Lirica(リリカ)
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歌劇――あるいは破滅への神話
―4―
4.
うるさい、と思った。ウラルタは静寂に慣れていた。行き交う人々の足音さえ耐えがたく、耳を塞ぎたくなるほど。覚醒に向かいながら、足音が聞こえるという事は、人がいるという事だと気がついた。
たくさんの人たち。
目を開けた。
眼下に広がる驚くべき雑踏に背筋を伸ばした。
かつて水相で暮らしていた頃にも、これほど多くの人間は見た事がなかった。見下ろす通りは露天を覆う色とりどりの天幕で埋め尽くされていた。菓子を焼く匂いが立ち上ってくる。鶏をのせた荷車が、その鳴き声を曳きながら、人混みをかき分けて通りを行く。荷車曳きを避けようと、果物の籠を担いだ女が横に逸れた。女は天幕の支柱にぶつかった。果物が落ち、石畳が赤く林檎に染まった。
ウラルタは立ち上がった。すると、膝から何かが転げ落ちた。青い石のかけらだった。渦巻く星とたなびく雲を閉じこめた、夜空の石であった。ちょうど掌にすっぽり収まる大きさで、それがあまりに美しいので、ウラルタは手放したくなくなった。
いきなり後ろから抱きつかれた。
顔に、女の長い髪がばさりとかかった。女は石を握ったウラルタの右手を骨ばった手で掴んだ。
「何よ」
ウラルタは女を振り払うべく身をよじった。もつれ合い、足が乱れる。女は石を欲しているに違いなかった。
「あげないよ! これは私の石なんだから!」
右左とよろめく内、近くの石壁に、ウラルタは背中からぶつかった。その衝撃で女がほどかれ、地面に崩れ落ちた。真っ黒い髪が街路に広がる。
女は痩せており、頬がこけていた。着物は薄汚く、髪は脂ぎってふけが浮き、落ち窪んだ眼窩では狂乱が底光りしていた。若いが狂っているとウラルタは把握した。女は罅割れた唇から渇望の雄叫びをあげた。ばね仕掛けのように飛び上がり、また抱きつこうとしてくるので、ウラルタは背中を向けて走り出した。
坂を駆け降りる間じゅう、女は足首の鍵付きの鎖を鳴らしながら追ってきた。ウラルタは逃げながら、視野いっぱいに広がる街から歌劇場を見つけだそうとした。どこにも見いだせなかった。市場まで下りた。後ろの女が悲鳴をあげ、鎖の音がやんだ。ウラルタは葉菜の屑に足を取られて躓いた。立ち上がりながら振り向くと、女は街の男に羽交い締めにされていた。それでもまだ目はまっすぐにウラルタを見ていた。その時初めて、狂女の汚れた服が侍祭の衣服である事に気がついた。
変わらず、狂女以外の何者にもウラルタは見えていないようだった。人が左右に分かれ、ウラルタを残し道が開く。その道を女の高等神官が来て、ウラルタを追い抜いた。高等神官の後ろから星占の娘が歩いてきた。
高等神官は狂女の前に冷厳と立ちはだかり、威厳ある声で尋ねた。
「戒めを解いた者は誰です」
誰も答えなかった。高等神官は手套で覆われた手を狂女の顎に伸ばして、顔を見るようにした。
「如何なる神が、お前が夜の軛から逃れ、昼ひなかの世界を歩む許しを与えたというのだ?」
「大いなるレレナは夜の空から星々を拭い去りたもうた」
思いのほかよく通る声で答えたので、一瞬狂女が正気であるような錯覚を抱いた。
「月をさやかに見出す為と存じます。月は地に満ちる憎しみを憂い、深き夜の幕にお隠れになった」
「黙りなさい。お前の口は既に尊きものの名を呼ぶためにあるのではありません」
「星々はただ一つの――」
「お黙り」
高等神官は強く遮った。狂女は黙り、代わりに星占が前に出て、おずおずと口を開いた。
「お待ちください。この者は何がしかを示唆しようとしております」
敢えて恐怖を与えるかのように、神官は星占を振り向く。そして、低い声に、それとわかる脅迫をこめた。
「狂いし者に示唆などない。かつてレレナの神託を偽り、我らを死者の国へと落とした時から、左様な物を受け取る純粋さを、彼の者の脳は失したのだ」
「星々は」その隙に狂女が叫んだ。「溶け去る事を拒み、ただ一つの夜の出口を明らしめるべく石の中へと落ちたのです!」
ウラルタは掌を開いた。石の中の星は皆、狂女の言を裏付けるように、きらきらと瞬きし、狂女は喚いた。喚いてウラルタから石を奪うべく、拘束を解こうともがいた。ウラルタは慌てて手の中に石を隠した。
「おぞましい」神官が吐き捨てた。「何が見えるというのだ?」
「我らには見えざるもの。希望が見えるのでしょう」
「希望」
民衆がぞよめく。
「希望が見え、それを手にするべく、追いかけてきたのでしょう」
狂女が男をふりほどいた。男がわざと手を放したようにも見えた。四方から迫りくる窒息から逃れうる、唯一の打開策を見つけたというような表情で、狂女は両腕を広げてウラルタへと走って来た。
ウラルタは逃げた。
「見えざるものは希望――」
星占の台詞が続いたが、聞いていられなかった。路地に飛びこみ、でたらめに角を曲がり、細い路を縫った。大きな通りに出た。民家に手をつき、振り返った。狂女の足の鎖の音はもう聞こえなかった。
太陽が、路地の曲がり角の壁に何者かの影を焼き付ける。
狂女が片手に足首の鎖をぶら下げながら、ウラルタめがけて走ってきた。その後には十人ばかりの民衆が、ぞろぞろと続いていた。
ウラルタは短い、上擦った恐怖の悲鳴を上げた。眼前の通りを横切り、別の路地へ。長い階段を上がると、開け放たれた、漆喰の、アーチ型の門が見えた。ウラルタは門をくぐり、木戸を閉ざして閂をかけた。
やがて狂女がやって来て、木戸を激しく叩いた。じきに民衆も木戸の乱打に加わった。ウラルタは玉砂利の裏庭を抜けて、白い漆喰の建物に飛びこんだ。すると白亜の廊下が足許に横たわった。道なりに進むと左右に延びる廊下と合流した。壁沿いに右に進んだ。行き当たりに片開きの扉があった。開けるとまた廊下だった。建物の中は外観よりもずっと広いと理解した。
次の扉を開けると、白い列柱が延々続く広い空間に出た。かなり高い場所に、窓が並んでいる。青空と雲が見えた。見覚えがあった。
ネメスの大聖堂図書館のエントランスだった。
何故この場所に着いたか理解できず、ウラルタは混乱した。重い扉を押して、外に出てみると、大地はイグニスから出てたどり着いた時のような白い砂地ではなく、影たちの世界のように雪に覆われてもいなかった。丈低き緑の草が風に歌っていた。灰色の髪の老いた巫女が、山々を背に、思い詰めた表情で佇んでいる。巫女は呟きながら草の上を行ったり来たりし始めた。
「ならば月が……」
傍に寄り、聞き耳を立てる。巫女は手の中の羊皮紙を広げてペンで書き付けた。
〈狂女『ならば月が欲しい。月をくだされ』〉
「ならぬ」
巫女はなお呟く。
「月は光、光は闇……」
再び歩き始め、その肩が、ウラルタとぶつかった。巫女は振り返った。目があった。硬直するウラルタの前で、巫女の顔は恐怖に染まり、顔から血の気が引いて、唇がわななき出す。
その姿が不意に消えた。
音を立てて大聖堂図書館の玄関扉が開け放たれた。
狂女が両腕を広げて満面の笑顔で走って来た。
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