ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
圏内事件 2
翌日。頭上を覆う天蓋は、昨日とは打って変わって灰色の暗い雲に覆われ、雲の色に染まったみたいに灰色に濁った雨粒を地上に落としていた。その下を歩くマサキの表情も、感情を感じさせない冷淡さはいつもと同じながら、まるで雨の灰色に上塗りされたかのように、いつもより二段階ほど暗い曇り空だ。
「あ、いたいた。マサキ君、もう二人とも待ってるよ」
傍らから聞こえた声に反応して一組の男女の視線がこちらを向き、マサキは眉間に刻んだシワを更に深くする。そんなことは気にも留めないといった様子で、マサキとは対照的に、軽い足取りで彼のすぐ隣をニコニコと笑いながら歩いているエミ。彼女こそが、マサキの仏頂面の元凶なのだが。
今朝のこと。キリトたちとの待ち合わせのきっかり四十五分前に目を覚ましたマサキが、朝のコーヒーを沸かしながら朝食の支度――と言っても、出来合いの安いパンにジャムを塗る程度のものだが――を始めようとしたところで事件は起きた。不意に玄関がノックされ、マサキがいや~な予感を脳裏に感じつつもドアを恐る恐る開けると――予想通り、満面の笑顔を浮かべたエミが立っていたのである。……それも、二人分の朝食の材料と言う名のオマケ付きで。
結局、その後は彼女の勢いに流される形で朝食をご馳走になったマサキだったが、事あるごとに押しかけてくる彼女に対しては心底呆れ果てていた。だからこそ、
「よう。仲良いんだな」
「勘弁してくれ……」
待ち合わせ場所に着いた途端、右手と共に口の端を軽く持ち上げながらのキリトの言葉に、マサキにしては珍しく感情の篭った声で答えた。
「第一、 それはそっちもだろう。端から見ればただのデートだ」
もっとも、少しばかり男側の気合が足りないようだが……、と付け加えながら、マサキはキリトの隣で凛々しく立っているアスナを見やった。と言うのも、今日のアスナの服装は、彼女のトレードマークとでも言うべき紅白の騎士服ではなく、グレーと黒を基調にピンクがあしらわれた上下に、一見しただけで上質と分かる、ピンクのエナメル生地のベレー帽。靴もベレー帽と同じ色と生地で、寝る間も惜しんで攻略に勤しむ攻略組きってのターボジェットエンジン、との、恐らくほぼ全てのSAOプレイヤーが持っているであろうアスナ像からは、少々逸脱したいでたちだ。
対してデートのお相手となるキリトの方は、いつもと変わらぬ安物のシャツに色の褪せた黒いパンツ、同色のコート。……改めて見ると、デートと言うよりショッピングを楽しむお嬢様と付き従う小間使い、とでも表現した方が的確だと思えてくる。
「わ、凄くおしゃれ……」
アスナを除けば一番女性物のファッションに詳しいであろうエミが驚きと羨望の混じった声を漏らし、キリトも加えた三人の視線がアスナに集まる。するとみるみるうちにアスナの顔が真っ赤に染まり、彼女はぷいと横を向くと、キリトの手を――恐らく全力で――引っつかみ、
「ち、違うわよ! この人とデートとか、ありえないでしょ!? ほ、ほら、ヨルコさんとの約束に遅れるわよ! あなたも、ぼけっとしてないでさっさと歩く!!」
「な、ちょっ、いで、アスナ、いでででで……!」
抵抗するキリトを引き摺って歩き出す。
ぽつんと取り残される二人。
「ウソ……あのアスナさんが……!?」
小さいながらも驚愕の色が強く浮き出たエミの声が、二人の間でこだました。
ヨルコと約束した時間より十分ほど早く待ち合わせ場所である宿屋へ着いたマサキは、板張りの壁にもたれながらキリトから昨晩から今朝の出来事について話を聞いていた。曰く、
DDA幹部の《シュミット》に、半ば強引に証拠品の槍を押収された。
《貫通属性ダメージ》を受けている状態で圏外から圏内へ入ったところ、ダメージは止まった。
「槍を持っていった連中の中で、今回の一件を知っているらしいのはシュミットただ一人だったんだな?」
後者のことを話したとき、若干キリトの目が泳いだような気がしたが、マサキはそれを口にすることなくキリトに問うた。
「ああ。シュミット以外の連中は、かなり戸惑った様子だったから……多分、とりあえず頭数だけ揃えて来たんだと思う」
「となると、今回の件と関わりがある可能性があるのはDDAではなく、あくまでシュミット個人ということか。その辺りも、これから聞いておいたほうがいいかも知れないな」
視界の隅に浮かぶデジタル時計でそろそろ待ち合わせ時刻になることを確認したマサキは、視線を受付横の階段に向ける。その傍らでは、エミとアスナが談笑に耽っていた。アインクラッド屈指の美少女同士、どうやら話も合うようで、当初は付いていた敬称も今は何処かへ吹き飛んでしまっている。
視界の端に映るデジタル時計が十時ジャストを告げたのと殆ど同時に、ヨルコは階段の上から姿を現した。睡眠不足なのか、それとも元からそうなのか、両目を眠たそうに忙しく瞬かせている。彼女は階段を下りきると、四人に向かって小さく一礼した。
「悪いな、友達が亡くなったばっかりなのに……」
キリトが申し訳なさそうに言うと、ヨルコは力なく首を振った。
「いえ……いいんです。私も、早く犯人を見つけて欲しいですし……。あの、そちらの方は?」
「ああ、紹介するよ。今日から手伝ってもらうことになった、マサキとエミだ」
キリトが身体をずらしてマサキたちを促す。それに合わせて二人は一歩前に進んで軽く名乗った。
「マサキだ」
「エミです。今日は辛いと思いますけど、よろしくお願いします」
「そうだったんですか。……ヨルコと言います。今日はわざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
もう一度深々と頭を下げるヨルコ。彼女は弱々しく首をもたげ――二人の後方に向いた両目を丸くさせて驚いた。
「うわぁ、すごいですね。その服ぜんぶ、アシュレイさんのお店のワンメイク品でしょう。全身揃ってるとこ、初めて見ましたー」
と、それまでの気落ちした様子は何処へやら、丸くした両目をキラキラと輝かせて勢いよく喋り出す。その眼差しを追って振り返ると、アスナが微妙に口元を引きつらせていた。心なしか、その目は「もう止めて」と言外に言っているようにも思える。
「それ、誰?」
「知らないんですかぁ!?」
が、そんな彼女の意思(?)とは裏腹に、二人の会話は更にヒートアップ。ヨルコは質問したキリトに呆れ半分の視線を向けながら、興奮を抑えきれない様子で続ける。
「アシュレイさんは、アインクラッドで一番早く裁縫スキル一〇〇〇を達成したカリスマお針子ですよ! 最高級のレア生地持参じゃないと、なかなか作ってくれないんですよー」
「「へーっ!」」
キリトの声に、エミの声が被さる。ヨルコと同じように彼女の瞳が輝いているのは、やはり女子という生き物の本能ゆえなのだろうか。
感心と憧れ、二つの色を帯びた三つの視線を浴びたアスナは、頬を急に紅潮させながら一歩後ずさり、
「ち……違うからね!」
とそっぽを向いて歩いていってしまう。その後姿を眺め続けている三人を横目にマサキが続くと、ようやく我に帰った三人が駆け足ぎみについて来た。エミが一足早くマサキに並び、その後ろをキリトとヨルコが歩く。するとそのうち、ヨルコが小さく、感心したように呟いた。
「でも、本当にびっくりしちゃいました。攻略組の方って、皆さんすごくおしゃれなんですねー」
「いやあ、今日のアスナが特別なだけだと思うけど……って、皆さん?」
「はい。マサキさんが着てる、あのワイシャツとスラックス……さっきチラッとロゴが見えたんですけど、あれってシェイミーさんのところの服ですよね? アインクラッド中を渡り歩いているから会うことすら難しくて、もし会えても服を作ってくれることは滅多にないっていう、伝説のNPCお針子さんの。……噂だと、彼女の作った服は防具じゃないのに特殊能力が付いているって聞いたことあります」
「え……」
その瞬間、マサキとヨルコ以外の足が止まった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で佇みながらも、その瞳は高速で回っている。そして……三人は見つけてしまった。黒いスラックスの前後のポケットに目立たないよう筆記体で刺繍された、ローマ字をかたどった小さなロゴを。
「…………」
面倒なことになった……と、顔をしかめるマサキ。
「「「えぇぇぇーーーっ!?」」」
直後、朝っぱらの往来に、三人の絶叫が響き渡った。
やけに得心した様子のヨルコ、顔を赤くしてツカツカと進むアスナ、何度も左右に首を捻るキリト、横目にチラチラとマサキを伺うエミ、そして普段通りの無言、無表情で歩くマサキ――と、まさに百人百様の五人組は、暫く歩いた後に一軒のレストランに入った。時間が時間だけに一人の客もいない店内の、一番奥まったテーブルに着く。入り口からは十五、六メートルは離れていて、よほどの大声でなければ店の外から聞かれる心配はない。何処か宿の個室を締め切ると言う手もあるが、それだと《聞き耳》スキルによる盗聴を防ぐのが困難になるため、万全を期すための処置だった。
すぐさま飛んできたNPCウェイターに飲み物を注文し、ものの数分で揃ったところでマサキが切り出す。
「まず、《グリムロック》に《シュミット》。この二つの名前に聞き覚えは?」
単刀直入に告げると、ヨルコの小さな身体が微かに震えた。じっくりと間を空けてその質問を嚥下し、目を伏せ、大きく息を吐き出してから、彼女はスローモーションのようにゆっくりと頷いた。
「……はい、知ってます。二人とも、昔、私とカインズが所属してたギルドのメンバーです」
その答えに、マサキの目が細められる。同時に彼の頭脳が高速回転を始め、ヨルコの放つ一語一句をデータとして海馬に詰め込んでいく。
ヨルコにカインズ、シュミット、そしてグリムロック――今回の事件との関係が疑われる四人が繋がったということは、推測通り、かつて彼女たちのギルドで今回の事件の発端となる何かしらが存在する可能性が高まったと言うことだ。
そのことを質したのはキリトだった。
自分たちは今回の事件の目的を、《復讐》あるいは《制裁》だと考えている。かつてあなたたちのギルドで、何らかの出来事があったのではないか。そして、その出来事のせいで、カインズは犯人の恨みを買ったのではないか……と。
今度の質問には、中々答えが返ってこなかった。重苦しい沈黙を長い間守り続け、自分の顔が水面に映るティーカップを見つめ。更にそのカップを震える手で持ち上げて、数度小さく喉を鳴らしてから、ようやく彼女は頷き、そして話し出した。彼女たちが所属したギルドで起きた、最初は小さな、そして最後には大きく膨れ上がってしまった、悲運な一つの《出来事》のことを。
――ヨルコの話によると、彼女たちが所属していたギルド――ギルド名を《黄金林檎》と言う――は、その日の生活費を稼ぐためだけの、中層プレイヤーの中でもかなり下のレベル帯に位置していたギルドだったという。
そんなギルドに事件が起きたのは、今から半年前のこと。
とあるダンジョンに潜っていた黄金林檎のメンバーたちは、偶然にも一匹のレアモンスターと遭遇し、それを屠った。そしてドロップしたのが、騒動の原因となる一つの指輪。
その指輪は特に装飾が施されているわけでもなく、むしろ地味な見た目のものだったのだが、なんとその効果は「装備したプレイヤーの敏捷値を二十上昇させる」という、現在の最前線でもドロップが確認されていないほど強力なマジックアイテムだった。
その後、指輪の処遇を巡り、「自分たちで装備して使うべき」とのグループ――カインズ、シュミット、そしてヨルコがこちら側だったらしい――と「売却して得た利益を公平に分配すべき」とのグループにギルドが割れ、口論の末に多数決を取り、売却が決定した。中層を商いの場とする商人では到底売り捌けないレアアイテムであるため、ギルドリーダーが前線の街へ赴いて競売屋に委託することとなる。リーダーは下調べに時間がかかるだろうとの理由で前線に一泊する予定で出かけ――そしてそのまま、二度と帰ってくることはなかった。
死亡時刻はリーダーが街へ向かった日の夜中、死亡は《貫通属性ダメージ》……《睡眠PK》であると推測された。
普段中層にいるプレイヤーがドロップしたレアアイテムを売りに前線へ向かったところ、PKに遭う……全てを偶然の一言で片付けるには、あまりにも出来すぎている。しかも、その日レアアイテムを持ったリーダーが前線に出ているということを知っているのは《黄金林檎》のメンバーだけであり、と言うことは当然、ギルド内の誰かが犯行に及んだ可能性が高い。――そう考えたメンバーたちは、互いに疑心暗鬼に陥って、やがてギルド《黄金林檎》はメンバーの解散により消滅した。
「…………」
語り部を失った空間が、そこだけ世界から隔離されたみたいに静寂に呑み込まれた。
テーブルの上に頬杖をついたマサキがそのままの姿勢で視線を左右に振ると、四人は皆沈痛そうな面持ちで俯いて静止していた。動いているのは、マサキの視線だけ。
ボス戦やシリカの一件等ごく僅かの例外を除くと未だ三人以上で戦闘した経験がないマサキは、当然ながらそのようなギルド内の問題とは無縁だった。しかし、血盟騎士団と言うアインクラッドきっての大ギルド幹部であるアスナは、そして多くの中層ギルドに助っ人として参加してきたエミは、そんな人間関係の嫌な部分を何度も目の当たりにしてきたのだろう。キリトも同じような顔をしていると言うことは、このようないざこざはネットゲームではありふれたことなのかも知れない。
あるいは――。
考えながら身体を後ろに倒し、頬杖から背もたれに体重を移動させると、静まり返ったテーブルに椅子の軋む音がよく響いた。
――俺がおかしいのか、か。
彼らがああも胸を痛められるのは、自分自身に似たような経験があるからだけでも、彼らが単純に“良い奴”だからだけでもないだろう。同時に、マサキがこれだけ冷淡でいられるのも、ただマサキが他者との関わりを避けているからだけではない。
“この世界を、現実として認識できているか”。それが、マサキとキリトたちの一番の差だ。この世界が現実だと思えているから、出来事が身近に感じられる。この世界が現実だと思えていないから、他者の悲しみに冷淡でいられる。意志を持たずとも、惰性で生きられる。何人もの命を一方的に搾取しても、のうのうと日々を過ごしていける。
例えるなら――そう、まさにゲーム。自分と言うキャラクターを操作する、一人称視点のゲーム。一時は違ったが、戻ってしまった。彼が消えた、その瞬間に。
その後また幾つかの質問をしたところで、今日は終わりと言うことにしてヨルコを元の宿まで送り届けた。アスナはもっと安全な血盟騎士団本部に部屋を用意すると提案したが、彼女は頑なにそれを拒否した。恐らくは、その過程で半年前の事件が公になるのを避けたかったのだろう。
転移門広場まで戻った時には、既に午前十一時近かった。これからどうするか、マサキが幾つか案を思い浮かべていると、不意に前を歩くキリトと目が合った。その瞬間、キリトは辺りを覆い始めた霧で身を隠すように、急に忍び足になってアスナの隣を離脱、マサキの隣にポジションを取った。怪訝そうに顔を歪めるマサキに、キリトが耳元で言う。
「……なあ、アレ、やっぱり褒めた方がいいのかな?」
「アレ? ……あぁ」
キリトが横目でチラチラと視線を送っているのは、斜め前を相変わらずツカツカと小気味いいテンポで歩いていくアスナの背中。というか、服だった。要するに、女性がいつもと違う服装をしてきたことに対して困惑している、と言うことか。前言撤回。やはり小間使いにもなれそうにない。……まあ、マサキとてそう言った類のノウハウなど欠片も持ってはいないのだが。
「知らん。大体、俺は女性とデートなんてしたこともない」
「え、マジで?」
「悪いか?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
パチパチと大きく数度瞬きしながらエミとマサキを見比べたり、かと思ったら今度はアスナとマサキを見比べたりと、あからさまにうろたえるキリト。そんなことを暫し繰り返した後に、やはり一人では心許ないのか、懇願の眼差しで両手を合わせる。
「でもさ、ホラ、旅は道連れってよく言うだろ? だからさ、ここは一つ二人で……」
「断る。やりたいなら一人でやれ」
「いや、別にやりたいわけじゃ……」
「二人とも、何話してるの?」
突き放されたキリトが尚も食い下がろうとしたところ、キリトの逆を歩いていたエミがひょっこりと顔を覗かせた。その声がアスナにも届いてしまったらしく、彼女も足を止めて振り向く。
うっ……と、半歩後ずさりながらキリトが呻く。両の瞳を必死に振って逃げ場を探すが、辺りに頼れそうなものなどなく。
「うほん、いや、えーーと。その……よ、よく似合ってますよ、それ」
……全く見栄えはしないが、まあ形にはなったか。果たしてアスナの反応は如何に――と思う間もなく、キリトの胸に人差し指が超高速で突きつけられ。
「うー! そーゆーのはね、最初に見たときに言いなさい!!」
顔を耳まで真っ赤に染めたアスナは、顔に「あるぇ?」と太字で書かれたキリトに言い捨て、先ほどまでより三割増の歩行速度で歩き去る。
「うわぁ……」
この場で唯一女性心理と言うものを理解しているエミの「あり得ない」とでも言わんばかりの視線が、トドメとばかりにキリトを襲った。
後書き
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