至誠一貫
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第一部
第六章 ~交州牧篇~
七十七 ~紫苑の覚悟~
翌日。
引き連れてきた兵と、元々士一族が率いていた兵との再編を行う事となった。
本来、刺史や郡太守には軍権はないが、朝廷の威光が衰えている今、それを咎め立てされる事はまずあり得ぬ。
無論、その為の費えは自腹となるが。
特に此所交州は異国と接している立地、兵を置かずに統治は不可能と言えた。
「本当に良いのだな、士燮?」
「はい。本来は、私の立場では持つ事を許されないのですから」
「それはそうだが。だが、この為に費やした財も少なくはなかろう?」
「それは否定しません。ただ、軍というものは創設するだけでなく、維持するのにもまた費えが必要です。……正直なところ、負担になっているのも事実ですから」
ふむ、上辺だけの言葉ではなさそうだな。
だが、未だ腹の読めぬ士燮が、こうもあっさりと兵を手放すとは予想外であった。
それは、彩(張コウ)らにしても同じ思いのようだ。
「士燮殿。貴殿の申し出だと他郡の兵も同様、我らが預かる事になりますが」
「ええ。士武らにもそれは伝えてあります。追々、お任せする事になりましょう」
「……成る程。殿、星や愛紗が戻り次第、そちらにも着手しましょう」
「うむ」
「では、私はこれにて。郡太守の職務がありますので」
一礼し、去って行く士燮。
「どういうつもりなのか……。読めませぬな」
「だが、筋は通っている。州牧が赴任したのに、郡太守が兵を手放さぬでは、言い訳が効くまい」
「ですな。預かった以上、我らの兵として鍛え上げるまでの事ですが」
「そうだ、このような時勢だ。兵を精鋭揃いにしておく事は欠かせまい」
「お任せを。愛紗らが戻ってきた時に、驚かせてやります」
彩は、そう言って胸を張る。
決して大言壮語ではない事は、皆も承知の上だ。
「あら、おはようございます」
「紫苑か。おはよう」
鍛錬の後らしく、弓を手にしていた。
「朝からこのような場所においでとは。何かありましたか?」
「いや。士燮から兵を預かる事になった故、その話をしていたところだ」
「そうでしたか。ですが、彩さんお一人で再編を?」
「致し方ありませぬ。今は皆、出払っています故」
「それでしたら、私もお手伝いしますわ」
そう言って、満面の笑顔を見せる紫苑。
「紫苑殿。ご厚意は有り難いのですが、貴殿は荊州軍を率いる御方ですぞ?」
「ええ。ですから、お手伝いと」
「いや、程度の問題ではなく。……殿!」
紫苑の申し出に他意がない事は、言われずともわかる。
彩とて、その程度が察せぬ程愚鈍ではない。
だが、紫苑の立場はあくまでも劉表から派遣された『援軍』の将。
それが、他州の調練に参加したとなればどうなるか。
見方によっては、紫苑が我が軍に気脈を通じているという疑惑を持たれるやも知れぬ。
或いは、劉表と我らが、朝廷に無断で軍事協定、または同盟を結んだ可能性がある、と。
我らもそうだが、そうなれば劉表にも累が及び、要らぬ波風を立てる事になる。
仮にそうならずとも、紫苑自身が何らかの処罰を受ける事にも繋がりかねない。
「紫苑。気持ちは有り難いが」
「うふふ、私の事を気遣って下さっているのでしょう? それでしたら、ご心配なく」
何故か、にこやかな紫苑。
聡明な紫苑の事だ、私の懸念に気付かぬ筈がないのだが。
「歳三様。お願いがあります」
「……申せ」
「はい」
と、紫苑はその場に跪いて、
「私を、正式に貴方様の下に置かせていただきたいのです」
「紫苑殿! いきなり何を言われる?」
「彩、待て」
「し、しかし……」
「まずは話を聞く事が先だ。紫苑、続けよ」
「ありがとうございます。……確かに劉表様は、荊州を戦乱から守り抜き、見事な治政をされておいでです」
「…………」
「ですが、この度の事、どうしても受け止める事が出来ないのです。火事場泥棒のような真似をされる御方が、本当に仁君なのかと」
「だが、交州は荊州に接している地だ。此所の安定は、荊州の平穏に取っても無縁ではあるまい?」
「ええ。ですが、それならば士燮さん達と連携すれば済む話です。例えそうだったとしても、軍を催し他州に向かわせるなど、やはりおかしいと思います」
毅然と、紫苑は言い放った。
「人は誰しも私利私欲があるのは仕方ありませんわ。ですが、それをこのような形で発揮するような方を、私は主と仰ぎたくありません」
「私はそうではない。そう見るのだな?」
「勿論です。そうでなければ、これだけの人材が集う訳がありませんもの。ねえ、彩ちゃん?」
「あ、彩ちゃん……。ま、まぁ、確かに殿はそう言った意味で我欲のない方ですが……」
劉表を見限っての事か。
……恐らくは、昨日今日の思いつきではあるまいな。
「ならば紫苑。何故私を選んだ? お前が理想とするような人物なら他にもいよう」
「ええ、そうかも知れませんわね。……強いて言うならば」
と、紫苑は私を見上げ、微笑む。
「女の勘、って奴ですわ」
「勘?」
「そうですわ。私も、自分の眼と勘を信じたい……それだけの事ですわ」
どうやら、決意は固いようだ。
私としては異存はないが、このまま紫苑を受け入れる訳にはいかぬ。
「紫苑。お前の気持ちは良くわかった。……だが」
「わかっています。劉表様には、自分の口からお話するつもりです」
「……ならば、私から申す事はない。けじめをつけた後、改めて参るが良い」
「では、お許し下さいますか?」
「許すも許さぬもあるまい。……お前ほどの武人、歓迎出来ぬ程私は愚かではないつもりだ」
「ありがとうございます、歳三様」
紫苑は、一礼した。
「だが、調練の話はまた別だ。今はまだ、立場を弁えよ」
「わかりました。……では歳三様、すぐに荊州に立ち帰りますので」
「急な出立だな」
「ご心配なく、既に準備は整えさせていますから。では」
颯爽と去って行く紫苑を、彩は呆れたように見送っている。
「何とも、思いきりの良い御仁ですね」
「そうだな。……だが、腕も人物も確かだ。我らへの加入、大きい事ではあるな」
「……は」
彩は、しっかりと頷き返した。
三日後の夜。
私の部屋に、稟、愛里(徐庶)、それに疾風(徐晃)と彩を集めた。
「歳三さん。南海郡の戸籍と、税収をざっと纏めました。ご確認下さい」
「わかった」
まずは現状把握から、これには皆、異論がなかった。
そこで士燮らの協力を得て、まずは南海郡の調査を進めさせた。
愛里と稟が中心になり、僅か三日でそれは完成を見た。
ざっと、とは申したが、かなり詳細な報告書と言って良い出来だ。
「見事だな。二人ともご苦労だった」
「いえ」
「…………」
む、稟の返事がないな。
「稟。如何致した?」
「……はっ。あ、い、いえ、何でもありません」
心なしか、顔色が優れぬようだが。
「ならば良いが……。無理をさせたようだな」
「大丈夫です。それよりも、お改めを」
「わかった。……ふむ。人口は百万余か、存外多いな」
「ええ。とは言え、冀州はその五倍以上の人々がいた訳ですけどね」
今度は、愛里が答える。
「それで、この中には中原から移住してきた者も含まれるのだな?」
「……それが、正式な移住者はほんのごく一部だけみたいです。黄巾党とか、中央の騒乱から逃れてきたような人はそれどころじゃなかったって」
「そうか。だが、戸籍は国家の礎。今一度、調べ直さねばなるまいな」
「そうですね。ただ、現状のままでは手が足りませんが」
魏郡で共に働いた文官の多くは、そのまま留まっている。
彼らは私の直属という訳ではなく、また朝廷に対しそのような許しも得ていない以上、我らだけの意で連れて行ける存在ではなかった。
如何に愛里らが優秀とは申せ、それを補う人員は募らねばならぬ。
郡の文官を割り当てれば、ある程度は解消するやも知れぬが……そうなれば、今度は士燮らの郡統治に支障を来すことになる。
「当面は、皆で分担するより他にあるまい。中原から流れてきている者の中には、文官としての心得がある者もいよう。至急、手配を」
「はい、既に募集の準備にかかって貰っています」
「うむ。そして、此方は収支だな」
「……ええ。魏郡で私がお仕えした当初は、あまりの赤字ぶりに眩暈がしたものでしたが」
苦笑する愛里。
「ただでさえ黄巾党の一件で領内が荒れ果てていた上、郭図らの横領も酷いものであった。それと比較する事自体、烏滸がましいものはあるな」
「嵐もかなり呆れていましたな、そう言われますと」
彩も頻りに頷く。
「郡内を歩き回っても、庶人の暮らしぶりにかなり余裕が感じられました。豊かさが、庶人にも享受出来る環境にあるのでしょう」
「税収も安定していますし、貿易での実入りも大きい事がわかります。……劉表さんや劉焉さんが、この地を狙うのもある意味必然なのかも知れませんね」
想像以上に豊かというより他にない。
異民族や賊らであれば、尚更見過ごしはしまい。
「彩、疾風。軍の方はどうか?」
「はっ。流石に異民族や黄巾党などを相手に一歩も引かなかっただけあり、兵の練度もなかなかのようです」
「兵の総数は、元々我が軍に属していたものと合わせ、規模は十万ほどとなりました」
「凡そ倍か。だが、将はどうか?」
疾風と彩は、顔を見合わせる。
「……そこなのですが。どうやら、士燮殿の一族自ら指揮を執っていたようです」
「無論、小隊長程度の人物はいるのですが。纏まった数を指揮出来る程の人材は見当たりませんでした」
人材不足は確かに痛手だが、裏を返せば今まではどうであったか。
この広大な交州を、あの一族だけで文武ともに纏め上げていたという証拠でもある。
凡庸な者には、到底務まるまい。
……いや、寧ろ類い希な程に有能、そう評すべきだな。
「詳細は風らの報告を待って、という事になるが。交州の統治、一筋縄ではいかぬな」
「そうですね。少なくとも、士燮さん達抜きには困難、いえ不可能でしょう」
「……とにかく、勝手が違います。冀州では地の利がありましたが、此所は異国も同然では」
十常侍どもは、ここまで見越して手を打ったのであろうか。
そうだとすれば、些か連中を甘く見ていたという事になるが。
……勘ぐり過ぎであれば良いのだが。
「ともあれ、人員の充足には時を要する。それまでの間、辛いであろうがしっかりと頼むぞ」
「はいっ!」
「はっ!」
「御意!」
「…………」
稟の反応がない。
「稟。何か所存があれば申せ」
「……は。はい……」
と、稟の身体がふらついた。
倒れかかるところを、疾風が慌てて受け止める。
「どうしたのだ、稟!」
「……ちょっと、失礼しますね。……酷い熱です」
額に手を当てた愛里の顔色が変わる。
「いかん。すぐ、横にさせよ。私の臥所を使え」
「急ぎ、医師を呼んで参ります!」
先ほどから様子がおかしかったのだが、やはり体調を崩していたか。
……無理にでも、休ませるべきであった。
「気がついたか」
「あ、歳三様」
二刻程して、稟は目を覚ました。
「……此処は?」
「私の部屋だ。どうだ、気分は?」
「申し訳ありません。すぐに、自分の部屋に」
無理に起き上がろうとしたが、力が入らないようだ。
「そのままで良い。無理をするな」
「は、はい……。皆は?」
「休ませた。皆も疲れているようだったからな」
「そうですか。……自己管理も出来ず、お恥ずかしい限りです」
眼を伏せる稟。
だが、もともと稟は丈夫な方ではない。
正史や演義でも、曹操の絶大な信頼を得ながら早逝した人物だ。
長旅を終えたばかりで、休養も十分ではなかったのであろう。
「急ぎとは申せ、無理をさせた私の不手際だ。許せ」
「い、いえ。……殆どは、愛里の力に拠るものですから」
「謙遜せずとも良い。……ふむ、手拭いを替えた方が良いな」
稟の額から手拭いを除け、手を当ててみる。
微熱がまだ続いているか。
「歳三様……」
「とにかく、ゆっくりと静養する事だ。顔も赤いようだぞ」
「……いえ。これは……その……」
目を逸らす稟。
「歳三様」
「うむ」
「もしや、ずっと傍にいて下さったのですか?」
「ああ。途中、医師の見立てはあったがな」
「……ありがとうございます。ですが、歳三様もお休み下さい」
「良い。私がこうしていたいのだ、気にするな」
「ですが、歳三様は掛け替えのない御方。私達だけではなく、交州の民や兵にとって、です。その歳三様が無理をされる事はありません」
「ならば、お前とて同じではないか。お前がおらぬば、我が軍は立ち行かぬ」
「そうでしょうか……。風や朱里、愛里らは頑張っているというのに、私はこのような無様な姿をお見せしています」
「……稟。己を責めるのは止せ」
「ですが、歳三様」
「良いと申すのだ。これから、ますます世は乱れよう。そこで、お前の智なしには我らが生き残る事は出来まい」
「…………」
「だから、まずは身体を治す事に専念せよ。その分、快癒した後に働きを見せればそれで良い」
「……わかりました」
頷いた稟は、眼を閉じる。
「暫し、こうしている。安心して休むが良い」
「はい」
やがて、規則正しい寝息が聞こえてきた。
私も、休むとするか。
……と。
どうやら、稟に袖を掴まれていたらしい。
解くのは容易いが、それは無粋というもの。
ならば、このまま朝を迎えるのもまた一興か。
「殿」
「……む?」
気がつくと、窓から日光が差し込んでいる。
「どうやら、眠ってしまったか」
「はい。稟の顔色も、幾分良くなった気がしますな」
「そうだな。彩、少しこの場を頼めるか? 顔を洗って参る」
「はっ」
今度こそ、そっと稟の指を解いていく。
「……果報者ですな、我らは」
彩の呟きに気付かぬ振りをして、私は部屋を出た。
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