現実』をご提示いただきたいと申し上げているのです。エルトンさん」
聞き分けのない孺子をどうにかして説得しようとする伯父さんのようなエルトン氏の、何とも困った表情は傍から見ていて面白かったが、笑うわけにもいかない。その必死さからもチェン秘書官が、今も見事に中央情報局の網を出し抜いていることは分かる。そうなると中央情報局としては軍部が身柄を保護していると考えざるを得ないし、軍情報部に土下座しても教えてくれないとなれば、一番隙が大きそうな俺にアタックをかけるのは仕方ない。
まるでコントだしここで離席を促せば諦めてくれないかなと思ったが、あの刑事ばりにしつこそうなエルトン氏の事だからまた来るだろうなと、諦めつつゆっくりと腰を上げた時だった。
「世間知らずで男にも女スパイにも尻の毛を抜かれるような奴に何言っても無駄です。エルトン課長。むしろこいつもスパイと思った方がいい」
出てもいない汗をかくエルトン氏の横から、前世も含めてこれまで聞いたこともない嘲りが籠った言葉が、俺の耳に流れ込んでくる。瞬時に頭の中を流れる血液が沸騰したが、これも良い警官と悪い警官の変異系だろうと理解して、顔の表情筋を苦心して動かし笑顔を作り上げると、ピース氏を可能な限りほほえましさを視線に込めて、俺は口を開き……
「黙れ下種」
穏やかな音程に乗って出てきた言葉は、頭の中で考えていた台詞とは程遠い俺の深層心理そのものだった。瞬時に脳味噌の半分がヤバいと警告を発しているが、俺の口は止まらない。
「貴様はなんら証拠を提示することもなく俺の部下をスパイと断じた上に、その職務に対してまで侮辱を与えようというのか。貴様の狭い了見と薄汚い性根と発想の卑しさには反吐が出る。我々軍人が前線で命を張って戦っている後で、スパイごっこにうつつを抜かし、人の足を引っ張るしか脳のなさそうな馬鹿面は見るに堪えない」
「……」
「今すぐ俺の神聖なオフィスから出て行け。それとも自分の足で出て行くのは嫌か?」
自然に出てしまった言葉だったが、言われたピース氏の顔と両手は小刻みに震えている。親愛なる内国安全保障局長と違うのは、いかにも女性にモテそうなスマートな体格ぐらいだろう。同じように上位者であるエルトン氏に救いを求める視線を向けるが、僅か数秒前と違ってエルトン氏の表情は実に冷淡なものだった。ただ何も言葉を発することなく、顎で俺のオフィスの出口を指し示すだけ。
「……あの若造についてはこちらで確実に処分させてもらう。が、それとは別に貴官への謝罪も込めてここだけの話をさせていただきたい」
顔面蒼白、足を引きずり、肩を落としたピース氏が扉の向こうに消えてからたっぷり二分後。諦観と謝罪のない混ざった表情を浮かべてエルトン氏がゆっくりと口を開く。
「ウー=キーシャオの出身はフェザーンで四四歳。三回顔を変えているが、中央情報局国外諜報部の潜入工作員として二〇年勤務している」
「そうですか」
「……驚かれないということは、とうに貴官はご存知ということか。なるほど配転二年目の公安刑事上がりでは勝負にならんな」
自嘲ともとれる笑いを浮かべると、俺のオフィスの四隅に『飾られている』カメラを見つめて続ける。
「これまで彼女が収集した情報はあまりにも大きく、深い。そして一度として我々の期待を裏切ったことはない。幾度となく昇進の機会があったにもかかわらず、それを拒んできた。代わりに給与を求めてきたので、それに応じて支払っている。O-八(少将)ぐらいだろう。危険手当も含めれば私の二倍かな」
「……」
「その彼女が我々に何も連絡せず姿をくらまし、それからしばらくしてフェザーンと我が国の国防企業と投資ファンドの三者間でとてつもない額の取引が発生した……我々の懸念していることは、賢明な貴官なら理解してくれると思う」
銭ゲバの熟練女スパイが、大金に目がくらんで取引を仲介し、逃亡した。単純なだけに余計ありそうだと思わせる話だ。だが仮に逃亡を試みたとしても、中央情報局の網であれば捕まえられる。そう思っていたが一向に引っ掛からない。
「我々としては彼女と連絡が取れれば十分なのだ。盛大に顔に泥を塗られる羽目にはなったが、軍案件のインサイダー取引であるにもかかわらず軍情報部はいつも以上に惚けてるし、政治案件だとしても中央検察庁はだいぶ不満そうだが一様に口を噤む。これだけ見れば少なくとも私個人は、彼女が我々を裏切ったとは思っていない」
実際のところは最初の最初から裏切っていたわけだが、それをエルトン氏に言ってやる義理はない。俺が何も喋らないと見た氏は、スーツの内ポケットから一枚名刺を取り出した。それは最初に提示された中央情報局の名刺ではなく、機器メンテナンス会社の営業職の名刺だった。
「彼女から連絡があったらそこに連絡してほしい。貴官の迷惑になることは決して……」
言い終える寸前だった。俺の腰についていた携帯端末が、不愉快な緊急コールを響かせる。隣室にはまだベイが居るが、そちらから同じ音が聞こえない上にノックがされない以上、軍から発せられたコールではないと分かる。つまりは『俺のよく知る相手が何らかの助けを求めている』という話。
俺が手でエルトン氏に謝罪すると、氏も何も言わず小さく頷いて目を瞑って、ジャスミンティーの残りを口に運ぶ。それでも細目でこちらを見ているだろうから、携帯端末の背中を両手で隠しながら表示された文章を黙読すること三度……電源を切って、再び腰のフォルダーに戻した。
「顔色がだいぶよろしくないようだが……何かお身内で大変な事でも?」
目を開いたエルトン氏がそういうくらいだから、俺の顔色の変化は相当だったのだろう。自分でも脳味噌から音を立てて血が落ちていくのが分かったくらいだ。なにか察したのか、エルトン氏は申し訳なさそうな表情でソファから立ち、扉の方へ向かっていく。
「では、私はこれで」
扉の前で小さくお辞儀したエルトン氏に、俺は意を決して告げた。
「あぁ……エルトンさん。チェン秘書官の事ですが」
「え、あ。なにか?」
まさか本当にそのコールだったのか、と本気で驚いた表情を浮かべて俺を見る。しかしこれまで何も喋らなかった若造が、ここに来て急にゲロするわけがない……そう頭の中で瞬時に結論を出し、そして俺の表情を見て……
「……まさか」
「えぇ、そうです。たぶんですが」
俺は引き攣った顔のエルトン氏ではなく、主のいなくなったオフィス付帯のミニキッチンの方を見て言った。
「勇敢なるチェン=チュンイェンは、つい今さっき、この世を去ったと思われます」
後書き
2024.09.24 更新
ジョン=エルトン:CV小池朝雄
ページ上へ戻る