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アンジュラスの鐘

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8部分:第八章


第八章

「暫く行ってきます」
「あの、神父さん」
 少尉は心配する顔で彼に声をかけてきた。
「長崎のことは御存知ですよね」
「ええ」
 その返事にも淀みはなかった。
「原子爆弾で跡形もなく消え去って。瓦礫の山になっています」
「その様ですね」
「街中死体で埋め尽くされ、中に入った者は次々と倒れていっています。そこに行かれるのは」
「大尉は最後にこう書かれていました」
 必死に止める少尉に対してこう返した。
「あの鐘の音を別の場所で聴きたいと」
「鐘」
「はい」
 それが何なのかは少尉にはわからなかった。だが神父にはわかる。それで充分であった。
「ですから長崎に行きます」
「決意されたのですね」
「ええ」
「わかりました」
 それならもう言うことはなかった。少尉も認めた。
「それでは御気をつけて」
「はい」
 軍人なので敬礼はしない。一礼しただけだ。しかしそれで充分であった。今神父は長崎に向かうことを決意した。あの鐘を探す為に。
 長崎は廃墟になっていた。話に聞いていたよりも、予想していたよりも遥かに酷かった。
「これが長崎」
 言葉を失ってしまった。そこは廃墟であった。
 もう死体は流石に殆ど収められていた。だがまだ死体の残り香がするようであった。そして廃墟をさまよう人々の中には深い傷を持っている者も多かった。やはりあの爆弾のせいであった。
 だが彼の決意は変わることはなかった。鐘を探す。そう決意してここに来たのだから。
 坂の多い道を進み浦上天主堂に向かう。そこにある筈なのだ。だが。
 教会自体がそこにはなかった。そこにあったのは他の場所と同じ廃墟であった。教会の残骸だけがそこにあった。
「これは・・・・・・」
「神にお仕えされる方ですね」
 そこにいた一人の年老いた男が神父に声をかけてきた。
「え、ええ」
 その声に反応して顔を向ける。見れば彼も傷を負っていた。
「もう教会はないです」
「教会も」
「あの爆弾のことは御聞きしていますよね」
「はい」
 こくりと頷いた。それでもここに来たのだから。
「あの爆弾で。教会は完全に壊れてしまいました」
「そしてこうなったのですか」
「ええ、たった一発の爆弾でね」
 老人は悲しい声でこう述べた。
「酷いものですよ。アメリカの爆弾で」
「原子爆弾ですよね」
「そう言うんですか。その原子爆弾でですよ」
 老人はまた言った。
「教会も街も全部ですよ。人まで消えました」
「人まで」
「本当に消えたんですよ。あっという間に」
「そんな馬鹿な」
「本当ですよ。影だけ残してね」
 原子爆弾の光と熱により瞬く間に燃え尽きたのである。後に残ったのは影だけであった。何よりもこの爆弾の恐ろしさを語るものであった。
「何も残りませんでした」
「そんな・・・・・・」
「この教会も同じですよ」
 老人は廃墟を見ながら述べた。
「この有様ですよ。同じ神様を信じている連中の爆弾でね」
「・・・・・・・・・」
「街も何もなくなりました。助けに来た人も次から次に死んでいって」
「それは聞いていましたが」
「もう駄目でしょうね、ここは」
 老人の声は沈んだものであった。
「こうなったら。何もありませんよ」
「何もですか」
「ええ。私だってね、この教会が好きだったんですよ」
「教会が」
「鐘の音も。けれどその鐘も」
「何もなくなったんですか」
「そうですよ、何も」
 老人は言う。
「なくなりましたよ。ほら、何もないでしょう」
 見えるのは瓦礫だけである。本当に何もない。
「それでどうしてどうにかなるって言えるんですか。言えないですよ」
「けれど」
 言おうとする。だがそこから先は言葉に出ない。
 何を言うべきかはわかってはいる。だがそれがどうしても出ないのだ。そのことに焦りと戸惑いを覚えていた。その時であった。
 ふと気付いた。廃墟の中に微かに見えるものが。思えばそれこそが天の配剤であったのだろう。
「あっ」
 最初に気付いたのは神父であった。思わず声をあげた。
「どうしたんですか?」
「あそこですよ、あそこ」
 そしてそこを指差す。廃墟の中から何か黒い鉄の様なものが見えていたのである。
「あれは。何でしょうか」
「何でしょうかと言われましても」
 老人にはわかりかねていた。それにこんな廃墟に何もないと思っていたのである。
 だがそれは違っていた。それは確かにあったのだ。あったというよりは生きていたといった方がいいかも知れない。そう、それはあったのだ。廃墟の中に。
「少し、見てみませんか?」
「お金とかそんなのは落ちていませんよ」
「そんなのには興味はありません」
 神父はそうしたことには本当に関心が薄かった。金やそうしたことには元々欲望が希薄だったのである。こうしたところは如何にも神父らしいと言えた。少なくともこの点においては彼は神父として、宗教家として合格であった。中にはそうではない宗教家も大勢いるのだ。あまつさえ神を信じない宗教家すらいるのだ。この神父にとっては悪いことにローマ=カトリック教会にはそうした教皇もいた。バチカンというのは非常に困った場所であった時期が長く信仰よりも政治、天国よりも現世について感心が深い時代があったのだ。中には本当に神を信じず政治闘争と謀略、華やかな宴と美女に美食、美酒に明け暮れた教皇までいた。愛人との間に多くの子をもうけ、その子の一人がこれまたとてもつない野心家であり目的の為には手段を選ばず、父と共に謀略と姦計、暗殺に奔走していたこともあった。宗教家といっても様々なのである。
「それはそうと」
「それをどうするんですか?」
「見てみたいのですよ」
 彼は言った。
「それが一体何なのか」
「何も出ないに決まってますよ」
「いえ、出ます」
 だが彼は諦めてはいなかった。
「ですからきっと」
「それじゃあわかりました」
 老人も彼があまりに強く言うので観念をした。
「人とスコップやツルハシを持って来ますので」
「私の分もお願いします」
「神父様も掘り出されるのですか?」
「はい、それが何か」
「何かって、くたびれますよ」
 老人はそう言って神父を止めようとした。
「この暑さですし。それに力仕事ですから。神父様には」
「こういう仕事には慣れているのですよ」
 だが神父はその言葉は笑顔で退けた。にこりと笑ってそう述べたのであった。
「私は若い頃修道院にいまして」
「修道院ですか」
「ええ。そこでは畑仕事とかも多かったですから。慣れているのですよ」
「そうだったのですか」
「はい、ですからお願いします。むしろ」
「むしろ?」
「私もスコップやツルハシを持って来るのを手伝わせて下さい」
「いいんですか?それも」
「私が言い出したことですから」
「わかりました、じゃあ御付き合い下さい」
 老人も神父の言葉に心打たれた。そこまで言うのなら、と思ったのである。
 
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