ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~
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第104話 憂国 その4
前書き
遅くなりまして申し訳ございません。
原稿準備で結構時間を費やしました。挿絵を描くのは本当に大変です。
最近のJr.は欲求不満が危険水位に達してますね。
どの口で平和主義者というのか、と書きながら考えてしまいます。
宇宙暦七九一年 三月 ハイネセンポリスから
「トリューニヒト氏は実際のところ、マーロヴィアでどれほどのことを成し遂げられたんです?」
パトリック=アッテンボロー氏の口から出てきた質問は、回答するのに実に面倒で、色々と答えにくいものだった。
単純にトリューニヒト氏が成した(と状況的に思われる)事をつらつらと話しても構わない。奴自身、やったことはあくまでも口利きだけであって、物的証拠を残すようなことはしていないので、パトリック氏は裏取りができないのだろう。ただ検察長官への逮捕状について国防小委員会・憲兵審査会から中央法務局に情報がジャンプするという『同一人格での経路(本人の内心)』については、機密保持法令上問題があると言える。
しかしそれだって、憲兵審査会で『明らかな証拠があるにも関わらず権限がない為、逮捕できない悪がいる』という現実を聞いた国防委員会理事が、『正義を実現する為に旧職場へ相談した』という美談にできる。逮捕代行を依頼したのは中央法務局で、実行したのはマーロヴィアにいる司令部付属憲兵隊だから、トリューニヒト自身の『手の上』に逮捕状があったことはない。
責任を伴わない功績盗人であるが、実際には口をきいて予定よりスムーズに事が運んだのも確かなのだ。あえて舌に麻酔をかけてベタ褒めしてやってもいいが、わざわざマーロヴィアまで行って現地取材する反軍的な名物記者に通用するとは思えない。
であれば、具体的な内容はあえて話さずにトリューニヒトの果たした役割を説明した方がいいかもしれない。ちょうど先週エルヴェスダム氏から、えらくもったいぶった文書と一緒にエル=ファシル名産の果物が届いていたはずだ。
「パトリックさんは、リンゴはお好きですか?」
「リンゴ、ですか? ええ、もちろん。大きい奴も小さい奴も嫌いではありませんが……」
トリューニヒトの話をしているのに、いきなり何言ってんだコイツ、と言った表情でパトリック氏が眉を顰める。珈琲の入れ替えに来たチェン秘書官は何も言わずにキッチンに戻っていったので、恐らくは『理解』してくれるだろう。
「もしかしたらご存知かもしれませんが、リンゴは苗木を植えた年から五年はマトモな果実は出来ません。果実ができるのは結果開始年齢と言うんですが、他の果実よりリンゴは少しばかり遅いんです」
「はぁ……」
「新しく苗木を植えるには土づくりから始めなくてはならず、これがまた大変です。植えた苗木も病気に弱く、土壌消毒は必ず行わなければなりません。剪定も重要です。とにかく手がかかります」
「それで?」
「我々大都市の消費者はそんなことも知らず、店舗や宅配でリンゴと相対します。それまでに生産者から集荷され、物流組織に乗り、卸売や仲卸業者などを通っているのですが、我々が出会うのはスーパーに居る口の上手い販売員だけです」
「……」
「しかしいくら口の上手い販売員とはいっても、流石に虫食いや腐敗したリンゴを最高級品とは言えない。大手スーパーとしては生産者に改善を要求したいが、生産者には改善する方法は知っていても実施するだけの資本がない。肥料を買い、消毒剤を買い、人や機械を入れ、それでも実際に成果になるには時間がかかります」
マーロヴィアはそれまで忘れ去られた辺境の果樹園。市場からあまりにも遠すぎ、輸送経路は荒れ放題で果樹の品質は低下する一方。行政府としては時間がかかってもいいから生産力を回復させたい。その為、経験豊富な老農夫(ビュコック准将)が技術指導で派遣されたが、老農夫一人では剪定(内部粛軍)や苗木選別(護衛船団)は出来ても、大規模な開拓資金や免許資格の必要な消毒剤の散布(民間内通者の逮捕)や農業機械の購入(作戦資材の調達)までは出来なかった。
そこで販売員の元締めも兼ねるスーパーの営業宣伝部長が、伝手(ロックウェル少将)を使って道路改善にアスファルト(機雷)や道路施工業者(コクラン大尉)を用意し、老農夫が持っていない資格を必要とする消毒剤の購入許可(逮捕状)を得て生産者に手渡した。生産者(マーロヴィア星域軍管区・行政府)の業務改善は進み、望外の大きな果実(ブラックバート)がスーパーに送られてきたので、販売員は広告チラシにデカデカと載せたわけだ。だがスーパーにリンゴを買いに来た人の耳には、卓越した広告マンの売り文句しか残らない。
「……しかし時間がかかるどころか、マーロヴィアの治安回復はほぼ一年半で成し遂げられた。女王様は懐刀の縦横無尽な活躍こそ褒め称えても、『帝都におられる軍務尚書』については褒めるどころかクソ貶しにしてましたよ?」
「女王様は販売価格の設定や生産量の調整についてはお詳しいのですが、何分鍬持って土いじりはされたことはないでしょうからね」
パルッキ女史には怒鳴られまくった記憶しかないが、まぁ、それは良いとして。
「それにやはりどこも人手不足なのですよ。軍務尚書としても頭が痛い事でしょう」
そんな俺の何気ないつもりで吐いた言葉に対し、目に火が灯ったようにパトリック氏の顔色が変わった。それまで的の外れた例話に唖然としていた四〇男のものから、敏腕な記者のものへと。
「中佐は現在の同盟の軍事力が不足していると、考えていらっしゃる?」
その短い言葉の端々から、パトリック氏が過剰な徴兵による労働生産人口の減少をはじめとした、現在の軍偏重の同盟経済に敵意を持っていることが分かる。ただでさえ圧迫されているのに、目の前の若い軍人はまだ足りないと宣う。このボンボンは不都合な経済の現状も知らないで、と言った怒りすら表情に浮かんでいる。
だがそれはあくまで同盟のマトモな市民としての視点だ。国力比では一.二倍(四八/四〇)であっても、根本的な人口比では約二倍(二五〇億/一三〇億)。金髪の孺子に限らずとも『マトモな』執政官が帝国に登場すれば、人口比はそのまま国力比となる。
軍事分野において兵器の質や生産性も軍事力においては重要な要素ではあるが、将兵となる人間の数の暴力は圧倒的だ。そんな不利な状況下で現在の同盟の国境防衛が成り立っているのは、シトレやロボスといった有能な前線指揮官と、機動戦力の制式艦隊偏重配備のおかげと言っていい。現実としてマーロヴィアなど帝国からの直接的な軍事圧迫のない辺境では、管区領域に到底足りない数の警備艦艇しか配備されていない。
そのことはわざわざ現地に行ったパトリック氏なら理解しているはずだ。理解した上で質問しているということは、現在の同盟のドクトリンである機動防御とその結果としての制式艦隊偏重配備に対して疑義を抱いているということ。将兵の命のぶつけ合いの結果は、最終的に命の数の大小で決まる。心情的には俺とパトリック氏は同志に近い。だが今の俺はそれを記者のパトリック氏に言える立場にはない。
「その通りです。パトリックさん」
「高級士官である中佐殿は市井の経済状況をご覧になったことはないのですかな?」
「全てを把握することは無理ですね。神様ではないので」
挑発に対して挑発で返した俺に、パトリック氏は血が頭に上ったのか文字通りにソファから立ち上がったが、それよりはるかに危険な冷たい顔つきのチェン秘書官が、皮をむいたリンゴの小皿を持ってこちらを睨んでいたので、おとなしく席に戻った。
「仰りたいことは分かります。同盟の人的資源余力が限界を超えつつあり、社会機構全体が軍を支えるどころか、もしかしたら国家を支えることすら叶わなくなりつつあるのではないか、と」
「……そこまで知ってて、なお中佐は軍事力が足りないとお考えになる?」
一瞬の沈黙の後で、慌てて小さなフォークでリンゴを口に運びながら、パトリック氏は俺を見つめつつ問いかける。その顔には先程までの怒りが若干残ってはいたが、だいぶ落ち着いたものになっている。
「純軍事的に言えば、完全充足の一二個制式艦隊・三三個警備艦隊・一〇〇個巡視艦隊。乗員のいない戦略予備艦艇も含めて宇宙戦闘艦艇六〇万隻、陸戦部隊・後方勤務も含め軍人総計七〇〇〇万人というのが目標でしょう」
「それは夢物語だと、中佐は分かっていて仰ってますな」
パトリック氏の声には嘲笑というよりは、組織にいる中佐の立場ならそう言わなければならならないのだろうなという憐憫が含まれている。だが実際のところ、アスターテ星域会戦直前には完全充足(第一一艦隊再編成中なので)まではいかなくても一二個制式艦隊は編成できていた。
原作におけるそこからの凋落は見るも無残だが、第五次・第六次イゼルローン攻略戦、ヴァンフリート星域会戦、第三次・第四次ティアマト星域会戦、それ以外にも数多の戦いが繰り広げられた中で失われた戦力があったとしてもだ。その為に国力にどれだけ負担がかかっていたか、軍官僚や行政官がどれだけ苦心惨憺したのか、いざそういう立場に立ってみれば想像を絶する。
「決して夢物語ではないですよ。イゼルローンから五年ぐらい帝国軍が出てこなければ、何とかなる数です」
「それこそ夢物語ではないですか。帝国軍は我々を叛徒と呼び、全銀河の統一と安寧を名目に、同盟に対して侵略行為を止めようとしない。中佐はどうやってそれを五年間阻止することができるとおっしゃるんです?」
「まず毎年六〇〇〇億ディナールほど軍事予算を上乗せすることですね。しかし急激な増税は無理なので、六兆ディナールを三〇年償還の固定金利分割債として発行したらどうかなと」
本当はもうちょっと。出来れば一〇兆ディナールくらいは欲しいが、国家予算が三兆四〇〇〇億ディナールの現時点においてその三倍の額だ。そこまでするとデフォルトを恐れてフェザーンも購買意欲を失いそうなので、ワレンコフが伝えてきた額の二倍でどうかなと言ってはみたが、聞いていたパトリック氏の顎とフォークに刺さっていたリンゴは見事に落ちていた。
「……札束で顔を叩けば子供も老人も兵士になるとお思いで?」
落っこちたリンゴを拾いつつ、出てもいない汗を手で拭いながらパトリック氏は問う。そんなことを俺が考えているとは思ってはいないが、一応確認ということだろう。だがここから先を話すには、パトリック氏に確認が必要だろう。
「パトリックさん。このことを記事にして公表することはまずお考えにならない方がいいでしょう」
「記者の言論を封じるおつもりですか」
「膨大な金の動く話です。私が話すこと自体が証券取引法違反になる可能性が高い。記事にしようがしまいが、パトリックさんやパトリックさんの知人が関連株を買えば、私はまず生きて社会に出ることは出来なくなるでしょう」
「それは、また……」
「マニアが情報誌に自分の空想を寄稿するのと、現役のしかも政府組織に所属する軍人が大戦略の変更を記者に話すのとでは訳が違います」
シトレにしろトリューニヒトにしろ、大戦略を弄れる立場にある人間だから当然そのあたりは心得ている。ヤンやラップ、ワイドボーンはあくまで戦略談義の一環だと理解している。ワレンコフに伝えたのはおそらくトリューニヒトなのでそこは俺の責任ではない。やり方を話していないホワン=ルイについては、まぁ問題にしなくてもいいだろう。そしてパトリック氏は現在の国防委員会の『サロン』仲間ではない。
「……わかりました。記事にはしませんし、伺いもしません。どうせ私には中佐の話される内容の優劣可否などわかるわけがない」
いつの間にかチェン秘書官が剥いてくれたリンゴが半分以下になっていたが、容赦なくパトリック氏は残りのリンゴにフォークを刺していく。
「なので一つ、教えていただきたい。これは今後記者として判断の材料にしたいと思っていることです」
「答えられる質問であれば、答えます」
「ありがとうございます。この先、中佐が軍人としてどのような未来を欲していますか?」
この質問を受けることになるのは、士官学校のヤン以来何度目だろうか。最終目的は変わっていないが、これまでの俺の経歴は目的を達する方向から随分と離れていっているように思える。
『Bファイル』の提出を俺が逡巡したことによって恐らくワレンコフは暗殺され、トリューニヒトは地球教と協力関係を構築する。この話をしていたサロン仲間の官僚達も、政治側の圧力で出世できず影響力を発揮できないかもしれない。ホワン=ルイには詳細を話していないが、レベロと同じ派閥である以上、過剰な軍事出費に対しては躊躇することだろう。
シトレに対しての吹込みも、原作で彼が統合作戦本部長になった後も、相変わらずイゼルローン攻略に固執していることから、金銭と人間の命のバランスは俺ほどには傾いてはいないし、彼を取り巻く軍内政治状況がそれを許さないだろう。軍事費の増大については、レベロの幼馴染という点からもあまりいい顔はしない。ヤン達が大戦略を弄れるような立場に立った頃には同盟の経済はガタガタで、金髪の孺子一味にいいようにやられている。
自分で拒否しておいてなんだが、やはり大衆側からのアクションが必要なのだろうか。専守防衛ドクトリンを民衆側から発起させるような、思想闘争を仕掛けるべきなのか。その火花をパトリック氏に託すべきなのか。Bファイルのような失敗は繰り返さない為にも、拙速に行動すべきかもしれないが、あまりにも不確定要素が多すぎて、ただズルをしているだけの俺の乏しい判断力では結論が出せない。
「中佐?」
また軽く意識を飛ばしていたのか、いつの間にか蒼い顔をしたパトリック氏が立ち上がって右手を俺の眼前で振っていた。
「あぁ、ありがとうございます。パトリックさん」
「本当、大丈夫ですか、中佐。急に時間が止まったみたいに固まってましたよ」
「いやぁ、ちょっと考え事してました。すみません」
「……戦闘指揮する軍人とはとても思えませんなぁ」
呆れ顔で再びソファに腰を下ろすパトリック氏に、俺は頭を掻いて誤魔化した。記事にされるにしても、癖と書かれるのは流石に不味い。何事もなかったようにジャスミンティーを手に取り一口つけると、改めて温和な好青年モードの笑顔を浮かべてパトリック氏に向き合う。
「それで未来の話ですが……私の希望は『平和』です。結婚して生まれた子供が、仮に徴兵されても戦死せずに一生を終える。そのくらいの長さの平和が望みですね」
やはりというか。予想通り俺の回答にパトリック氏の目が点となった。
「……平和? 軍人の貴方が?」
「軍人が平和を望んじゃ可笑しいですか?」
「いえ、そうではありませんが、もっとこう、普通に帝国に対する勝利とか、おっしゃるかと思いまして」
「私はそれほど勇ましい人間ではありませんよ。『平和主義者の戦争屋』、そんなところです」
「中佐が平和主義者? とてもそうは思えませんなぁ」
同盟に産まれた時から刷り込まれるような専制主義への抵抗と民主主義の擁護。建国神話から始まる反帝国的な教育内容。いいか悪いかは別として、数的に圧倒的優位に立ち武力を以って征服を目論む銀河帝国に対し、平和は武力を以ってでしか獲得できないという自由惑星同盟という植民国家維持の為に行わるある意味での洗脳。
パトリック氏もその教育を受けてきている上で反軍的思想を持っているのは、ひとえに組織である軍と構成員である軍人の度を越した暴虐無人さに対する嫌悪であろうことは想像に難くない。
ヤンがそうではないというのは、恐らく幼少期における教育の賜物だろう。父親の交易船で暮らし、学校で教師に教わったり、学友と交流することが殆どなかった。映像学習は当然していただろうけど、身近にいた精神的な教師は、変わり者の父親だけだった。
「私としては帝国と講和して戦争がなくなればいいなとは、いつも思ってますよ?」
「……もしかして中佐は本気で帝国との講和を望んでいらっしゃる?」
「個人的な意見ですが、帝国が同盟に対しイゼルローン回廊からこちら側の主権を公認し、交渉において軍事的オプションを放棄するというのであれば、講和という選択肢も『あり』だと思いますよ」
だからこそこちらの世界に来ていろいろな人にこのことを話すと、(ヤンのようなごく少数の例外を除いて)意外というか、『コイツ、頭おかしいんじゃないか』みたいな表情をする。勿論、パトリック氏も少数の例外ではなかった。
「そんなこと、到底帝国は認めんでしょうな……」
「なので、認めるよう私もいろいろと努力しているという次第です」
にっこりと笑みを浮かべつつ、手が止まったパトリック氏に代わってリンゴをフォークで摘み取る。エルヴェスダム氏の言う通りまだまだ道半ばの味だが、解放からまだ一年で農産品の輸出ができるまでになった帰還民達の努力の味がする。そんな俺の動きをパトリック氏は腕を組み首を傾げながら黙って見ていたが、フォークが五個目に取りかかろうとしたところで、ようやく口を開いた。
「先程お金の話が出ましたが、中佐は金で平和が買えるとはお考えでいらっしゃいますか?」
「買えると思いますよ。勿論現金や貴金属といった資源を、彼らに直接手渡すという意味ではないですが」
挑発というよりは確認のつもりだろうけれど、かなりアホな質問だったので俺も皮肉たっぷりの口調で答えたが、パトリック氏はウンウンと納得したように頷いて言った。
「やはり中佐は平和主義者ではないですな」
戦争屋ってところは否定しないのが実にパトリック氏らしいところではあるが、俺に対して平和主義者という冠があまりお気に召さないのかもしれない。
「私は自分のことを平和主義者と思っておりますが?」
「……なるほど。中佐はどうやら誤解しておられるようだ」
そう言うとパトリック氏は携帯端末を取り出して幾つかのサイトにアクセスすると、取材用のメモ用紙に書き込んで俺に差し出した。読んでみればハイネセンポリスから少し離れた、市街地内にあるマンモス私立大学のサテライトキャンパスと思われる住所とグエン・キム・ホア平和総合研究会という名前に、開催予定の講演・勉強会の日時が書かれていた。
「巷で言う『平和主義者』とはどういうものか。そこに行けばきっと中佐殿もお判りいただけると思いますよ」
そういうパトリック氏の顔は、何故か苦虫をかみ砕いたかのような渋い顔をしているのだった。
◆
その四日後。俺は仕事を無理に定時で上げて、パトリック氏が紹介してくれた平和総合研究会の講演・勉強会に赴いていた。
流石に軍服で平和主義者の会合に赴くのは憚られると思ったので、いつものようにトイレで付け顎髭のボサボサ髪をした底辺青年労働者の装いに着替えた。念のためボタンを一つだけ新品に付け替え、クロスバックを肩にかけてメトロを乗り継ぎ、サテライトキャンパスのあるパインウッド・ヴィレッジ街を歩く。
時間は夜半。仕事帰りのビジネスマンは足早に帰路へ向かい、同じ私立大学の学生と思しき若人達は徒党を組んで笑い声を上げながら飲食店街へと向かっていく。住人達の生活レベルを見てちょっと衣装を間違えたかなとは思ったが、奇異にみられるほどではないので、表通りを避けて裏通りを縫うようにしてサテライトキャンパスに向かう。
目的のサテライトキャンパスは表通りから二つ奥に入った箇所にある一三階建てのビル。入口受付では小綺麗な女子学生達が、勉強会に来た聴衆にパンフとキャンディ・ジュースなどを配っている。開場したばかりなのか、まだ受付に列が形成されていたのでその後ろに並び数分後、列の前の人同様にペンで『ビクトル=ボルノー』と記名すると、俺に対した黒髪の女子学生が胡散臭そうな視線を向けてきた。
「あの、おじさん。もしかして並ぶ列を間違えてませんか?」
目元も二重でぱっちりして、『しっかりと』ナチュラルな化粧をしている女子学生は、何か意を決したような表情を浮かべてそう言った。確かに前世も入れればとうに中年の後半に達してはいるのだが、青年労働者想定の仮装のつもりだったので、オジサンと言われて俺は咄嗟に自分のことを言われているとは思えず、左右を見渡すと白い視線が俺に集中しているのが分かった。
「おじさんて、もしかして俺のこと?」
自分のことを指差して問うと、黒髪の女子学生は小動物のように少し怯えた表情で小さく何度も首を上下する。するといきなり後ろから「おい」と声を掛けられ、右肩を掴まれた。首だけ振り向けば、デニムのサマージャケットに身を包んだ若い男が俺を睨みつけていた。
「ここは炊き出しの場所じゃなくて、講演会の列なんだよオッサン。女の子に迷惑かけんじゃねぇよ」
言葉はチャラいが、品の良さそうな金持ちのボンボンといった感じ。この私立大学はいわゆる上流階級の御用達というわけではないから、小金持ちといったところか。しかし見様見真似とはいえホームレスと間違われるくらい変装の出来がいいと思えば、自然と笑みが浮かんでくる。情報部や中央情報局の『モノホン』に比べれば大したことはないだが。
「なに笑ってんだよ。とっととどけよ」
俺が鼻で笑ったことが気に障ったのか、右肩を掴むボンボンの手に力が込められた。なので俺は教科書通り、左手でボンボンの右手を押さえつけつつ、時計回りに体を廻しつつ右腕をボンボンの右腕の下から上へと吊り上げ、俺の右手首がボンボンの右肩より高い位置になったら逆に右腕を引きつつ体を押し込み、左手でボンボンの右肩関節をキメて身体を瞬時に道路に圧し潰す。ボンボンの背中に乗せた左膝に、空気が押しつぶされるような振動が伝わってくる。
「ここはグエン・キム・ホア平和総合研究会の講演会なんだろう?」
右手でボンボンの右手首を時計回しにギリギリと捩りながら、俺はボンボンに言った。
「俺は 物乞いに 来たんじゃなくて 礼儀正しく 講演会を 聞きに 来たんだよ、坊や」
語節ごとに区切りながら丁寧に優しく言いながらも捩り続ける俺に、膝下のボンボンは情けない悲鳴を上げ続けるが、容赦をするつもりはまったくない。
「それともこの講演会は、容姿だけで入場者を選別するような、了見の狭い差別主義者の集まりなのかい?」
俺がそう言って周囲を見渡すと、潮が引くように円形状に後ずさりしていく。その老若男女どの顔にも怯えたような表情が浮かんでいるが、その中から一人、しっかりとした足取りで飴色の髪をした中年の男性が歩み出てきた。整えられた太い眉と翡翠色の瞳には強い意志が見受けられる。
「君の言いたいことは分かるが、暴力はいけない。彼を放したまえ」
俺を見据えるその紳士の言葉にも怯えは一切ない。
「列を乱すことなく並んでいたのに、いきなり言いがかりをつけられて、後ろから肩を掴まれてたのです。これは『正当防衛』ですよ」
「それは流石に無理があるとは思うが……」
笑顔で手首を締め上げ続けるボロ姿の俺と悲鳴を上げ続けるボンボンを見比べて、だいたい状況が想定できたのか、紳士は困ったような諦めたような表情を浮かべ溜息を一つつくと、受付にいる女子学生に顔を向けて言った。
「君達の懸念も理解するが、この青年勤労者の言うのも一理ある。講演会に来てくれている人に対しては、もっと丁寧に対応するべきだったね」
「え、は、はい。ソーンダイク先生」
女子学生の口から洩れた名前に、俺は改めて紳士の顔を見つめる。皺は少なく肌に張りはあるが、その顔は確かにテルヌーゼン選挙区補欠選挙における反戦市民連合の候補者そのもの。まじまじと向けられる俺の視線に、ソーンダイク氏は改めて俺に向かって頭を下げた。
「失礼な態度を取ったこと、その青年に代わって謝罪しよう。ボルノー君、すまなかった」
「わかりました。受け入れます」
そう言ってボンボンの右手を開放する俺に、ソーンダイク氏の眉が一度だけピクリと動いたのは間違いない。俺がオッサンでもなければ、只のホームレスでもないことに気が付いたし、受付に赴いた一瞬で受付帳に書かれた俺の名前を読み込んだのは、やはり只者ではない。
そして恐らく俺の受け答えと行動で、俺の職業は大体察したのだろう。会場内には他にも席が空いているにもかかわらず、一番後ろの席に座った俺の右隣に後からきたソーンダイク氏は腰を下ろした。
「改めて自己紹介したい。ジェームズ=ソーンダイクです。弁護士をしています」
クリーム色のサマースーツの内ポケットから、氏は名刺を差し出した。名前と弁護士籍番号、アドレスだけしか書いていないが、それだけに威圧感のある名刺だ。
「ビクトル=ボルノー。しがない日雇いの肉体労働者です。名刺なんかもってませんよ」
「偽名の名刺をいただいても、正直置き場所に困るから構わないとも」
今までもこういった集まりに、軍や公安警察などのスパイが入り込んできたのだろう。その声には皮肉より諦観の成分が多い。別に俺はスパイをするつもりはさらさらないし、ただ実名で言質を取られたくないだけの偽名だから、皮肉られても痛くもかゆくもない。
「ソーンダイクさんの席はあちら側なんじゃないんですか?」
定刻になり席が半分程度埋まったところで俺が人の集まっている演台の方を指差すと、ソーンダイク氏は目を瞑り小さく首を振る。
「私は息子を三人、第二次イゼルローン攻略戦で失っていてね。以来この運動に身を投じてはいるが、最近限界も感じてきていてね」
温和だが戦争を心から憎んでいると評したのはジェシカだったが、第二次イゼルローン攻略戦は俺が士官学校に入学するより前の話だ。少なくとも一〇年以上は運動に参加しているはず。しかも代議員候補となるのだから、それなりの立場にあるというべきだろう。そんな彼が演台に立つどころか、スパイでもない一見参加の軍人にべったりと着いて、周りに聞こえない程度の小声で囁いているというのはどういうことか。
「息子達の命を奪った戦争は今でも憎い。その戦争を食い物にしている奴らはもっと憎い。政治家も軍人も自分達の利益と立身出世を考え、戦争を煽っていると思っていた。それは是正すべきであると」
「……」
「だが私が運動の運営に関わり始めた頃から、息子達の同期や同僚が時々事務所に顔を出すようになってきて、息子達との思い出話をすることが多くなった。勿論、それが軍の差金なのは分かっているが、ただ戦争反対と唱えるだけではダメだということも理解するようになってきた」
その同期達が『本物』かどうかは別として、軍情報部の差金は間違いない。反戦組織の中核となりうるであろう人物の思想の方向性を地道な干渉で、その思想を構成員とズラしていき、最終的には組織自体の分裂を誘発させるもの。組織が大きくなるほどに背骨はしっかりとしなければならないが、椎体の一つを僅かにずらすだけで脊柱管は狭窄し、人間はマトモに動くことは出来なくなる。
「現実路線、というのかな。ジョアン=レベロのような与党連合内の中道左派との意見交換会を開いてみてはと提案したが、あそこにいる反戦市民連合幹部からあまりいい顔をされなくてね。昔の活動のお陰でこうやって講演会に顔だけは出せるが、今では演壇に立たせてもらえない」
拍手と共に演壇に立った四〇代前半の男に、視線で俺を誘導ながらソーンダイク氏は続けた。
「固い意志というのは悪いことではないが、今まで通りに教条的に訴えるだけでは戦争で親類縁者を失った人々の心にすら、声は届かなくなる……彼らでは到底、ヨブ=トリューニヒトには太刀打ちできないだろう」
トリューニヒトの本当の恐ろしさはそういうところではないのだが、それをここでソーンダイク氏にいうつもりは俺にはない。だが表面的に見ても舞台俳優の如く戦争を賛美し、犠牲者を巧言で悼み、残された遺族を手厚く持ち上げるトリューニヒトと、戦争を利用した政官軍財の癒着を鋭く批判し、帝国との戦争を止めるべきだと言う『だけ』の反戦市民連合とでは大衆の心へ訴える力が桁違いだ。
それに加えてトリューニヒトは大きな財布を手に入れた。権威と金の力を背景に、奴の手は軍だけでなくあらゆる箇所へと伸びている。一五〇年にもわたる戦争で疲弊した国力では、国防はより効率的にならざるを得ず、官製談合など『せざるを得ない』状況下にあって、その歯車を潤滑に動かせるコーディネーターとしての奴の腕前はまさに賞賛に値する。
「以前はこのくらいの会場であれば席は埋まり、立見客すらいてその熱気は空調が効いていないんじゃないかと思うほどだったが、今ではご覧の通り半分すら埋められないありさまだ。そしてより問題なのは、その状況に彼らは安住しているということだよ」
「一昨年、第四次イゼルローン攻略戦で七〇万人を失う大敗北を喫しましたが?」
「その代わりエル=ファシルがほぼ無傷で奪回されたことで、人々の戦争に対する嫌悪感はさほど変わりはなかった。むしろ反戦派への支持はより低下したよ。政府広報の腕前は賞賛に値するね」
ソーンダイク氏の皮肉に、思わず俺は声には出さずに溜息をついた。その作戦における次席参謀を務めていたのは俺であり、戦争を利用した業界癒着のケツ持ちをしているのも俺だ。そう考えると、俺は今更だが反戦派に迷惑をかけていたことになるし、トリューニヒトが俺に対して必要以上に厚遇するのも少し理解できる。
「……『肉体労働者』の君に皮肉を言うのは大人げなかった。済まない」
俺が溜息をついたことを、どうやら別の意味に誤解してくれたソーンダイク氏は謝罪してくれたが、敢えて誤解を解こうとは当然思わない。
「我々の、いや私の努力不足なんだろうな。平和主義者という言葉は今や、『侵略という現実を見ようとしない、政府を当てこするだけの夢想家』という程度の意味しか持たなくなってしまった」
声を上げて政府の腐敗を糾弾し時折湧き上がる支持者から拍手にポーズをとって応える弁士に、冷たい視線を向けながらソーンダイク氏は嘯いた。
「トリューニヒト氏の登場以降、かなりの数の遺族会が我々に対する支持を止めてしまった。和平を主張するなら具体的にどのような方法があるのかと問われれば、言葉に詰まるのは我々だ。専門家である軍も戦争反対を謳う我々に知識で協力はしてはくれない。足りない知識で言えば言うほどボロが出るから、こういう現実になる」
シンパとなるような軍人もいることだろうが、元から数は少なかっただろう。国防大戦略を掌るレベルの軍人は要職が、それ以下の中堅将校は出世が気になって寄り付かないし、下士官や兵士も自分達の功績を高らかに謳いあげるトリューニヒトの登場によって足が遠のいた。
そしてトリューニヒトはそこまで見抜いた上で、和平派や反戦市民連合に俺を使わせないよう国防委員会に囲い込んでいる。さらに『Bファイル』の存在は国防委員会機密文書として扱われている以上、その内容をソーンダイク氏に話すわけにはいかない。
アスターテで大敗北を喫し、イゼルローンで奇跡を起こした後のテルヌーゼン選挙区補欠選挙で、ヤンが赴くまで選挙戦を優位に戦っていたソーンダイク氏の、政治家としてのポテンシャルはそれなりにあると思われる。だが反戦市民連合の置かれた状況を冷静に分析できる知性があっても、基本的に戦争を憎む温和な善人であって職業政治家ではない。そのあたりはエル=ファシルの医師であるロムスキー氏と同じだろう。そして主義主張も立場行動もまるで正反対のアイランズ氏とも。
ボンヤリとそんなことを考えていると、ようやく一人目の弁士が演説を終え、少ないながらも拍手と歓声が沸き上がる。オペラ歌手もかくやといった怪物の演説に比べれば抑揚に乏しく、声量とパフォーマンスで盛り上げてると言った感じで、内容が全く頭の中に残っていない。確かにこれでは勝負にならないだろう。思わず出た欠伸に、ソーンダイク氏も小さく肩を竦めていた。
次に登壇した弁士はブラウンの髪をした若い女性。この会場の大学の講師らしい。遠目に見てもなかなか整った顔をしていて、前の方に座っている先程のボンボンや女子学生達が気勢を上げている。講演会というよりはアイドルのステージだなと思っていると、それとは別に騒ぎ声が会場の出入口の方から聞こえてきた。
既に時刻は二一時を回っている。迷子になった酔っ払いが冷やかしにでも来たのかなと思って生暖かい視線をむけると、かなりの数の男達が周りを威圧するような動きをしながら会場に入ってくるのが分かる。
確かに彼らは酔っ払いだった。ただし酒ではなく、自らの信じる正義と暴力に酔っている奴ら。
「我々は真に国を愛する憂国騎士団だ!! 我々は君達を弾劾する!!」
鉄色の戦闘服に身を包んだ骸骨マスクメンの、品性も欠片もない音量だけが大きい前口上が、文字通り聴客の乏しい会場を揺るがすのだった。
後書き
2024.07.15 更新
C104 参加決定いたしました。1日目(8/11)東W17-b(市蔵文庫)になります。
2巻の入稿・印刷もほぼ終了いたしました。1巻の増刷も含めて持参予定です。
宜しくお願いいたします。
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