Lirica(リリカ)
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意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
―4―
4.
「前の人の足跡の上を歩いてください! 立ち止まらないで! 一人ずつ前の人に続いてください!」
兵士たちが声を張り上げている。その声に背中を押されて、ラプサーラも平原に足を踏み入れた。偵察隊の兵士達の無残な遺体を見るのが怖くて、足許以外のどこにも目をやる気にはなれなかった。
平原は静かだった。後ろに二万の人が控えているとは思えないほど、不気味な静けさだった。足許に敷かれたベリルの魔術の光の粒は、既に半ば土と草に紛れてしまっている。後続の人々の身に降りかかる惨劇は容易に予想できた。
踏み跡を残しながら、木の一本も生えていない大地を、夏の太陽に焼かれながらうなだれて歩いた。汗は肌に浮くなり蒸発し、皮膚が赤くやけ始めた。陽射しが痛かった。きれいな水が欲しい。涼しい風が欲しい。
最初の爆発音が聞こえたのは、道を覆う草の丈が膝まで達し、前を歩く兵士の踏み跡を見定めるのが困難になりつつあった時だった。轟音、悲鳴、そして悲鳴。泣き叫ぶ声が、遠く背後から聞こえた。太陽に炙られながらも、凍りつくほどの寒気を感じた。
「振り返っちゃ駄目!」
後ろでダンビュラが叫んだ。
私は振り返ろうとしていたのだろうか、と、脇の下に汗をかきながらラプサーラは考えた。わからない。あるいはダンビュラは、自分が振り返るのを防ぐために、叫んだのかも知れない。
気が付けば、その間にも前を歩く兵士と自分との距離が開きつつある。
「待って」
渇き痛む喉で声を振り絞る。
「行かないで!」
兵士が振り返った。純朴そうな若い兵士だった。背後では泣き叫ぶ声や怒鳴る声がまだ続いている。ラプサーラは草をかき分け、兵士のもとへ急いだ。草で手が切れ、緑色の汁がつく。むせ返るほど薫る緑の海を泳ぎながら、ラプサーラは悪い考えしか浮かばない自分自身に絶望した。
もしこの先が罠の袋小路になっていたら? 立ち往生する事があれば、どう引き返せばいい? もし先頭のベリルとミューモットが罠を踏んで死んだらどう進めばいい? 左右からあの鋭い矢の雨が降り注ぐ事があれば、どうやり過ごせばいい?
何かに蹴躓いた。きゃっ、と声をあげると、前の兵士と後ろのダンビュラが、それぞれ右手と左手を取り支えてくれた。
「気を付けてください。ここ足場が悪いっす」
兵士が言う。
「ありがとう」
ラプサーラは前後の二人にやっとの思いでその言葉を返した。ダンビュラはラプサーラの右手を放さなかった。繋いだ手はお互いじっとり汗ばんで、力んでいた。
転んでいたら、死んでいたかもしれない。恐ろしさで呼吸が震え、目尻に涙が浮かぶ。
もう嫌。
「泣いたら駄目っすよ!」
前の兵士が振り向き、叫んだ。
「泣くのは水分の無駄ですから!」
その声に、また遠くの爆発音が重なる。後ろを振り向いていた兵士は、何を目撃したのか、目を瞠り硬直する。そして何かを振り切るように、また前を向き歩き始めた。
今度は爆発音の他に、水の入った皮袋が弾けるような音を聞いた。人間が弾ける音に違いなかった。恐怖の悲鳴も、混乱の怒号が続く。
息をする事さえ辛かった。なのに泣くのを止められない。
前を歩く兵士が手を差し伸べてきた。ラプサーラは右手をダンビュラと繋いだまま、縋るように左手を伸ばした。
「自分、毎朝占いするんすよ」
手を繋ぐと、兵士は呟くように話しかけてきた。
「占い?」
「そ。右足で靴を飛ばすんすよ。で、裏向きに落ちたら悪い事があって、表向きに落ちたら良い事があるっす」
ラプサーラは、馬鹿げていると思いつつ、しゃくりあげながら会話を続けた。
「今日はどうだったの?」
「もちろん、表向きっすよ! だって、表向きになるまで何回だってやり直しますから! だから」
兵士は悪路に息を切らしながら、曲がりくねった草の踏み跡の上を歩き叫ぶ。
「だから、自分と一緒にいればあなたは大丈夫っすよ!」
直後、背後の爆音が耳を塞いだ。
熱風が背中を叩き、髪を煽る。
今度は間近だった。ラプサーラは前後の二人と手を繋いだまま、その場にしゃがみこんだ。
水の弾ける音がそこかしこで連鎖する。
四方八方に湿り気のある物が降り注ぐ音。目を開ける。降り注ぐ血と内臓……手や足や……さっきまで真後ろにいた人々の、もう生きていない、破片だった。
それら人体の破片が、落下した先でまた魔術の罠を発動させる。
ラプサーラは自分が悲鳴を上げている事に気付いた。その声で全ての物音を打ち消そうとしている事に気付いた。
「聞こえない! 聞こえない!」
両手に力をこめ、目を固く閉ざし叫ぶ。
「聞こえない! 見えない! 何にも聞こえない!」
どれほどそうしていたかわからない。前の兵士に肩を揺さぶられ、号泣しながら目を開けた。まだ生きている。それを確認した。前の兵士も生きている。後ろのダンビュラともまだ手を繋いだままだし――。
ダンビュラは、手しかなかった。
繋いだ手。その手首より先が、すっかり消え去っていた。
何かの悔いや思い残しの様に、彼女の白い手が、自分の右手の中にある。
ラプサーラはまた悲鳴をあげ、手を振り払った。ダンビュラの手首は草の上に落ちた。
「歩いてください! 立って!」
腕を掴まれ、強引に立ち上がらされた。
「お願いです。自分には人を背負って歩く余力はないっす!」
力の入らぬ足で、それでもようやく立ち上がると、その名も知らぬ兵士にしがみつくように歩いた。やがて、後続の人たちが追いついて来た。ラプサーラは、その、知らない後続の人とも手を繋いだ。そうしなければ自分の輪郭さえ保てない気がした。
何かの影が頭上をよぎった。
悪寒を感じ、空をふり仰ぐ。
血の色を持つ魔術の鳥が、長い尾を振り、雲一つない青空の下を旋回している。
獲物を狙う猛禽の気配を、その姿から感じた。
狙いを定める様に、鳥はぴたりとラプサーラを見下ろし止まった。
殺される。
魔術の鳥は息を吸いこむ様に、長い首を仰け反らせる。
どのように殺されるのだろう。
焼かれるのだろうか。
切り刻まれるのだろうか。
体を破裂させられるのだろうか。
次の瞬間、輝く矢が鳥の体を貫いた。鳥も矢も、青空を背景に光の粒となって消える。
魔術師だ。ベリルではない、味方の。
「ドミネさんだ」
兵士の顔に晴れ晴れとした笑みが浮かんだ。
「今の、救出部隊に同行してたドミネさんの魔術ですよ! 間違いないっす! 無事だったんだ!」
兵士たちが縦隊の中で歓喜の声を上げはじめた。水が足りず、声は枯れ、それでも歓喜に叫んだ。
歩かなければならない。震えながらラプサーラは歩く。希望があると信じなければならない。生きている間は。
もう涙は出なかった。歓喜は束の間の事で、丘陵に差しかかる頃、また背後から爆発音や、人体が壊れる音が聞こえてきた。
後続の人々は、その光景に慣れつつあるのかもしれない。悲鳴や泣き叫ぶ声は小さくなっていった。
息を切らして丘を登る内、背後から迫る混乱の気配に気が付いた。ラプサーラは思わず振り向いてしまった。
後続の人々に向け、茂みから矢が射かけられている。
縦隊は、矢の射程範囲外にあった。それでも、人々を混乱に陥れるには十分な効果があった。
ただの脅しよ! ラプサーラは叫びたかった。矢はあなた達に届かない、だから落ち着いて歩いて!
人々は我先に逃げ出し、列を乱す。
錯乱し、自らの喉を掻き切る人がいた。その死体を踏んで走る人々がいた。
ラプサーラは目を背けた。混乱と爆発音が立て続けに響いた。前だけを見よう。二度と振り返らない。味方の魔術師が追いついたのなら、その人が敵の魔術師を殺し、罠を解除してくれると。
信じよう。他に何もできない。
丘の上に、旗を振る兵士たちと、馬に跨るデルレイの姿が見えた。
「出口が見えたぞ!」
先行する兵士が叫んだ。デルレイの隣では、魔術師ベリルが緊張から解き放たれて脱力し、座りこんでいる。一瞬、目が合った気がした。ラプサーラは気を奮い立たせる。出口はそこだ!
丘の上のベリルは、罠の平原の出口近くにラプサーラの姿がある事を見て取った。あともう少しだ。頑張ってくれ。ミューモットが今、幾つかの罠の解除に専念してくれている、だからどうか……。親友の妹に、彼はそう願った。
デルレイの馬に寄り掛かるようにして、ベリルは立ち上がった。ひどい眩暈と頭痛がする。
「隊長、〈リデルの鏃〉の指揮官の名を教えてください」
掠れた声を喉から絞り出すと、デルレイが鋭い目で馬上から見下ろした。
「名前を聞いてどうするんだ?」
「呪詛を送ります。呪い殺してやる!」
自分の宣言で自分を奮い立たせ、頭を左右に振って意識をはっきりさせた。
「そいつは今血銅界の魔術師のそばにいます。だから顔は見える。後は名前が必要です」
「カルムだ。指揮官の名はカルムだ! 殺すな。生け捕りにしろ」
ベリルは短剣を抜き、自分の長い髪を一房切った。髪は魔術師の息吹を受け、風もないのに平原の彼方に飛んで行く。
ベリルは額で、魔術の対流を感じた。仲間の魔術師ドミネが血銅界の魔術師を抑えにかかっているし、もう一人の魔術師リヴァンスは罠を一つでも多く解除しようとしている。
敵の魔術師は老練だ。これだけの数の罠を維持し、ドミネと対抗し、なお指揮官を守ろうと、ベリルの呪詛を返そうとしてきた。
頭の後ろの高い所で、緑の界の魔力の道を、自分に耐えられる最大の大きさまで開く。呪詛返しの力を更に押し返し、自分の放った呪詛が敵指揮官に届くのを、長い白い髪が敵指揮官の顔に、胸に、喉に刺さるのを、ベリルは幻視した。
同時にドミネの玄の界の力が、血銅界の魔術を呑みこみ、押し潰す。一人の力ある魔術師の断末魔が自分の魔力に呼応し、頭の中に響いた。
「罠が消えた!」
術の反動でよろめきながら、ベリルは叫んだ。
「もう罠はありません、隊長! 平原は安全です!」
「伝令! 行け!」
ラプサーラはとうに罠の道を抜けたようだった。血に濡れた平原を見下ろしながら、その光景への怒りを支えに、ベリルは立ち続けた。伝令は駆け、民間人らはてんでばらばらに走り、兵士達はそれをまとめるのに必死だ。
グロズナの弓射隊が草を踏み分け、向かって来る。ベリルは再び緑の界への通路を開いた。体に流れこむ魔力を、左手に握りしめたアクアマリンが増幅する。
重い水の気を、弓射隊に向けて放つ。平原の真ん中で、グロズナの兵士達は見えざる力に押しつぶされ、圧殺されていく。
肉体が一度に受け容れられる魔力の量は、限度を越えつつあった。取りこぼした敵兵をセルセト兵が討ち取る様子を見下ろしながら、ベリルはそれを感じていた。
ふと、背の高い叢が不自然に揺れ動くのが見えた。
鼓動が高まる。
伏兵がいる。
叢の波は徐々に徐々に、セルセト兵が固まっている地点に近付きつつあった。
「畜生、これが最後だぞ」
緑の界の通路を再び開く。魔力の風に吹かれ、ベリルは左手の守護石を高く掲げた。間に合え! 届け! 伏兵たちの前に水の気の壁を作った。鬨の声を上げて、飛び出した伏兵たちがセルセト兵に迫る。
セルセト兵は逃げ出し、グロズナの伏兵は罠にかかった。濃密な水の気に捕らえられ、息ができずに跪く。それでも一部の伏兵が水の気の壁の破れ目から、セルセト兵やペニェフの民間人達に襲い掛かった。
もっと広く! 奴らを包みこめるように!
ベリルは水の壁の拡張に意識を集中した。
魔力が流れこみ、体が悲鳴を上げる。筋肉が千切れ、皮膚が伸び、関節が外れ、骨がばらばらに砕け散るような、酷い痛みだった。
そして陥る、無音無明。
どれほど長くその無我の状態にいたのかわからない。耳もとで激しく呼びかけられ、肩を揺さぶられるのを感じた。体に熱い物が流れて来る。葡萄酒だ。自我が戻ってくる。ベリルは喉の動きと口に押しつけられた革袋の感触を頼りに五感の回復に努めた。
「やべぇ……」
目を開けるが視界は薄暗く、誰に肩を支えられているのかわからない。
「人格が飛ぶところだったぜ」
何度も瞬き、指で土をなぞり、ようやく聴力も回復してきた所に、耳許でデルレイに怒鳴られる。
「馬鹿者!」
その声で、ベリルは完全に目を覚ました。
ラプサーラは夏の丘陵に、のどかな、草薫る、緑の丘陵に、長く座りこんだままでいた。
「あの」
列の前にいた兵士が、寄ってきて声をかける。
「集合しなきゃならないっす。それとあと、水が配られますから――」
ラプサーラは動かなかった。占星符が入った小さな荷袋を抱え、まんじりともしなかった。
「あの――」
「連れて来てあげればよかった」
兵士が近付くと、ラプサーラは小さな声で囁いた。
「ダンビュラさん――左手だけでも――連れて来てあげればよかった――」
ラプサーラは泣かない。泣かない事で自覚する。私は今日、取り返しがつかない何かを、人として大切な何かを、永遠に失ったのだ、と。
※
祈りの言葉が香の煙と共に空に吸い上げられていく。神官長ルロブジャンは広場に並ぶ棺の前で口を閉じた。神官たちが黙祷を捧げ、広場には棺にたかる蠅の羽音が響くのみとなった。
どの程度の物資と兵力がカルプセスに残っているのか、グロズナ軍は把握しかねているらしい。時々街を囲む壁を挟んで小競り合いが起きるほか、市民は危うい平穏の中にいた。
二千の木兵と、指揮官を失った状態で取り残された六十人足らずの兵は、よくカルプセスを守っていた。敵方に魔術師がいない事も幸いだ。それでも、広場の棺の数は日を追うごとに増えていく。
陥落は時間の問題であるように思われた。カルプセスに手を差し伸べる者があるとすれば、新シュトラトの駐留軍のほかない。だがそれは、カルプセスの窮状を訴える特務治安部隊が無事新シュトラトに到着してからだ。首尾よく彼らが新シュトラトに到着したとして、その地の為政者や指揮官が事なかれ主義の人物であれば、兵を動かさぬと考えられる。仮に兵が動いたとしても、それがカルプセスに到着するまで攻めあぐねているほどグロズナ軍は愚かではない。
黙祷を終え、神官達が頭を上げる。
神官長は微笑み、穏やかな口調で言った。
「では、戻りましょう」
祈る事は必要だ。祈りは心を静かにさせる。静まり返った心の神官達を背後に連れて歩いていると、前方からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。目を細めると、難民の少女ペシュミンの姿が見て取れた。ペシュミンはあっちの路傍に蹲り、こっちの路傍に蹲り、何かを探しているようだ。ルロブジャンは歩み寄る。
「落し物かな?」
声をかけると、少女は腕を広げて駆け寄ってきた。ルロブジャンは腰を屈めて抱きとめた。
「どうしたんだい?」
「神官長さま」
「ん?」
「お花がないの」
ペシュミンは泣きそうな声で言った。ルロブジャンは彼女の小さな体を、汗と垢の臭いごと抱き上げながら、ペシュミンが血まみれで帰ってきた夜の事を回想した。あの夜、誰かが神殿の扉を叩き、人々が静まり返った。木兵が扉を開けると、ペシュミンが立っていた。獣の毛と土と血に覆われて。
ナザエが人ごみをかき分けて現れ、ペシュミンを抱きしめた。そして、乾いた音で頬を一度打ち、また抱きしめた。ペシュミンは声を上げ、ナザエは声を出さず泣いた。
あのグロズナの子をどこかに匿ったのだろうとルロブジャンは察した。ナザエはあのグロズナの子供の存在を、セルセト兵に告げようとしていたのだから。だがそんな事をペシュミンが察したとは思えない。何故、ペシュミンはあの子を神殿から連れ出したのだろう。子供ならではの短絡か、あるいは、天性の勘の良さか。
向こうからセルセト兵が歩いてくる。ペシュミンが唾をのんだ。
「お兄ちゃん!」
泣きそうだった子供がもう笑顔だ。ルロブジャンはペシュミンを地面に下ろした。
「おお! また出歩いてたのか、どうしようもないチビめ」
その兵士は度々遺体を運んでくるので、ルロブジャンも彼の名がロロノイである事を知っていた。
「お花探してたの!」
子供らしい高い声で言いながら、ペシュミンはロロノイにまとわりつく。
「花ぁ? 確かにねえな。誰も管理しなくなっちまったもんな」
路傍の花壇はここ数日の内にみな枯れ果て、雑草ばかり逞しく茂っている。
遠くで鬨の声が上がった。ロロノイがペシュミンから目を逸らした。
「ねえ、お兄ちゃん、あの声なぁに? みんなで何やってるの?」
「ああ――あれはな――」
ロロノイは笑みを浮かべた。無理のある笑みだ。
「遊んでんだよ、ほら、あれだ。石蹴り! 兄ちゃんたちみんな元気だからな! お前もやった事あるだろ?」
「うん!」
ルロブジャンは居たたまれない気持ちに耐えた。
戦死したセルセト兵と同じ数だけ、市門の上で、磔にされたグロズナの民間人が殺されているのだ。男も、女も、子供も。
セルセト兵を、ロロノイを、非人間的であると糾弾する事は出来ない。責めるは神職の本領ではない。神職の領分とは、ただ、神に頭を垂れに来る者を受け入れる事だけだ。彼らの穢れごと。人間や人間の行為の内の、非人間的な部分ごと。
「日が高くなって参りましたね」
ルロブジャンから話を振った。
「ええ、やあ、もう日陰が恋しいのなんのって。こう暑くっちゃ、たまりませんね」
「お勤め、ご苦労様でございます。お怪我のほうは如何ですか?」
「大したことありませんよ。壁から落ちた時はもう駄目かと思いましたがね。下に大きな木があったから助かったものを。まあ、運がよかったんでしょうね」
ロロノイは兜を脱ぎ、額の汗を拭った。
「神官長さん、感謝します。毎日、特務治安部隊の幸運を祈ってくださっていること」
「それが私の勤めでございます」
「妹が部隊に同行してるんですよ」
と、頭を掻いた。
「俺、妹に死んだと思われてるんじゃないかってね。あいつ落ち込んでないか心配なんですよ、て、こら!」
どこかに歩いて行こうとするペシュミンの肩を掴む。
「またこのチビめ! 今度はどこに行くつもりだ?」
「だって、お花を探さないと……ママと私の分……落としちゃったから……」
「落とした?」
ルロブジャンは気付く。彼女は気にしているのだ。あの日、全てのカルプセス市民の運命が決まったあの日、摘んだ花を失くしてしまって神殿に捧げられなかった事を。
「花は根と伏流の神ルフマンの御心を喜ばせる」
ルロブジャンはペシュミンに歩み寄り、しゃがんで肩を持った。
「だが、お花を捧げなかったからと言って、それが神ルフマンにとって失礼に当たるわけではないのだよ。神ルフマンの崇拝者への愛は、そんな事で揺らぎはしない。さあ、神殿に帰ろう」
少女はそれでもまだ、気にしている様子だった。
その日、ペシュミンは夢を見た。
夢の中で、かつて住んでいた村にいた。パパとママは畑に出ている。ペシュミンはまだ手伝いに行ける年ではないので留守番だ。普段は表に出て他の子供たちと遊ぶのだが、熱があって動けなかった。
空腹のあまり吐き気がした。喉が渇いて痛い。体の節々が強張っている。まるで、固い床に直接寝転んでいるかのよう。ペシュミンは子供部屋に、他に誰かがいると気付く。
窓の下で、木兵が膝を抱えていた。木兵の虚ろな右目の奥で、短い触角がそよぎ、蜂が顔を見せた。蜂は首を傾げた。遅れて木兵も首を傾げた。
蜂さん、蜂さん、どうしたの? どうして首を傾げるの?
ペシュミンは寝たまま尋ねる。
木兵が立ち上がり、ベッドまで歩いて来た。いつしか木兵は、小さな花束を手に持っていた。
花束が差し出される。
嬉しくなったペシュミンがそれに手を伸ばした時、夢が破れた。
花はなかった。家もなかった。優しい太陽の光もなかった。空腹と、喉と体の痛みだけが本当だった。そして、すぐ近くを大人たちが走り回る気配。
「起きなさい、ペシュミン」
ナザエに体を抱かれ、揺さぶられているのを感じた。
「ママ?」
何もわからなかった。ただならぬ事が起きているとだけわかった。夜の中、闇に目が慣れるのも待たず、立たされ、手を引かれるままに歩き出した。
「ママ」
窓の前を通る時、ナザエの横顔が見えた。周囲の女や老人たちの顔も見えた。前だけを見ている。誰も何も持っていない。皆身一つで神殿の廊下の奥に向かって行く。
一階に下りると外の喧騒が礼拝室まで聞こえてきた。
「早くしろ! 走れ!」
老人が喚いている。
「グロズナが攻めて来るぞ!」
背後から押されるような圧力を感じ、ナザエが手を握り直す。前の人が走り出した。つられてナザエとペシュミンも走り出す。
逃げるんだ、と理解したペシュミンは、一つの思いに胸を貫かれる。
ミハルにもこの事を伝えないと!
ナザエは前の人に続いて走るのに夢中で、自分への注意がおろそかになっている。ペシュミンはそろりと手を放し、人ごみから外れ、街の闇に紛れた。
「ミハル!」
明かりのない大通りを、うっすら見える建物やモニュメントの輪郭を頼りに遡り、戦勝広場にほど近いミハルとルドガンの家にたどり着いた。
「ミハル―! 一緒に逃げよう!」
鍵は開いていない。飛びこんだペシュミンは、いきなり何かに躓いた。
「ミハル?」
転んだ拍子に膝をすりむき、泣き出しそうになるが耐える。
「ミハル! 私だよ! ペシュミンだよ!」
足許には布や本や壺や、様々な物が散乱している。台所に向かった。そこも酷く荒れていた。
「ミハル、ミハル!」
裏庭に出た。約束の場所、猟犬ノエの墓の前に、ミハルはいなかった。
「ミハル、出てきて! 一緒に逃げなきゃ駄目だよ!」
背後から不意に抱き上げられ、肩に担がれる。
「このチビめ!」
放して、とペシュミンは叫ぶ。そしてなお声を張り上げた。
「ミハル! ミハル! 放してよ、ねえ、お兄ちゃん」
「駄目だ、もうここには誰もいねぇ!」
「いるもん! ミハルがいるもん!」
兵士ロロノイは足許に散乱する家具を跨ぎ越し、家から出た。
「ミハルはね、男の子なんだよ! 一緒に逃げなきゃ駄目なんだよ!」
ロロノイが立ち止まる。ペシュミンはロロノイの体の緊張を感じた。ロロノイは私情を殺し、守るべきペニェフの子供を抱え走った。
「ミハルー! ミハル、どこに行ったの!」
ペシュミンは叫び続けた。
「お兄ちゃん、ねえ、ミハルって子がいるんだよ、あの家にいるんだよ!」
「あそこにはもういないんだ」
ロロノイはペシュミンの顔を見ぬよう、見つけた木兵に彼女を託した。木兵はペシュミンを抱き、最後の砦、市庁舎のある方向へと走って行く。
「どうして? どうしていないの? ねえ――」
ペシュミンの叫びが闇から響く。
「ミハルをどこにやったの!?」
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