MA芸能事務所
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偏に、彼に祝福を。
第二章
一話 不安
前書き
第一章のあらすじ
「主人公倒れた」
二章から、岡崎泰葉を中心として物語が進みます。
一月に倒れた達也さんを心配して、その後すぐに一人事務員が増員された。だけど、それでも達也さんは忙しく、周りの人間を心配させていた。
三月頃になるとマネージャーなんかも増えてきて、達也さんが担当する仕事は減っていった。私と一部のアイドル、それにトレーナー陣は喜んだ。彼が過剰に業務をこなしていることを知っているから。まぁ全員が全員喜んだわけではなかったけれど。
三月暮れ、何と先輩の渋谷凛さん、神谷奈緒さん、北条加蓮さんがSランクアイドルになった。事務所の面々は大いに盛り上がり、彼女達を祝福した。事務所のいろんな子が、彼女たちに追いつかんと熱を上げて、一番活気に満ち溢れていた。
それが少し落ち着いた四月の初め、達也さんがゴールデンウィークを迎える前に退職するという噂が流れ始めた時は、正しく青天の霹靂とも言うべきだろうか。兎角、嬉しくない事で事務所は騒がしくなった。
四月も半ばになると彼自身の口からそれが本当であると皆に伝えられた。
それでコンディションを崩す子も居たが、大概のアイドル達は自身の仕事を成し遂げ、またトレーナー達と共に自己の鍛錬を続けた。
私は、残念ながらコンディションを崩す側だったけれども。
慶さんにレッスンを受けている間、暫しぼーっとしてしまっていることに気がついた。だが、何の声も聞こえないので不思議に思い慶さんの方に振り向くと、彼女もまた心ここにあらずというふうに床を見ていた。
「慶さん?」
声にはっとした慶さんは、咄嗟に笑顔を浮かべた。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
嗚呼、彼女もまたこちら側の人間なのか。
「達也さんの事を考えていたんですか?」
私の質問に、僅かに頬を朱色に染めて彼女は否定した。
「そうですか。実は私も今ぼーっとしちゃってまして。……達也さんの事を考えていたんですよ」
そこまで言うと、彼女は観念したふうに言葉を紡いだ。
「御免、嘘。私も彼のこと考えてた。彼、ずっと今まで皆の為に頑張ってたでしょ? けど、報われずに辞めていくなんて宣言しちゃってさ」
「私もそうです。納得いかないんですよ。彼のおかげで私を含めて何人もアイドルとして活躍出来ました。私達は、彼に感謝しています。彼には報われて欲しい」
その働きの分だけ労いを。その献身の分だけ祝福を。集めた好意の分だけ幸せを。
「そそ。彼、前倒れた時に、やめるかもしれないって口にしてたのよ。その時私、彼に宣言したの。貴方を変えるって。このままいっても誰も幸せになれない結果にしかならないって言って。けど、何も変えられなかった」
二人して黙った。結局、彼が辞めると言った以上限度がある。辞めないで欲しいなんて事、それこそ皆が何度も言っているのだ。ただ彼はその意志を曲げなかった。辞めないで欲しいと懇願する子が時たま使っていた、業務関連のことは既に新しいマネージャー等がこなし始め、彼が消えても問題なくなってきていた。彼は着々と消える準備をしている。
「結局、私は最後まで空回っただけか」
「違うと、信じたいですね。そもそも、何故彼は辞めるんでしょう」
慶さんは暫く悩んだが、意を決して話し始めた。
「何人か、達也さんに好意を感じている子がいるでしょう? この事務所は彼に集まった好意によって歪んできている。今はさほどの事じゃない。けど、その子たちが今より彼に依存すればきっといつか、モチベーションが保てない、アイドルで居られない子が出てくる。そうしないように彼は辞める」
何だ、それは。自身が初め自身が作り上げ、周りを巻き込み、当事者として申し分ない、いやそれどころではないほどの異常な献身を見せつつも、それに未練がない、とは。
レッスンルームの扉が開かれる。クラリスさんが、顔を覗かせていた。美しく伸びた金髪を後で結び、その手にはバスケット。白を貴重とした質素な服と相まって、まるでピクニックにでも出かける美女のような印象を受ける。
「差し入れを持ってきました。ご休憩されてはどうでしょう」
二人で礼を言って、彼女を招き入れた。
少し疑問に思う。普段、彼女はこんな事をしない。例え彼女が修道女と言ってもレッスンを中断させる形は取らない。終わってから労う限りだった。
「二人共、お悩み事でもあるのですか?」
そう口を開いた彼女。そこで私は彼女がここに来た理由を思い至った。私達の悩み事を察して、そうしてこのタイミングで差し入れという形を取ることで三人で話せる時間を確保したのか。
「そうです。しかし、よくわかりましたね。さすがは修道女といいますか」
上品にクラリスさんは笑う。
「ええ。今まで沢山の迷える子羊達に道を標しましたから……何て言えるほど、私は経験を積んでいませんよ。簡単な事です。泰葉さんと慶さんお二人とも調子がよくありません。それは達也さんが辞める事が知れ渡ってからです。そうしてお二人が共にする機会があるとするなら、信頼しあっているお二人の事です。悩み事を話さずには居られないだろうと思ったのです」
確かに考えてみれば、実に簡単なことだ。
「その通りです。……クラリスさんは、達也さんが辞めると聞いてどう思いますか?」
「私は……残念な他ありません」
私の問いに対しての答えは、本心にしか思えなかった。
「クラリスさん、聞いてほしいことがあるのです」
「とどのつまり、達也さんはその好意から逃げおおせる為に辞めると」
私はその言葉に頷くことは出来なかった。言葉にすると、何て馬鹿馬鹿しいことなのか。
「私と達也様は、似ているようで似ていないのですね」
「どういうことですか?」
「慶さん、私のプロフィール見たことありますよね?」
「え、うん」
私は脳内でクラリスさんのプロフィールをわかる限り思い出そうと努力した。年齢、身長。スリーサイズは覚えていなかったが、後思い出せることは趣味の―――。
「私の趣味はボランティアです。ボランティア、それは自主的な献身です。話を聞くに正しく彼はそういう事をしてきたのです。財を投げ打ち体に鞭打ち自身が出来る限りの事しました。方向性が違えば、きっと優秀な神父に……」
失礼しましたと、彼女は言葉を切った。彼が神父ならば、何て事は幾らか不謹慎だと思ったらしい。
「けど、悲しいですね。彼は其れに喜びを見いだせなかった。故に頓着がないのでしょう。」
理由はわかりませんが、と最後に付け加えて、彼女は口を閉じた。
「だとしたら呼び止める事は、彼にとって苦痛でしかないのでしょうか」
究極的には其処に留まる。例え誰かが彼のために動きたくても、彼に取ってそれが苦痛でしかないのならばその動機は矛盾する。
「どうでしょうか。私は私なりに達也様を見てきましたが、あの人はともするならば、今を楽しんでいるようにも思えます。それがここを辞めるという清々しさからくるものかはわかりませんが」
ここで一度言葉を切ると、彼女は振り向いた。壁しか見えないがその方向は事務所。
「達也様は後腐れない。故に淡々と確実に準備を進めています。事務所の中が何よりの証拠。入った時は未熟だった沢山の子達は、今や技術と、何より自信を持ってアイドルという職を全うしています。彼の退職に動揺することはあっても、彼女たちはその足を立止まらせることはない」
私達のような例外もいましたが、と自虐的に呟くと、今度はしかと私の目を見て続けた。
「彼はバベルの塔を建てたのではありません。彼の育てたアイドルは、倒れません。その足でしかと立ち、きっと光り輝く」
嗚呼、もしや、彼は。
「もしかして達也さんは……その為に?」
「どういうこと?」
慶さんの疑問の声は、既に私の耳には入ってはこない。
「私が考えるに、達也様は好意から逃げるために辞めるのではなく、アイドル達に一番近い立場の自身が消えることで、彼女たちの人格をより強固なものにする為辞めるということです」
彼は、最後の最後まで、自身を一つの道具としか見ないつもり―――
後書き
実は最初は水本ゆかりを二章の主人公に据えるつもりでした。
途中の「その働きの分だけ労いを。その献身の分だけ祝福を。集めた好意の分だけ幸せを。」は、部の名前やその後の展開を決めたりしたシーンでもあります。
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