Lirica(リリカ)
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歌劇――あるいは破滅への神話
―6―
6.
衣裳を拾い上げたウラルタは、すぐに恐くなって手放した。床に広がる衣裳を跨いで衣装戸棚を開け放った。中に誰もいなかった。ウラルタは神妙さと諦めの入り交じった心境で戸棚を閉ざした。覚えている――ずっと昔、どこかの生で――誰かに衣装戸棚に閉じこめられた時の事を。出てはいけないとわかっていた。だけど出てしまったのだろう、多分。
結局、腐術の魔女の衣裳をもう一度手に取り、かき抱いた。拒否する方法は思いつかなかった。そして、拒否すれば、思いも寄らぬ恐ろしい結末になるだろうと予感した。
床に広がる老いた巫女の衣服に目を移した。
「どうして」
衣服は答えない。
「あなたは死んだの?」
ウラルタは、少し待ってから、諦めて衣裳を身にまとった。ゆったりした貫頭衣で、着ている服の上からかぶって帯を締めるだけでよかった。
すると潮のように、ざわめきが耳に押し寄せた。ウラルタは部屋を出た。回廊に歩哨が立ち、ウラルタを目にすると鎧を鳴らして敬礼した。中庭には篝火が燃え盛っていた。回廊を渡った先で、篝火の煤で顔を汚した神官達がせわしなく行き交っていた。
エントランスを抜け、前庭に出た。
およそ大聖堂図書館に似つかわしくない、汚い身なりの労働者達が列をなしていた。
列の端には荷車が集っていた。かしゃかしゃ音を立てながら、白い物が無造作に下ろされていった。ウラルタは歩み寄ってそれが何かを確かめた。人骨だった。
列に沿って進むと、男達が斧で人骨を砕いていた。血走った目をして、皆無言だ。半裸で、赤くやけた逞しい体にびっしりと汗をかいている。進むにつれ、骨は小さくなっていった。
やがて女達が現れた。女達は土の上に座りこみ、砕かれた人骨を乳鉢で更に掏り潰していた。ウラルタは、前庭を埋めていた草原がすっかり消え去っていることに、ようやく気がついた。
そこかしこで清めの火が焚かれていた。神官達が火に向かい、砂と化した骨を捧げ持ち、祈りの聖句を唱えている。ウラルタには、少なくともそれが火の精霊王イグニスへの聖句ではないという事しかわからなかった。
図書館のポーチに戻って、柱廊をゆっくり歩きながら様子を窺い続けた。
一人の少年が庭を横切り、ウラルタの一番近くにいる高位の神官のもとへとやって来た。
「私はタイタスの都で神官長の酌人を伝えておりますタイスと申します。至急の言付けがあり都より馳せ参じました」
「申せ」
「現在、水相にて歌劇の第一幕が上演されておりますが、第二幕の台本が本日夕刻に紛失されました」
神官が身構えた。
「何と……」
神官が手振りで合図すると、たちまち下位の神官達が彼のもとに集まってきた。
「至急、星占を呼べ。いなければあの魔女でも構わん。腐術の――。人ならざる能力を有する者が必要だ」
ウラルタは見つからないよう、咄嗟に柱廊を走って逃げた。火の影の届かぬ場所まで来ると、手すりを乗り越え建物から離れた。何といっても自分の台詞など何一つ知らぬのだから、神官達の前に引き出されるのは危険が大きかった。
建物の側面に回りこむと、崖下を覆う森の中に灯火が二つ見えた。興味を惹かれ、行ってみようと思った。あそこに行ってまだ、自分の劇中の役割も、言うべき事もわからなければ諦めようと。崖に向かって張り出したテラスから、森に降りる階段が延びていた。テラスによじ登り、こそこそと横切って階段に足を乗せた。そうして闇を降りて行った。
森の中には小径があり、疎らに設置された燭台と蝋燭の灯のお陰で道を踏み外さずにすんだ。
小径の先は石造りの、半円系の野外劇場だった。その舞台の真ん中で、星占がいずれかの神に舞を捧げていた。すぐにウラルタに気がついた。
「腐術の魔女」
舞をやめた星占は、舞台の上から問いかけた。
「何故斯様な場所に来られたのです。あなたにはあなたのお役目がある筈」
やはり、言うべき台詞はわからなかった。ウラルタは一か八か口を開いた。
「星占符の巫女よ……水相におけるネメスにて、第二幕の脚本が失われました。今、その件で、神官達があなたを探しています」
巫女は暫く佇んだままだった。その姿がゆらゆら揺れ、息が荒くなっていき、両手で口を覆った。そのままくずおれるように舞台に座りこんだ。
「星占よ」ウラルタは恐る恐る舞台の端の石階段に足をかけた。「お気を確かに」
「この為だったと言うのですか?」
星占の声は震えていた。
「ああ、有力なる巫女よ。あなたが脚本を酌人に託してすぐ、失われたわけは」
「何の為、だと言うのです」
「魔女よ、あなたは歌劇の第一幕の内容をご存じですか」
「いいえ」
「私は存じております。最高神レレナの威光のもとに為される陰明の調和の物語。光と闇が、影と実体が、死者の国と生者の国が、月が夜に溶けて消えゆくように、和合する様を描いたもの。死者の国、虚構の国が、生者が現実として認識できる全ての相と融合するまでの――それが第一幕」
「即ち、全ての相が消え失せるまでの?」
「その通りです。実体が影となりゆくまでの。星が夜に溶けて、神が人の世に溶けて消え去るまでの。その虚構としての結末が、この現実の結末となるまで、第一幕は終わることが許されないのです」
「では……今……」
ウラルタは星占に歩を詰めた。
「この世界はどこなのですか? 歌劇なのですか? 実在する現実世界と同じ場所なのですか?」
「歌劇の終わりと現実の終わりに区別はございません」
星占は立ち上がった。尖った白い顎を、月のない、また全ての星も闇に溶け、今にも淡く消えていくような、そんな夜空を見た。
「第二幕の内容は存じません。ですが第一幕によってこの世界が終わるのなら、第二幕によって次なる世界が始まるのでなければ、第二幕という存在は成立し得ないでしょう」
「次なる世界」
ウラルタは微かに首を横に振った。
「そこで何が起きると?」
「すべての和合によって世界が終わり、第一幕が終わるなら、再びすべてが分かたれる事から第二幕が始まると思われます。光と闇が分かたれれば、損なわれた月が再び夜を割って、正しい高さに落ちてくるでしょう」
ウラルタも星占に倣って、共に空を見上げた。
「ですが、定かなことではございません。その内容を秘匿するため……第二幕を全き形で次なる世界に持ち去るため……あの巫女は亡くなられたと私は考えます。この世界で脚本が見つかることはないでしょう」
星が、消えていく。鋭さが消えて、闇に滲んでいく。
「終わりはすぐ」
星占が手を伸ばしてきた。蝋燭が消えて、何も見えなくなった。闇の中、星占の冷たい手が、ウラルタの右手に触れた。
ウラルタは使命を思い出した。
すべての苦しみを終わらせる為に来た。
もしも希望がないならば、世界の自殺に手を貸す為に来た。
そうする事を望まれて、影達に送り出された。
「魔女よ、共に行きましょう」
闇と光が音もなく、頭上で混ざりあっていく。
「いつか全ての光と闇が和合する場所で、月が落ちてくるのを見よう――」
この時、わかった。
唯一正しい台詞が。
本当に言うべき言葉が。
ウラルタはもう迷わず、もう恐れなかった。
静かに口を開き、その言葉を唇に乗せた。
『さあ、一緒に、第二幕を始めましょう――』
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