至誠一貫
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第一部
第六章 ~交州牧篇~
七十八 ~新たな娘~
「歳三様。朝ですよ」
「……む」
眼を開けると、稟が私を覗き込んでいた。
「顔を洗い戻った筈だが。いつの間にか、また眠ってしまったらしいな」
「はい。ずっと、傍にいて下さったのですね……ありがとうございます」
そう話す稟の顔色は、だいぶ良くなったように見える。
彩(張コウ)の姿は見えぬな。
「どうだ、気分は?」
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「うむ。だが、今日一日は静養するのだ。無理はならぬ」
「いえ。それでは」
「これは我が命ぞ。良いな?」
「……わかりました。では、自分の部屋に戻ります」
「そのまま横になっていて構わぬ。どうせ、私は夜まで戻れぬのだからな」
「……ぎ、御意です」
頬を赤らめながら、稟は身体を横たえる。
やはり、華佗を探して再度診察を頼まねばならぬな。
とにかく、稟を失う訳にはいかぬ。
執務室に入ると、皆が揃っていた。
「おはようございます、歳三さん」
「殿。お疲れではありませぬか?」
「徹夜で看病をなさったとか。歳三殿こそ、無理をなされますな」
彩はともかく、疾風(徐晃)はやや不機嫌そうだ。
「済まぬ。だが、放ってはおけぬのだ……疾風の時のようにな」
「それはわかりますが。歳三殿は、時折我らへの気遣いが過ぎますぞ」
「我ら以上に、殿のお身体は唯一無二のものなのです。そこはおわかり下され」
「わかった、気をつけるとしよう。では、報告を頼む」
私の言葉に、愛里(徐庶)が頷いた。
「はい。まず、文官の募集ですが。既に、かなりの反響があるみたいです」
「士燮ら、在住の文官を引き抜くような形にはなっておらぬか?」
「それはもう。応募資格をあくまでも現職にない人に限る、と徹底させていますから」
「ならば良い。彩、武官の方も集めねばなるまい。愛里と協力し、人選を進めよ」
「ははっ!」
「疾風、その後洛陽での動きは?」
「今のところ、特には。十常侍も表向きはなりを潜めているようです。無論、裏では何か企んでいる可能性はありますが」
「……うむ」
私の懸念も、そこにあった。
既に月は、すぐに動かせる軍勢を大きく減らしている。
力で朝廷を意のままに、という濡れ衣を着せようがない状態にある筈だ。
父娘関係を明言している私は、遠く離れたこの地に追いやった。
麗羽は冀州経営で四苦八苦していて、史実のように音頭を取れる余裕などない。
……尤も、今の麗羽がそのような愚挙に出る可能性自体、あり得ぬが。
つまり、今は十常侍に取っての厄介者は唯一人、何進のみ。
現皇帝の外戚であり、大将軍という地位は奴らにとっては目の上の瘤である事に変わりはない。
それを除く為に、月を利用する策を巡らす事は、十分に考えられる。
頼りは詠だが、宦官共の権力欲は異常なものですらあるからな。
「やはり、一度連絡を取った方が良いな。頼めるか?」
「お任せ下さい。何進殿のところにも人を遣る事にします」
「うむ」
「それから歳三様。……董旻さんの事ですが」
愛里は声を潜めた。
「大丈夫だ。周囲には手の者を張り付けている」
「ありがとうございます、疾風さん。……董旻さん、お怪我も癒えたようです。どうなさいますか?」
「そうだな……」
あまり公の場に出す訳にはいかぬ。
何皇后側に知られるのは論外だが、十常侍らに利用される可能性も捨てきれまい。
「私の傍につけておくか」
「いえ、それは危険です。歳三殿の周囲には怪しい者を近付けさせぬよう、警戒を怠るつもりはありません。ただ、万が一という事も考えませぬと」
「疾風の言う事にも一理ありますな。ならば、新規採用の文官に混ぜてしまうのはどうだ?」
「……それも危険ですね。中原出身の方が混じっていれば、董旻さんの顔を見知っている場合もあり得ます」
「さりとて、いつまでも人目を避けて閉じ込めておく訳にもいくまい」
「……それなのですが。私にお任せいただけませんか?」
と、疾風。
「何か案でもあるのか?」
「はい。本人が望んだかどうかはともかく、董旻殿は何度も間諜としての働きを見せています。鍛えれば、私同様の働きを見せられるかと」
「……成る程。疾風さんの隊ならば、表に出る事はまずありませんね」
「それに、覆面をしていても怪しまれぬな。殿、疾風の考えに私も賛成です」
ふむ。
確かに妙案やも知れぬな。
「だが、問題が一つあるな」
「ええ。本人の意思と覚悟、ですね?」
「そうだ。疾風、夜を待ち、我が部屋へ参れ」
「……はい」
何故か、頬を赤らめる疾風。
……何か、勘違いをしておらねば良いのだが。
「では、皆頼んだぞ」
「御意です!」
「はっ!」
「お任せを!」
ふう、まだまだやるべき事は山積しているな。
体制を早急に固め、軌道に乗せねば。
「土方様。諸葛亮様から急使が」
執務室にて落款の最中、兵が息を切らせながら飛び込んできた。
「朱里から? 通せ」
「はっ!」
何事であろうか。
星が一緒だが、不測の事態でも起きたか。
だが、州内の事であれば、疾風からも知らせが入る筈。
となれば、益州軍に何か動きがあったか……?
「も、申し上げます!」
二人の兵に担がれながら、使者の兵は入ってきた。
「まずは息を整えよ」
「は、はっ!……ハァ、ハァ……」
「余程急いできたようだな」
「……は、はい。も、もう大丈夫です」
水を飲み、呼吸も落ち着いてきたようだ。
「では聞こう」
「はっ! 益州牧の劉焉様が、急逝されたとの由」
「劉焉が? 確かか」
「はい。厳顔様より、諸葛亮様、趙雲様に揃って伝えられたとの事です!」
「それで、厳顔はどうした?」
「直ちに軍を率い、益州へと引き返しました。諸葛亮様らも、番禺に戻られると」
「わかった。下がって休め」
「ははっ!」
そうか、劉焉が、な。
面識はないが、漢王朝の一族でありながら、益州での独立国家樹立を目指していたと聞く。
私の知識と相違なければ、後継者は劉璋となる。
……暗愚と申すか、少なくとも劉焉のような野心はない人物の筈。
となれば、その動向には眼を光らせる必要がなくなる。
とにかく、この交州は広大だ。
それに接する勢力の一つが、少なくとも脅威となり得ぬのであれば、皆の負担も少しは軽減されるであろう。
……無論、全くの無警戒とするつもりはないが。
ただ、厳顔と会う事が叶わぬのは残念だ。
紫苑が親友と言い切る程の人物、敵となるか味方となるかはわからぬが、会う価値は十分にあるだろう。
その夜。
約束の刻限に、疾風が姿を見せた。
「歳三殿。お待たせしました」
「うむ。参るか」
「は。……む、稟も来るつもりか?」
「ええ。もう起き上がれますし、委細は歳三様から伺いました」
指示通り、終日身を休めていた事もあり、稟は血色が良くなっている。
急激な運動でもせぬ限りは、もう大丈夫であろう。
「疾風。怪しげな者は入り込んでおらぬな?」
「はい。念には念を入れ、私自身で確認しました。これで網の目をかい潜れるとしたら、明命ぐらいのものかと」
「良かろう」
周囲の気配を確かめ、部屋を出る。
殆どの者が寝静まっている刻限だけあり、周囲は静寂に包まれている。
コツコツと、靴音が響くのは致し方あるまい。
「…………」
「…………」
全員無言で、ひたすらに歩く。
自らの城で、こうして人目を憚る真似をせねばならぬとは、な。
だが、今はとにかく、慎重に物事を運ばねばならぬ時期だ。
この交州を完全に掌握し、そして十常侍らに手出しの出来ぬようになるまでは。
そうなれば、新たな手も打ちようがある。
「……む」
「疾風。どうかしたか?」
私は、疾風の耳元で囁いた。
疾風もまた、声を潜めて返す。
「誰か、潜んでいます。微かに気配を感じます」
「……お前の手の者ではないのだな?」
「はい。ただ、殺気や敵意は感じませんが」
「相手は一人か?」
「……恐らく」
何処かの間諜ならば、襲いかかってくるか、逃げ出すかのどちらかを既に選んでいるであろう。
様子を見ているのか、或いは動くに動けぬのか。
「疾風。私が奴の気を引く。その間に、取り抑えよ」
「しかし、相手の正体が不明なままです。このまま対峙して、部下を集めましょう」
「いや、刻が惜しい。それに、董旻の事を今はまだ、伏せておかねばなるまい」
「……わかりました。では、その手筈で」
恐らく、相手は我らに気付いているであろう。
疾風だけならともかく、稟に気配を消せと言うのは酷というものだ。
「そこにいる者。私に何用か?」
「!」
私が声をかけたのが、どうやら予想外だったのだろう。
眼には見えぬが、動揺しているのが伝わってくる。
その刹那。
「捕らえた!」
「キャッ!」
素早く疾風が取り抑え、相手は悲鳴を上げた。
「良くやったな」
「いえ。……ん?」
「どうした?」
「……まさか。稟、手近な部屋はないか?」
「それなら、そこに物置部屋が」
「そこでいい。歳三殿、お手伝い下さい」
冷静な疾風が、あれだけ切迫したのも頷けた。
闇に潜んでいた相手が、当の董旻とは誰も思うまい。
燭台の薄暗い光の中、微かに表情が窺えた。
「何故、部屋を抜け出した?」
「……申し訳ありません」
「責めているのではない。ただ、理由は申せ」
「それは……」
言い淀む董旻。
「当てて見せましょうか。洛陽に、何進殿の処に戻るおつもりでしょう?」
「えっ?」
「やはりですか」
稟は、得心したように頷く。
「あなた様と何進殿の絆はかなり深いと見ました。いくら何進殿のお言葉とはいえ、おいそれとは従えないぐらいに」
「…………」
「その何進殿は、相変わらず苦境から脱せずにおられる。なのにご自身は遠く離れた場所に来てしまった事に対して忸怩たる思いがある……違いますか?」
項垂れる董旻。
その反応が、肯定を現していた。
「董旻」
「……はい」
「お前の気持ち、察するぞ。姉である月を気遣っての事という事もな」
「……やっぱり、土方様に隠し事は無理でしたね。仰せの通りです」
「だが、此所を出る事は許さぬ」
「…………」
董旻は、下唇を噛んだ。
「何進殿の命、という事もあるが。お前が仮に洛陽に戻ったところで、何進殿は本当に喜ぶのか?」
「何進様の言いつけに背くつもりはありません。勿論、大手を振って何進様の下に戻れるとも思いません」
「それで、影ながら守るつもりでいたのか。……自惚れだな」
私の言葉に、董旻は一瞬絶句。
そして、凄まじい形相で睨み付けてきた。
「土方様! いくらあなた様とは言え、あんまりです!」
「そうかな? 何進殿や月が相手にしているのは、陰謀に長けた宦官共らだぞ? 奴らが権力を手にしている以上、個人で対抗するなど無理な話だ」
「そうかも知れません。でも、何もせずにはいられないんです!」
「お前の必死さ、真摯さはわかる。だが、感情の赴くまま洛陽に出向いたとて、お前が何を変えられる?」
「…………」
「それに、何進殿の意を無にするつもりではあるまい? 全ては、お前自身の事を思っての計らいだ」
「そ、それは……」
「それでも、まだ洛陽に行くと申すか?」
「で、では……私にただ座して、何進様や姉様が追い込まれていくのを見ていろと?」
「そうは言わぬ。そこでだ、お前に話がある」
取り乱した董旻を、無理に部屋に連れて帰るのは得策ではなかろう。
些か雰囲気に欠ける場ではあるが、此所で話をする事にした。
「……わかりました。私が、徐晃さんのお手伝いをすればいいのですね?」
董旻は、私と疾風の提案に、素直に頷いてみせた。
「そうだ。決して安全とは申さぬが……お前の望み通り、外での働き場となる」
「無論、暫くは修練を積んでいただく事になりますが」
「構いません。このまま、鬱々とした毎日を過ごすのは耐えられませんし」
本人に異存がなければ、これで決まりだな。
「ただ……」
と、董旻は上目遣いに私を見る。
「何かあるのか?」
「は、はい。……一つだけ、お願いがあります」
「私にか?……良かろう、申してみよ」
「……では、申し上げます」
居住まいを正してから、
「土方様。私も、姉様と同じように……その」
「月と?……お前も、我が娘になりたい、と?」
「そうです。姉様の父上が土方様ならば、私もその方が自然です」
「それはそうだが。だが、それで良いのか?」
董旻は、大きく首肯した。
「……そうか。お前がそう望むのなら、私にも異存はない」
稟と疾風も、異論はないようだな。
それを確かめてから、
「では以後、お前は真名で呼ぶが良いな?」
「はいっ! 白兎とお呼び下さい、父上!」
父上か……何故か、懐かしさを覚える呼ばれ方だな。
「白兎。我が娘とは言え、甘えは赦さぬが……覚悟は良いな?」
「勿論です。宜しくお願いします、徐晃様」
「私も疾風で構いませぬ。白兎殿、改めてよしなに」
「真名は稟です。宜しくお願いします、白兎殿」
どこか、安堵の様子を浮かべる白兎。
思えば、ずっと気を張り詰めていたのやも知れぬな。
……もっと早く、気付いてやるべきであったか。
「しかし、妻もおらぬのに二人の子持ちか。……締まらぬ事だと言われような」
「考え過ぎですぞ、歳三殿。……この戦乱の世が終われば、改めて妻にしていただくのですからね」
「殿、無論私もですぞ」
「ふふ、愚問ですね。私達が、歳三様から離れる訳など、天地がひっくり返ろうともあり得ませんから」
疾風と彩はともかく、稟までもがその夜、共に床に入ってきた。
病み上がりの身で無理をさせたくはないのだが……本人のたっての希望故、致し方あるまい。
「もう、休むが良い。今宵は……ならぬぞ?」
「仕方ないですね、稟の事がありますから」
「その分、明日は……ふふ」
「……二人とも、少しは自重して下さい。全く」
呆れたような稟の物言いに、笑いが広がる。
……だが、家族と共に過ごす穏やかな日々、それも悪くはなさそうだ。
その為にも、私は何としても生き延びねばならん。
ふっ、生に執着するなど、らしくもないと笑われるやも知れぬがな。
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