| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

白鳥の恋

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第二章


第二章

「お勉強する。それで白いドレス着てあの舞台に立つの」
「歌手になってね」
「うん、私なるわ」
 強い声で母に語る。
「きっとね」
 それが彼女の一生を決定付けた時だった。それから十八年経った。二人は二十九歳になりソ連は崩壊してロシアになった。ドイツは統一された。世の中は大きく変わったがそれはオペラの世界にも影響していた。それまで西側と東側の壁が見られたのだがそれがなくなっていたのだ。
「やり易い時代になったよな」
「全くだ」
 ドイツ南部の小さな町である。この町の名をバイロイトという。ワーグナーのファンにとっては聖地と呼ばれている町だ。何故ならこの町にはワーグナーの作品だけを上演する歌劇場であるバイロイト歌劇場があるからだ。だからワーグナーファン、所謂ワグネリアン達の聖地となっているのだ。その聖地において今二人の年輩の正装した男達が道を歩きながら話をしていたのである。そののどかなドイツの田舎道を。
「昔は東ドイツの歌手を呼ぶにも政治とやらが必要だった」
「カラヤンはできたがな」
 かつて楽壇に君臨した帝王ヘルバルト=フォン=カラヤンのことである。今だに彼については過去のナチスの話も言われ続けている。
「しかしあれだけの政治力がないとな」
「とてもできはしなかった」
 彼等はそう言い合いながら話を続けていた。
「東にもいい歌手は一杯いたからな」
「うむ」
 それは事実だった。とりわけ東ドイツやチェコスロバキアには優れた歌手が大勢いた。しかしその彼等を西側に呼ぶにも逆に西側の優秀な歌手を東側に入れるのにもその都度複雑な政治が必要だったのである。それは歌手だけでなく楽団でも指揮者でも同じだった。
「どうしても招きたかった」
「バイロイトでも苦労していたな」
「全くだ」
 このバイロイトにおいてもそれは同じだったのだ。
「それどころか」
「そうそう」
 彼等が今度話すのはそれとはまた別の理由であった。
「ワーグナーはな」
「あのことでな」
 ここでワーグナーにまつわる、彼について話すならば離せない問題が語られた。
「ナチスのことでな」
「どうしてもそれがついて回るからな」
 ワーグナーは反ユダヤ主義者でありまたヒトラーも彼を賛美していた。ワーグナーは彼によってドイツの楽聖となっていたのだ。その歴史的事実があるからこそナチスをとりわけ批判する東側から歌手を呼びにくいという事情もあったのだ。もっともその東側は共産主義でありナチスと何ら変わるところがなかったのであるが。
「今もその話はあるがな」
「少なくとも壁がなくなったのはよかった」
「ベルリンの壁がな」
 それがなくなったことがやはり大きかったのだ。
「なくなってからというもの」
「どの国の人間も呼びやすくなったな」
「それで今回はだ」
 今回の演奏についての話になった。
「ローエングリンがよさそうだな」
「ああ、あれだな」
 その中での演目の一つローエングリンについての話になった。
「毎回バイロイトの演出は見ものだが」
「そうだな」
 これもまた有名である。バイロイトの演出は何かと冒険をすることで知られている。これは第二次世界大戦からでありヴィーラント=ワーグナーからはじまる。もっともこれもまた政治的な事情がありナチス的色彩を消す必要もあったからだ。ワーグナーからはどうしても離れられない話である。
「今回は舞台だけではないな」
「歌手もだな」
 歌手についても言及された。
「今回のタイトルロールは」
「あの男だな」
 タイトルロールとは所謂主役、表題役のことである。ローエングリンならば白鳥の騎士ローエングリンとなるのである。最も重要な役なのは言うまでもない。
「アーダベルト=シュトルツィングだったな」
「それとエリザベータ=タラーソワか」
「そう、あの二人だ」
 その二人について言及された。
「ドイツとロシアがそれぞれ誇る若手のワーグナー歌手だ」
「まだ三十にもいっていないのだったな」
「ああ、まだだ」
 今度は年齢に関して言及された。
「二十九だからギリギリだな」
「二十九か」
「しかも二人共まだ独身だ」
 それについても言われる。二人の言うことはかなり多岐でしかも細かい。
「ひょっとしたらな」
「ははは、それはあるまい」
 しかしその言葉はもう一方によって否定された。
「ないか」
「ローエングリンだぞ」
 まずは上演される作品が出された。
「そんな話になるか」
「それもそうか」
「そうだ。他の作曲家のものならともかくワーグナーだ」
 こうも言われる。
「両方共死ぬのならともかく結ばれたりするものか」
「そうなるのはマイスタージンガーだけか」
 ワーグナー唯一の喜劇である作品だ。かなり長い。
「全くないと言って過言ではないな」
「そうだな。全くな」
「では。そういうのは期待せずに観るとするか」
「観るのは二人の歌と演技だ」
 オペラにおいてはその二つを見るのは言うまでもなかった。
「それを楽しむとしよう」
「そうさせてもらうか。さて」
 ここでまた話が変わった。
「上演の日まで暫くは」
「ゆっくりさせてもらうとするか」
 そう言い合う。
「ビールでいい店を知っているか?」
「ワインなら知っているぞ」
 酒の話になった。
「モーゼルでいいのを置いてある店がな」
「モーゼルか」
「どうだ?」
 あらためてそれを尋ねるのだった。
「嫌なら他の店も知っているがな」
「いや、それでいい」
 しかし彼はモーゼルでいいと言う。それどころか言葉からはまんざらでもないといった様子が窺えた。
「実はワインはモーゼルなんでな」
「ベートーベンと同じだな」
 ここで彼はベートーベンの名前を出した。言わずと知れたワーグナーと同じくドイツの楽聖である。彼が終生愛したワインこそがこのモーゼルなのである。
「そうだな。だがそれでもいい」
「いいのか。ワーグナーなのに」
「ワーグナーもベートーベンを敬愛していた」
 これは本当のことである。バイロイト歌劇場もその杮落としにはあの有名な第九を歌っている。戦後はじめての上演前にも歌っている。
「だからいいのさ」
「それもそうだな。それではモーゼルを飲むとするか」
「劇の前にな」
 そう言い合ってまずはモーゼルを飲みに向かうのだった。その頃アーダベルトとエリザベータはそれぞれジャーナリスト達のインタビューを受けていた。場所は他ならぬバイロイト歌劇場の楽屋においてであった。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧