至誠一貫
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第一部
第六章 ~交州牧篇~
七十二 ~弓腰姫~
新たに山吹(糜竺)を加え、一路南を目指す。
やむを得ずとは申せ、赴任までにあまり間を開けるのは好ましくはない。
幸い、輜重隊を引き連れているにも関わらず、賊の襲撃を受ける事もなく、我々は長江を臨む街へと辿り着いた。
「これを渡れば、揚州だな」
「はい。皆さん、きっと首を長くして待っていますよ。歳三さんの事」
「とにかく、殿を無事にお連れせねば、皆に合わせる顔がありませんからな。後少しなれど、油断はなりませぬ」
とは申せ、やはり皆の顔には安堵感が漂っている。
「朱里。これだけの人数、睡蓮(睡蓮)の助力を仰がねば渡りきれまい。諸葛瑾を伴い、先に睡蓮と話を付けて参れ」
「はわわ。わ、私がですか?」
「そうだ。お前も軍師、然したる難事でもない筈だ」
「わ、わかりましゅた!……あう、また噛んじゃった」
そんな朱里に苦笑しつつ、諸葛瑾は私に頭を下げた。
「それでは、お先に参ります。土方さん、本当にお世話になりました。また、向こうでお会いしましょう」
「うむ。気をつけて参れ」
警護の兵を伴い、二人は船着き場へと向かって行く。
「では、我らは準備が整うまでこの地で待機だな。山吹、宿の手配は任せて良いな?」
「畏まりました。糧秣の補充も必要でしょうから、愛里(徐庶)さん、手伝っていただいても?」
「ええ、勿論です」
「私は、兵の方を見ておきます」
皆、己の役割を弁えている以上、殊更に指示を出すつもりもない。
……寧ろ、私は一歩下がっているぐらいの方が良い。
口を挟み過ぎて、山南のような悲劇を繰り返したくはないからな。
「ねえねえ」
不意に、声をかけられた。
辺りを見渡すが、誰もおらぬようだ。
「もう、何処見てるのよ。こっちよ、こっち」
足下、か?
視線を向けると、そこにいた子供と視線が合った。
少女、というにはまだまだ幼い。
恐らく、朱里や鈴々よりも年下であろう。
「私に何か用か?」
「あなたが、土方?」
……見知らぬ子供から、呼び捨てにされる謂われはない筈だが。
「…………」
「聞いてるんだから答えなさいよ。どうなの?」
「……人に物を尋ねるのに、礼儀を欠かすような者に答える気はない」
「ぶうー。何よ、偉そうに」
「ならば、お前から名乗ったらどうだ? それが礼儀というものだ」
幼女は、暫し私を睨み付けていたが、
「いいわ。聞いてから後悔しない事ね」
と、胸を張った。
「シャオはね、孫尚香よ。当然、知ってるでしょう?」
孫尚香……確か、劉備夫人となった人物であったか。
勝ち気で武芸にも通じ、孫権ですら抑えきれぬ事もあった、という書かれ方をしていたな。
……そう言われれば、髪の色といい、雰囲気といい、睡蓮や雪蓮に似ているやも知れぬな。
確かに気は強そうだが、腕は……然したる事もないと見た。
「孫家の姫君か」
「そうよ。さ、約束通り質問に答えなさい」
何とも、くだけた姫君だな。
尤も、睡蓮や雪蓮があの調子だ、こう馴れ馴れしくてもやむを得ぬ、か。
「……そうだ。私が土方だ」
「なーんだ。勿体ぶっちゃってさ」
「それで、私に何用か?」
「用があるから来たに決まってるじゃない。それはね」
「歳三さま、お待たせしました。宿舎の手配が……あれ?」
そこに、山吹が戻ってきた。
「どうかしたんですか、この子? 迷子とか?」
「むー、シャオは子供じゃないもん!」
「どういう事でしょうか?」
首を傾げる山吹。
「とりあえず、宿に案内せよ。貴殿の用件も、そこで伺おう」
山吹が煎れた茶を喫しながら、宿にて寛ぐ。
「孫堅様のご息女でしたか。失礼致しました」
「いいのよ、わかれば」
素直に無礼を詫びた山吹に対し、孫尚香は咎め立てしようともしなかった。
まだ幼少ではあっても、人の上に立つ者としての素養は備えているらしい。
「しかし、尚香様。何故、この地に? 孫家の影響は、この街までは及んでいない筈ですが」
「知ってるわ。当然、土方に会いに来たに決まってるじゃない」
そう言って、孫尚香はにこやかに笑う。
「ね。あなた、真名は?」
「……生憎と、真名というものがない国の出でな」
「ふ~ん。でも、お母さんや雪蓮お姉ちゃんから、真名は預かっているんでしょ?」
「ああ」
「なら、シャオも真名で呼んでいいよ。真名は小蓮だけど、シャオって呼んでね♪」
唐突過ぎるな、流石に。
山吹など、呆気に取られているのだが。
「尚香殿」
「だから、シャオだって」
「……真名がどういう者か、わかった上での事か?」
「とーぜんじゃない」
そう言いながら、立ち上がる。
そのまま、私の腕にしがみついた。
「……何の真似か?」
「だって、未来の旦那様だもん」
「だ、旦那様?」
思わず、椅子からずり落ちる山吹。
「歳三さま? 一体、どういう事ですか!」
「……私が聞きたいぐらいだ。尚香殿」
「シャオ」
「……どうしても、真名を預ける気か?」
「そうよ。でなきゃ、返事しない」
梃子でも動かぬ、という顔だな。
……子供相手に、意地を張るのも大人げないか。
「わかった。ではシャオ」
「うん♪」
一転して、無邪気な笑顔を見せる。
「私自身、初耳なのだが」
「そうだよ。だって、まだ誰にも言ってないし」
「そ、それは許嫁とは言いませんよ!」
うむ、私もそう思うぞ、山吹。
「えー? だって歳三の事、お母さんは雪蓮お姉ちゃんの旦那になる人だって言ってたよ?」
……睡蓮、お前は何処まで公言するつもりなのだ?
「歳三みたいな優秀な男の血を、孫家に入れたいんだって。なら、シャオにだってその資格はあるんじゃない?」
「睡蓮の理屈でいけば、な。だが、私はそのような約定をした覚えはない」
「う~ん、たぶん歳三がそう思っていたとしても、諦めるようなお母さんじゃないよ?」
「あ、あの……。歳三さま、一体何の話なのですか?」
困惑する山吹。
いや、寧ろ混乱している、と言うべきか。
「歳三さん。糧秣の手配、終わりました」
「殿、私の方も全て滞りなく……む、何ですかこの童子は?」
そこに、愛里と彩(張コウ)が戻ってきた。
「だーかーらー、シャオは子供じゃないの! 何よ、童子って!」
「童子は童子であろうが。殿から離れよ」
「嫌よ。シャオは孫尚香。それでもまだそんな態度を取るの?」
だが、愛里と彩は全く動じる様子もない。
「それはおかしいですよ。だって此処、徐州ですし」
「第一、貴様が孫尚香殿という証拠が何処にある?」
「ぶー! 何とか言ってやってよ、歳三!」
やれやれ、手のかかる姫君だ。
「愛里、彩。この者の申す事は真だ」
「そーよ。シャオは歳三の妻になる身よ?」
「え?」
「はぁ?」
山吹と違い、この二人は全く驚く様子もない。
それどころか、彩は盛大に溜息をつく。
「……貴殿が仮に、本物の孫尚香殿であったとして、だ」
「仮も何も、本物よ!」
「それで、どうして殿との奥方になる、と宣言出来るのだ? 第一、殿は承諾なされたのか?」
「そ、それは……。歳三、はっきり言いなさいよ!」
……頭痛がして来た。
「その前に、シャオ。お前がこの街にいる理由の説明が終わっておらぬぞ」
「だから、歳三に会いに来たんだって言ったじゃない」
「そうではない。此処が揚州ならばいざ知らず、仮にも揚州牧の一族であるお前が、そう気軽に他州を訪れるのは好ましいとも思えぬ、という事だ」
「……何よ。歳三は、シャオが会いに来て嬉しくない、って言うの?」
まるで話が噛み合わぬな。
彩とシャオは睨み合ったまま、両者とも視線を逸らそうともせぬ。
「待て!」
「ええい、どけ!」
「ぐはっ!」
不意に、階下が騒がしくなった。
「何事か?」
「見て来ます」
愛里が扉を開けた瞬間。
部屋に、何者かが飛び込んできた。
「小蓮様!」
「あ、思春だ。やっほ~」
どうやら、睡蓮麾下の者らしいな。
鋭い目つきをした、身のこなしの軽そうな少女。
我々から庇うかのように、シャオの前に立つ。
「小蓮様、お怪我はございませんか?」
「う、うん……」
「……さて、貴様だな? 小蓮様を拐かしたのは」
そう言い放ち、少女は私を睨み付ける。
「思春、違うってば」
「小蓮様は黙っていて下さい。……貴様が、小蓮様と共に居るところを、複数の者が目撃しているのだ」
「拐かすとは、随分先走った結論を出すようだが。そもそも、拐かすのなら、このような場所に留まる必要はあるまい?」
「夜を待ち、抜け出すつもりだった、とも考えられるな。とにかく、一緒に来て貰おうか」
「その必要はないし、そのつもりもない。シャオを探していたのなら、連れて帰るが良い」
「……な。……貴様、真名まで穢すとは、余程黄泉路に旅立ちたいようだな?」
少女が、剣を抜いた。
チリン、と鈴の音がする。
呉の者で、鈴……そうか。
「お前、甘寧だな」
「ほう、私の事を存じていたか。ならば、その名を確と脳裏に刻んで逝け!」
どうあっても、引き下がるつもりはないらしい。
こう、話が通じぬのでは、やむを得まい。
私は、兼定に手を伸ばす。
「思春ってば!」
「小蓮様。この場は私にお任せを」
「……甘寧さん、でしたか? 剣をお引きなさい」
山吹が、スッと前に出る。
「何だ、貴様? 邪魔立てするなら、貴様も道連れにするまでだぞ」
「この御方を、何方か承知の上での狼藉ですか? ならば、あなたもただでは済みませんよ?」
「ほう。何者だと言うのだ?」
「交州牧、土方歳三さまです」
少女の表情が、微かに蠢く。
が、それもほんの一瞬であった。
「そんな筈がなかろう。土方殿と言えば、数々の武功を立てられた、義を重んじる方と聞いている。貴様らのような、人攫いがその名を騙るとは、万死に値するぞ」
「山吹、どうやら無駄のようだ。下がれ」
「……そのようですね」
得物を抜こうとする彩を手で制し、前に出る。
「甘寧」
「何だ? 今更命乞いか?」
「そうではない。呉に、私の麾下であり、仲間でもある者達が滞在しているであろう?」
「…………」
答えはないが、構わず続ける。
「私に手をかければ、その者らは黙ってはおらぬぞ。お前だけではない、そこにいるシャオも、いや睡蓮や雪蓮とて無事では済まぬやも知れぬ」
「貴様! 言うに事欠いて、睡蓮様達の真名まで穢すか!」
「……何故、そんなに頑ななのだ? 当人から預かった以上、真名で呼ぶのが礼儀ではないのか?」
「それは、当人から預かった場合だけだ!」
「そうね。わたしが構わない、って預けたんだけどなぁ」
そう言いながら、窓から入ってくる雪蓮。
……此処は、確か二階だった筈だが。
「雪蓮様! 何故此処に?」
「んー? そうねぇ、勘かしら?」
「……そうですか。ですが、その前にこの者を」
「思春。だから言ってるでしょ、真名を許したのも事実だし。その男は、確かに土方歳三よ?」
「…………」
甘寧は剣を収め、その場に膝を突いた。
「申し訳ございません。ご無礼は、如何様にもお詫び致します」
「歳三、思春にも悪気はなかったと思うの。ただこの娘、ちょっと思い込みが激しくてね」
雪蓮の言う通りであろうが、それで事を収めるのは筋が通るまい。
「気にするな、と申したいところではあるが。この事、睡蓮には伝えさせて貰う」
「……は。構いません」
「あちゃー。歳三、やっぱり怒ってる?」
「勘違いするな、雪蓮。甘寧は主筋の危機と思い、動いた。そこは咎めるべきではない。だが甘寧、仮にこのままで済ましたとして、お前の気は済むか?」
「……いえ。もしお手討ちにあっても、文句を言える状況ではありませんから」
甘寧は今一度、頭を下げてから、
「咎は改めて睡蓮様よりお受けします。……それとは別に、ご無礼へのせめてものお詫びです。以後、思春とお呼び下さい」
「ふむ、真名か。良いのだな?」
「は。義の土方様になら、喜んでお預け致します」
「わかった。私には真名がない、好きなように呼ぶと良い」
「ありがとうございます」
「良かったね、思春」
シャオを見ると、甘寧は咳払いをし、立ち上がった。
「さて、シャオ様。……私が此処にいるか、おわかりでしょうか?」
「……え? さ、さぁ。何でかなぁ?」
「なら、小蓮。わたしまで、此処にやって来た理由は何だと思うの?」
「わかんない。じゃ、私は先に……」
「帰れると思う?」
「あ、あははは……」
まさに、四面楚歌だな。
シャオは私を見るが……理由は聞かずとも、シャオを擁護するべき理由は見当たるまい。
「いつの間にか私の船に潜り込まれたようですね。手の者に見つからずに、という点は感服しましたが」
「呉も大騒ぎよ。それで、もしかしたら此処じゃないかって。母様、カンカンだったわよ?」
「い、いーじゃない! シャオ、子供じゃないもん!」
「……子供でないなら、我らに無用な心配をかけないでいただきたい」
「そうよ。さて、話はじっくりと聞かせて貰うわ。思春、行きましょ」
「はっ。では、失礼致します」
そして、シャオは両腕を二人に掴まれた。
「歳三! 見てないで助けてってば!」
「……自業自得だ。観念せよ」
「ひっどーい!」
バタバタと暴れるシャオだが、雪蓮と思春相手では分が悪過ぎよう。
「あ、そうそう。途中で諸葛亮に会ったけど、歳三の迎えなら思春が任されたから」
「ほう。では、朱里はどうしたのだ?」
「そのまま、呉に向かったわよ。わたしも急いでいたしね」
「そうか。では思春、改めて宜しく頼む」
「はっ! では明朝、お迎えに上がります」
そして、三人は部屋を出て行った。
「ふう。何とも、賑やかな事でしたね」
溜息混じりに言う山吹。
「そうだな。……ところで殿、よもや、とは存じますが」
「どうしたのだ、彩?」
「尚香殿の事です。……あの姫君の言葉、真に違うのですな?」
ずい、と彩は身を乗り出す。
「私には、その気はない。そこまで節操なしではないつもりだが?」
「……無論、殿の事は信じております。ですが」
「ならば、気にする事はない」
「……は」
彩は、安堵の表情を見せた。
「さて、山吹さん。渡河の事、兵士さん達にも伝えに行きましょう」
「え? あ、あれれ?」
愛里は、山吹を連れて部屋を出て行く。
……ふっ、気を利かせたつもりか。
「殿は、そうでなくても慕う者が多いのです。あまり、やきもきさせないでいただきたい」
「……善処しよう」
とは申せ、呉に行けばまた、修羅場になるやも知れぬが。
慕われるのは無論悪い気はせぬが……ちと、先が思いやられるな。
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