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白鳥の恋

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第一章


第一章

                   白鳥の恋
 ワーグナーが残したローエングリン。この歌劇を愛した者は多い。
 狂王と言われたバイエルン王ルードヴィヒ、ナチス=ドイツの総統アドルフ=ヒトラー。彼等はこの歌劇を幼い頃に見てから終生愛し続けてきた。
 それはこの男女も同じであった。アーダベルト=シュトルツィングとエリザベータ=タラーソワ。それぞれ西ドイツとソ連に生まれた二人は奇しくも同じ年に生まれ同じ歳にそのローエングリンを見たのだった。丁度二人が十一歳になったその時に。どちらも両親に連れられてはじめての歌劇であった。
「ワーグナーってそんなに凄いの?」
「ああ、凄いんだよ」
 アーダベルトの両親が正装した彼に対して言う。その彼の姿は背伸びしたものに見えそれが実に可愛らしい。彼にしてみれば大人になった気持ちになっていたのだが。
「聴いてみたらきっといいさ」
「お父さんとお母さんの貴方への誕生日プレゼントよ」
「僕への」
 そう言われると嬉しい。しかしまだそのローエングリンがどんなものか実感はないのだった。
「それがそのワーグナーなんだね」
「そう、ローエングリン」
「聴くといいわ」
「わかったよ。それじゃあ」
 元々素直な子なので両親のその言葉に従う。それはエリザベータも同じであった。
「寒いけれど我慢するんだよ」
「いいわね」
「うん」
 にこりと笑って頷くのだった。ピンクのドレスに身を包んで。
「これ、お母さんが作ってくれたドレスよね」
「ええ、そうよ」
 エリザベータの母はにこりと笑って娘に答えた。
「特別に作ったのよ。どうかしら」
「とても奇麗よ」
 そのふわふわとしたドレスを手で摘みながら母に答える。エリザベータの家はレニングラードの普通の労働者の家なのであまり豊かなものはない。だが母親は服の工場で勤めていてこうした服を作ることは得意だったのだ。それで今回はじめてオペラに連れて行く娘の為にあえて自分で作ったのである。
「お母さんがはじめて私の為に作ったドレスを着られるなんて」
「ドレスもいいけれどね」
 ここで母はエリザベータに対して言うのだった。
「オペラはちゃんと観なさいね」
「うん、わかったわ」
 二人はこの時何もわからない子供としてワーグナーのローエングリンを聴いた。最初は何が何かわからなかった。しかし劇が進むにつれて舞台に引き込まれ。最後の幕が降ろされた時にはもう何も言えなかった。
「アーダベルト」
 アーダベルトの父が拍手の中で我が子に声をかけた。
「どうしたんだい、黙ってしまって」
「何かあったの?」
「・・・・・・凄いや」
 母も声をかける。しかし彼は両親には答えずにこう呟くのだった。
「これがワーグナーなんだね」
「あっ、ああ」
「そうだけれど」
 感動していたのだ。両親はそんな彼に対して答えた。
「それがどうかしたのかい?」
「そんなによかったの」
「よかったなんてものじゃないよ」
 その感動を隠すことなく両親に答える。その青い目をカーテンコールに向けている。観客席は歓声と拍手に包まれている。その二つもまた彼を覆ってしまっていたのだ。
「こんなに凄いものがこの世にあったなんて。ねえ、お父さんお母さん」
 ここで彼は両親に言うのだった。
「僕、歌手になるよ」
「歌手にかい」
「そうだよ、それで大きくなったらね」
 今カーテンから白銀の騎士が出て来た。そのローエングリンが。
「あのローエングリンになるんだ。絶対にね」
 そう固く心に誓う。しかしそれは彼だけではなかった。レニングラードにもう一人いたのであった。
 労働者用のアパートの中でエリザベータは言うのだった。そのピンクのドレスをまだ着ながら。
 質素なアパートの中にそのドレスは不釣合いであった。しかし何故か彼女はそれをまだ脱ぐことはなく両親に対して話していた。
「大きくなったらこのドレスだけじゃなくてね」
 うっとりとした顔で語っている。
「あの白いドレスを着るわ」
「白いドレスって?」
「あのお姫様が着ていたドレスよ」
 ローエングリンのヒロインエルザのドレスのことだ。エルザは大抵が白いドレスに身を包んでいる。今日の舞台でもそうであったのだ。
「何時か私も着てみたいわ」
「あらあら、それだったら」
 母親は娘のその言葉を聞いて笑顔になる。その笑顔で彼女に言うのだった。
「歌手になったらいいわ」
「歌手に?」
「そうよ。歌手になったら着られるわよ」6
 娘に対して教えるように言う。
「歌手になったら?」
「そうよ。あの舞台に立ってみたいの?」
「うん」
 母のその言葉に頷く。
「立てるの?私が」
「そうよ。ただしね」
 ここからは真面目な顔になる。その真面目な顔でまた娘に告げる。
「勉強しないと駄目よ」
「お勉強しないとなれないの?」
「あの舞台に立つにはね」
 そう娘に対して言うがそれがエリザベータの心の中に滲みは入っていくのであった。それは母が思うよりもずっと深く強いものであった。
「たっぷり勉強しないといけないの。それでもいいかしら」
「どれだけ?」
「ずっとよ」
 娘の目を見て告げる。
「それでもいいかしら」
「うん。私それでもいい」
 エリザベータは母のその言葉に頷くのだった。純粋だがしっかりとした声で。
 
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