Magic flare(マジック・フレア)
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第6話 回転木馬ノ永イ夢想(後編)
―5―
※
愛するあさがお。お母さんは怒っています。何故ならあなたが送ったはずのお手紙を、あの看護師が盗んでいることが間違いないからです。現に二ヶ月前、あの拾ったキジトラ猫について書かれたお手紙を受け取って以来、私はあなたからのお手紙を一通たりとも受け取れておりません。あなたは聡明な娘ですから、お手紙と、また前回ラジオを利用しような、新しい連絡手段を講じているところでしょうが、あなたの選び抜かれた言葉で書かれた美しい文学的な情緒のお手紙を受け取れなかったことが残念でなりません。ああ、私もラジオを使えたらいいのに。ラジオが使えたら奴らの非道さと迷惑行為を世界中に知らしめてやれるのに。お母さんより。
※
あさがお。私のあさがお。今や世界にたった一つの私の愛。私は本日ようやくあなたからのお手紙を受け取ることができました。あのキジトラ猫は結局怪我が治らず死んでしまったのですね。お母さんも残念です。ああ、この病院を牛耳っている迷惑電波を利用したストーカー集団どもがあなたを悲しませるためにやったことでなければいいのですけど。お母さんはついにあの看護師が人の物を盗んでいる場面を目撃したのです。おとといのことですが、私が交流室の窓から向かいの病棟の男を監視していると、中庭にいた患者がハンカチを落としました。しばらくして、あの看護師が現れて、ハンカチを見つけると、それを拾い、白衣のポケットにねじこんで、こそこそと、早足で去ったのです。その時中庭にいたのは、その患者だけでしたから、ハンカチが患者の落とした物であることは間違いないのに、看護師はその患者に声をかけず、黙って持ち去ったのですから、これは悪意を持って盗んだに違いありません。私はこれ以上悪を見過ごすことを我慢できませんから、その看護師を捕まえて、悪事を追求したのです。そしたら看護師は、あれは盗んだのではなく落とし物を拾ったのだから、落し物ケースに入れたと言って誤魔化すものですから、その女を引っ張って一階の落し物ケースに行くと、卑劣にもすでに手が回されていて、何食わぬ様子でハンカチがしまわれていたのです。お母さんはこれほどの侮辱を受けたのは初めてです。しかし、あの女はお天道様は全てを見ていることを知らないのでしょうが、お母さんは知っています。あの女はお母さんのバッグを置き引きしたのと同じ女で、精神病院の前で泣き叫んでいた女です。あの女もまた別の面では哀れな被害者です。しかしあさがお、お母さんは心を鬼にして、慈悲を捨て、あなたの為に気高く戦います。お母さんより。
※
あさがおが家から出てきた。クグチは電磁体を可視化する眼鏡越しに、坂の上から様子を窺った。眼鏡越しには静かな町に見えるが、実際には救助隊が最低限撤去しただけの、瓦礫が散乱するか細い道があるだけなので、危ないことこの上ない。クグチは肉眼で足下を確かめながら、あさがおの後を追った。
彼女は何かを探すように足もとをきょろきょろ見ながら歩いていたが、いきなり立ち竦んだ。クグチは眼鏡越しの視界と肉眼での視界の両方で、彼女が立ち止まった理由を探した。
特殊警備員の車が坂の下にある。
車から二人、特殊警備員が下りてきた。地図を見て、何か相談している。あさがおのいる坂からは死角になる。
クグチは走った。
「こっちへ」
あさがおが困惑して振り返る。
「いいから、早くこっちに来てください!」
クグチは、後ろにあさがおを連れて彼女の家まで戻った。あの特殊警備員たちに見られていないことを祈りながら。
「どうして立ち止まったんですか?」
「えっ?」
「あなたは何かが起こると思ったから立ち止まったのでしょう」
あさがおは困ったような顔をして、しかし、躊躇ってから答えた。
「予感がしたんです。何か……良い予感か悪い予感かわからないけど」
クグチは真顔であさがおの表情を観察した。
初めて彼女のもとを訪ねた時、彼女は呼んでもいないのに家から出てきた。電磁体には特殊警備員が、あるいはUC銃が、わかるのか? クグチはその想像にぞっとした。だとしたら、電磁体は都市データベースを基盤に生存本能を獲得しつつあるということだ。
電磁体は生き物じゃない。激しい動悸がし、目眩を感じた。これは生き物じゃないし、これは姉さんじゃない。
「あの、上がってください」
あさがおの声がした。
「あなた、助けてくれたんでしょ?」
「いえ……」
「それに、顔色がよくないです」
「大丈夫ですから。もう、行きますので」
この家は、実際には半壊している。人間には入れない。
「私を、何から助けてくれたの?」
「言えません」かぶりを振り、「いろいろ……今まであり得なかったようなことが、都市のあちこちで起きてますから」
「企業秘密ね」
あさがおはうっすら微笑んだ。
「こんな時に、守護天使がいてくれたら心強いのに。でももう駄目ね。私、レンズを全部なくしてしまったの。だからもう見えない」
自覚のない死者から、クグチは目をそらした。幼い頃あれほど思った家族に、けれど唐突すぎていまだ家族の実感を得られない相手に、かける言葉がなかった。
これを家族と思いたいなら、これを人として弔わなければならない。それをしなければ、自分には何も残らない。
そうしなければ、きっともう自分で自分を人間だと思えない。
「……ご家族が亡くなったというのは、ご病気で?」
あさがおは少し首を傾げ、
「……ええ……母は、病気で」
精神的な病、と、強羅木は言っていた。その死が悲惨なものでなかったことをクグチは願った。
「父親はいないのですか? 他に親戚の方とか」
「父親は」微笑に尖ったものが混じる。「私たち母娘を捨てたのよ」
※
あさがお。私のあさがお。私はあなたに言おう言おうと思っていたことがあります。あの人は、あなたの父親は、思えば大学を出て国防技研に入ってから変わってしまった。些細なことでした。ある時あの人が手に怪我をして帰ってきました。機材の針で引っかいてしまったというのです。私は愚かでした。それが連中の仕業であることを見抜けなかったのですから。そのせいであなたをひとりぼっちにしてしまっているのですから。あの人は少しずつ変わっていきました。はじめに気付いた異変は文字の書き方で、あの人は漢字を書くときに、ハネの部分を1ミリか、1.1ミリか、せいぜい1.2ミリほどわずかに上向きにはねさせる書き方をする人だったのですが、それがだんだん伸びてきて、まるで別人のような、勢いだけの、なんだか粗雑な文字の書き方をするようになって、私が指摘すると、おかしいのはそんなことをいちいち気にする私の方だというようになって、家にもあまり帰ってこなくなり、帰ってきても表情は暗く、話もろくにしないで寝てしまうようになったのです。あの人は明るく、朗らかな人でしたから、そのように変わってしまったのは、その方が都合がいいからで、会話を減らすことであの人が別ものにすり替わってしまったことを私に気づかれないようにするために違いありません。私は偽のあの人がQ国に行ってしまった後、本物のあの人を見かけました。公園の花壇を人差し指ほどの大きさの小人が歩いていて、それがあの人でした。小人になったあの人は、私が呼んでも気づかずに、生い茂っていたチューリップの緑の茎をよいしょよいしょとよじ登り、あの筒のような形の花の中に入ってしまったのです。しゃがんでチューリップの中を覗きこんでも、あの人は見えませんでした。どうやら茎を通じて土の中に落ちてしまったようで、「おーい、おーい」と土の中から困ったように呼ぶあの人の声が聞こえてきました。私は夢中で掘り返しましたが、掘っても掘っても出てくるのは根っこと古い球根だけで、ついぞあの人を見つけることはできなかったのです。
※
愛しています。愛しています。あさがお。私の。私はあなたを守るために手を尽くしました。あの日、忌々しいあの日、私はあなたの泣き声を聞き、駆けつけたときあなたは揚げパンのかけらを落として地面に座りこんで泣いていた。あなたの手には爪でひっかいたようなあとがついていて、転んでできたにしては不自然な傷でした。私はそれがあいつらの仕業だと、あなたのお父さんに小人になる手術をした奴らのせいだとわかったから、私はあなたを連れて帰って、あなたの傷口を包丁で開き、悪い血を抜きました。あなたが泣いた時、私の胸は張り裂けんばかりでしたが、私の処置が良くてあなたは助かり、生き延びました。けれどあの男が、あなたのお父さんの偽物が送りこんだ、弁護士だとかいう男が、声を聞きつけて家に上がりこみ、あなたを連れ去った。あの男はあなたを病院に連れていき、そのあと私をさも病人であるように吹聴して、この病院に閉じこめた。私が潔白を証明して、あなたとまた共に暮らすにはどうすればいいの。
※
眠りの夢の明かり。
六畳間の寝室いっぱいを、メリーゴーラウンドが占拠している。射しこむ西日が白い木馬と真鍮の棒を赤く染めて、あさがおは一台の木馬にまたがり、浮き沈みしながら回っている。
「あさがおー」
さー。さー。
襖の向こうから母親が呼ぶ。
「あさがー。あさがおー」
さー。さー。
「お母さん」
応じる。木馬から下りずに。私はここだよ。心配しないで。
「あさがおー」
その声はますます悲しく、上擦って震える。
「ここを開けてぇー」
さー。
ざー。
「開けてぇー」
「ごめんねぇ」
あさがおは泣いている。
「それは駄目なのぉ」
「開けてぇー」
ざぁー。
襖に両手をつけたまま、床にしゃがみこむ気配。
真鍮の持ち手に、黒い陰が揺れる。
窓の向こう、夕日を背負いながら、大きなトンビが歩いてくる。
インバネスコートをぴたりと身に巻きつけ、山高帽をかぶり、そのつばの下には一対の優しい大きな目。
鉤爪状の黒いくちばしに、探し求めた花をくわえ、神々しいものとして、窓の向こうの海から歩いて来る。後ろに回していた翼を前に持ってくると、トンビは大きな白い花束を持っていた。
「トンビ」
ああ。トンビ、トンビ。この素晴らしい茶色い鳥が、私のために会いに来てくれた。
「トンビ」
畳に冷えた爪先をおろし、ひたひたと窓辺に寄れば、トンビは黒い爪をはやした脚でこの部屋の中にいる。
「トンビ、トンビ、トンビ」
抱きしめる。温かい。コートの中の長い胸の羽毛が、あさがおの頬を守る。トンビは両翼で、背中をかばうように抱いてくれる。その後ろで、白い木馬がたちが回転し続けている――。
目を開けた時には、もう夕暮れは終わりだった。
薄暮の部屋で白い花束だけ、畳に散乱している。
―6―
クグチは朝起きて何よりもまず、廃ビルにハツセリを探しに行く。帰ったらルネの高校を拠点に向坂ゴエイを探しうろつく。ACJ支社に帰ったら帰ったで、その建屋内も向坂ゴエイを探してくまなく歩き回る。
その後、十三班の待機室で昨日の日報を書く。それで昼前後。総務が持ってくる配給の昼食を食べ、寮でシャワーを浴びて一旦汗と泥を洗い流し、また今度はあさがおの様子を見るために外にでる。
島が部屋に来たのはまさに本日二度目の外出の支度を終えた時で、部屋の戸を開けた瞬間、外側から島が戸をノックしようとしていて、互いに驚くかたちとなった。
「ごめん」
島が一通、封筒を差し出した。
「さっき、明日宮君にお客さんが来てて……」
「客? 誰でした?」
「伊藤ケイタさんって言ってたよ」
クグチは顔をこわばらせ、硬直した。
「今はいないって言ったら、この手紙を渡してって」
「いつくらいでした?」
「九時すぎくらいだったかなあ」
クグチは封筒をちぎるように開けて、中の手紙を引き出した。
〈6月29日 中央掲示板前 フレアの後で〉
文面はそれだけだった。クグチはそれ以上のもを手紙から読みとろうとした。フレアって、岸本が言っていたあれのことか?
6月29日。
明日じゃないか。
「島さん」
島が緊張する。
「ラジオを聞いてますか?」
「えっ?」
「前岸本さんが言ってたフレアについて、何か続報ありましたか? いつ来るかわかりますか?」
「わかるけど……」
口ごもるので、クグチは「早く言え」と迫りたい衝動をこらえた。
「明日だったかな」
「明日のいつ」
「午前五時前くらいだとか……」
入り口を塞ぐように立っている島にぶつかって、クグチは部屋を飛び出した。
あさがおに会わなければならなかった。
会ってどうするのか、どうなるのか、自分がどうしたいのか、何もわからなかった。あなたの持ち主は死んだのだと、あなたは電子の幽霊だと告げるのか? どこかに逃がすのか? 何とかして匿い、保存するのか?
「姉さん」
自転車を漕ぎながら、試しにそう呼んでみた。呼んでみても血の繋がった家族だという実感はわかなかった。
行けばわかる。行けば、きっと何とかなる。そう信じた。
あさがおは、その廃電磁体は、世界で一番静かな家の仏間で、仏壇に白い花を供えている。呼ばれていることも知らずに。
※
あさがおへ。手紙を書けなくてごめんなさい。お母さんはこの頃ひどい場所に監禁されていました。ああ、おぞましいことだけど、連中は私を欺くためにあなたの偽物を面会に寄越したのです。ご丁寧に手の傷までも再現して。私はそのふざけた女にとびかかり、本物のあなたがどこかを問いつめようとしたのに、あいつらが、あの看護師どもが、それより早く私に飛びかかって、私を牢に閉じこめた。牢の中には床と言わず、壁と言わず、あの小人どもが張りついて私を嘲笑っていますから、私はこれと戦わなければなりません。小人どもは臆病で、私が指を銃の形にして、バァンバァンと大声を出すだけで、びっくりして逃げていくのですが、奴らは真夜中でも来るのですから、私は一日中バァンバァンと銃を撃たなければなりません。これは大変疲れることで、やっと牢から出された後も奴らの私に対する迷惑行為と悪意はいやますばかりで、私がお前に手紙を出すことすら許さなかったのです。奴らは私の手紙があなたに悪い影響を与えると言うのです。自分たちの違法で悪辣な迷惑行為を棚に上げて、悪影響とはよく言ったものです。あさがお、深い水が来て、連中の悪を洗い流すことを私は予言します。あさがお、私が子供の頃には深い水が来て、私の町をさらいました。あの水が、あの時私をさらい損ねたから、今度はきっと私を逃がさぬようまた来るのです。あさがお。深い水の中に、私の古い家があります。青く沈んだ家に、あなたの庭があります。あさがお、そこでキジトラの猫を飼いましょう。あの猫は死んでしまったとお前は書いていたけれど、お母さんはその猫は深い水の中にいるのだと思っています。
※
陽だまりが温めた路面を、ほくほくと肉球で踏んで、その大柄なキジトラ猫が遠くから来る。その光景を、あさがおの脳は捕らえる。見えるはずのない野外、生きているはずのない存在、それが歩く場面を一枚の風景として、彼女は捕らえる。
あさがおは仏間で正座をしている。
来る。
母親からの手紙を握り潰した。
「おねえちゃんねぇちゃん」
甘い、子供のような声が、玄関の外から呼んだ。廊下に出た。冷たい板張りを急ぎ、三和土のサンダルに足を引っかけて、すりガラスの引き戸を開くと、緑色の目と視線があう。
人間と同じ大きさの、二足歩行のキジトラ。細い毛を午後の陽にきらめかせて、人間の兵隊の格好をし、
「おねえちゃんねぇちゃん」
しゃべると上唇から生えるひげが、そよそよと揺れ動く。
「キジトラは丈夫いから」ヘルメットを脱ぎもせずに、「戦争に行っていいの」
あさがおは心臓が締め付けられる気がして、目を歪めた。キジトラの無邪気な目が、たまらなく悲しかった。
「戦争に行っていいわけないでしょ」
手を伸ばすと、その頬を覆う毛に触れることもかなわず、キジトラは消えてしまい、あとに陽だまりが残った。
「キジトラ?」
玄関には猫の毛一本残されていない。
「キジトラ」
それだからあさがおは、キジトラを探してさまようことになる。
「キジトラ、おいで」
坂の上へ。短い間、確かに飼い猫だったその猫を拾った場所へ。
「キジトラ」
けがをしていたから。長く生きられなかったから。
「戦争に行かなくていいのよ」
ああ、だから、この先に行ったのね。
坂を上りきって、あさがおは納得した。
坂の向こうは海だった。太陽光を照り返してあさがおの目を灼きながら、爪先に迫る。道は下り坂となって、海の中に続いていた。あさがおは足首を浸す。膝を浸す。腰を浸す。
『お母さんが子供の頃』
腹を浸す。胸を浸す。
『大きな地震がきたの』
長い髪が海面に円く広がる。首を浸す。鼻を浸す。
『いつまでも揺れが続き』
海の中は明るく、太陽によってぬるめられ、温かい。
『永遠と思えるほど、長い時が経った』
頭上を海面が、遠ざかる、遠ざかる、鰯の群が泳いで、下り坂に光と影を散らす。
『忘れもしない三月十一日の、小雪がちらつく日で、ようやく揺れが消えた後に、今度は深い水が来たの』
坂を下りたところで、白い木馬が待っていた。木馬の胴を貫く真鍮の持ち手は、遙か遠い海面まで伸び、あさがおを誘うように、その場で上下している。
大人になった体を遠慮がちに木馬の背に乗せると、木馬は重さなど苦にせずに、道を先に進み始める。
『深い水は、私が高台の公園から見下ろしている間に、家をさらい、車をさらい、人をさらいました。そうして誰も帰さずに、海に戻ったのです』
左右の家々には、人の姿が見える。その窓に、その庭に、老夫婦が、若い夫婦と赤子が、自転車を漕いで遊びに行く近所の子供たちが見える。
みんな、ここにいたんだ。だから見えなかったんだ。探したのに。どこに行ったんだろうって思ってた。
犬を連れた主婦が、ニコリとして会釈をする。あさがおも同じように会釈をした。木馬が進む道は次第に幅が広くなり、見覚えのある気がしてくる。
角を曲がり、突然、知っている精神病院が現れた。
タクシー乗り場を横切り、木馬は正面玄関の前で動かなくなる。
正面玄関のガラスはあさがおのために左右に開き、エントランスには記憶通りのブロンズ像が立ちはだかっている。
〈女像〉
その素気ない名をもつ像は、ワンピースを風になびかせて、遠くを見て立つ硬い表情の女。彼女の足下を覆うのは茨。そこかしこから人の腕が突き出ている。制作者が何を意図して作ったかわからない。頭がおかしかったのだろう。あさがおは病室を探した。七階だったのは覚えている。しかし東西南北にわかれた四角い建物の、どの七階だった?
すべての七階の、すべての部屋をまわる。南棟。東棟。北棟。どれも同じような部屋で、同じような狂気を閉じこめ、同じように荒廃した。けれどあさがおはついに西棟で、その部屋を見つける。
ドアノブに触れた瞬間から、ここだと確信した。過去と今とが、この体にぴたりと重なるのを感じた。
ベッドに女がいた。
実年齢よりもはるかに老いた女。灰色の髪になった女。皺だらけの女。置き引きをした女。精神病院の前で泣き叫んでいた女。私を遊園地に連れていってくれた女。私の手を切り裂いた女。私が病院に連れて行かれる時、死にものぐるいで私を取り返そうとした女。
水の中の夕日を浴び、すべての狂気から洗い出されて、その女が老いた慈愛の笑みをくれる。
あさがおは手を伸ばし、病室の母に駆け寄ろうとした。足が浮き、水の中で体が横倒しになり、
「お母さん!」
開いた口から肺に潮が満ちる。
※
あさがお、おかあさんはあくとたたかうためにひつようなどうぐをあつめます。ここにかかれているものをおくってください。
タオル
すいとう
けしごむ
日記帳
きず薬
手袋
缶切り
ゴミ袋
シャボン玉液
たいまつ
チェス盤
ニリンソウ
コンロ
ローストビーフの缶
サンダル
レモン
ルーペ
※
そしてまた雨が夜に忍びこんで、眠れぬ人を眠らぬ人に変える。濡れ縁が、雨に打たれて秒ごとに朽ちてゆく。昼はつぼみだった白い生け花が、冷たい水を飲んでゆっくり、ゆっくり開いてゆく。線香の煙が、風もないのにいやに揺れて、蝋燭の火は身悶え、ろうを垂らして泣く。
正座するあさがおは、背に気配を感じた。
廊下の闇から指が伸びて、細く開けておいた襖から入ってくる。灰色に垂れるのは髪だ。それが顔を上げて、血走った目を見せた。恐怖と、渇望と、無念と、被害妄想を灯した目が、あさがおを素通りして仏間を走り、パン、と襖を開け放った。
死に装束をまとい、痩せこけた死者が入ってくる。
あさがおは畳に指をつき、立った。死者は小柄だった。記憶の中の姿よりも。
向かい合って立つ。
死者は骨ばった指を突きだし、腕で左右の様子を探りながら、慎重に歩き始めた。
あさがおの姿が見えないのだ。
けれど気配が分かるのだろうか。
「あ……あ……」
死者がうめき、その指が鼻先に迫り、あさがおは三歩、四歩と後ずさる。
「サガオ……」
あさがおは右に避けた。死者は突き当たりの床の間に行き当たり、今度は左の、濡れ縁と仏間を隔てる障子に歩いていった。深い水がやってきて、欄間から水をこぼした。畳が水を吸い、線香が、燃え尽きてもいないのに煙を消す。果物が急に黒く腐る。死者は向きを変えた。
「ア・ア・ア、アーーーーーーーーー」
口を開けて、こちらに来る。
「アーサーガー」
固く口をつぐんで、濡れ縁のほうに逃げた。畳と湿った足の裏がこすれ、足音をたてた。
「オーーーーーーーーー」
あさがおと死者は、そうやって仏間を一巡した。死者は諦めたのか、仏壇に向かい、透明になりながら仏壇の中に入っていって消えた。
あさがおは仏壇の扉に手をかけた。しかし閉めなかった。線香に火をつけた。
あの特殊警備員が来る。
こんな深夜になんだって言うの?
「根津さん! 根津さん!」
私はここにいるのに。この家の明かりが見えないの?
「くそ、どこだよっ」
物を蹴って八つ当たりし、どこかに走り去っていく。
ねえ警備員さん。私の母親は精神病院の前で泣き叫んでいて。ねえ警備員さん。私の父親は戦争に行った。そして私が残ったの。一人きりで残ったんだよ。
「アサガ……アサガオーーー……」
ねえ警備員さん。ほら、仏壇からまた出てきた。ねえ警備員さん。私が、ろくに手紙の返事も出さなかったからだよ。痩せ細って死んでいくのに、会いに行ってあげなかったからだよ。
「ごめんね」二階の寝室で涙を流す。「ごめんねぇ……お母さん。堪忍してねぇ……」
ねえ警備員さん。私にも世界で一番すばらしい日があったの。すべてが輝いていた日があったの。母が死者でなかった頃、あの白い回転木馬の遊園地が、戦争で燃え尽きていなかった頃、木馬の上でトンビが飛んでるのを見た。母がそれを、トンビというのだと教えてくれたの。それは母が精神が病んでからも教えてくれた、数少ない本当のことの一つだった。それから、図鑑を買ってくれたわ。私はトンビの顔を見た。優しい顔をしてた。
ねえ警備員さん。死者が階段に足をかけたよ。ねえ、私はもう逃げてちゃ駄目だよねえ、警備員さん。
夏布団の中で、仰向けに横たわったまま、あさがおは襖を見る。風を通すために開け放たれた襖を。その先に立つ死者を。入ってくる。両腕を伸ばして、あさがおを探して。
「お母さん」
意外なほどきれいに、喉から声が出た。
「私はここにいるよ」
死者が、青く血管の浮き出た足を止める。
「私はここだよ」
首が、錆びついているかのようにぎこちなく動き、灰色の長い髪の間から、雨の明かりを集める眼が現れた。まっすぐに、あさがおの目を見た。
「見える?」
甘く脂っこい死臭を放ちながら、死者の足が枕もとを右に通り過ぎる。首をよじり、あさがおの目から視線をはなさぬまま。
窓際に行き当たり、方向を変えて戻り、また枕もとに立ち、今度は左の壁際まで歩き、また、戻ってくる。
死者は目を逸らさず、枕もとの往復を繰り返した。あさがおは世界が沈むのを感じた。畳が、布団を載せたまま傾斜していく。
「ごめんなさい……」
ずるり、ずるりと布団が滑り、あさがおは落ちてゆく。
「……ごめんなさい……」
滑っていった先に、本来あるはずの家の壁はなくて、ああ、母が、目を逸らさず、畳のへりを右に行き、左に行き、その姿が遠ざかる。小さくなる。
あさがおは果てしなく高い家の壁際を、いつまでも落ち続けた。
上から下へ、全ての階に自分が見えた。
一人での暮らしを始めた自分がいた。
母の葬儀を行わない自分がいた。
母の面会に行かない自分がいた。
母に手紙を書かない自分がいた。
キジトラの猫を拾ってきた自分がいた。
大学進学を断念した自分がいた。
初めて男の子とつきあった自分がいた。
若くなる。若くなる。
あさがおは手で目を覆った。
しかし転落の無為に耐えかねて、泣きながら手を外した。
窓の中に茶色い大きな鳥がいた。
回転木馬にまたがる自分がいた。
その柵の外で、木馬の回転にあわせて一緒に回ってくれる母がいた。
「お母さん」
身を切る風の冷たさの中で、あさがおは窓に手を伸ばす。
「お母さん……」
心を病んでいたから幸せではなかったなどと、そんなことが誰に言えるの。
窓に保存された時の中で、母親は笑っていた。あさがおは笑い、泣きながら笑い、満面の笑みで墜落する。
涙の粒の中に、夕焼けが見えた。
『お手洗いに行ってくるから』
温かい揚げパンを、母がくれる。
『ここで待っていてね。遠くに行っちゃ駄目よ』
母は青白く、美人だった。あさがおは待っていた。いい子で待っていた。けれどきっと、トイレは利用客が多くて、あるいは場所がわかりにくくて、なかなか帰ってこない。
空を回るトンビは、家に帰るのだろうか。トンビの静かな家はどこにあるのだろうか。
「トンビ!」
つまらなさに耐えかねて、大きな翼で間近に飛ぶ大好きなトンビのあとを、あさがおは追いかけた。
「トンビ、トンビー!」
両手を振る。その手に、不意に痛みと衝撃が走った。あっ、と思った時、足をもつれさせて転び、その頭上を、翼を広げたトンビが悠々と飛び去って行った。
揚げパンが大部分、ちぎり取られ、落ちていた。ちぎり取られた部分は遠ざかるトンビが足で握っている。
トンビが、私のパンを取った。
手から血が出ている。
トンビが。大好きなのに。
トンビが私をひっかいて、私のパンを取った!
幼いあさがおは転んだまま泣く。後ろから、病んだ母が、全力で駆けてくる――。
ここは、薄蒼く明るい。
夜明けがきたのだ。
雨が降っていたのに。
快晴の夜明けだった。
あさがおは自分の横たわる場所が、家などではない、瓦礫の中なのだと気付いた。目を閉じた。笑顔のまま。
私も死んでいたのだ、と。
―7―
薄蒼の夜明け、家の前に横たわるあさがおを見つけて、クグチは自転車を捨てて走り寄った。間に合わなかった! 激しい後悔に打たれた時、あさがおの姿の電磁体は目を開いた。
「警備員さん」
集中しなければ聞き取れない声で、あさがおは囁く。
「一晩中探してたの?」
クグチを見ないのは、もう首をよじる力もないからだろう。覆い被さるようにその顔を覗きこんだ。
「どうして?」
「根津さん」
彼女の指に触れるけれど、クグチの肉を持つ指は、あさがおの電子の指に触れられず、透過して地面に触れる。
「……どうしてなんでしょうね」
あなたの家族だからと、告げるつもりはなかった。そんなことを言って彼女の最期の静かな時間をかき乱すことはできない。あさがおは笑ったまま喋った。
「親切にしてくれてありがとう」
クグチはイヤホンに意識を集中した。
「私ね」
あさがおが目を閉じる。その顔に朝日が射す。透き通って地面が見える。
「私は、いいところに行くからいいの。何も悲しくない」
「いいところって?」
「病んだ心でもたどり着ける一番いい場所に行くんだ」
クグチは頷いた。彼女に見えていなくとも。
「警備員さん」
二人の上では、空が桃色に染まっている。
「警備員さん、警備員さん」
「どうしました?」
「鳥が飛んでいたの」
「鳥?」
「茶色くて、大きな鳥」
その姿が一層薄くなり、色が消え、クグチは太陽に抗い目を凝らした。
「のんびり飛んでいたの」
もう、ほとんど見ることができない。
「図鑑で見たのよ。優しい顔の鳥だった」
「何ていう鳥なんですか?」
返事がない。
消えたのか。いいや。まだいる。うっすらと存在する。
「わからない……」
耳の中で、悲しげに、
「思い出せない」
顔を苦しそうに歪めた。
「ああ……何も……思い出せない……」
太陽光が角度を変え、あさがおを焼きつくした。
目を凝らしても、耳を澄ませても、眼鏡も、イヤホンも、二度と彼女を見つけ出せなかった。
ぬかるみに跪いて、クグチは合掌した。
電磁体が人ではないことなどわかっている。
それでも、冥福を祈った。
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