軍楽
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4部分:第四章
第四章
服部はその中を何か大事なものを封に入れて持っていた。両手で抱き締めるようにして持っている。
「焼けている家に飛び込むなんて」
「全くだ」
軍人は厳しい顔で彼の言葉に頷く。その軍服は陸軍のもので階級章は中尉のものである。若々しい精悍な顔立ちをしている。
「森宮さんのことは聞いていた」
「そうですか」
「そのお人柄も音楽のこともな」
「左様ですか」
「尊敬していた」
中尉は生真面目な声で述べた。
「今もな」
「先生をそれを聞かれれば喜ばれるでしょう」
「そしてその曲だったな」
ここで中尉は彼が胸に大事そうに抱いているその封に目をやった。
「先生が命を賭けて燃える御自宅から持ち出されたのは」
「はい、これです」
服部は厳かな調子で答えた。
「この曲です。この曲こそが」
「靖国の英霊の為に捧げるな」
「その通りです。私は止めましたが」
「私でもそうしていた」
中尉は今は正面を向いて述べた。
「その場所にいたならな。君と同じだ」
「やはり。止めていましたか」
「どれだけ。命を賭けていても」
彼は言うのだった。
「そこで止めるのが道理ではないのか?それこそが」
「そうです。ですが先生は」
「あまりにも命知らずだ。しかし」
「しかし?」
「だからこそ。尊敬できる」
こうも言うのであった。
「だからこそな」
「左様ですか」
「ああ。御見事だ」
やはり顔は正面を向いている。しかし声は服部に向けられていた。それでいて声は同時に前にも向けられていた。今から向かう場所に対して。
「そこまでされるとはな」
「そうですね。口で命を賭けていると言っても」
「実際にそれができるかどうかというと」
ここで中尉の言葉は鋭く険しいものになった。
「難しい。むしろ出来る者は稀だ」
「稀ですか」
「果たせる者はさらに稀だ」
そしてこうも言うのだった。
「だが先生はそれを果たされた」
「はい」
「そしてこの曲は今ここにある」
彼はまた言った。
「ここにな。ある」
「そうですね。だからこそ今こうして」
「曲を靖国の英霊達に捧げられる」
「帝都はかなり焼け落ちましたが」
「だが。人はいる」
国破れても、というわけだった。
「人はな」
「そして英霊達も」
「ずっと。我々を見守っていてくれている」
中尉はその英霊達に顔を向けているのだった。靖国までもう少しだった。
「ずっとな。だからだ」
「はい。参りましょう」
「英霊達に。この曲を捧げにな」
こう言い合い二人は靖国に向かった。やがて巨大な社が見えてきた。だがその社の前にいる一人の着流しの男を見て。服部は思わず声をあげたのだった。
「何故貴方が・・・・・・」
「今日辺りだと思っていた」
何とそこにいたのは森宮だった。あの大空襲の時よりやつれしかも頭には包帯を巻き左手を吊っていたがそれでもそこに立っていたのだった。靖国の石畳の上に。
「ここに来るのはな」
「待っておられたのですか」
「俺の作った曲だ」
彼は静かに微笑んで彼に述べた。
「俺が捧げるものだ。違うか」
「ですが貴方は」
「この程度の傷」
己の傷をものともしない言葉だった。
「どうしたものか」
「入院されていた筈なのに」
「あんな場所にいてられるものか」
一言で言い捨てたのだった。病院に関しては。
「無理に退院させてもらったわ」
「大丈夫ですか?」
服部は彼のその頭と左手を見て言う。確かに曲は届けたがその時負傷したのだ。そしてその傷は決して浅くはない。何しろ入院する程なのだ。
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