ダンジョンに出会いを求めるのは間違っていた。
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閑話 第二話
どうもこんにちわ! ぴっかぴかの新米クレアです! 冒険者になって早くも一年が過ぎました! 到達階層はたったの六階層! しかも階段下りたすぐそこまでしか歩いてません! しょっぼい! 仕方ないね。六階層と言えば《ウォーシャドウ》、《ウォーシャドウ》と言えば《新人殺し》、《新人殺し》の格好の獲物と言えば私。つまり《ウォーシャドウ》と言えば私なのだ。もはや意味が解らないね。
というか、到達階層が六階層と言っても、イコール私の実力が付いているというわけじゃなく、単純に逃げ惑っていたら六階層まで降りてしまったというところだ。だから自分でろくにマッピングも出来ていないし、一階層で出てくるコボルトが五匹とか出てきたらもうお手上げってレベル。さすがLv.1である。
絶賛ソロだからあまり戦闘が捗らないというのもあるかもしれない。同じLv.1でも徒党を組めば色々と戦術に幅が出るし、どんな状況でも仲間がいるという精神的な緩和を狙えるからね。
でも私はパーティを望んでいてもソロである。私が所属している【セレーネ・ファミリア】の団員が私しかいないというのもあるけど、一番の原因は私が幼い少女だからである。普通に考えて十四歳の女の子をダンジョンに連れて行きたいと思う人なんていないし、もし少しでもあったとしても死なせたら責任を取れないからである。勿論ダンジョンに潜る身なのだから常に死と隣り合わせだけど、だからと言って死んでもよしという話ではない。
そんな訳で、半年前と変わらず負のスパイラルから抜け出せずにいるクレアでした。
『グルオォ!』
気楽に言ってるけど、私生活の方は結構苦しいところなんだよねぇ。爪に火をともす生活を続けてやっと、て感じ。それもアパートの大家さんに家賃が少し滞納するのを認めてくれているからだし、私がいつまで経ってもめぼしい稼ぎを得られないからだし……。
『グオォ!』
あれだね、成長するというのは文字通り過去の自分とは決別することなんだから、今の私のように怖がってぬるま湯に浸っていても成長するはずないんだよね。
でも解って欲しい。私も頑張っているんだ。毎日6時に起きて支度をして七時にダンジョンに潜る、それから持ち込んだ昼食をダンジョン内で摂りながら22時まで戦い続けて23時に帰宅、半ば寝た状態でステイタスの更新と夕食を食べて0時に就寝。これを毎日続けてる。まあ、これを続けることに意味があるんじゃなくて、その中身が重要だっていう話だね。
『グ、グオオオ!』
そう、聞いて欲しい! さっき怖がってるって言ったけど、私だって六階層に行ってウォーシャドウを華麗にあしらいたいんだ! でもその技術が足りないんだ……。少し群れを組んだコボルト相手に裸足で逃げ出しちゃう程度の腕しかない私が自惚れてはいけない。少しでも「あれ? これいけるんじゃね?」とか思った瞬間、そいつ負け組みなんだ。それが《新人殺し》の異名に実績を上塗りする結果になっちゃう。
だから満を持してってやつだね。しっかり自分の腕を磨いて、コボルトが束になって来ようが冷静沈着の精神でこれを退ける、それぐらいの力がないとウォーシャドウには勝てないだろう。
『グオオ……』
でも現実はそんなに甘くないんだよなぁ……。腕を磨くって言っても、それがコボルト専用の技だったら意味が無い。簡単に言えば汎用性の高い、どのモンスターにも有効な技を磨く、これが最も理想的。しかしそんな技術を磨く以前の問題で、モンスターを倒すことで精一杯の私がそんな余地はない。せいぜいイメージトレーニングとか素振りをして輪郭を作れる程度─それでも凄いおぼろげ─の上に、中身がすっからかんだから実践で全く使えない。
負のスパイラルェ……。
『グオオオオオオ!!』
「何よさっきからうるさいわね! 私だって何とかしなくちゃって思って頑張ってるのよ!」
『グオ!?』
「でも仕方ないじゃない……他の人みたいに戦いに慣れるの凄い遅いし、不器用だし……」
『グ、グオ……グオ?』
「そう言ってくれる? ありがとう、少しすっきりしたわ。よっし! 早速頑張っていくわよ!」
『グオオ!』
「ってコボルトが何でいるのぉぉぉぉぉぉ!!??」
『グオオオ!?』
ぶすり。ごめん、許せコボルト。君から得た経験値は無駄にはしない。
◆二年後
「あ、お帰りクレア。ご飯にする?」
「そうします……」
ふらふらと覚束ない足取りでちゃぶ台に着いて、傍らに今日の稼ぎが詰まったバックパックをへなんと置く。
全身に覆いかぶさる激しい怠惰感によって今すぐにでも寝たい衝動に駆られるけど、寝てはいけない。寝たらセレーネ様にステイタスを更新してもらえない。
セレーネ様曰く「最低限の生活リズムは崩しちゃダメ。体壊してダンジョンで倒れちゃったらどうするの」とのこと。確かに昨日の疲れが溜まった状態でダンジョンに向かえば、私ならすぐに死ねる自信がある。なんかダンジョンの床に寝転がったら知らない間に寝てて、知らない間に死んでたー、みたいな。うっわ、私なら本当にやりかねなくて怖い。遵守しますセレーネ様。
「はいどうぞ。それで今日はどうだった?」
天井に吊るされている仄かな魔灯─魔石で作られた灯り─の光を浴びる銀の髪を輝かせ、胸元を大きく開けたカッターシャツと下着だけいう大胆な格好でキッチンから料理を運んできたセレーネ様。
毎日ダンジョンに出かける私を外まで見送ってくれて─さすがにズボンは穿いて─帰ってくる時間に合わせてご飯を作ってくれる。そして帰ってきた私にいつも調子を尋ねる。毎日セレーネ様が何気なくしてくれている事が、家族親類の一切を失った私の心を癒してくれる。
「いつもと変わりませんよー……」
「そうかな? 何か思いつめてるようにも見えるけど」
私の正面に腰を下ろしたセレーネ様はニコニコと微笑みかけてくる。どういう理屈なのか解らないけど、神様という人(?)は相手が嘘を言っているとか、何か隠し事をしているな、というのを本能的に察知できてしまうらしい。勿論私はセレーネ様に嘘なんか吐けるはずがないので、自分でも気付いていない何かがあるのだろうか。
「ゆっくりでいいよ」と言いながらフォークで料理を食べ始める。こんなに細い体してるのにどんだけ食べるんだってくらいセレーネ様はよく食べるので、全部とられないように私もフォークを動かしながら黙考する。
数分くらい経ってからようやく何かを見つけた。
「あ……もしかして、七階層に行きたい……とか?」
「え? いや、私に言われても解らないけど、そうなの?」
「はい。少し前から七階層に関して思い悩んでいたことがありまして」
ウォーシャドウに怯えていたころとは違い、今では自分でも中々思い切りが良くなってきたと思ってる。当然何振り構わず突撃! というわけじゃなくて、勝負に出れるところは出て、引っ込むべきところは引っ込むという見極めが出来るという話だ。その証拠に今では駆け出しのころとは判然としたステイタスの差がある。きっとその差こそ駆け出しのころから成長した分のはずだ。
しかし、一年前からずっと六階層で留まってしまっているのだ。理由は七階層になるとモンスターが群れを組んで襲ってくる確率が上がるからだ。六階層まではモンスターの群れと言えど比較的少なく、多くても四匹くらいなのだが、七階層になると最低でも三匹が群れをなす。一回だけ七階層に足を伸ばしてみたけれど、いきなり五匹同時に遭遇したときは本気で死ぬかと思った。少ない数との戦闘はもう慣れたけど、四匹以上となると本格的に手詰まりになる。なぜなら練習をする機会があまりにも少ないからである。三年間潜り続けている私でさえも四匹の群れと遭遇したのは両手で数えられる程度しかない。
かと言ってそんな少ない経験だけで乗り越えられるような問題でもないのも事実。加えて練習したければ実際に七階層に行かなくてはならない。本末転倒である。
そのことを食べながら零すと、セレーネ様は「困ったなぁ」と口癖を挟みつつ、雑貨が広がる机の上でガサゴソと手を動かし、一枚の紙を引き抜いた。
「えーっとね、神の恩恵(ファルナ)が人の成長を認めるというのは、万人が認め、神々に称えられるような業績を上げること。とにかくダンジョンに潜り続けろダンジョン。だってさ」
「お、お言葉ですが、それは一体どなたから……?」
「ゼウスからだね」
「やっぱりですか……」
セレーネ様は下界に降りてから日が浅いため、下界に於ける神々の立ち位置やファミリアについて詳しく知らない。だから天界にいたときから親交のある神様たちにこうして話を聞きに行ったりしているのだ。それでセレーネ様の知り合いの中で最も古くから下界に下りてきた神様はゼウス様とヘラ様、ウラノス様あたりなんだけど、ヘラ様は他の女神のことを目の敵にしているし、ウラノス様は《祈祷の間》というギルド本部最深部で今もなお祈祷を捧げているから、残ったゼウス様に自然と白羽の矢が立つのだけど、これがまた陽気な神様だからアドバイスがアドバイスになってないのだ。今でもオラリオの最大派閥に名を連ねるゼウス様は他のファミリアと関わるのを避けていると一般に言われてるけど、実際はゼウス様の自由奔放すぎる態度に他の神様が呆れて関わらないようにしているだけである。例外なのがゼウス様にご執心のヘラ様と、その態度を気にしないセレーネ様くらいだ。
「偉業をなさなければならない、という意味ですよね」
「うーん、そういうことになっちゃうのかなぁ。でもそんなに焦る必要はないよ。クレアのステイタスも良い調子で上がってきてるし、半分くらいの人はLv.1より上がることが出来ないって言うし──」
「それじゃあダメなんです!」
思わず机を叩きそうになる。突然声を張り上げたせいで、セレーネ様がオリーブ色の瞳を大きく開いて言葉を止めた。
私もその事情は知っている。だけど、私はその半分くらいの人にはなりたくない。なってしまえば今の納得のいかない状態のままだ。そんなの、セレーネ様に顔向けできるはずがない。
少なからず気にしていた所だったから荒立ってしまった。ごめんなさい、と小さく謝りを入れたけど、微妙な沈黙が部屋を支配した。
少ししてからセレーネ様が小さく微笑みちゃぶ台を立った。
「ちょっと疲れてるんじゃないかな。明日くらいは休んだら? 三年ずっと無休は体に悪いし」
シャワー先に浴びてくるね、と銀の髪を翻して奥の部屋へ姿を隠した。再び耳に痛い沈黙が訪れる中、セレーネ様が作ってくれた料理は冷め切ってしまっていた。
◆
それとなく聞くつもりだったけど、結構気にしちゃってるみたいだね、クレア。私は隣で泥のように眠っているクレアの髪を撫でながら、こっそりため息をついた。
私はクレアが冒険者になることについて、少し抵抗を覚えていた。私がクレアのことを守り育てる親のはずが、クレアが私を守り支えている状態だ。親が身を粉にして子に尽くすはずなのに、子が親に尽くしている状態が嫌だったのだ。
でもクレアはそれが良いと望んでいる。それが私にとって最善のことで、喜んでくれることだと思っている。確かにクレアが目に見えて成長しているのが解るのは嬉しいことだし、クレアがそれを衷心から望んでいることなんだろう。
「それでクレアが傷つくのは、嬉しくないことだよ? クレア」
初めて出会ったときからクレアは本当に見違えるくらい成長した。背丈も伸びたし、髪も伸ばしたし、胸も大きくなって、最初はダンジョンから帰ってきたら気絶していたのに今では自分で晩ご飯もお風呂も入れる気力は残せているし。
でも、それら全て、クレアがその身を傷つけて得たものだ。今も寝てるクレアのお腹に大きな青あざがあるのも知ってる。左肩に切り傷を作ってるのも知ってる。手のひらにたこを作ってるもの知ってる。
十三歳という幼さからずっと怪我を負って気絶するくらい疲れて帰ってくる毎日を送る日々が、本当にクレアにとって喜びなのか私には解らない。
私がこっそり働こうと思っても、どこで知ったのか解らないけどやめて下さいお願いしますと泣きそうになりながら懇願してくるし、冒険者をやめないかと聞いてもやらせてくださいお願いしますと泣きながら懇願してくるし……。
「もう少し親の気持ちを考えて欲しいなぁ」
窓から差し込む月の光が、むずがるクレアの寝顔を優しく照らしていた。
◆
いつもの時間に起きたら、クレアはまだ寝こけていた。私が起きた頃にはすでに身支度を済ませてるくらいだから、昨日私が言ったことを守っているようだ。
「まったく、可愛いなぁ」
あどけない寝顔を晒す我が子の頭を一撫でしてから、体をぐっと伸ばして脱力、瞼の裏に燻る眠気を誤魔化しながら布団から這い出て顔を洗って朝ごはんの用意をする。
数十分が経って丁度朝ごはんが出来た頃にクレアが小さく呻きながら起きてきた。
「おはようクレア。顔洗ってきなよー」
「はぁい……ふぁ」
ぼさぼさと跳ねた髪の毛を掻きながら寝ぼけ眼で返事をしたクレアから大きな欠伸が漏れる。三年間一つ屋根の下で暮らしていたけど、片手で数えられるくらいしか見たことがないクレアの姿に自然と笑みを零しつつ、ちゃぶ台に簡素な朝ごはんを並べる。
クレアが戻ってきたら一緒に食べ始め、未だ寝ぼけているのか口数が少ないけれど会話を交わしつつ食べ終わる。
「この後私買い物に行くけど、クレアも付いて来る?」
「私は……ふぁ、二度寝します」
本当は付いて来て欲しかったけど、今のクレアは三年分体に貯まった疲労にやられている。無理を言わさず寝かせてやろう。言ってる傍から布団に吸い込まれるように這いずっていくクレアだった。
「お昼になったら起こすからねー」
「ありがとうござむぎゅ」
布団にとっぷしながら言わないでよ、と苦笑いを零し、早くも規則的な寝息が聞こえてきたところで素早く身支度を整えて、立て付けの悪い扉も空気を読んでか音を立てずに外に出かけた。
「これで大体揃ったかな」
クレアが稼いできてくれているお金を有り難く使わせてもらい、必要な物は粗方揃えたところで空を見上げると、日はまだ頂点に達しておらず、まだ時間に余裕がある。
「ウラノスに話を聞いてみようかな……」
彼は古代からこの下界に降り立った神々の一柱だ。人々に神の恩恵を齎した第一の神でもある。今では中立の立場を謳うギルドに君臨しているから、実質彼のファミリアは存在しないけど、神の恩恵について詳しいことに変わりない。
それに私が下界に下りてから一回しか彼とは会っていない。神会に出席しないから会う機会が結構少ないし、この際だから挨拶ついでに足を運んでみよう。
「ウラノス様は席を外しておられます」
「え、いないの?」
「はい、重要な案件ということらしいのですが……。伝言を預かりましょうか」
「あぁ、大丈夫。ありがとね」
通常の職員より遥かに品質の良いスーツを着込んでいる中年のエルフの男性は、後退している生え際から生える短い白髪を盛んに揺らしている。ロイマン・マルディールという、ウラノスの腹心として仕えているエルフだ。近いうちにギルドの最高権力者になると噂されている、エルフにしては中々太った男性。ウラノスから面会するときは彼に通すようにと言われて捕まえたのだが、まさかウラノスがあの間を留守にしているとは思わなかった。
失礼しますと断り大勢の部下を引き連れて消えていく丸い背中を見送り、さて困ったなぁとギルド本部のロビーを見回す。白大理石で造られたロビーは、メインストリートに面する大神殿のようで、外の通りと負けず劣らず冒険者で溢れかえっている。特に冒険者が群がっている巨大掲示板に私もふらりと足を向ける。
『あーこのクエいいな。もらってこ』
『おいおい聞いたかよ、今日階層主の次産間隔明けだってよ』
『どこのだよ』
『えーっと、七階層だな』
『何だ、別に気に留める必要ねぇじゃねぇか』
『まぁそれもそうだな』
ダンジョン探索がてら、都合の良い冒険者依頼があったらこなしてしまおうと、多くの冒険者たちは埋め尽くされるほどの羊皮紙が貼り出された掲示板の前に集まる。
私は冒険者じゃないから遠めに眺めるだけにしようかと思ったけど、無意識の内に流れる神威に気付いたのか、冒険者たちがざざっと私の正面を空けた。
「あー、ごめん」
クレアが時々冒険者依頼をクリアして報酬を貰っていると話していたのを聞いて、どんなのがあるのか気になっただけだったんだけど、せっかく譲ってもらえたのならさっと目を通していこう。
特定のモンスターのドロップアイテム納品、隊商の護衛……へぇ、結構多岐に渡るんだねぇ。でも上層に関するものが他と比べて少ない。まあそれもそうか、Lv.1でも探索できる範囲の冒険者依頼は発見された瞬間取られるに決まってる。クレアが朝早く行くのはそれも含んでいるのかもしれない。
めぼしいのは無いかなぁ、と思って流していると、先ほどちらっと聞こえた『七階層の迷宮の弧王復活』と書いてある知らせを見つけた。
へぇ、丁度今日だったのか。クレアが行こうとしていた階層だし、休んでおけって言っておいて良かった。何せ王と言われるくらい強いんだし、さすがにクレアにはまだ早い。
お邪魔しましたー、と譲ってくれた冒険者たちに断りを入れてからギルドを後にした。
「ただいまー」
程なくして家に帰り、玄関に両手に持っていた買い物袋をどさっと置く。挨拶をしても帰ってこなかったということはまだ寝ているのかな? まあ昼になったら起こすって言ったから寝てるか。
靴を脱いでリビングに入り、ちゃぶ台に買い物袋の中身を広げ時計を見る。丁度正午ちょっと前だから起こそうか。
そう思って布団が敷いてある場所に目をやると。
「……あれ? いない」
半分に折られてはだけている布団にクレアの姿は無かった。ならトイレかと思って扉に近づいても何の音もせず、シャワー室を覗いても誰もいない。
思わず眉根を寄せて部屋中を回ってもクレアはいない。というか、リビングの隅に置いてあるはずのバックパックがない。
「……え」
クレアがいつも履いている靴も無い。
そこで、暢気な頭が急激に冷えていくのを感じた。
昨日クレアは七階層に行けないこと、偉業について凄い思いつめていた。そして今日、七階層の迷宮の弧王が出現すること。
あまりにも嫌な単語が、凍えきった私の脳内で並んだ。
「嘘でしょ……」
自分が呟いた言葉とは裏腹に、私の足は覚束ない足取りで玄関へ足を向こうとしていた。
そして、クレアの身が危ないと理解した途端。
「クレアっ!!」
部屋の鍵を閉めることすら忘れ、堪らず部屋を飛び出した。
◆
セレーネが買い物に出かけて一時間ほど経ったとき、クレアはふと目を覚ました。二度寝したくなるほどの眠気に襲われていた彼女がなぜ一時間だけで起きれたのか、本人ですら解らない。
ただ、彼女が三年間体に叩き込み続けた習慣が災いした。
「ふぁ……もう朝なのぉ?」
そして、クレアには今日二度寝したという記憶が無かった。半分寝ていた状態で朝ご飯や顔洗いをしていたのだから、仕方の無いことだったのかもしれない。
加え、今日は清々しいほどの晴天だ。曇りや雨だったら外が暗くなってふと時計を覗くだろうが、午前から午後まで常に明るい晴天だと、起きたばかりの彼女に早朝だと勘違いさせてしまう。
「セレーネ様……?」
自分の隣に布団を敷いて寝ているはずのセレーネの姿が見えなかったが、そのときクレアは特に気に留めなかった。中途半端に寝惚けてしまっているせいで、現状を正しく理解できていないのだ。
いつも起きたらお腹が空くけど、今日はしない。だからいいか。
己が崇拝して止まないセレーネの「最低限の生活はしなさい」という言葉すらも忘れてしまっていたのだ。今の彼女は三年間毎日続けていた、常人ならば耐えられないほどのハードスケジュールに慣れきってしまった体が「ダンジョンに行かなければ」と条件反射している状態だった。
才能の無いただの凡人だと自覚しているクレアが、人一倍、二倍と努力しなければならないと思って続けていた習慣。それは紛れも無い努力であり、その努力のお陰でクレアは三年という時間を掛けてステイタスを成長させ続けてきた。
その努力が、災いの元だった。
◆
びきりと、私の背後で罅が走った音がした。
「……」
私はモンスターが生まれる瞬間を何度も見たことがある。だから聞きなれた音のはずだ。
だけど、私が知っている罅割れる音は、こんなにも喘ぎ、苦しみ、嘆くような重々しい声音を出さない。
見えない糸で縛り付けられたように足は止まった。後ろを見ないほうがいい、そう本能が絶叫するのを無視して、首が独りでに回っていく。
ズンと、それが地に足を着けた瞬間だった。
今まで私が見てきたどのモンスターよりも一回り二回りも大きい体だった。全身に鋼鉄の鎧のような黒光りする甲殻を纏い、それは何本もある脚全てにも貼り付いている。腹にはドスぐろい赤の十字架が刻み込まれている。
ギチギチと巨大な顎の鋏を打ち鳴らし、触覚をクネクネと曲げて、どこを向いているか複眼が何故か私のことを凝視しているように思えた。
肌が粟立った。種族として、固体としての隔絶した力の差。絶対的な存在としての隔たり。一目見ただけで自分は矮小で無力な存在なんだと、本能的に思い知らされるような、圧倒的覇気。
私はその存在を名前だけ知っていた。初めて見るはずなのに、絶対にコイツのことを言っているんだと指しているんだと解った。
ダンジョンで七階層から初めて出現するようになる、階層の主。命名、迷宮の弧王。固有名詞、《クルセイド・アント》
『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!』
「嫌ああああああああああああ!!??」
けたましい咆哮と、無力な少女の悲鳴が木霊した。
後書き
薄々感づいてる方もいらっしゃると思いますが、クレアが年老いても子供っぽい口調だったのはセレーネ様の口調がうつっているからです。
ですから冒頭の発言時の口調が本来のクレアの口調です。ちゃんと女の子らしい口調だったのに、セレーネ様を崇拝するあまり口調まで……。
第三話に跨ぐ事になっちゃいましたがお許しを。第三話は本編の方で一段落着いたら更新します。
【クルセイド・アント】/次産間隔一年
全身真っ黒の甲殻に覆われた巨大蟻。腹に刻み込まれた血色の十字架が名の由来。
原作で登場するような階層主とは違い、上層の階層主なので原作と比べるとかなり小さい。でも全長4mを越すキモイ蟻。
冒険者がダンジョンで初めて出会う迷宮の弧王。攻撃方法は巨大な顎の鋏と、堅牢な甲殻に覆われた六本の脚。遠距離攻撃をしてくるなんて鬼畜仕様はなく、ステイタスはLv.2相当。
本作ではレイナが格上を難なくぶっ殺してるせいで感覚が狂いがちだが、原作のベルVSオッタル色に染まったミノタウロスで解るとおり、オールS─敏捷はSS─というキチガイステイタスと《ヘスティア・ナイフ》という準チート武器を持つベルですらボロボロにならなければ、レベル差に勝てない。つまり、正真正銘普通のクレアたん絶賛大ピンチ。
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