ウラギリモノの英雄譚
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ニチジョウ――ソシテ、3年ノ月日ガ流レタ
「でぃりやぁ!」
花も恥じらう女子大生、九重 里里(コノエ サトリ)は怒号を上げて、踵を振り下ろした。
ここは代々ヒーローを捻出してきた紫雲家の敷地内にある柔剣道場だ。中では道着姿の二人の男女が対峙していた。
女の方の名前は九重 里里(このえ さとり)。県内の大学にこの春から通い始めた大学生で、化粧気はないものの、ぱっちりとした二重まぶたが印象的な女性だ。
里里は、セミロングに伸ばした癖っ毛を揺らして、素早い足運びから鞭(むち)のような蹴りを放った。
男の方が彼女の蹴りを躱す。彼の名前は紫雲 要(しうん かなめ)。中性的な顔立ちに小柄な風貌の彼だが、この道場を保有する紫雲家の跡取り息子だ。歳は里里より一つ下の十七歳で、学年的には二つ下だ。しかし、彼は里里より先に紫雲流に弟子入りしていたため、ここでは彼女の兄弟子にあたる。
里里に対峙した要は、振り下ろされる女子大生の踵を冷静に目で捉えながら、次の動きを思案していた。
彼女が用いているのは、紫雲流の型の一つだ。彼女はこの一連の流れの中で、最後のかかと落としだけ大ぶりになる癖があった。
躱すのは容易い。が、あえて受けよう。
判断するに早く、要が姿勢を低くする。
来るとわかっている強力な一撃を、あえて額で受け止めた。
衝撃は骨を伝って、頚椎の辺りがビリビリと痺れた。
目の前が一瞬チカチカと白く染まる。
意外そうに目を瞬かせる里里。
「当たるなんて思ってなかったんですか?」
足を振り上げて大きく開いて静止した彼女の体は、体の中心線にある急所を曝け出していた。隙だらけだ。
打撃で仕留めるのは容易い。
だが、あえて要は脚を払った。
「っ、このっ!」
弄ばれたことに気付いたのか、尻もちをついた里里が眉間にシワを寄せる。
体制を崩しながら苦し紛れに拳を放ってくるが、勢いのない拳など躱すのは容易い。
「そこは受け身に徹して下さい」
妹弟子に指摘しつつ、倒れた里里のマウントに乗る。
即座に里里は両腕でガードを固めていた。
「ガードは速いですね」
すかさず片手を取って腕十字固めを仕掛ける。
「いっ」
里里は力尽くで振り払おうとしてくるが、紫雲流の絞め技で指の関節をガッチリと抑えこんでやった。
合気道を原型にしたこの絞め技は、一度掛けられば力尽くでは外せない。
里里もこの技については理解している。彼女はすぐに抵抗をやめた。
「…………参りました……」
要が手を離す。両者起き上がり、一礼。
「あーっ。負けたー!」
里里が畳の上に転がった。
「何で勝てないんだよー。強いし強いし勝てないし! ちょっと手加減しろやい、要兄さんの鬼ィ!」
「手加減しましたよ。倒せる機会は三回。急所を打てるチャンスも幾度となく有りましたが、あえて見逃しました」
「手加減するなよ! 本気で勝負した私が傷つくだろォ!」
「どっちなんですか」
うだうだと押し問答の末。
未だに里里は納得行かない様子だったが、しばらく文句を垂れ流した後にムクリと起き上がった。
「それじゃあ、怪我を治しますよー」
「はいはい」
里里がフーっと息を吸う。
「――変身」
そう声を発した里里の体が、地面から溢れ出す光り輝く粒子――英気に包まれる。
里里にまとわりついた英気は、僅か一秒足らずで固定化し、ヒーロースーツの形を成した。
里里のヒーロースーツは、青を基調にしたワンピース型の衣装だ。両手には短銃を携え、目元には羽に似た形の飾りが施されている。
彼女曰く、この飾りには短銃の照準器の役割があるらしい。
「痛むところはありませんか?」
「あー……うん、問題ないみたい」
変身すると、傷の治りが早くなる。
紫雲の道場では、厳しい練習の中で傷を負うことも少なくなく、練習後にはこうして変身をすることが日課になっていた。
「ふぅ――」
傷が治ったところで里里が変身を解除する。
ヒーロースーツが霧散して、里里の衣装が元の柔道着に戻る。
里里の傷が治ったのを確認する。
要は氷嚢を取ってきて、額のたんこぶに当てた。
「ところで、いつまでこの組手続けるんですか?」
「私が要に勝つまでだってば。その暗に妹弟子を追いだそうとするのをやめてくれないかね、兄弟子」
「別に来てほしくないってわけじゃないんですけどね」
要がこんなことを言うのには、理由がある。
この紫雲家が保有する道場は、ヒーロー志願者達に格闘技を教え、ヒーローを養成するための道場だ。しかし、現在、紫雲家の道場は師範代である要の母が失踪して、ヒーローを養成するための道場としての機能を果たしていない。
更に言えば、里里は二年前にヒーロー認定試験に合格し、既にプロヒーローとしての資格を持っている。
誰の目から見ても、妹弟子の里里がここに来る必要は無かった。
「私は、本気の要より強くなりたいんだよ」
「だったら、もっと効率的な方法を探してみてはどうですか? 里里さんの武器は小銃ですし、格闘術の訓練よりも、銃を意識した戦い方について研鑽した方が良いのでは?」
「それは私の決めた道だよ。私は要と本気でやり合って、私が勝てるぐらいに強くなりたいの」
「強くなるだけなら、ここ以外にももっと良いところが在ると思うんですよ。それに、本気で戦えば負けるのは僕ですよ。だって僕は……」
額に当てていた氷嚢を離す。
変身すればすぐに治るであろう打ち身を触りながら、言葉を続けようとした時――。
「あ、目に黒いのが付いてるよ?」
突如、里里の指が目に入ってきた。
「――ッッッ。何するんですかァ!」
「あ、ごめん。目にゴミが付いてるのかと思ったら、黒目だった」
「何をどうやったら黒目をゴミと間違うんですか!? 仮にゴミが入っていたとしても、人の眼球に触る奴がいますか!?」
「はははー。いつもよりツッコミが長いー。ビックリしたの? 痛かったの?」
「両方ですっ」
「まぁ、そんな荒ぶるなし」
里里の手が、要の頬をムニっと摘んだ。
「要兄さんの積み重ねてきた鍛錬や技術は、私よりも確かに上だよ。ヒーローになれなくなったからって、要兄さんの価値が無くなる訳じゃない。それとも、要兄さんはヒーローになりたかったの?」
里里の指が要の頬をムニムニとほぐす。
「だいたい私だって、取れたから資格を取っただけでヒーローになりたかったワケじゃないしねっ! もしかしたら、大学を卒業してもヒーローに就職はしないかもしれないよ。今、大学でやってる授業が面白くてさぁ、そっちの方が仕事にするなら楽しいんじゃないかなって思うんだよねっ」
それだけ言い切ると、里里は帰りの支度を始めるため、更衣室に消えていった。
そして、里里がいなくなった柔道場で、要は静につぶやいた。
「――変身」
ヒーロースーツが身を包み、要の受けた傷はまたたく間に回復した。
そして、要は目が見えなくなった。
次に肌の感触が消え、呼気に交じる大気の匂いを感じられなくなり、口の中の唾液の味がわからなくなり、音が遠のいていく。
五感は全く働かなくなる。
――そして要の世界は真っ暗に閉ざされた。
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