輪廻
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第二章
第二章
「この店の客はな。大抵はあいつ目当てなんだ」
「やっぱり」
「所謂看板娘ってやつさ」
百合子のいる店の奥の方にちらりと顔をやった。
「おかげで商売繁盛だ。コーヒー入れるの美味いしな」
「ですね。それは確かに」
それは事実だった。百合子はただ綺麗なだけではない。コーヒーを入れたりお菓子をトッピングするのも上手なのだ。当然こちらはマスターの方が上手いが百合子もかなりのものであるのだ。これは隆一の目から見てもわかることであった。
「だろう?言うなら俺の自慢の妹だ」
また口を大きく開けて笑った。
「あいつがいるから俺もこの店もやっていけるんだ。だからな」
「はい」
「あいつに悪いことする奴がいたら唯じゃおかねえ」
そう言って腕を剥き出しにしてきた。何か武道をやっているのじゃないかと思えるような、そんな巨大な腕であった。まるで丸太のような腕であった。
「わかるな」
「よくわかります」
気弱で非力な隆一はその言葉にこくりと頷くしかなかった。反論なぞ考えられもしなかった。
「じゃあいい。それでだ」
「何ですか?」
「今日はこれ終わったらあがりだけれどな。いつも家に帰ったらどうしてるんだ?」
「そのままちょっと勉強して寝ます」
隆一はありのままに答えた。
「御飯食べてお風呂入ってからそうやって」
「まあそんなところか」
「はい、別にすることないですし」
「バイトと学校だけなんだな」
マスターは結構細かく聞いてきた。それが隆一も少し気になった。
「要するに」
「ええ、そうですけれど」
「そうか。まあ大体そんなもんだな」
マスターは腕を組んだ。そして述べる。
「何だかんだで単調な毎日だよな、実際に」
「ですね」
「しかしだ」
ここで彼は言ってきた。
「そんな生活もな、ふとしたことで全然変わるんだぜ」
「そうなんですか?」
「うちの店の客がそうじゃねえか」
またニヤリと笑ってきた。鬚が面白い形に崩れている。それが妙に愛嬌があった。
「百合子目当てに来てな。それを楽しみにしてるんだよ」
「それだけでですか」
「御前さんもきっとそうなるぜ」
そして言う。
「うちの百合子がそのうちに気になってくるだろうな。けれどだ」
「けれど?」
「あれはかなり鈍感だからな。あいつが好きになってそいつがまともな奴なら俺はいいんだが」
妹の付き合う男の話になっている。マスターは困った顔になって首を傾げさせてきた。
「どうにもな。鈍くてな」
そう述べる。それが彼にとっての悩みの種であるらしい。
「困ったもんだ。実は御前さんでもいいんだ」
「からかわないで下さいよ」
困った顔でそう返す。
「ははは、本気にしたか?」
「いや、それはないですけれど」
「安心しろ、俺は本気だ」
「えっ」
驚かない方がどうかしていた。今の言葉で目が点になってしまった。
「今何を」
「あのな、バイト君」
隆一は彼にそう呼ばれている。百合子は大和君と呼ぶ。
「俺は人を見る目はあるつもりだ」
「そうなんですか」
「そうだ。今まで妹に言い寄る訳わかんねえ奴等は俺がこの手でぶっ飛ばしてきた」
その丸太の様な腕を見せて豪語する。
「どいつもこいつもな。やっぱり世の中は碌でもねえ男がゴロゴロといやがる」
「はあ」
「しかしな。バイトの時に俺はちゃんとそいつがどういう奴かも見ているんだ。それでだ」
隆一の顔を見て不敵に笑う。
「御前さんは大丈夫だ。だから雇ったんだよ」
「そこまで考えていたんですか」
「当たり前だ。俺の店で働いてもらうんだぞ」
隆一を見たまま述べる。
「とことんまで見ているさ。それで入れる」
話を聞いて思い出した。そういえば面接は一時間以上かかって時折探るような言葉を言ってきた。何か妙な感じを受けたのは事実だった。それにはこうした事情があったのであった。それが今わかった。
「わかったな」
「そこまで見ていたんですか」
「で、どうだい?」
マスターはそこまで話して彼に問う。
「これから。百合子と話してみるかい?」
「あの、それはまあ」
おどおどした様子で彼に返す。その圧倒的なまでに強引な雰囲気に飲み込まれかけていた。
「百合子さんが良いって仰れば」
「それだよ、それ」
マスターはまた言ってきた。
「その謙虚さと手順を守るのがいいんだ。最近の若いのはそれがなっちゃいないんだ」
実はマスターはまだ二十代である。それでこうした言葉はないと思うがどうもその風格を見てそれは言えなかった。元々人にあれこれと言わない隆一であったが。
「よし、じゃあまあ今は試用期間だ」
勝手に決められた。
「いいな」
「わかりました」
隆一はそれに頷いた。頷いたところで百合子が店に帰って来た。
「おう、終わったか」
「ええ」
そうマスターに返す。
「これでね。そっちは終わり」
「そうか。おいバイト君」
「はい」
どうやら百合子は今の二人の話を聞いていないようであった。それに内心ほっとしながらマスターに応える。
「それが終わったら今日はもう終わりだ。いいな」
「わかりました」
マスターの言葉についてあれこれ考えながら応える。この日はそれで終わりだった。
それから隆一はこれまで以上に百合子を意識するようになった。しかし内気な彼はぽつりぽつりとしか話ができないでいた。それが自分でももどかしくもあったがどういうわけか百合子目当てで来る客は多くとも彼女が陥落することはなかったのでそれでかなり気分的にも助かっていた。
それにはマスターの存在が大きかった。変な男には容赦しない、そう公言している彼を前にして百合子に声をかける男なぞそうはいない。だから百合子に声をかける男自体も多くなかったのだ。
おっとりした百合子はそうしたことにも気付かない。しかし隆一は少しずつ彼女と二人で話をするようになってきていた。そんな時であった。
「あら」
百合子は皿を洗っている彼の手を見て声をあげた。
「どうしたの、それ」
「えっ!?」
隆一は彼女に声をかけられて動きを止めた。それから問い返した。
「何かあったんですか?」
「その右手よ。どうしたの?」
「どうしたのって」
「黒子あるじゃない」
「ああ、これですか」
右手の甲の三つ並んだ黒子であった。言われてみればかなり目立つ。
「生まれた時からあるんですよ」
「そうなの」
「はい」
隆一は答える。どうやら答え慣れているようだ。それは彼の応対でわかる。
「別に何ともないですよ」
「何か一緒ね」
「一緒って?」
「ほら、見て」
百合子はそう言うとにこりと笑って自分の首筋を指差してきた。見ればそこには小さな丸い痣があった。
「これも生まれた時からなの」
「そうなんですか」
「そうなの。洗っても消えないわよ」
笑って言う。
「子供の時はどうしても嫌で何度も洗ったりしたけれど落ちなかったわ」
「僕は別に気にならなかったですね」
隆一は答える。
「何でこんなのあるんだろうって思いましたけれど」
「そうね。そこは違うけれど」
百合子は述べる。
「一緒ね、私達」
「一緒ですか」
「そうよ。何か私と同じ人がいるんだって思うと気が楽になるわ」
「楽になります?」
「ええ」
優しい笑みのまま述べる。どうやら今でもその痣のことを気にしているらしい。それは隆一にも何となくであるがわかった。
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