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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 後編
  圏内事件 7

「今回《圏内殺人》を演出するために用いた逆棘付きの武器は、グリムロックに依頼して製作してもらったんだな?」

 マサキがそう尋ねると、ヨルコは思案するように何度か目を(しばた)かせ、相方と眼を見交わしてから頷いた。
 二人の話では、グリムロックは最初難色を示していたが、諦めず頼み込むと、最初の事件――つまり実際に死亡していたカインズ(Kains)の命日より三日前に、三振りの武器を製作してくれたという。その口ぶりからも、二人はグリムロックのことを、妻を殺害された被害者だと信じていることがうかがえる。そんな二人に「グリムロックこそが真の黒幕なのだ」と言ったところで、簡単に信じないことは明白だった。実際、ヨルコは紺色の髪を振りたくってキリトの説明を否定しようとした。

「あんたたちは、グリムロックに計画を全て説明したんだろう?」

 そんなことはお見通しとばかりに、キリトが穏やかな口調で問いかける。キリトの言葉をそのまま飲み込むことに抵抗を覚えたのか、ヨルコは頷きつつも顔全体を強張らせていた。再びヨルコが顔を上げるまで、十分に間を取ってからキリトが続ける。
 グリムロックが、この事件の真相と、この場所で行われる最終幕を知っていたこと。それを利用して《指輪事件》を今度こそ闇に葬り去るべく、三振りの武器を(あつら)えたこと。そしてシュミットが単独でこの場所に来ているとレッドギルトに情報を流し、《ラフィン・コフィン》の三人を呼び寄せて実行犯として利用したことを丁寧に説明すると、ヨルコはその推論に反論を見出せなかったのだろう、膝から力が抜けて崩れ落ちそうになり、それを傍らのカインズが支えた。

「グリムロックさんが……私たちを殺そうと……? でも……なんで……? そもそも……なんで結婚相手を殺してまで、指輪を奪わなきゃならなかったんですか……?」

 月明かりの下でも分かるほど真っ青な顔で、うわごとのように漏らしたヨルコの言葉は、三人全員の心を代弁したものだっただろう。シュミットも、カインズも、うつろな瞳をこちらに向けながら、茫然自失という雰囲気でピクリとすら動かなかった。
 三人分の視線全てを浴びながらマサキが一歩前に出ると、新たに丘の西側に浮かび上がった三つのカーソルへ視線を投げながら言葉を返した。

「……俺たちにも、動機までは推測できなかった。その辺りは……、本人に、直接聞いてみるべきだろうな」

 マサキの言葉に続いて、ヨルコたちもマサキの投げた視線の先へ目を向ける。
 程なくして、こちらに向かって丘を登りつつある足音が耳に届いた。それからさほど間を空けず、二人の女性プレイヤー、エミとアスナが目に映る。二人とも手元には抜き身の剣を携え、その切っ先は一歩前を歩く男に油断なく向けられていた。
 痩せ型で、かなりの長身だ。つばの広い帽子をかぶっていて、人相までは分からないが、眼鏡らしきアクセサリが時折月明かりを反射してちらちらと光っている。
 男はマサキとキリトから三メートルほど離れた位置で立ち止まり、その場の全員と、最後に《黄金林檎》リーダーの墓標である苔むした十字架に目をやって言葉を発した。

「やあ……久しぶりだね、皆」

 マサキが予想していたより、少しだけ低い声だった。それでいて、落ち着いている。直前にPK未遂の現場を目撃し、しかも現在進行形で剣を突きつけられているとは思えない、まるで親しい友人と、家でお茶に興じているかのような。その声と、銀縁の丸眼鏡の下に見えた柔和そうな顔に、マサキは自分でも知らず知らずのうちに眼を細めていた。

「グリムロック……さん。あなたは……あなたは、ほんとうに……」

 ――グリセルダを殺し、指輪を奪ったのか。この三人を殺し、事件の隠蔽を図ったのか。二つの意味を含んでいただろう質問は、どちらか一つに分岐することなく途切れてしまう。だが、そこまで言えば、残りは誰だって分かるだろう。
 グリムロックはすぐには答えず、エミとアスナがそれぞれ得物を鞘にしまってマサキとキリトの隣に移動したのを見届けてから、あくまで穏やかな表情を崩すことなく口を開いた。

「……誤解だ。私はただ、事の顛末を見届ける責任があろうと思ってこの場所に向かっていただけだよ。そこの怖いお姉さん方の脅迫に素直に従ったのも、誤解を正したかったからだ」
「嘘だわ!」

 グリムロックの申し開きを切り裂くように、アスナの声が鋭く鞘走った。その後を、いつもの弾けるような笑顔ではなく、真剣な表情を浮かべたエミが続ける。

「……あなた、ブッシュの中でハイディングしてましたよね? わたしたちが気付かなかったら、そのまま動く気すらなかったはずです」
「仕方がないでしょう、私はしがない鍛冶屋だよ。この通り丸腰なのに、あの恐ろしいオレンジの前に飛び出していけなかったからと言って責められねばならないのかな?」

 エミの追及にも涼しい顔で言い返すグリムロック。こちらの追及を絶対にかわせると言わんばかりの余裕綽々といった雰囲気が、マサキの後頭部周辺でちりっと微かな警告を発する。
 一体、何を企んでいる……?
 隣のキリトが、今度は《指輪事件》について言及する。それを聞きながら、マサキは自身の脳を高速回転させてもう一度自分たちの推理を洗い直した。

 グリセルダが死亡した時、ストレージにあった指輪は婚姻関係にあったグリムロックの足元にドロップした。その後グリムロックはその金の半額を報酬としてシュミットに渡した。そんな大金をポンと出すには本当に指輪を売却する以外ないだろうから、その金の差出人は指輪を手に入れたグリムロックしか考えられず、同時にその時点で指輪事件の犯人はグリムロック以外にありえない。

 キリトの推理ショーが結論を迎えるが、マサキは未だグリムロックの企みを暴けずにいた。今キリトが語ったとおり、少なくとも《指輪事件》に関して、グリムロックは言い逃れできないように思える。だが――

「なるほど、面白い推理だね、探偵君。……しかし、一つだけ穴がある」

 グリムロックが口を奇妙な形に歪めてそう口にした瞬間、マサキは舌を鋭く弾いた。マサキの脳が更に回転数を跳ね上げる。が、マサキがグリムロックの思惑に辿り着くより早く、香港のヒットマンめいた雰囲気をまとった鍛冶屋は斜めに曲げた口を開いた。

「確かに、君の推論は大枠では正しい。当時、私とグリセルダのストレージは共有化されていたから、彼女が殺されたとき、そのストレージに存在していた全アイテムは私の手元に残った。……そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ね」
「ッ……!」

 グリムロックの言わんとしていることをようやく理解したマサキは、今までにない激しさでグリムロックを睨みつけながら、ギリ、と奥歯を強く噛み締めた。肺の空気を一気に吐き出しそうになるのをぐっと堪え、動揺を気取られぬよう、静かに放出する。
 グリムロックの反論はこうだ。「確かにストレージにあったアイテムは全て自分のもとにドロップしたが、その時指輪はストレージになかった。故に、グリムロックの足元にドロップすることはなかった」。形勢が逆転したと悟ったか、グリムロックは勝利を確信したように口角を上げ、マサキたち全員をぐるりと見回し深く頭を下げた。

「では、私はこれで失礼させてもらう。グリセルダ殺害の首謀者が見つからなかったのは残念だが、シュミット君の懺悔だけでも、いっとき彼女の魂を安らげてくれるだろう」
「待て!」

 帽子を深くまでかぶりなおし、身を翻そうとしたところで、マサキが止めた。グリムロックはそれに反応して足を止め、顔だけでマサキに振り向く。

「……おかしいだろう。グリセルダを殺害した犯人は、指輪だけを盗み去っている。睡眠PKという手法を考えれば、アイテムストレージにあった他のアイテムも一緒に奪った方が利益は出るはずだ。そうしなかった、いやさせなかったのは、どうせ全て自分の懐に入るから。違うか?」

 グリムロックは一瞬思案するように顔を伏せかけたが、すぐにマサキを見直して滑らかに答えた。

「……さあね。下手人の心境など、私には判りかねる。だが一つ、個人的な推測を述べるとするならば……当時の私たちは一介の中層ギルドに過ぎなかった。当然、そんなレアアイテムなど幾つも持ってはいないし、ある程度価値のあるアイテムはギルドハウスの金庫に保管していた。犯人にとって、魅力的なものが他になかったのではないかな?」

 淀みなく言い切ったグリムロックの口元が、再び斜めに歪む。
 当のマサキからすれば、その答え自体は予想済みのものだった。もっと言えば、この質問自体に大した意味などなく、ただ何とか形勢を再逆転させられる材料を見つけるまでの時間稼ぎに過ぎない。マサキは続けざまに口を開きかけるが、それを先読みしていたかのようにグリムロックが言う。

「これ以上無根拠かつ感情的な糾弾をするつもりなら、遠慮してくれないか。私にとってもここは神聖な場所なのだから」
「……逃亡か。よほど後ろめたいようだな」
「どうやら、君には私の言葉が聞こえていないらしい。……まあいい。これ以上私を犯罪者に仕立てあげたいと言うのなら、日を改めてくれたまえ。もっともその時は、根拠なく人を犯罪者扱いする迷惑集団として、君たちの事を大手ギルドに報告させてもらうが」

 挑発に乗って何か漏らせば……。そんなマサキの薄い希望を嘲笑うように切り捨て、グリムロックは再び足を踏み出す。その後ろ背を、マサキが苦虫を噛み潰した顔で睨みつけた、その時――。

「待ってください……いえ、待ちなさい、グリムロック」

 静かな、しかし(はげ)しい何かを秘めたヨルコの声が、グリムロックとの間にぴんと響いた。その言葉の持っていた力強さに、男は仕方なくといった雰囲気で足を止め、今度は顔の半分だけを煩わしそうにこちらへ向ける。

「まだ何かあるのかな? ……それとも、まさか君たちまで、私のことを根拠もなしに殺人犯に仕立て上げようというのかい?」

 傲然と放たれたグリムロックの言葉を、ヨルコは胸の前に持ち上げた両手に視線を落としながら受け止めた。ヨルコは俯いたまま、しかしそれまでの彼女にはなかった強い感情を漂わせながら、噛み締めるように首をゆっくりと左右に振った。

「……いいえ。違うわ。根拠はある。……リーダーが殺された後、現場に残されていた遺品を発見したプレイヤーが、それをギルドホームに届けてくれたわ。だから私たちは、ここを……この墓標をリーダーのお墓にすると決めたとき、彼女の使っていた剣を根元に置いて、耐久度が減少して消滅するに任せた。でもね……でも、それだけじゃないのよ。皆には言わなかったけど……私は、遺品をもう一つだけ、ここに埋めたの」

 一体何をする気なのかと思いながらマサキが見ていると、ヨルコはすぐ傍にあった小さな墓標の前に跪き、その場所を素手で掘り返し始めた。その場の全員が息を呑んで見守る中、やがて彼女は土の中から一つの小箱を取り出す。その箱は、今まで土の中に埋もれていたにも関わらず、月光を浴びて銀色に光る。
 ――《永久保存トリンケット》。ヨルコが墓標から掘り出したのは、マスタークラスの細工師だけが作ることのできる、《耐久値無限》の箱だった。小さいものしか作れないため、収納できるのは小さなアイテムがアクセサリを複数個ほどだが、この小箱に入れられたアイテムは、フィールドに放置されようとも耐久値が一切減少しなくなる。
 ヨルコはそれを大切そうに胸に抱くと、瞳に浮かんだ強靭な光を、身体ごとグリムロックに向けた。

「ドロップしたあの指輪をどうするのか決める会議で、私とカインズ、それにシュミットが、指輪の売却に反対したわ。そしてその席上で、カインズはリーダーが装備すべきだって主張した。『黄金林檎で一番強い剣士はリーダーだ。だからリーダーが装備すればいい』って」

 徐々に苛烈さが増しつつある声を発しつつ、ヨルコはそっと小箱のふたを開け、中に入っていた二つの指輪を取り出した。それをグリムロックに突き出し、一段と語気を強めて言い放つ。

「……それに対して、リーダーは笑いながらこう言った。『SAOでは、指輪アイテムは片手に一つずつしか装備できない。右手のギルドリーダーの印章(シギル)、そして……左手の結婚指輪は使えないから、私には使えない』……分かったでしょう? あの人が、この二つのうちどちらかを外してこっそり指輪の効果を試すなんてこと、あるはずなかったの。ここにある二つの指輪が、リーダーの遺品にあったギルドの印章(シギル)と――彼女がいつも左手の薬指に嵌めてた、あなたとの結婚指輪よ、グリムロック! あの人はずっと、最期まで……私たちギルドと、夫であるあなたに、潔白を貫いてた! 殺された瞬間まで、この指輪を外さなかった! この二つの指輪が今ここにあることが、揺るぎないその証よ! 違う!? 違うというなら、反論してみせなさいよ!!」

 涙交じりの絶叫が、びりびりと仮想の空気を振動させて轟いた。
 しばらくの間、誰も口を開くことができなかった。大粒の涙をはらはらと零すヨルコの視線から逃れるように、グリムロックは帽子のつばをきゅっと握って離さない。やがて帽子を握る手が微かに震え、薄い唇が強く結ばれる。その端をしばし痙攣させた後に、力が抜けたように、その全身が弛緩した。

「その指輪……。確か葬式の日、君は私に訊いたね、ヨルコ。グリセルダの結婚指輪を持っていたいか、と。そして私は、剣と同じく消えるに任せてくれと答えた。あの時……欲しいとさえ言っていれば……」

 絞り出すように漏らした直後、グリムロックの長身が膝からくずおれた。ヨルコは金の指輪を丁寧に再び箱へしまいこみ、それを胸に抱いて涙の混じったかすれ声で囁く。

「……なんで……なんでなの、グリムロック。なんでリーダーを……奥さんを殺してまで、指輪を奪ってお金にする必要があったの」
「…………金? 金だって?」

 まるで糸が切れた操り人形のような不気味さで、グリムロックは喉の奥を鳴らして笑った。膝立ちのままメニューウインドウを開き、殆ど手元を見ずに一つの革袋をストレージから取り出す。グリムロックはそれを無造作に地面に投げると、何の執着も示さない乾いた声で吐き捨てた。

「これは、あの指輪を処分した金の半分だ。金貨一枚だって減っちゃいない」
「え…………?」

 グリムロックは丸眼鏡の底に沈む濁った瞳を上向けると、困惑した様子のヨルコとマサキたちに順番に目をやって、呻くような声を激しくわななかせ続きを紡ぐ。

「金のためではない。私は……私は、どうしても彼女を殺さねばならなかった。彼女がまだ私の妻でいるあいだに」

 ――そうして始まったグリムロックの独白は、実におぞましいものだった。
 グリセルダとグリムロックは、現実世界でも夫婦だった。夫であるグリムロックの言葉に、グリセルダは何一つ異議を唱えなかったという。そして、二人はSAOに囚われ――グリセルダは変わった。グリムロックがデスゲームに怯える中、強い意思を持ち、類稀なる統率力でギルドを結成し、メンバーを鍛え始めた。それを見たグリムロックは、自分の愛した従順な妻はもう二度と戻ってこないのだと自覚した。……だから、殺した。

「……私の畏れが、君たちに理解できるかな? もし現実世界に戻った時……グリセルダ……ユウコに離婚を切り出されでもしたら……そんな屈辱に、私は耐えることができない。ならば……ならばいっそ、まだ私が彼女の夫であるあいだに。そして合法的殺人が可能な、この世界にいるあいだに。ユウコを、永遠の思い出のなかに封じてしまいたいと願った私を……誰が責められるだろう……?」
「屈辱……屈辱だと? 奥さんが、言うことを聞かなくなったから……そんな理由で、あんたは殺したのか? SAOからの解放を願って自分を、そして仲間を鍛えて……いつか攻略組の一員にもなれただろう人を、あんたは……そんな理由で…………」

 首を左右に振りながら、キリトがひび割れた声で発した。その右手がピクリと跳ねるのを左手で押さえつけている。
 そのキリトに向かって、グリムロックは顔を持ち上げると、力なく笑いかけた。

「そんな理由? 違うな、十分すぎる理由だ。君にもいつか解る、探偵君。愛情を手に入れ、それが失われようとしたときにね」
「……間違ってるのは、あなたです」

 それまで沈黙を守っていたエミが、ここにきて突如反駁した。強い芯が通ったソプラノにマサキが思わず視線を投げる。可憐な造りの顔に浮かぶ、月明かりの下で一輪だけ咲いている蘭のような凛とした表情からは、その心境までは推察できない。しかしその瞳に浮かんだ真剣な色の光は、彼女の抱いている気持ちの強さを否応なしに感じさせるものだった。

「誰かを好きになる……誰かを愛するってことは、その誰かに、何かを求めることじゃない。その人と一緒にいるだけで楽しくて、笑顔になって。その人のことを考えただけで、胸の奥がぽかぽかして。……だから、今度はわたしが、その人を笑顔にしたい。その人に、幸せになってほしい……そう思うことが、わたしは愛だって思います。あなたがグリセルダさんに抱いていたのは、ただの所有欲。……そんなものを、愛だなんて言わないで。そんな薄汚れた欲望で……愛っていう純粋な想いを穢さないで!」
「……あなたがまだグリセルダさんのことを愛しているというのなら、その左手の手袋を脱いでみせなさい。グリセルダさんが殺されるその時まで決して外そうとしなかった指輪を、あなたはもう捨ててしまったのでしょう」

 エミの鋭い言葉の後をアスナが静かに次ぐ。グリムロックの肩が小さく震え、黒い革手袋に覆われた左手を、自らの右手でぎゅっと掴んだ。が、男の手が動いたのはそこまでで、左手の手袋が外されることはついぞなかった。

「……キリト。マサキ。この男の処遇は、俺たちに任せてもらえないか。もちろん、私刑にかけたりはしない。しかし必ず罪は償わせる」

 今まで一言も発することなく状況を傍観してきたシュミットが、立ち上がりながら場の静寂を破った。直後にキリトの視線を感じたので、マサキは黙って頷く。

「解った。任せる」
「……世話になったな」

 キリトが了承すると、シュミットもマサキたちに頷き返し、力なくその場にうなだれるグリムロックを連れて丘を下りて行く。その後に、箱を埋め戻したヨルコとカインズが続く。

「アスナさん。エミさん。キリトさん。マサキさん。本当に、何とお詫びして……何とお礼を言っていいか。皆さんが駆けつけてくれなければ、私たちは殺されていたでしょうし……グリムロックの犯罪も暴くことはできませんでした」
「いや……。最後に、あの二つの指輪のことを思い出したヨルコさんのお手柄だよ。見事な最終弁論だった。現実に戻ったら、検事か弁護士になるといいよ」

 深々と頭を下げたヨルコは、キリトの冗談にくすりと笑って応じた。

「いえ……。信じてもらえないかもしれませんけど、あの瞬間、リーダーの声が聞こえた気がしたんです。指輪のことを思い出して、って」
「……声……」

 マサキはヨルコの口にした単語を無意識に漏らしながら、もう一度深く一礼した二人が丘を後にするのを見送った。ふと、何とはなしに、目線を背後の墓標に泳がせる。
 ――声、ね。
 そんな自分に、マサキは自嘲の笑みを向けた。あるはずのないものを一瞬でも望んでしまった自分が、あまりにも滑稽で。
 馬鹿らしいと空気の塊を吐き捨て、逃げるように背を向けようとしたマサキ。しかしその寸前、思いもがけないものを見た。

 捩れた巨木の根元にひっそりと佇む苔むした墓標。そのすぐ脇に、微かな光を放つ何かがあった。
 SAOでは一般的な、革でできたブラウンのブーツ。金色の光に覆われ、半透明なそれからは、同じように透き通った脚がすらりと伸びている。ほっそりとした身体には、スピード型のビルドを思わせる控えめな金属鎧。短いブラウンの髪はアップにまとめられていて、たおやかな笑みを零しながらも、その目には強い意思が宿っている。
 マサキがそれを人であると認識するまで、数秒の時間を要した。この女性プレイヤーが、現実の存在ではないと知ったのは、更に数秒後のことだ。
 ――有り得ない。マサキは今日幾度目かの言葉を頭の中で叫んだ。このアインクラッドは、電脳世界に組み上げられた、ただのプログラムでしかない。そこで見聞きする全てはナーヴギアから与えられた電気信号であり、心霊現象やオカルトの類が入り込む余地はない。つまり、今自分が目にしている女性プレイヤーの正体は、プログラム上に発生した何かのバグか、あるいは自らの脳内だけで合成された幻覚かだ。

 目を見開いて立ち尽くすマサキに向けて女性プレイヤーはしっとりと微笑むと、何かを差し出そうとするかのように、開いた右手を差し出した。
 嘘。幻。バグ。精神異常。目の前の光景を否定する推測が次々に飛び出してきて、マサキの前に壁をなす。その壁が、前に突き出されようとしていたマサキの右手を阻む。……でも、もし。彼女がそのどれでもないのなら。もし、この電子コードで組み上げられた世界のどこかに、消えてしまったプレイヤーたちの思いが残っているというのなら。どうか。どうかもう一度……。
 マサキの足が、前に倒れこもうとする上半身を追って半歩だけ前に進む。それと同時に、女性プレイヤーの手を掴もうと開かれていた右手が、その間にある壁に触れる。次の瞬間――女性の姿は忽然と消え失せ、彼女がまとっていた光の一欠けらすら、マサキを嘲笑うかの如く消滅していた。それは、マサキの記憶からある事実を抜き出すには十分だった。マサキは乾いた笑みを口元に刻みながら、視線と右手を女性の存在していた空間に彷徨わせていた。
 やがて諦めたように力を抜こうとした寸前、その右手が、不意の温かさに包まれる。

「……ね、マサキ君」

 両手でマサキの手を包み込んだエミが、マサキの横に立って言った。思考力の回復していないマサキが言葉を返せずにいると、それを好意的に受け取ったのか、静かに続ける。

「マサキ君はどう? マサキ君が誰かと結婚した後で、その相手の新しい一面に気付いたら……マサキ君は、どう思う?」

 マサキはいまだ回転数の戻っていない頭で、質問の意味を考えようとした。そういえば、先ほどアスナがそんな問いをキリトにしていたような気がする。

「……それは、触れるのか?」

 マサキは短く言った。触れていられるものならば、例え幽霊であったとしても、自分はそれを愛せるだろう。

「……え?」
「……いや、いい。忘れてくれ」

 マサキはすぐに思いなおして直前の言葉を取り消すと、重ねられていたエミの手から自分の右手を引き抜いて振り返った。星のない夜空を一度仰ぎ、繋がれていない手の温度を自分の身体に染み込ませる。

「……どこかで明日の朝ごはんの材料でも買って帰ろっか。マサキ君は、明日のメニューは何がいい?」
「何でも」

 ぶっきらぼうに答え、主街区に向けて歩き出そうとした――そのところで、マサキはじろじろとこちらを見てくる二つの視線に気がついた。その瞬間、自分が犯した過ちを心の底から後悔する。

「……マサキ君って、ずっとクールっていうか、近寄りがたいって思ってたけど……意外と手が早かったのね……」
「顔はいいしな。ヒースクリフほど有名じゃないけど、ユニークスキルも持ってるし。……ここだけの話、マサキが何人もの女子プレイヤーをとっかえひっかえ引き連れてるっていうウワサが何人かの情報屋に……」
「……なんの話だ」

 威嚇の意味を込め、いつもより一オクターブ低い声でマサキは言った。それを聞いたキリトとアスナが、一様にビクリと身体を震わせた後に引きつり笑いを浮かべる。
 マサキは素早く身を翻すと、主街区に向かって歩き出しながら三人の温かい会話から自分を遠ざけた。体温で温められた空気を夜の冷たい空気と入れ換えつつ、目を細めて呟く。

「……帰るか」
「うん」

 一度引き剥がしたはずのエミの声が耳元で聞こえたことにマサキは驚き、立ち止まった。が、それと同時に左腕をエミに取られていたため、つんのめるような形で彼女に牽引されていく。真っ白になった頭でエミを追いかけながら、マサキは耳に残った囁きを、自分の記憶から無意識に漁っていたのだった。

 いつの間にか、独り言に変わっていた言葉。返事を聞いたのは、一体、いつ以来のことだったろう? 
 

 
後書き
 どうも、作者のCor Leonisです。長かった圏内事件編も、ようやくこれで完結となります。
 この県内事件編、原作で発表されたのが8巻ということに加え、新たなヒロインが出るわけでもないということで何となく影の薄い印象を感じますが、拙作では「マサキと原作キャラとの絡み」、「マサキにおける、過去から未来への転換点」というところをテーマに書いてみました。上手く読者の皆様に伝わっていればいいのですが……はてさて。そのあたりは、まだまだ精進が必要、といったところでしょうか。
 さて。次回からは原作2巻、「心の温度」編に入っていきたいと思います。殆どオリジナルなストーリーになるかと思われますが、どうぞお付き合いくださいませ。……え? リズのDEBAN? そんなものはない(オイ)

 ではでは。 
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