ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
優しさに包まれて
前書き
更新遅れについてのお詫びはつぶやきにて
「……済まない。遅かった」
平坦な、しかしほんの少しだけ苦そうな声色で、マサキ君は《竜使いシリカ》に言った。膝から崩れ落ち、項垂れた彼女は、溢れ出る涙を吹き飛ばすように激しく首を振った。
「……いいえ……あたしが……バカだったんです……。ありがとうございます……助けてくれて……」
途切れ途切れに紡がれる言葉は、彼女が嗚咽を堪えている何よりの証拠だった。それから少しの間、押さえ切れなかった彼女のすすり泣く声が暗澹とした森に充満する。わたしはこんな時でさえ、ただ無言でその場に立ち尽くすだけ。マサキ君は何かを考えていた風だったが、やがて数歩進み出ると、少女の傍にしゃがみ、目前から水色の羽根を拾い上げた。
「あ……」
突然の行動に、少女は声を漏らしながら目線を上げた。両頬に付いた涙の筋を拭うこともせず、呆けた顔で視線をマサキ君に注いでいる。全員の視線が集中する中、マサキ君は羽根を一度軽くタップすると、現れたウインドウを可視化させ、「見ろ」と視線で言った。わたしが近付いたのに一歩遅れて少女も立ち上がり、二人して半透明のウインドウを覗き込む。するとそこにあったのは、他のアイテムと変わらない、簡潔かつ淡白な概要。殆どは空欄になっていて、埋められているのはたった二つ、重量と名称――《ピナの心》。
「……ピナ……ピナ……」
「ま、待って!」
“心”の一文字にピンときたわたしの横で少女が再び嗚咽を上げ、わたしは反射的にそれを止めようと割り込む。
「心アイテムが残っていれば、まだ生き返らせられるかも知れないから!」
「え!?」
「え、あ……」
思わず口を開いてしまったことに今更気付き、言葉に詰まるわたし。と、隣でマサキ君がその後を引き継いだ。
「……最近になって判明したことだがな。四十七層にある《思い出の丘》の頂上に咲く《プネウマの花》が、使い魔蘇生用の――」
「ほ、ほんとですか!?」
腰を浮かせて少女が食いつく。マサキ君が頷き、少女の瞳が希望の光に染まる。しかし、それは五秒と持たずに再び消えてしまった。
「……四十七層……」
少女は掠れた声で呟き、力の抜けた肩が再びガックリと垂れた。四十七層といえば、この三十五層より十二も上の階層。この辺りを狩場にしているボリュームゾーンのプレイヤーからすれば、遥か上のフロアだ。プネウマの花の獲得はおろか、命さえ保障はできない。
視線を地面に落としてしまった彼女にマサキ君が水色の羽根を返すと、彼女は僅かに顔を上げて、言った。
「……ありがとうございました。今はまだ無理そうですけど、がんばってレベルを上げて、いつか……」
「無理だな」
「え……?」
「使い魔の蘇生が可能なのは、死亡後三日間だけらしい。それを過ぎると、《心アイテム》が《形見アイテム》に変化する。そうなれば、二度と蘇生は出来ない」
「そんな……!」
叫び声が、悲嘆で震えた。
現在の中層プレイヤーの平均レベルは大体四十前後。三十五層を狩場にしていたという事は、彼女のレベルはもう少し上なのだろうが、それでも四十七層で“安全な”ダンジョンアタックを行うには全然レベルが足りていない。もしそれをしようと思うのなら、ダンジョンそのものの攻略も考えてあと二日でレベルを10は上げなければならない。どう考えても不可能だった。
「そんな……」
同じ言葉を繰り返して、彼女は絶望を隠そうともせずに俯いた。受け取った羽根をそっと胸に抱き寄せる。透明な雫が、小さな顎から滴った。
ぎゅっと、わたしの右手に力がこもった。胸の奥が締め付けられる感覚。わたしは右の拳を胸元に抱き寄せ、失意に溺れる少女を見つめた。
今すぐこの手を差し伸べてあげたい。そんな衝動が心臓の辺りから湧き出てくる。……だというのに。結局、この手は最後まで動かなかった。助けてどうするの? 助けることで自分自身を誤魔化して、でもずっと独りのままで。いつかはまたそれに気付いて、泣き喚いて。それなのに、どうしてわたしは助けるの? ――そんな頭から降り積もる疑問に、全て押し流されてしまって。そして、そんな自分が、堪らなく嫌になった。
唇を噛み、手を握り締めたわたしの視界の片隅で、マサキ君が立ち上がる。このまま立ち去るのだろうと反射的に思った瞬間、わたしはつい先ほど、マサキ君が涙ながらに仲間の仇討ちを懇願する男性の話を聞きに行った光景を思い出す。ひょっとしたら、彼は彼女に手を差し伸べるつもりなのでは――不思議と、そんな期待めいた思考と一緒に。
するとマサキ君は、顔の前で何やら指を動かし始めた。直後、俯いていた少女が面食らったような表情でマサキ君を見上げる。
「あの……」
戸惑っているのが一目で分かる声で少女が呟くと、マサキ君は冷淡なトーンで言う。
「これで約5レベル分は強化できる。俺達も一緒に行けば、問題はないだろう」
「えっ……」
声が漏れたまま開きっぱなしになっていた口をそのままに少女は立ち上がり、マサキ君の発言を反芻し、その真意を推測するようにじっと顔を見つめる。しかしその試みは結局不発に終わったらしく、やがて少女は怪訝そうな顔で、
「なんで……そこまでしてくれるんですか……?」
と疑問を投げ掛けた。
デスゲームと化したSAOでは「甘い話には裏がある」のが常識。また中層でアイドルプレイヤーであった彼女の場合、下心のあるプレイヤーに迫られたことは一度や二度ではないだろう。だから、少女の反応はごく自然なものだった。
「君が今考えている通りだ。俺は、俺自身のメリットのためにこうしている」
少女からの警戒が込められた視線を受けて尚、マサキ君は微塵も動じることなく、抑揚のない事務的な口調で告げた。その答えを受けて、少女の視線が更に険しくなる。
「……ただ、一つ付け加えるとするならば……」
張り詰めた静寂を、マサキ君の声が破った。わたしからは彼の表情は窺えないけれど、何処か昔を懐かしむような声だった。マサキ君は少しだけ目線を上げ、何かを思い出そうとするように、長めの間を取ってから続けて呟く。
「……君のような少女と、昔、会ったような気がする」
「……え?」
鳩が豆鉄砲を食らったみたいに少女の視線から怪訝さが抜け落ち、呆気に取られたと言わんばかりにマサキ君を見――そしてそのすぐ後、少女は盛大に噴き出した。それを見たマサキ君の背中から、ほんの少しだけいじけたような雰囲気を感じ、わたしもつられて笑ってしまう。すると、その笑い声に気付いたらしく、顔を上げた少女と目が合った。
「えっ、あの……ひょっとして、エミさん、ですか……? 《モノクロームの天使》の……?」
「え、あ、と……う、うん」
わたしがぎこちなく笑いながら頷くと、少女は目を丸くして驚いた。その後また少し考ええるように黙り込むと、覚悟を決めたように頷いてペコリと頭を下げた。
「……よろしく、お願いします。助けてもらったのに、その上こんなことまで……」
少女は頭を上げ、自分のウインドウを操作し始める。マサキ君も先ほどからウインドウを弄っていたことから、トレードか何かだろうとわたしは推測した。
「あの……こんなんじゃ、全然足りないと思うんですけど……」
「金はいい。不自由しているわけでもない。それに、この装備は必要な投資だ」
マサキ君はそう言って、目の前を一度タップする。と、少女は恐縮そうにもう一度頭を下げた。
「すみません、何から何まで……。あの、あたし、シリカって言います」
「マサキ」
少女が差し出した手をマサキ君が握る。その後で、わたしにも右手が差し出された。
「えっと、エミ、です」
おずおずとその手を握る。その手は小さく華奢だったけれど、ほんのりと温かかった。
それを見届けると、マサキ君は森の地図を取り出して、街へ向かって歩き出す。その後にわたしたち二人が続く。
疑問はまだ胸の何処かに引っかかっている。けれど、握った手から伝わってきた温もりと少女が見せてくれた笑顔のおかげで、ほんの少しだけ、このままやるだけやってみようと思えたのだった。
片田舎の農村のような風情を漂わせる、第三十五層主街区。シリカちゃん――帰り道にそう呼ぶ許可をもらった――が現在この街を拠点としているらしく、わたしたちも折角なので同じ宿に泊まろうという話になった結果、今わたしとマサキ君は彼女の案内でレンガの敷き詰められた大通りを歩いていた。
「お、シリカちゃん! 聞いたよ、フリーになったんだって? だったら明日からウチのパーティーに入らないか?」
先頭を歩くシリカちゃんが、重そうな銀色のプレートアーマーを着込んだ一人の男性プレイヤーからそう声を掛けられたのは、大通りから転移門広場に入った直後だった。その声を皮切りに、「いやウチが」「ウチなら美味しいスポットに連れてってあげるよ!」といった声が人と共に次々と集まり、あっという間に周囲には軽い人だかりが完成する。
「う…………」
咄嗟に助け舟を出そうとするも、シリカちゃんに殺到する人々の勢いに押され、思わず一歩下がってしまう。
――怖い。
直感的に、そう感じた。以前、幾つかのパーティーから同時に誘われたときの光景が、今のそれと一致していたように見えて。
その時のわたしは、笑顔を振り撒くのに必死だった。自分の寂しさを紛らわしたくて、八方美人を演じていた。だから、人に囲まれるのが嬉しかった。
けれど、今は違う。結局わたしは独りだったことに気付いてしまった。今までしてきたことが、自分のエゴだったと分かってしまった。だから、一体どんな顔であの人ごみに割って入ればいいのか分からなかった。そんな自分を誰かに見られてしまうことが怖かった。結局自分のためじゃないと何もできない自分が、もう気がおかしくなってしまいそうなくらいに嫌で嫌で――
「おい」
「ひゃいっ!?」
はっと我に帰ったわたしは慌てて口を両手で塞ぎ、飛び出してしまった素っ頓狂な声を押し戻しながら振り返る。と、すぐ前にマサキ君の顔があった。気付かれたわけではなかったことに安堵しつつ、今の声が聞かれていなかったかとそのままキョロキョロ。幸い、誰も不審がらなかったみたいだった。
わたしの顔が正面に向き直ると、マサキ君は言う。
「悪いが、先に宿を取っておいてくれ。こっちを片付けたら追いつく」
そして宿代と思われる数百コルを掴ませると、自分はさっと踵を返して人だかりに割って入っていく。後に残されたのは、一人立ち尽くすわたしと、様々な色の絵の具を全部筆で混ぜ合わせたみたいなぐちゃぐちゃの色をした感情だった。
数秒の黙考の後、わたしは唇を動かしながら振り向いて、ごちゃ混ぜの感情を置き去りにするようにして静かにその場を去った。最初はゆっくりと、そのうち小走りに。落とした視線の先で石畳を叩く足音は、後ろでざわざわと騒ぎ始めた人々の喧騒に掻き消され、最後までわたしの耳に届くことはなかった。
その後わたしは泊まる予定だった《風見鶏亭》という名の宿で部屋を借りると、その一階部分に設けられているレストランで二人と合流。二人と碌な会話もせずに夕食を手早く済ませ、二人に先立って自分の部屋に引っ込んだ。
久々に見るふかふかのベッドに仰向けに寝転ぶ。ベージュの天井に、オレンジ色のライトが滲んでいる。部屋は空調も効いていて、今までの隙間風が入り放題だった部屋に比べれば段違いに暖かい。でも何故か、背中に触れるシーツがやけに冷たく感じて、わたしは身体を縮こめながら寝返りを打った。
ベッドサイドの小さなランタンが何となく目に入る。その前を、一人の青年の姿が過ぎった。
「マサキ……君……」
改めて思えば、不思議な人だ。
無表情で、感情が見えない。その理知的で冷静そうな視線は、一見冷淡にさえ思えてしまう。
けれどわたしや、今日だってシリカちゃんを助けていて。それは、彼の外見からはおおよそ想像もつかないような行動だった。
それに何より、今朝彼が起きたときの、あの目――。
「~~~~っ!」
そこまで想像した途端、頬が真っ赤になって熱を発しているのが自分でも分かった。咄嗟に体をもう四分の一回転させ、枕に顔を埋める。ひんやりとした布地が火照った頬に心地いいが、脳裏に浮かぶ彼の姿が消えることはなかった。やがてわたしは諦めて、もう一度仰向けになった。
――マサキ君は、本当はどんな人なんだろう?
どんな風に物事を捉え、考えているんだろう?
どうして、わたしのことを助けてくれたんだろう?
どうしてわたしはこんなにも、マサキ君のことが気になるんだろう?
次々と浮かぶ疑問とは裏腹に、その答えはいつまで経っても分からなかった。そうしているうちに、その疑問はマサキ君と言う人物をもっと知りたいという欲求に変わる。
それから暫くベッドの上をゴロゴロと転がり、数十回の往復を経てベッドの端に流れ着いたわたしは静かに足をベッドから下ろした。泥棒みたいな忍び足で廊下に出て、二つ隣のドアを叩く。程なくしてドアが開き、中からマサキ君のクールそうな無表情が覗いた。
「どうした?」
「え!? え、えっと……あ、明日のこと! 打ち合わせとか、しといた方がいいんじゃないのかなって! だ、だからその……入っても、いい?」
今更ながら自分が何も考えずに来てしまったと気付き、慌てて取り繕う。冷や汗を流すわたしをマサキ君は切れ長の瞳で一瞥すると、「そうか」と呟いて部屋に戻って行ってしまった。ドアは閉じられていなかったため入ってもいいのだろうと考えて、そろそろと中に体を滑り込ませる。
「適当に座ってくれ」
「う、うん……」
部屋の造りはわたしの所と――当然と言えば当然だが――完全に同じで、部屋の右手にベッド、その奥にティーテーブルと、それを挟んで一人掛けのソファ二つが置かれていた。わたしは十秒ちょっと考えて、既にマサキ君が座っていたソファの向かい側に腰掛けた。彼は何やらメッセージを打っているらしく、ホロキーボードを恐ろしい速さでタイプしていた。
「……悪かったな。何の相談もなしに巻き込んで」
途中、マサキ君は指の動きを止めると、突然そんなことを言った。彼の顔そのものは手元のウインドウを見下ろしていて、切れ長の両目から放たれる冷ややかな視線だけが眼鏡と前髪の間からこちらを覗いていた。わたしは慌てて頭を振った。
「ううん、全然! 今日一緒に行くって言ったのはわたしの方だし……それにね、あの時マサキ君がシリカちゃんと一緒に行くって決めてくれて……。何でかは分かんないけど、ちょっぴり安心したんだ」
後半、全く自分で意図していなかった言葉が飛び出して、わたしは言った後自分で驚いてしまっていた。けれど不思議なことに、その言葉が嘘やでまかせだとは思えなかったから、わたしは訂正しようとはしなかった。
「……そうか」
マサキ君は相変わらずの事務的な口調で言うと、視線を元に戻して再びキーボードを叩き始める。そのまま沈黙が続き、わたしが何か話題を探した方がいいのかな……等と考え出した頃、不意に部屋のドアがノックされた。丁度作業を終えたらしいマサキ君がキーボードを消して席を立つ。わたしが何とはなしに首を傾けてドアの外を覗くと、可愛らしいチュニックを身にまとったシリカちゃんがあわあわと両手を動かしながら立っていた。その瞬間、わたしは先ほどの一件を思い出して、心臓がドキリと緊張に震える。
「ええと、その、あの――よ、四十七層のこと、聞いておきたいと思って!」
何処かで聞いたような理由を、途中何度か詰まりかけながらも何とか言い切ったシリカちゃん。するとマサキ君は何を思ったのかわたしに振り向いて、座ったまま彼を見上げていたわたしと目が合った恰好となった。彼は数秒間静止してから、顔色一つ変えずに言った。
「済まないが、俺は少し人と会ってくる。部屋は自由に使ってくれて構わないから、打ち合わせは二人でやっておいてくれ」
「え、えぇっ!?」
あまりにも唐突な宣告にわたしは思わず声を上げてしまうが、マサキ君は気にした風もなくシリカちゃんを部屋に入れると、自分はさっさと出て行ってしまった。取り残されたわたしがぎこちなく顔を動かすと、全く同じ動作をしていたシリカちゃんと示し合わせたかのように目が合った。途端、緊張やら罪悪感やらが胸の奥からこみ上げてきて、お互いの顔に張り付いた引きつり笑いと気まずい沈黙が部屋に横たわる。
「え、えっと……とりあえず、座って? ……って、わたしが言うのもヘンだけど……」
「は、はい……」
先ほどまでマサキ君が座っていたソファを勧めると、シリカちゃんは人形みたいに頷いてちょこんと浅く腰掛けた。
「確か、四十七層のこと……だった、よね?」
「は、はいっ。お願いしますっ!」
「う、うん。こちらこそ」
何故かは分からないがお互いに座ったまま礼をすると、わたしはウインドウから四十七層のマップを呼び出してシリカちゃんにも見えるように可視化した。本当は《ミラージュスフィア》というアイテムがあればもっと精密で分かりやすいマップを見せられるのだけど、残念ながらそんな高級品は持っていない。
「えっと……まずここが、四十七層主街区の《フローリア》。四十七層は《フラワーガーデン》って呼ばれてて、フローリアも含めてフロア中がお花畑で一杯なんだ」
「そ、そうなんですか!? 凄い……!」
『お花畑』のキーワードに反応して、シリカちゃんがパァッと目を輝かせる。
「うん。本当は、北の端っこにある《巨大花の森》ってところがとっても綺麗なんだけど……」
「それはまたのお楽しみにします」
取っ掛かりから会話を広げようとして話を続けると、シリカちゃんはそう言って笑いかけてくれた。ようやく会話の歯車が少しずつ噛み合ってきたような気がして、ほっと胸を撫で下ろす。そして本題に入るべく、《思い出の丘》に続く街道を指で辿ろうとすると、シリカちゃんの言葉がそれを遮った。
「でも、色んなことを知ってて、やっぱり凄いですよね。四十七層にも、他の人の手伝いで行ったんですか?」
「え? あ、う、うん。そんな感じ、かな……」
シリカちゃんからすれば、何気ない話のつもりだったのだろう。けれどその一言にわたしの胸が小突かれて、弱々しい返事を返したわたしの指の動きが鈍った。喉の奥に酸っぱい味を感じて生唾を飲み込みながら俯くわたしを他所に、シリカちゃんは続ける。
「凄いなぁ。こんなことになったのに、ずっと他の人のために頑張り続けてるんですよね。あたしじゃ、絶対真似できないですもん」
――ピタリ、と。わたしの指が動きを止めた。視線は既に、自分の膝まで落ちていた。
「エミさん? どうしました? 大丈夫ですか?」
シリカちゃんの心配そうな声が、遠くの方で聞こえる。
――大丈夫だって、返さなくちゃ。いつも通り、笑顔で。
無理矢理に口元を吊り上げようとするが、ピクピクと震えるばかりで一向に上手く行かない。今までは、無理出来ていたのに。今までは、無視できていたのに。昨日マサキ君の前で泣いてから、それが全然できなくなってしまった。どうしよう、どうしよう……。
罪悪感、孤独、恐怖……全部がぐるぐるに混ざり合った、泥水みたいな色の感情が頭の中を支配して、耐えられなくなったわたしは――。
「……違うの」
遂に、そう口に出した。
「え……?」
何が何だか分からない、と言った風に、シリカちゃんが首を傾げる。わたしは震えながら息を吸って、声として吐き出した。
「違うの。……わたしね、本当は、そんな人じゃなくて……むしろ、逆なんだ」
「逆……って、どういうことなんですか……?」
わたしは一度、うん、と小さく頷く。
「……ずっと、怖かったの。この世界で、独りのままでいることが。だから、できるだけ誰かと一緒にいたくって、他のパーティーに押しかけて……。本当は、他の人のことなんて、これっぽっちも考えてなかった。……でもそれって、ただ自分も皆も騙してるだけで、本当はわたし、ずっと独りのままだった。そのことに気付いたら、この人たちを騙してたんだって思ったら、凄く怖くなって……。今日だって、転移門広場に入った時、シリカちゃんが困ってるからどうにかしないと、って思ったの。でも、気が付いたら人に囲まれてて、わたしのこともバレちゃうって思ったら何もできなくって……ううん、わたしがもっと早くシリカちゃんのところに行けていれば、ピナだって……!」
気が付くと、マップ上に置かれていたはずの右手が左手と一緒にスカートの裾を握り締めていた。
言っちゃった……。怖くなって両目をぎゅっと瞑ると、手の甲に生温い雫が落ちる感触。どれくらいだったろう、下唇を噛みながら震えていると、不意に両手が温かいものに包まれた。
恐る恐る目を開けると、ソファから身を乗り出したシリカちゃんが、真剣な顔でわたしの両手を握っていた。
「エミさんは、いい人です。あたしを、助けてくれたもん」
そして、穏やかに微笑みながら言う。子猫みたいに一瞬体を強張らせたわたしだったが、震えと硬直はシリカちゃんの笑顔と両手の温かさにすうっと吸い込まれて――。
「……ありがとう、シリカちゃん。わたしの方が、慰められちゃったね」
そんな言葉が、わたしの口から漏れていた。わたしの体から力が抜けたことを悟ったのか、シリカちゃんもわたしの手を包む力を少し弱める。
「いいえ、そんな……すみませんでした。あたし、何にも知らなくて……あ、そうだ!」
シリカちゃんは何かを思いついたように立ち上がると、「ちょっと待っててください!」と言い残してバタバタッとドアを開けっぱなしで部屋を出て行った。数分もしないうちにまたバタバタッと戻ってくる。その手には、卵色のケーキが乗ったお皿と湯気を放つカップが一つずつ握られていた。シリカちゃんがその二つをわたしの前に並べると、カップに入っていたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
「エミさん、結局晩御飯の時にチーズケーキ食べなかったから。マサキさんと相談して、後で機会があれば、って取っておいたんです。美味しいですから、是非食べてみてください」
「そうだったの……ありがとう」
「いえいえ。ささ、どうぞ!」
笑顔のシリカちゃんに促されるままにわたしが卵色をした扇形の先端部分にフォークを入れると、柔らかい生地が音もなく切れた。それを落とさないよう慎重にフォークですくい、口に運ぶ。ふわふわのベイクドチーズケーキをその上に乗った濃厚なレアチーズケーキが包み込んで、控えめの甘さが口の中でとろけた。この一年、節約のために食費を限界まで削ってきたわたしにとっては、ほっぺたが十個くらいは落ちてしまいそうな美味しさだった。あまりの味に言葉を失いながらフォークを置いて、脇のコーヒーに手を伸ばす。今までコーヒーなんてものは苦いだけのものだと思っていたけれど、このカップに注がれていた液体はミルクがたっぷり入っていたせいもあって苦味もまろやかで、口の中に残っていたケーキの余韻を綺麗なまま洗い流してくれた。
「美味しい……」
コーヒーの香りが微かに残った息をほうっと吐く。正面のシリカちゃんが安心したように笑った。
「よかったぁ、気に入ってもらえて……。あ、そういえばこのコーヒー、マサキさんが淹れたんですよ」
「えぇ!? マサキ君が!?」
びっくりして、手の中のカップを二度見。
意外だった。まさかあのマサキ君が、こんなに美味しいコーヒーを……。マサキ君が厳しい顔で、まるで化学実験みたいにコーヒーを淹れている場面を想像してしまって、思わず噴き出した。シリカちゃんも同じようなことを考えていたらしく、二人で顔を見合わせて笑う。そうしたら、ちょっぴり心が軽くなったような気がした。
「えっと、話が逸れちゃったね。《思い出の丘》にはこの道を通って行くんだけど、この辺にちょっと嫌なモンスターが……」
気を取り直して、わたしは四十七層の説明を再開した。ケーキとコーヒーに手を伸ばしつつ、そう言えば……と話が何度かわき道に逸れつつ一通りの説明が終了したのは、午後十一時を回っていた。それじゃあそろそろお開きにしようか、という話になり、一足先にシリカちゃんが退室。わたしも自分の部屋に帰って眠ろうと、残り一口程度になっていたチーズケーキを平らげようとした時、不意に部屋のドアが開いた。
「あ、マサキ君。お帰りなさい」
「ああ。打ち合わせは済んだのか?」
「うん、今シリカちゃんが帰ったところ」
「そうか」
マサキ君は事務的な口調で応答すると、わたしの向かいに腰を下ろした。と思ったら、またホロキーボードを出してメッセージを打ちだす。
――「フレンドは取ってない」。わたしがマサキ君と最初に二人で言葉を交わした時の、彼の言葉だ。それなのに、今のマサキ君は現に誰かとメッセージをやりとりしているわけで……その相手のことを考えると、何故かちょっぴり胸の奥が痛んだ。それを押さえ込もうとしてチーズケーキのラスト一口を口の中に放り込みながら、目線が無意識にマサキ君の顔に吸い込まれていく。
理知的な印象の切れ長の瞳に、細いハーフフレームの眼鏡がよく似合っている。よく見ればその他のパーツもマサキ君の落ち着いた雰囲気と相まって、クールで大人びたイメージに整っていた。冷めかけたコーヒーカップに手を伸ばしながらその顔を覗いていると、不思議と心臓がトクトクと高鳴って――
「……何か?」
顔を上げたマサキ君と目が合った。
「へっ!? う、ううん、なんでもない!」
慌ててカップに残ったコーヒーを飲み干す。自分でも、頬が真っ赤になって熱を帯びているのがよく分かる。何とか話題を摩り替えようとして、わたしは軽く手を合わせた。
「ごちそうさまでした。えっと、コーヒーありがとう。とっても美味しくて、びっくりしちゃった。こんな趣味があったんだね」
「下手の横好きだ。と言っても、作るのはコーヒーメーカーだがな」
眉一つ動かさずに返すマサキ君。その姿からさっきの化学実験みたいなコーヒーの作り方を連想してしまって、わたしはまた噴き出してしまった。
「……何か?」
「ううん、なんでもない」
笑い出すのを堪えたまま、首を振る。その後はまたお互いに無言の時間が続いたけれど、マサキ君の顔を見ていると退屈はしなかった。一度伸びをして、ソファに背中を預ける。
「ん……」
すると、途端に瞼が重くなった。ダメ、ここで寝たりしちゃ……。頭の中ではそう思うものの、耳元で囁くような睡魔に誘われ、視界は徐々に狭まっていく。
SAOに入ってから、リラックスして熟睡なんてしたことがなかった。いつも怖くて、不安で、寂しくて……震えながら自分の体を抱きしめて、ほんの数十分だけぎゅっと両目を瞑っていたら、いつの間にか少しだけまどろんでいて。そんなことの連続だった。それが今は、これ以上ないくらいに自然に眠気がやって来ている。
とにかく、自分の部屋に戻らなきゃ……そう自分に言い聞かせて、最後の気力を振り絞って立ち上がろうとして――その瞬間、ぼやけた視界にマサキ君の瞳を見つけた。クールで、理知的で。でもその奥に、本の少し、優しくて、暖かい光が覗いて……。
――何だか、ちょっとだけマサキ君のことが分かったような気がする。そんなことを思った瞬間、わたしの全身から力が抜けた。じんわりと、心の中から全身が温まるような感覚を味わいながら、するりと、わたしの手から意識が零れ落ちた。
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