東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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憑獣街 2
獣の牙が京子の白い喉に迫る。
「禁顎則不能噛、疾く!」
顎を禁ずれば、すなわち噛むことあたわず。
肉を裂こうとした牙はしかし、噛み合うことなく空振りし、二人の横を首が素通りする。
今の術は!
京子の顔に喜色が浮かび、声の主を探す。
「身命泰安、辟邪破魔。急急如律令!」
と、さらに呪文が唱えられ、それと共になにかが周囲にパラパラとばら撒かれる。もち米だ。神聖な気が満ち、それに触れた獣首の群れは、爆ぜたように吹き飛んだ。
それに恐れをなしたのか、他の首らも火を恐れて逃げ出す獣のように退散する。
「おお! さすが触媒を使った術はすこぶる強力だな」
僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年が姿を見せる。京子が予想したとおり、賀茂秋芳だった。
「秋芳君! ありがとう、助かったわ。……でも、どうしたの、こんな所で?」
「ちょいと呪具の買い足しついでに笑狸のパシリにされてね」
笑狸。秋芳の式神の化け狸だ。
「笑狸ちゃんのお使い? やだ、もう。どっちが式神なのよ」
そういえば秋芳が手にしている青いビニール袋には見覚えがある。あれはついさっき京子も利用した店のものと同じでは――。
「まぁそんなことよりも『こんな所で?』はこっちの科白だ。なんでこんな場所であんなモノに襲われてたんだ?」
「ええと…」
「あなた、たしかきのう京子ちゃんと一緒にいた人よね?」
「うん? 君は……、ひょっとして……、木ノ下先輩?」
一瞬。いや、数瞬ほど、誰だかわからず返答に間が開いた。
(きのうはいかにも可愛い系だったが、あれは化粧のせいか。すっぴんだとハンサム系美人な貌じゃないか。ううむ化粧ひとつでこんなに変わるとは、まさに化生。化粧とは乙種呪術だな)
「よしてよ『先輩』だなんて。だってあなた私より年上でしょ?」
「え、そうなの? 秋芳君、たしか十七歳て言ってたわよね?」
「お、おう。いかにも、じゅうななさいだ」
田村ゆかりよりも十三コ下の、井上喜久子さんよりも××コ下の十七歳だ。
秋芳の物言いがおかしかったのか、張りつめていた純の表情が緩む。
その瞬間――。
ぐぅぅぅ~。
空腹をうったえる音が、純のお腹から鳴り響く。
「…………」
「…………」
純の顔が見る見る赤くなる。
「……なにか、食べるか?」
純はコクリとうなずいた。
焼き肉屋に入った純は猛烈な食欲を見せた。
きのう、あれからなにも食べてないというのだから無理はない。
最初はそう思った秋芳と京子だったが、カルビ、タン、ハラミ、ホルモン、ハツ、シビレ、ミノ……。
肉、肉、肉。ひたすら肉だけを平らげる純の姿に声を失った。
「き、木ノ下先輩。それ、まだ生ですよ?」
「うん」
大皿から直に口に運ぶ純の姿に京子は呆然とし、秋芳は食事中の笑狸の姿を思い出す。
人ならざる化生の身だけあって、その胃袋は底なし。食べようと思えばいくらでも食べられるのではいかという健啖ぶりだが、それを彷彿とさせる。
ビールでのどを潤いつつ、ふと思いついた秋芳が見鬼を凝らし、上から下から、中まで純を凝視すると――。
半透明のケモノ耳と尻尾が生えている。
「先輩、耳と尻尾が出てますよ」
「わんっ!?」
飛びあがり己の頭とお尻を押さえる純。
「獣の生成りになってますね。憑かれたのはあの後ですか?」
生成り。
霊的存在を憑依させた状態のことで、いわゆる憑き物のことだ。
霊的存在をその身に宿すという性質上、生成りは霊災の火種。あるいは霊災そのものと見られ、生成りになった者は陰陽医の元に隔離されたり、陰陽庁の監視下に置かれた上で封印術が施され、宿した存在を押さえこむことが求められる。
特殊な施設への隔離。監禁というやつだ。
世間的な風あたりも悪く、もし憑依体を制御できなくなった場合は生成り自身が霊的存在へと変質や融合し、最終的にはフェーズ3以上の大規模霊災を引き起こす。
だが封印の一部を自ら解放して宿した霊的存在の持つ力を自身のものとして使役・利用することも可能であり、強大な能力といえなくもない。
だが自身を人ならざる存在に近づける行為であり、それゆえ人間性の喪失や自我消滅、暴走の危険も孕んでいる。
「そうよ。あれからあいつの蠱毒に、犬神に憑かれたの」
蠱毒。
蠱毒とは虫や動物を使う呪術の一種で、皿に盛ったり壺の中に入れたたくさんの毒虫を殺し合いさせ、最後に生き残った最も強く、そして他の虫たちの恨みの念が凝縮された個体を使って行われる呪詛だ。
多くの生物を生け贄にし、それを形代にした式神の一種。
こんにちの汎式陰陽術では呪詛式と呼ばれる式神にあたるが、これを陰陽庁の許可なく、作成・使役することは陰陽法で固く禁じられている。
たとえ実際に効果が認められない民間伝承やまじないといった、乙種にふくまれるものであってもだ。
陰陽塾の生徒にはことさら説明するまでもない。
「不覚を取ったけど私だって陰陽塾の二年生よ。意識を完全に乗っ取られる寸前に逆にこっちが犬神を取り込んでやったの」
純のこの言葉に嘘はない。今さっきの見鬼で、他者の支配を受けているような気配は感じられなかったからだ。
「まぁ、完全に制御できてるとは言えないけど……。で、その時に火怒呂の考えてることが頭に流れてきたのよ」
「ほどろ?」
「ええ、火怒呂六三。それが蠱毒をまき散らしてる術者の名前よ」
蛇の道は蛇。長い間もぐりの陰陽師をしていた秋芳は、その名に聞き覚えがあった。
(たしか獣の霊を使役する術を心得た憑依師だったはずだが、妙だな。少し前に呪捜部の連中に『処理』されたと聞くが……)
「しかし、犬神とはね……」
餓えた犬の首を切り落とし、それを道に埋めて人々が頭上を往来することで怨念の増した犬の霊を式神として使う方法。
あるいは犬の頭部のみを出して生き埋めにしたり、壁や柱につないで、その前に食物を見せて置き、餓死直前に首を切ると、切られた頭が飛んで食物に食いつき、これを焼いて骨にした物を呪具にしたりもする。
犬に限らず獰猛な数匹の獣を戦わせて、勝ち残った一匹を生け贄にしたりと、時代や土地によって様々なバリエーションが存在する。
だがいずれも触媒となる生き物を徹底的に苦しませた末に殺し、その怨念を利用するという方法は変わらない。
忌まわしい外道外法の邪術だ。
「犬神という式神に憑かれると無気力。あるいはその逆に粗暴な性格になり、犬神使い。犬神筋や憑き物筋と呼ばれる術者に操られると聞くが」
「そうよ。さらに憑依した人間の目を通して犬神使いはものを見ることもできるの」
「ずいぶん便利ね。あ、じゃあさっきの連中って」
「ええ、そう。でも彼らは一時的に憑依されたくちだから祓魔の術で呪詛を、犬神を散らせるわ。けれどもあんまり長い時間憑依され続けると、本人の魂と融合して、それもむずかしくなる…」
「そんな、大変じゃないですか! もし街中にあんなのがあふれたら…」
「だから犬神を、すべての犬神を送り返すの」
呪詛返し。
相手がかけてきた術を破り、その術を術者本人に送り返すことを言う。
呪詛とは怒りや悲しみ、恨みや憎しみといった他人の負の霊力を呪力に変換したものであり、呪力の制御を破れば、解き放たれた呪力はみずからを利用した術者に向かい、その力をむける。
生き物の怨念を使った蠱毒などは、この呪詛返しがもっとも効果的に働くとされる。
「送り返すと言うが、どうやって? 憑き物を完全に落とすにはそれなりの手順が必要だし、あれだけの数の……。その包み。ひょっとして中身は」
「ええ、蠱毒の本体。四つに分けられた犬の頭蓋骨の一部よ」
思わず息をのむ京子。
まさかそんなおぞましい物を抱えていたとは……。
「あいつはこれと同じ物を陰陽塾の周りに埋めることで犬神の数を増やすと同時に、陰陽塾そのものを呪詛するつもりなの」
「陰陽塾を呪詛するですって? そんなの無理に決まってるわ! 陰陽塾の結界は完璧よ。知る人の限られた古いタイプの結界から最新の結界まで、二重三重に守られてるし、プロの陰陽師だって何人も控えてる。こと呪術面に関してはうちよりも安全な場所なんて都内に、ううん。日本中にだって数えるくらいしかないはずよ」
「そうね。たしかに陰陽塾そのものに個人レベルで呪をかけたって、たかが知れてる。でも陰陽塾に外から通う生徒はちがう。……あたしみたいに憑かれる子だって出てくる可能性があるわ」
「完璧なのは結界だけじゃないわ。アルファとオメガの霊気チェックだってあるんだし、そんな子がいてもすぐにわかるはずよ」
アルファとオメガとは塾舎ビルの正面入り口に鎮座する二体の狛犬の姿をした式神だ。
鋼の実体を形代とした機甲式と呼ばれる頑強なタイプの式神で、陰陽塾の番人といえる。
彼らが常に目を光らせ、塾内に出入りする人間の声紋や霊気の確認をしているおかげで陰陽塾の安全は守られている。
「登校中に憑かれて、そのまま街中で暴れられる可能性もある。もし陰陽塾の生徒が他所で陰陽術を使って問題を起こしたとなれば陰陽師に対する風当たりはさらに強くなるだろうなぁ…」
「そういう懸念なら、そんな物が街中にある時点で大問題よ。巻き込まれるのが一般人だろうが塾生だろうが、呪術がらみの事件が起きたら『また陰陽術か!』て、マスコミの連中がうるさく騒ぎ立てるわ。……て、もう一般の人たちが巻き込まれるじゃないですか! さっきの人たち!」
今さらながら、事の重大さに気づく。
「早く呪捜官に知らせないと…」
呪捜官。
呪術犯罪捜査部。通称・呪捜部。
陰陽庁に属する内部部局の一つで、この部署に属する陰陽師は呪捜官と呼ばれる。
主に呪術絡みの犯罪捜査に従事し、職務の性質上対人呪術戦が多いのが特徴だ。
また、呪捜官には警察官のように拳銃の携帯が許可されている。
「まって京子ちゃん!」
「木ノ下先輩?」
「……お願い、それだけはやめて」
陰陽塾の二年生ともあろう者が、街中でもぐりの陰陽師。いや陰陽師と呼ぶのもはばかられるような左道の呪術者の手で動物霊を憑依させられ、呪捜部のやっかいになった。
これは不祥事だ。
そんなことが明るみになればどうなるか?
陰陽塾に通う塾生の多くは旧家や名門の出。それも今まで数多くの陰陽師を輩出しているような、呪術と縁の深い家の者が多い。
そのような家の人間がいかにもいやがる類の不祥事だ。
周りからは後ろ指を指され、いろいろと不愉快な思いをすることになるだろう。
木ノ下純はことを公にせず、自分の手で始末をつけたい。
言葉に出さずとも、純のその考えは秋芳と京子に伝わってきた。
「……それだけじゃないわ」
「え?」
「私の、私たちの暮らす街で呪術をこんなふうに使うやつはゆるせないの。呪術はそういうふうに使うものなんかじゃない。私たちの街は、私たちの手で守りたい……」
「先輩……」
「あと一つ。あと一つだけ回収すればまとめて祓うことができるの。そうすれば呪詛は返されて、あいつは破滅よ」
「埋められた場所は?」
「代々木公園」
奇しくも秋芳と京子が最初に出会った場所だ。
この蠱毒は人通りの多い所に埋め、人々に踏まれることで怨念を増し、よりいっそう強い力を放つようになる特徴を持つ。
観光地でありデートスポットでもある代々木公園はうってつけの場所といえる。
「よし、すぐに行こう」
「秋芳君!?」
「一般人に被害が出ている以上、事は一刻を争う。呪捜部に通報したとして、連中が犯人逮捕の準備を整える間にも犬神の数は増える一方だ。ここは俺たちだけで一気にケリをつけたほうが早い」
「…そうね、わかったわ。それに正直あたし呪捜官の人たちって、いまいち信用できないのよね。あの人らに任せるより、あたしたちが動いたほうが確実よ」
京子は呪捜部部長。呪捜官の長を務める天海大善と面識がある。
京子の祖母、美代と大善は古いつき合いで、その関係で交流があるのだ。
そういう意味では呪捜官自体に悪い印象は持ってないのだが、最近起こった呪捜官による土御門夏目襲撃事件などで心証を害しているのも事実だ。
「あー、君は家の人に迎えに来てもらったほうがいい。もう遅いし、塾ちょ…。お祖母様が心配しているぞ」
「ここまで来てあたしだけのけ者? そんなの納得できない! この街を守りたいって想いは、あたしだって同じよ!」
「火怒呂ってのが最後の蠱毒を守ろうと網を張って待ち構えてる可能性が極めて高い。人間相手の呪術戦になるかも知れないんだぞ?」
「あたしは陰陽塾に、ううん。倉橋の家に生まれた時からそういうことは覚悟してるわ。白桜も黒楓もいるし、足手まといにだけはならないって約束する。それに『事は一刻を争う』んでしょ? ここであたしと口論してるヒマなんてある?」
「…しょうがないな、言っておくが自分の身は自分で守れよ。二人とも念のためこれを」
そう言って呪符の束を京子と純に手渡す。
授業で作成・使用している陰陽制の符とちがい、ずしりと重く厚みがある。
「これは?」
「桃園霊符。桃の木を削って作った呪符で、呪詛系の相手には効果てきめんだ」
「陰陽庁制じゃ、ないわね…」
「まぁ、賀茂のコネでいろいろ手に入るとでも思っててくれ。効果は保障する」
「賀茂? じゃあ、あなたが賀茂秋芳?」
「ああ、そうだけど、それがなにか?」
「あなた、二年の間じゃけっこう話題になってるの。残念なほうの土御門とちがって、今度来た賀茂は優秀だ。て」
「あら、凄いじゃない! 先輩たちの間で有名になれるだなんて、光栄なことよ」
「おお、そりゃたしかに光栄だ。うれしいね」
陰陽塾に入り正式な資格を取る段になったからには裏働きをする機会もなくなるだろう。
顔や名が知られても問題はない。むしろ賀茂の名を世に広く知らしめたいと思っている本家の連中にとっては好都合だ。
「じゃあさっそく出発しましょう。タクシー呼んだほうがいいわよね? 歩くより早いし、あいつらにも見つかりにくいでしょ」
「いや、どこに犬神憑きがいるかわからない以上、公共の移動手段は使わないほうがいいだろう。可能な限り人に見つからず、歩いて行こう。二人とも穏形しながら移動はできるか?」
「そんなには早く歩けないけど、なんとか」
さすがは二年生の純だ。
「……やってみるわ」
正直、今の京子の実力では穏形しながら歩くのはむずかしい。
だがついて行くと言った以上、後には引けない。ここで『できない』と口にできるはずがない。やるしかないのだ。
(ふむ、良い返事だ)
京子のその思いを察せない秋芳ではない。
むずかしい課題をつき出され『できない』と考えたり答えるのは、もっともしてはいけないことだ。
できないなんて思うことは自分で自分の可能性を閉ざしている。
『できない』という呪をかけているに他ならない。
かと言ってできもしないのに『できます』と答えるのはあまりにも無責任だ。
『やってみます』この答えが一番良い。
話がまとまったので会計をすまして代々木公園へ向う。
「京子、抵抗するなよ」
「え?」
「禁気則不能感、疾く!」
気を禁ずれば、すなわち感じられることあたわず。
たちまち京子の気配が断たれ穏形状態になる。
(なにこれ? これが、賀茂の陰陽術なの?)
始めて目にする術に目を丸くする純。
(いや、これは賀茂の術じゃあない。我が家に伝わる呪禁の術さ)
ざっくりと自らの生い立ち。賀茂と連、呪禁のことを純に説明する。
(それよりも穏形状態で街中を歩くさいは歩く人や走る車に気をつけるんだぞ)
(うん、むこうからはあたしたちの姿は見えないからね)
正確には見えないのではなく、認識できない状態だ。
陰陽術による穏形というのは、物理的に透明になっているわけではない(もちろんそういう術も別個に存在する)目はそこに術者がいることを見ているのだが、心がそれを認識しないのだ。
まるで道にある雑草や小石のように、誰にも気にとめられることがなくなる。
達人ともなると小規模の人払いの結界のようなものができ、雑踏の中にいても周りの人は無意識に目をそらし、避けて通るようになるという。
街中を注意して進む三人。
(しかしあれだな。こうして歩いてると、乗って高速移動できるタイプの式神が欲しくなるな)
(そういえば笑狸ちゃん以外に式神っていないの? あなたの呪力なら十体でも二十体でも、簡単に使役できるでしょ?)
(大量の式神は使わない主義でね。あいつが一人いればじゅうぶんだ)
(あら、愛されてるのね笑狸ちゃん。一途なご主人様でうらやましいわ)
(んー、そういうわけでもないんだがなぁ。……昔、ちょっとあってね)
(なに? なにがあったの?)
(笑狸に会うずっと前、祓った動的霊災をかたっぱしから自分の式にしていた頃があって)
(……あたしたちのレベルとは全然ちがう話ね)
(その時に葛城山の神に因縁ふっかけられたんだ)
(神様に!?)
(ああ、山の中を歩いていたら、向こうから俺とまったく同じ姿の人が歩いて来た。これは怪異の類と思い話しかけたら、自分は葛城山の神だから道を開けろと言うのだ。当時の俺は調子に乗ってたガキで、それを拒んで戦闘になったんだが、やっこさん、こちらの所持している式神をまんま使ってきやがった)
(さすが神様ね)
(こちらが召喚してないものまで使うわ、倒してもまた出てくるわで、めんどうになり、その場は逃げた。で、あれはこちらの式神をコピーする能力を持っているに違いないと思い、後日すべての式神を無に帰してから再戦しに行ったんだ。すると案の定むこうも一人だけ。サシの勝負なら楽勝だ。はっ倒して負けを認めさせてやった。それ以降やたらと式を持つのをやめたんだ)
(正直、信じられない話だけど、あなたが言うなら事実なんでしょうね……)
横で聞いている純もこの話には仰天し、あやうく穏形が解けるところだった。
代々木公園。
隣接した明治神宮と一体化した緑の園。
陽の光の高い時間帯はサイクリングに興じる者あり、家族で遠足に来るものあり、愛をささやくカップルあり――。
そんな都会のオアシスに蠱毒が埋められているのだ。
人々に踏まれることで怨念を増し、いっそう強い念を出すことになる。
「あそこよ! まちがいないわ」
観光地でありデートスポットでもある場所だけに、昼夜を問わず人通りは多い。
すでに相当強力な呪力を放っている。
蠱毒の埋まっている場所へ駆けて行き、掘り出そうとする純。
それとほぼ同時にあたりを異様な気配がつつむ。
スーツ姿のサラリーマンやOLふうの男女、作業着を着た労働者、学生ふうの若者、ストリートファッション姿の若者、浮浪者……。
人、人、人、人、人、人――。人の群れだ。
犬神にとり憑かれた群衆があたりを囲んでいた。
「一気に祓うぞ。京子は右を」
「わかったわ! …臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前!」
刀印を結び、九字を切る京子。籠の目状の霊気がほとばしり、それに触れた犬神憑きたちはたちまち地面に倒れ伏す。
「我祈願、南斗星君。百邪斬断、万精駆滅、星威震動便驚人――。活剄!」
我は祈り願う。人の命を司りし南斗の神よ、邪気を斬り捨て、あらゆる霊を祓え。星々の威光が地を制す。
秋芳の退魔の術も効果を発し、次々と倒れる憑依者たち。
だがそれだけでは終わらない。
倒れ伏した人々から瘴気が立ち上る。憑依を解くことができても、修祓しきれなかった犬神たちが実体化して襲ってきた。
「今日の呪符打ち授業を思い出すんだ。符の弾幕で押し潰すぞ」
「ええ、賀茂と倉橋。両家の力を見せてあげるわ!」
背中合わせになり間髪を入れず呪符を投げ打つ秋芳と京子。
ひたすら打つ、打つ、打つ。打ちまくる。
迂回して純を狙おうとした犬神も何体かいたが、二人の投げた符にあたり一体残らず消滅した。
符を放つにも霊力が必要だ。
授業の時のように、ただ打ってあてるだけならともかく、きちんと術としての効果をもたせて呪符を投げるという行為はそれなりに消耗する。
ましてこのように間断なく投擲するにはかなりの霊力がないとできない芸当で、普段の京子なら厳しかったかも知れない。
だが今はちがう。
背中越しに伝わってくる秋芳の熱く強い気に影響されてか、京子の身体の中から力が、霊力が滾々と湧き出てくる。
(力が、あふれてくる…。体が軽い。こんな気持ちで陰陽術を使うなんて始めて)
その時の精神状態によって霊力の強弱や多寡は若干変動するというが、今夜の京子は絶好調だった。
「魔を見通すは八咫の眼」
京子の口から自然に言葉が漏れる。
「魔を祓うは八尺瓊の腕、魔を退けるは叢雲の息吹」
思わずつられて秋芳の口からも言葉が出る
「魔を絶ち斬るは草薙ぎし剣」
「「黄泉路を照らす星々の光よ、狭蝿なす万の妖を滅し、我が道を照らせ。星流霊符陣!」」
京子の目が気を読み標的を捉え、秋芳の渾身の気が乗せられた呪符がそれらを打つ。
空を舞い飛ぶ呪符は流星群と化し、犬神らを一体残らず殲滅した。
「やった! やったわ!」
「気を抜くな、術者が近くにいるかも知れない」
その時、一筋の光が京子の体を貫くのが秋芳に『視えた』
殺気だ。
殺気が線になって見えた。
合気道の開祖に植芝盛平という人がいる。
数多くの武勇伝がある人物だが、その中の一つに、銃弾が飛んでくる前に光のツブテが見え、それを避けることで弾から逃れた。というエピソードがある。
他にも相手の攻撃の前に白い光が見え、その光を避けることによって相手の攻撃をかわした。
屋内に居ながら訪ねてきた人の存在や、その服装がわかった。
などの逸話がある。
これは一種の見鬼。気を読むことができたのではないだろうか? このようなはっきりとした形で殺気を感じ見た経験など秋芳にはない。
ないが、直感でそれが殺気というものだと悟り。その瞬間、自然に体が動いた。
突き飛ばすいきおいで京子を抱いて跳び伏す。左半身に衝撃が走る。
「ちょっと! いきなりなに――ッ!?」
急に押し倒されたと思った広義の声をあげようとして絶句する。
秋芳の左上腕部がごっそりと食いちぎられ、皮一枚だけでかろうじて下の腕とつながっていた。
くちゃ、くちゃ、くちゃ……。
なにかを咀嚼する音が聞こえる。
見れば仔牛ほどのサイズをした黒い大型犬が咢を地に染め、なにかを食べている。
食べているのは彼の腕だ。
あれに襲われたのを彼が身を挺してかばってくれたのだ。
自分のミスで彼が大ケガを負ったのだ。
そう京子の頭が理解すると同時に、激しい自責の念とともに涙があふれ出た。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」
負傷箇所から白い骨が露出して見える。それをおおう赤い肉。内圧で筋繊維が押し出されると同時に鮮血が吹き出し京子の身が真っ赤に染まる。
「…やれやれ『足手まといにだけはならない』じゃなかったのか? 油断して不意を突かれるなんて、なってないぞ」
出血と同時に激痛が走る。
流血と共に力も抜けていく感覚。意識が遠のくが、激しい痛みがそれをゆるさない。
苦痛をこらえ、ゆっくりと立ち上がる。
「これは大きな貸しだぜ、倉橋京子。そのでかい胸を揉みくちゃにするだけじゃ返しきれん。髪の先から足のつま先まで、身体で払ってもらおう」
ついついエロ魔人の本性が出てしまう秋芳だった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! なんでもするから、ゆるして、死なないで、お願い……」
軽いパニック状態になり涙ながらに謝罪の言葉をくり返す京子の姿に、秋芳の庇護欲と
嗜虐心が刺激される。
と同時に胸に込み上げてくるものがあった。
なつかしさだ。
先日の放課後。京子と簡易式を使って戯れていた時にも感じた違和感をともなう、もの
なつかしさ。
ずっと昔。こんなふうに泣きじゃくる京子の姿を見たおぼえが――。
(――あるわけがない。まったく、こんな時に、なんなんだ。ええい!)
雑念をふり払い、傷口を確認して口訣を唱える。
「禁傷則不能害」
傷を禁ずればすなわち害することあたわず。
たちまち傷が癒え、出血も止まる。
いや、最初からケガなどしていなかったかのように、破れた服の布地はそのまま。筋肉質の腕だけがそこにあった。
「え? な、なに。それ……」
「俺はこのとおりだいじょうぶだ。押し倒して悪かったな、立てるか?」
「う、うん。あたしは平気」
右手で京子を抱き起す。左腕は、使えない。
傷をふさいでも失った血液と体力まではすぐには回復できない。しばらく左の腕は萎えたままだろう。
「こいつは驚いた。カタギじゃないとはふんではいたが、妙な術を使いやがる。…おまえら陰陽師か?」
声とともに闇の中から背広姿の男が姿をあらわす。
見るも無残に焼けただれた相貌と全身から立ち上る灼熱の鬼気もおぞましい。
犬神使い、火怒呂六三だ。
「小癪にもわが犬神を退けるとは、これで計画に遅れがでたぞ、くそっ」
「なにが計画よ、くだらない。あんたのしていることは立派な霊災テロよ。これ以上被害は出させない。今ここであたしたちが引導を渡してやるわ!」
「犬神計画! 四つの蠱毒が生み出す大量の犬神によって渋谷はわが物になる。その次は新宿、恵比寿、池袋、秋葉原…。やがては東京を、日本という国そのものを手に入れる。犬神筋がふたたび国家を総べる存在となるのだ。それを陰陽師ぃ~、きさまらは一度ならず二度までもわが邪魔をするとは…」
「なによ、こいつ。全然聞いちゃいないじゃない」
「自分に酔ってるんだろ、それより長口上は好都合だ。俺の片腕はもう少しの間使えないし、木ノ下先輩が蠱毒を掘り起こすまで時間稼ぎしよう」
視界のすみに蠱毒を懸命に掘り起こしている純の姿が見える。
「わかったわ。…ちょっとあんた! まずは名乗りなさいよ」
「冥途の土産に教えてやろう。と言いたいところだが、あいにくと冥途の土産はすでにお渡しずみだ」
芝居がかった仕草で指をパチリと鳴らす。
「GURURURUUUU……」
秋芳の肉を食べ終えた黒い犬が威嚇の声をあげ、近づいてくる。
正面に火怒呂、背後に黒犬獣。二人はちょうど挟まれる形になってしまった。
「白桜、黒楓!」
京子の呼びかけに応えて、二体の護法式が顕現し、黒犬の前に立ちはだかる。
成人男性ほどの背丈と、アスリートのような絞り込まれた体型。
片方は白く片方は黒い。白いほうは日本刀、黒いほうは薙刀を構えている。
二体とも西洋の騎士や日本の武者鎧を彷彿とさせるデザインの甲冑で全身を覆い、どこかロボットじみた外観をしていた。
「モデルG2・夜叉か!? 忌々しい、陰陽庁制の木偶人形め!」
「さっきからなによ、あんた。陰陽師になんか恨みでもあるわけ? あ、ちなみにあたしと彼。陰陽塾の生徒なの。だから陰陽師への批判や侮辱はゆるさないわよ」
これは蠱毒を堀り出している純に火怒呂の注意がむかないようにとの考えでの発言だ。
「勝手に作り上げた陰陽法で、先祖代々から伝わるわが一族の秘術を破棄せんとし、それに異を唱えれば命を奪う。これを恨まずなにを恨む」
「あんたみたいなのが好き勝手に呪術を使って人に迷惑かけるから陰陽法はできたのよ。恨むなら自分を恨みなさいよ。だいたいなに? 今どき蠱毒だなんて邪法、信じらんない。あんな動物愛護の精神に反した、他人の怨念に頼った呪術。取り締まられて当然よ」
「実に独善的だな。そうやって今まで民間からいくつの呪術を奪い、闇に葬ってきた?」
京子が火怒呂と応酬をしている間、秋芳の腕に力が戻りつつあった。
(気から察するにあの犬はやつの護法。それも使役式だな。タイプ・ビースト……、ガルムかヘルハウンドか? 舶来ものかよ。いや、ちがうな。あの身にまとう火気の強さ、あれは…、禍斗か!)
禍斗
中国の地理書・山海経に記された妖獣。
炎を食べ、炎をまき散らすとされる魔犬だ。
「もぐりの憑依師にしちゃ、ずいぶんと贅沢な式神を持ってるんだな」
「憑依師ではない、犬神筋と呼べ」
「それ、禍斗だろ? どこで見つけてきたんだ」
「ほう、こいつの正体がわかるか。さっきの術といい、なかなか優秀だな。……そうだ、おまえを犬神にしてやろう。人で試したことはないが、良い蠱毒ができそうだ」
「な…、人を蠱毒にですって!? あんた、どこまで腐ってるのよ!」
「威勢のいい女だ。おまえも犬神になりたいか? くっくっく、土に埋められて飲まず食わずでどこまでそんな口がきけるかな? 三日か? 五日か?」
「火怒呂という獣憑きを生業とする一族の話を聞いたことがある」
「…いかにも、わが一族のことだ。だが獣憑きではない、犬神筋と呼べ」
「火怒呂六三。たしかそんな名の呪術師がいた」
「われのことだ」
「だが、妙だ。その呪術師は一年ほど前に死んでいるはずだ。さんざん呪捜部の連中を手こずらせたあげくに、陰陽法にもとづき特別動的霊災として処理された」
「人を霊災として!?」
「そうだ。陰陽庁の連中よっぽど頭にきてたんだろうな、呪捜官が束になって八陣結界で拘束し、その上で修祓処理されたと聞く」
八陣結界。
それは祓魔官がフェーズ3以上の霊災に対して使用する遁甲術の大技で、対象を囲むように8人の術者を配置した後。
呪文を詠唱し術式を発動させることで術者同士を光の線が結び、内部のものを閉じ込める。
「修祓したのがまた十二神将の一人ときたもんだ。国家一級陰陽術師まで出張らせるとは、どんだけやんちゃしたんだって話だよ」
十二神将。
国家資格である『陰陽1種』取得者の通称だが、その呼び名の通り十二人いるわけではなく、国内に十数人存在する。
陰陽師としての腕は超一流であり、現場に出ているものから研究者まで、その活躍の場は様々とされる。
「…………」
「ええと、十二神将の、誰だっけ? 鬼喰らいのなんとかって人」
「鏡だ。鏡伶路……。そいつが、殺したんだ。この、われを。犬神筋の、このわれを!」
火怒呂の身から殺気が颶風のごとくあふれ出す。
それだけではない。陰気が、おき火のごとく全身を包む。
それはもはや生者のまとう種の気ではない。
「殺したって…、なによ? こいつなに言ってるの? なんなのよ、こいつ…」
「怯えるな。こいつはただの死にぞこないだ。呪詛を返せば灰燼に帰す」
「く、くくくっ。呪詛だと? きさまらの目論見通り、ここに蠱毒は埋めてある。だが、蠱毒に近いほどわれの力も増すのだッ!」
陰気が場を駆け抜ける。
「あああッ!?」
地面を掘っていた木ノ下純が悲鳴をあげてのけぞる。
「先輩!?」
純の口から牙が、手から鉤爪が、全身から獣毛が生えてくる。
押さえられていた犬神が猛威を振るい、純の身を蝕んでいるのだ。
このままでは身体を乗っ取られてしまう。
「京子、一分でいい。あのでかい犬を、禍斗を頼む。俺は火怒呂を倒す。やつを倒せばすべて終わりだ」
厄介な式神を相手にする時は、先に術者をどうにかする。対人呪術戦のセオリーだ。
「え、わ、わかったわ」
「やつは火気を帯びている。水行符はあるか?」
「ええ、五行符はいつも多めに持ち歩いてるから」
「よし。時間を稼ぐだけでいい、倒そうなんて考えるな。……行くぞっ!」
そう言って火怒呂目がけていっきに駆ける。
ほぼ同時に京子も白桜と黒楓を禍斗に向かわす。
戦いが、始まった。
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