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人理を守れ、エミヤさん!

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真名開示 エミヤシロウ



 カン、カン。

 ――(てつ)()つ心象、蒼穹の空は硝子の細工。透明な風景に熱はなく、淡々と廻る空の歯車は機械の部品。
 無限に鍛えられる剣の丘に、佇む男は目を閉じている。目を凝らすと、それが何者か判じる事が出来た。『赤い外套の弓兵』だ。意思を剥奪された、霊長の守護者。ただの掃除屋とすら言えない、使役されるだけの自我無き奴隷。
 大きな歯車が廻ってる。剣の丘を十全に廻す為の機構。何故あの男は此処に? 懐疑する意識を遮断する。そんなものよりも、向き合わねばならないモノがいた。

「……『この世全ての悪(アンリ・マユ)』か」
「ご名答。いや、悪いね。人理修復の旅の途中にこんな寄り道させちまってさ」

 すぐ傍に影法師がいる。士郎の姿を黒く塗り潰した悪意の塊だ。友好的とも言える物言いとは裏腹にその目にあるのは煮詰まった毒念のみ。凡そ人間の持ち得る負の感情の坩堝だ。
 嫌悪感も露に一瞥する。殺めようとしてもなんら意味がない。故に剣を握ろうとはしなかった。だが自分の姿を見ると、いつだって反吐が出る。
 黒い肌をのたくる刺青は不定形。それは常に流動し、赤いバンダナを額に巻いている顔はへらへらと軽薄な笑みを浮かべながらも、混沌とした殺意を渦巻かせている。

 士郎は嘆息した。アンリ・マユは聖杯の泥を通して士郎に触れている。なら士郎の知っている事ならアンリ・マユもまた知る事が出来るだろう。

「安い男だ。いや女なのか? どうでもいいが、アイリスフィールを操るのに失敗すれば、誰でもいいから器にしようだなんてな」
「ああ、同意するぜ。我ながらバカな事をした。まったく、最初から詰んでるなんてクソゲーどころの騒ぎじゃねぇよ。クレーマーさながらに文句を垂れたいところだね」

 やれやれと肩を竦める様は、まるで焦りを感じさせないものだ。本当に手遅れだと悟り、刑の執行を待つ服役者のような潔さを感じさせる。
 だがそれは欺瞞だ。自らの誕生を諦めたとしても、それでこの悪意を諦める理由にはならない。アンリ・マユはにやにやと嗤っていた。

「カルデアだっけか? 人類史の為に孤立無援の戦いに挑む、感動的だね。ああ、とっくに滅んだ死体を、無理に蘇生させようと努力する様は涙を誘われらぁ」
「好きに言え。好きに呪え。そんなもので、俺が揺らぐと思うならな」
「そりゃあ揺らぐ訳ねぇよな。テメェは世の為人の為、そして何よりもどれよりも自分の為に人理を救うんだろ? 知ってる、誰だって死にたくはねぇもんなぁ。分かる分かる、痛いほどよく分かる。オレもなぁ、死にたくねぇもん」
「だがお前は死ぬ。いや産まれる事もないから死ぬんじゃない、産まれないだけだ」
「酷い話だ。今もおたくを助けようって、魔術王がオレを速攻溶かそうとしてやがる。あーあ、こりゃあ無理だわ。テメェの精神、マジ鉄壁。つけ込む余地がねぇし、反転しても今のままとか何よそれ。時間ないから打つ手なしだ。なんだよ中立中庸とか。正義の味方なら善だろ普通。反転したら悪になるもんだろ?」
「生憎だったな。俺は善じゃない。俺は俺の為に人理を正す。俺が死なない為に。他は俺が助かるついでに掬い上げるだけだ」



「 本当に? 」



 その顔に、亀裂が走る。黒い影法師が、醜悪な笑みを浮かべている。士郎は理由もなく背筋が凍る心地を味わった。

「つけ込む余地はねぇよ、テメェには。けどよ、抉る事は出来るぜ」
「……抉る、だと?」
「これでもこの世全ての悪なんてぇ大層な祈りで昇華した存在だ。成す術なく大人しく消えるなんて、つまんねぇ最期は迎えねぇよ。こちとら呪いで飯食ってんでね」
「……」

 目を細める。抉るだと? 何を、どのように。脛に傷を持つ、後ろ暗い生き方はしていない。抉られて痛むものはない。
 下手に心の隙を晒せば、アンリ・マユに何をされるか分かったものではなかった。ロマニがアンリ・マユを消すまで気は抜かない。心を固める。そしてアンリ・マユを促した。ここは聖杯の中、聞かないふりは通用しないだろう。耳を塞いでも声は聞こえる。そういった素振りを見せたら却ってアンリ・マユは調子に乗るに決まっていた。

 いけしゃあしゃあと、アンリ・マユは揶揄する。

「今まで大変だったなぁ、エミヤシロウ? 第五次聖杯戦争からこっち、十年以上誰に言われたわけでもないのに世界に出て、他人を救って回ってたんだろ? ご苦労様だね、とても真似できねぇよ。ああ、目の届く範囲にある不幸が我慢ならない――だったか? 泣かせるねぇ。聖人かなんかなの? おたく」
「……」
「挙げ句一人じゃ何も変えられねぇってんで、なんか慈善事業団体作ろうとしてたんだろ。パトロン探してロンドンまで行って、アニムスフィアにカルデアに誘われた。この旅が無事終われば、おたくは契約通りにアニムスフィアの後援を得られる。そうしてまた目の届く範囲の不幸を根絶しようと宛もない旅を始める。一大スペクタクルな人生だドラマに出来る」

 ――ところでさぁ。

 滴り落ちる毒意。士郎はその言葉の意味が分からずに困惑する。

「知ってっかよ、エミヤシロウ。テメェの一つの未来の可能性、その末路の掃除屋もさ、その属性は中立中庸なんだぜ(・・・・・・・・)

 英霊エミヤも士郎と契約しているのである。マスターである故に、そのパーソナリティーは把握していた。
 そして士郎が知っているなら、アンリ・マユも知っている事になるのだ。だから別段、アンリ・マユに言及されて驚く事ではない。
 要点は、なぜそんな事を言い出すのか、だ。

「……何が言いたい?」
「不思議だよな? おたくらは起源は同じでも別人のはずだ。特にあんたの認識だと、明確に違う存在のはずだろう? なのになんで、属性が同じなのかねぇ」
「……」

 面白そうに腕を組み、にやにや、にやにや、醜悪な害意を匂わせる。なぶり殺しにしようとする外道の魔術師を想起させられた。
 
「ああ、覚えてない(・・・・・)のか。趣味が悪い、いやオレに言えた口じゃねぇけど? おたくの対魔力はナメクジみてぇなもんだし、無理もねえか?」
「……?」
「問題です。五問連続正解したら、何事もなくおたくを解放してやるよ」
「なに……?」

 唐突な提案に、士郎は眉を顰めた。何を考えている……。どのみちアンリ・マユに時間はない。ロマニが大聖杯から異物を排除するのに掛かる時間は少しだ。
 ならここは乗って、時間を潰した方がいいと判断する。無駄話で乗り切れるならそれに越した事はない。

「いいだろう、答えてやる」
「へっ、それでこそエミヤシロウだ」
「……」

 いちいちフルネームで呼ばれるのに、鬱陶しさを覚える。露骨に舌打ちすると、陽気にアンリ・マユは言った。

「問一、あなたのお名前はなんでしょう!?」
「……馬鹿にしているのか?」
「いいから答えろって。カウントダウン、ごー、よーん、さーん」
「……衛宮士郎だ」
「ぴんぽんぴんぽーん! だぁいせいかーい! やるねえ、こんな難問にいきなり正答を出せるなんて、中々出来る事じゃねぇぜ?」
「……」

 狂人かこれは。士郎は努めて苛立ちを抑え込む。幼稚な茶々でペースを崩されるなんて、情けない醜態だろう。何が嬉しいのか喜悦を瞳に宿す影法師。その調子は留まる事がない。両手を広げて、奴は問いかけてくる。

「問二、この光景はなんでしょう?」
「……俺の心象風景だ」
「ぴんぽーん! すっげぇな、おい。いや、嫌みじゃねぇぜ? それが分かるなんて本気で大したもんだ」
「……」

 固有結界の使い手が、自身の心象風景も把握出来ない愚図なわけがあるまい。
 ……そういえば、なんの意図があってアンリ・マユは、士郎の心象風景を再現している。聖杯の中だろう、これは。ならば、こんなものを見せる必要は――

「ああこれは問題じゃねぇけど聞いてくれよ。なあエミヤシロウ、ありゃなんだ?」
「あれとは?」
「あれだよあれ(・・)! ほら、あの空に浮かんでる奴!」

 それは、歯車。アンリ・マユは、悪意も露に指差していた。
 答えようとして、絶句する。今まで、なんの違和感もなかった。故にまるで考慮する事もなかった。だが――なんだあれは。何故、何故あんなもの(・・・・・)が固有結界にある……?

「問三」

 有り得てはならないものだ。有ってはならないものだ。だって、だってそれは――
 アンリ・マユは、嗤う。嘲笑う。

「あの歯車は、本来の衛宮士郎の固有結界には存在しません。しかし英霊エミヤには存在します。この二人の最大の違いはなぁんだ?」
「――」
「サービスだ。オレが答えてやるよ。人間か、奴隷かだ。英霊の方のエミヤシロウはアラヤの奴隷だ。……さて問題です。問四。あなたの固有結界にあるあの歯車が指す因果はなんですかぁ?」

 慄然と空を視る。

 なんだ、いやまさか、そんな――そんな訳、そんなはずが――待て、待て待て待て。
 待て。それじゃあ、俺は(・・)そういう事(・・・・・)なのか? 馬鹿な、そんな馬鹿な事は有り得ない!
 だって、士郎は。
 士郎は世界と契約した(・・・・・・・)覚えはまるでないのだから――

 だが、悪であれと祈られた生け贄は、否定する士郎を抉る。事実、それのみが、衛宮士郎を綻ばせる毒となるのだから。

「――エミヤシロウ。テメェはアラヤの抑止力の支援を受けている。
 だから瀕死の重傷を負っても、即死でなければ辛うじて生きられた。
 魔力が足りなくなってたら、何処かから魔力が湧いてきた。
 そしてそしてぇ?
 そもそもテメェは本当に契約はしてないのに、奴隷の歯車(あかし)があるのはなんでか? それは……」

 ――見せてやるよ、テメェは忘れていても、忘れさせられ(・・・・・・)ていても、その体に積まれた歴史は誤魔化せない。

 心象風景が歪む。足元がぐらついた気がした。士郎は呆然と、その光景を見る。移ろう場面の連続は、第五次聖杯戦争の記録だった。



 「――問おう。貴方が私のマスターか」



 それは、月下の出会い。

 衛宮士郎は、可憐な少女騎士と出会った。
 青い槍兵に心臓を穿たれ、遠坂凛に命を救われて。生き延びた士郎を、青い槍兵が再び始末に来た。土蔵で士郎は運命と出会ったのだ。
 そして遠坂凛と赤い弓兵の二人と共闘する事になって。冬の少女と狂戦士と戦って、そして――

 魔術師の英霊は、魔術王だった。

「――は?」

 そしてそのマスターは、枯れた殺人鬼ではなく見知らぬ男だった。

 魔術王と騎士王が戦っている。高い対魔力を活かし、苦戦しながらも善戦していた。召喚される魔神、士郎に仕掛ける男。アルトリアは士郎を庇いながら、その場から辛うじて撤退した。
 それから幾度となく騎士王と魔術王は競う。最高峰の対魔力を持つ騎士王を除き、魔術王に敵う者はいなかった。令呪を奪われれば、容易く自害させられる。士郎は早々に全ての令呪を使い切って令呪による妨害を阻んでいた。
 だがそれは賭けだった。令呪という切り札をなくして、魔術王と戦わねばならないなど。敵として魔術王に立ちはだかれたのは、令呪を敢えて使いきった士郎と遠坂凛達だけだった。
 他の全てのサーヴァントは、魔術王を前に敗退している。残された二騎は果敢に魔術王に挑み、遠坂凛は士郎と共に魔術王のマスターと交戦していた。

 その最終決戦は、大聖杯の前で。

 魔術王は聖杯を掌握していた。聖杯に巣食っていた悪性を排除していたのだ。そして未完成の聖杯を用い、赤い弓兵を三十柱の魔神を費やし押し潰した。そこからは消化試合そのものだ。
 騎士王は膝をつき、魔術王に敗れた。少女騎士が消滅する間際、魔術王とそのマスターは呑気に会話を交わしていた。

『――見事だキャスター。これで他の六人のマスターを全て排除した。聖杯戦争は我らの勝利に終わった。後は令呪で君を自害させれば、儀式は完成だ。この大聖杯に七騎のサーヴァントの魂が満ち、根源に至るための魔術炉心に灯が点る。それによって第三魔法はカタチになるだろう。第三魔法は魂の物質化。肉体の枷から逃れた人類は「有限」が生み出す全ての苦しみから解放され、新たなステージに向かう。君はその為の犠牲だ。了解してくれるだろう? キャスター』

 歯噛みしてそれを見る少年の士郎。騎士王は今に力尽きようとしている。男の言は時期尚早だ。まだ戦いは終わっていない。
 だが趨勢が決しているのも事実だった。もはや抗えないのだ。男の勝利への確信を、誰も覆せない。

『いや冗談だ。冗談だよキャスター。すまないな私も浮かれていたようだ。協力者であり、功労者である君を大聖杯に捧げる気はない。令呪も使わない。そもそも君には通じない。私は大聖杯を起動させない。第三魔法などどうでもいい。私は、我ら天体科を司るアニムスフィアは、独自のアプローチで根源に至らなくてはならない。他の魔術師の理論に乗るなど有り得ない。アインツベルンの提唱した奇蹟……魂の物質化、人類の成長なんて夢物語には、はじめから付き合う気はなかったのさ』

 男は語る。
 彼が求めたものは自らの人類愛が燃やす理想。その為の燃料の確保。男が願うのは、永遠の命でも根源への到達でもなく、巨万の富だったのだ。
 そしてそれに、魔術王は賛同した。理解を示した。元より召喚者の願いを叶える為に召喚に応じたらしいのだ。

『……ありがとう、キャスター。君ならそう言ってくれると信じていた。君がそう言ってくれるのなら、この結末は我々だけの秘密に出来る』
『だけど、マリスビリー。まだここには、セイバーとそのマスターがいる。彼らを打ち倒さない限り、この聖杯戦争は終わっていない』
『それだよ。私は彼らを利用する事にした』
『利用?』

     頭が、痛い

 何か、あってはならないものを、見ている。
 男は笑った。道徳心の欠片もない打算がある。
 少年は意識を掠れさせながらも、腕の中に意識のない遠坂凛を庇い、消えかけている騎士王を必死に繋ぎ止めていた。

 そんな彼らを、マリスビリーと呼ばれた男は見る。

『冬木で起きた聖杯戦争は、セイバーとそのマスターが勝利した事にすればいい』

 ――な、に……?

『ふむ。それはいい案だ。しかしマリスビリー、それだけでは大聖杯の魔力は尽きないだろう』
『おいおい、キャスター。惚けてもらっては困るな。アインツベルンの宣伝通りだ。聖杯戦争の勝者は願いを叶える――なら君にだってその資格はあるだろう。私は巨万の富を得る、では君は? 過去の改竄は不可能だが、解釈換えぐらいは出来るだろう。それとも受肉して第二の生を手に入れるか?』
『いや――私にも、願いはある。本当に――何を願ってもいいのだな、マリスビリー』
『ああ。召喚者であるこの私、マリスビリー・アニムスフィアの命以外ならね。我が契約者にして唯一の友よ、キャスター。いや、魔術の王ソロモンよ。君の願いであれば、それは正しいもののはずだ。堂々と願えばいい』
『……しかし。それでも。大聖杯には今、八騎分のサーヴァントの魂が満ちている。とても君の富と私の願いを足しても使いきれないだろう』
『なんだって?』
『英雄王の魂は、三騎分のそれだった。彼はこの聖杯戦争で、間違いなく最強の敵だったろう』
『ふむ……』
『故にマリスビリー、君の隠蔽工作を補強するために、余剰分の魔力を使おう』

 ――何を。何を言っている?

『冬木の聖杯戦争では、セイバーとそのマスターが勝利した事にするんだったね。なら余剰分の魔力は「第五次聖杯戦争の再演」へ使えばいい。幸い私達は、マスターを一人も殺害していない。キャスターの枠さえ埋め直せば、我々の存在しない聖杯戦争が行われるだろう』
『そんな事が可能なのか?』
『可能だとも。元々大聖杯は、魔力が満ちれば聖杯戦争を再び開催する仕組みだ。「第六次聖杯戦争」が、ほんの数日後に、ほぼ変わりのないキャストに演じられるだけなのだから』
『――なるほど。ならば無駄な隠蔽工作も不要となるわけだ。流石だ、流石は魔術王ソロモン。その叡知、讃える他ない』

 魔術王は、無機的な眼差しで。なんの感情もない瞳で、少年を見る。
 そして、言った――騎士王がそれを、聞いていた。

『 全て忘れて、やり直すといい。今度こそ勝てると良いね 』

 そして。ソロモンは人間に成る事を願った。

 マリスビリーは富を得た。

 それで終わり。終わるはずだったのだ。だが、ソロモンはその力を全て失う寸前に、人類史が焼却される未来を視てしまう。そこで――運命はねじ曲がった。

 ソロモンは、人間となった。人間となった彼が最後に見た光景は――人間故に、アラヤに勘づかれ、アラヤは自らの滅びを回避するために――それを回避する為の手駒を欲した。だがそんな者はいない。人類史焼却に抗う手がない。
 故に。この場にあった守護者の魂を利用したのだ。同一存在である少年に憑依させる(・・・・・)事で、破滅へ対抗する切り札として投入した。

 聖杯戦争の再演に伴う、参加者の記憶の改竄。自意識があやふやとなり、そして同一存在であるが故に憑依は滞りなく済まされた。
 誰にも知られず。本人すら知る事のないまま。抑止力は、誰の目にも触れない。

 そして、聖杯戦争は再演した。

『問おう、貴方が私のマスターか』

 ――少年は惑った。どうしようもない既知感、これを識っているという感覚。
 知っていて当然だった。記憶がなくとも、それは英霊エミヤの(・・・・・・)記録である。魂に同化した存在が識っている、故に彼は自分が全てを騙していると感じて、罪悪感に苦しんだ。

 桜や慎二。藤村大河。大切な人達を欺いていると誤解した。嘗ての記憶すらも二重に存在する故に、彼は勝手に己を嫌悪した。
 唯一、違いがあったとすれば。
 この世界の衛宮士郎は、英霊エミヤとは異なり壊れた人間などではなかった事――ただのお人好しで。正義の味方としての警察官を志していただけの――地に足ついた考え方をする正常な人間だった事だ。

 英霊エミヤとこの世界の衛宮士郎は、完全に別人だった。

 だが、英霊エミヤという、自我のない守護者の思想に多大な影響を受けてしまった。
 未熟な魔術師でありながら、十全に投影を行えるのはそれが故。彼が『投影杖』と呼んでいたのは、英霊エミヤの感覚をなぞれるが故の違和感。

『俺は、お前を愛してなんか――!』

 最後の時、少年は懺悔しようとした。しかし、アルトリアは確信を持って、ふわりと微笑んだ。

『いいえ――貴方は私を愛しています』
『――』
『シロウ。そして私も、貴方を愛してます』

 それは、掠れて消えた記憶。



「――問五。おたくの名前は?」



 真っ暗な、暗黒の中に立ち返る。響いた悪意の名は――

「俺、は……?」
「――そう。
 おたくはエミヤシロウ(・・・・・・)だ。
 おめでとう、おめでとう! アンタは今本当の名前を思い出せた!」

 拍手と共に祝福する『この世全ての悪』を、見る事も出来ない。アイデンティティーが完全に、足元から崩れ去るかのような心地だった。
 幻だ。偽りだ。虚言だ。そう断じるのは容易いはずなのに否定する事が出来ない。

「――俺は、知っている。衛宮士郎じゃない俺は! この世界がフィクションとして描かれる世界から流れ着いた魂のはずだ!」
「なにその痛い妄想? 第二魔法かよ。しかも魂だけ他所から流れてきて、赤の他人に憑依して正気を保てる人間なんざいねぇよ。破綻者だ、正気でいられるとすれば。大方自身の記憶の齟齬をそんな痛々しい妄想で補填していたんだろうけどな? じゃあなんで人類史焼却の事件の事をおたくは知ってるのに、その概要を全然知らないんだ?」
「記憶が、磨耗しているんだ。そう何年も覚えていられる訳がない!」

 必死に否定する。ぐらつく足場に踏み留まる。嘲笑が浴びせられた。

「ばーか。エミヤシロウはどう足掻いてもカルデアに辿り着く定めだったのさ。抑止力に後押しされてな。アンタのその知識は英霊の方のアンタのそれと、抑止力がアンタを誘導する為に植え付けたモンなんだよ。本当は分かってんだろ? 認めちまえって」

 認められるはずがなかった。なら、自分が歩んできたこれまでの道は――英霊エミヤの強迫観念に突き動かされてきただけだという事になる。
 そんなのは認められない。認めてはならない。だってそんなの――まるで自分がただの、操り人形のようではないか。

 認められない、契約していないのに。英霊エミヤと同化しているから、死後もアラヤに回収されてしまうなんて。そんなの――あんまりじゃないか。なんのために生きているのかすら、覚束なくなる。

「なあエミヤシロウ。おたく、フィクションとしてこの世界を観測する場所から来た魂だって言ったよな? じゃあさ、なんで――」
「やめろ……」
「――なんで、第五次聖杯戦争の事と、カルデアの存在……英霊エミヤの事しか知らなかったんだよ?」
「やめろ――!」

 頭が真っ白になる。

「第一次から第四次聖杯戦争を知らない。他の世界中の全ての事件を網羅してる訳じゃない。言っちゃあなんだが、この世界、エンターテイメントとして眺めるにはうってつけの娯楽だと思うんだがねぇ。あ、もしかしてウケが悪かった? 売れない世界観だったかな? ギャハハハハ!」

 ――そんな言葉は聞こえない。

 確かにそうだった。士郎は何故、第五次聖杯戦争以前の事変を何も知らなかった。
 いや正しくは何故、それ以外を。エミヤシロウではないはずの、別の名前が思い出せないのか。そもそもそんな人間などいなかったのなら――思い出せる訳がない。存在しないのだから。

「俺は――エミヤシロウ、だったのか……?」

 その呟きは、認めるそれだ。

 目が眩む。意識が一瞬、そう一瞬だけ揺らいだ。

 瞬時に建て直すだろう。士郎は自分の成してきた事に後悔などないのだから。動揺も少しだけ、決して士郎が変質する事はない。
 だがアンリ・マユにはその一瞬で十分だった。極大の悪意が、嗤う。

「鼬の最後っ屁だ――お休み、エミヤシロウ」

 瞬間。

 士郎の心に生まれた微かな間隙を突いて、泥が流れ込む。気づいた時には既に遅い――士郎はその意識を暗転させた。












「――先輩!?」
「お兄ちゃん!」

 大聖杯の浄化が完了した。
 『この世全ての悪』は完全に消滅し、大聖杯は無色の魔力へと回帰する。その瞬間、聖杯の泥に呑まれていた士郎は、その場に頽れた。
 意識がない。慌てて駆け寄ったマシュと桜が、その体に縋りつく。
 彼と霊的繋がりがあったマシュは、その至近にいた故に彼の見せられていた光景を見ていた。――ロマニも、また。
 暴かれた真実に、立ち竦む。それは人間だからこその、ロマニだからこその、非人間的な行いへの罪悪感。

 魔術王ソロモンがカルデアに再度召喚されたのは、何もロマニがいたからだけではない。
 士郎との縁が魔術王にもあったからだ。直視させられた罪に、ロマニの心が軋む。

「シロウ――貴方は……」

 そして。

 彼と契約で繋がっていたのは、マシュ達だけではない。アルトリアもまた、その因果を見た。
 そして彼らの秘密も理解する。その旅路を知った。人類史の守護、この男に課せられた重すぎる使命――死した後の、過酷な運命。

 救いがない。――それを救いたいと、アルトリアは思った。

 このまま放っておけば、衛宮士郎は呪いに犯されて死に至る。『この世全ての悪』の遺した呪いは、彼の魂にまで至っている。魔術王すら、これを取り除く事は出来ないほど、根深いそれであった。

 故に、アルトリアは士郎の傍に片膝をつき、その体へ触れた。

「っ! アルトリアさん!? 何を!」
「マシュ・キリエライト。貴女が宿す英霊は、貴女の心根の貴さを証明している。なら私は、彼を助けましょう。――貴方達の戦いに『この』私は同道出来ませんが、せめてその一助となる事は出来ます」

 アルトリアの手で、聖剣の鞘が士郎へ押し込まれる。魔法の域にある宝具は、祓えぬはずの呪いをも祓うだろう。右腕の呪詛をも、根刮ぎ。
 マシュは目を見開く。騎士王は高潔だった。詐術にかけられていた事を知っても、それが世界を救うためだったならばまるで咎めない。アーサー王は、真実騎士道の王だった。

「――この特異点の所以までは見えませんでしたが。どうやらこの戦いは、あってはならないものだった。行きなさい、マシュ・キリエライト。ロマニ・アーキマン。こんな所で足踏みしている暇はないでしょう。彼を連れ、カルデアで英気を養うのです」
「その、鞘は――」
「差し上げる。シロウが宿すもよし、そちらの私に譲るもよし。些か急ですが、お別れの時間のようですね。この特異点の原因が排除された故に、どうやら貴方達の退去が始まったようだ」

 淡く微笑むアルトリアに、マシュは改めて敬意を抱き直した。
 本当に、凄い人なんだ――
 士郎を抱き上げ、マシュは一礼する。カルデアのマスターは、今暫しの時を眠り続けるだろう。次の特異点には間に合わないかもしれない。だがそれでも、また立ち上がる。彼はそういう男だった。
 故に――アルトリアは彼を心配しない。代わりに彼女は沈黙する青年へ告げた。

「ロマニ・アーキマン」
「っ」
「貴方は、魔術王ではない。人間だ。なら、気に病むばかりではいけない。それを罪だと思うのなら、起きた彼に一言謝ればいい。それが友人というものでしょう」
「――は、はは。まったく、敵わないなぁ……」

 ロマニは力なく笑い、

 そして冬木の特異点は、消え去る。この寄り道が、幸となるか、不幸となるか――人間の彼らに知る術はない。




 
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