相棒は妹
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志乃「兄貴、〇〇〇だしな」
「葉山さん、一緒に自販機行かない?」
「うん」
「じゃ行こう!」
そう言って志乃を誘って教室を出て行くクラスの女子。志乃によく話しかけてくる三人の女子達だ。見た目は地味な感じな奴や体育会系の奴など、方向性がいまいちよく分からない奴らだが、基本的に優しい連中だ。志乃から話を聞いたのか、最近はたまに俺に話しかけてくるようになった。優しい性格であると分かったのは会話してからだ。
彼女達は皆違う部活に所属している上、高校で初めて会ったというのに、すぐ打ち解けて仲良くなったのだという。それも、俺と志乃の話題かららしい。何故かお礼されてしまったので、少し困った。俺はお前らのために事件に首突っ込んだわけじゃないんだけど。
そんな三人は、志乃がむちゃくちゃ可愛いという理由で仲良くなりたかったそうだ。あいつは俺に対しては生意気で上から目線な奴だが、それを除けば普通の女子だ。人見知りはしないし、気難しいタイプでも無い。だから友達になるのは意外と簡単だ。
今も三人に誘われて、志乃は微笑を浮かべながら教室を出て行った。仮にあいつらが性格悪かったら、逆に志乃が恐ろしくなって近寄らなくなるだろう。あいつ、自分がやられたら倍返しする奴だから。
しかし、そんな心配は取り越し苦労で、今日も志乃は日常を満喫していた。……いや、俺も楽しんでるぞ、日常。今は一人で教科書と睨めっこだぜ!……ごめん、実は心折れそうなくらい寂しい。女子のほとんどに明確に嫌われてるとか、平穏どころの話じゃないって。
*****
数日後。五日間ある学校の最終日こと金曜日の授業を終え、俺と志乃は普段通りに帰り道を歩いていた。他愛の無い話に花を咲かせ、それにしてはスリリングな応対に、周りの人にチラッと見られる事は少なくなかった。
「そういえば、昨日は帰り遅かったね」
「いや、五十嵐とカラオケ行くって言ったじゃん。お前も誘ったのに定番の即答で断ったじゃん」
「あの女は誰?」
「お前は俺の嫁かよ」
「違う、浮気相手」
「俺は何股かけた男なんだよ……」
「……一三?」
「そんなにいたらいつか刺されるわ!しかもよりによって不吉な文字だし!」
「そういえば、一昨日は遅かったね」
「昨日以外はお前と一緒に帰っただろうが!何をもって遅いと言ってんだお前は」
「出来たての味噌汁を飲むのが遅い」
「全然関係ねぇ!いや、俺猫舌だからさ」
「意外と可愛いじゃん」
「そんなバカにした顔で言われてもちっとも嬉しくないんだけどな」
俺達は寄り道をせずにいつものルートを進行し、目的地に到着する。そこからは全くの別行動と言っても良い。
志乃は制服から体操服に着替え、自室に籠もって何かしてる。特に気になるわけでもないので追及はしないが。
実際、俺も似たようなもんなんだよね。めんどい時は制服きたまま寝っ転がってるけど、ほとんどはジャージに着替えて部屋でパソコンをやっている。余談になるが、ジャージはまだ現役だ。ただ外で着るのは半ばトラウマになっている。あれは不可抗力という奴だったのは確かだけど、それでも俺の中に黒い楔が打ち付けられたのは間違いなかった。
部屋に戻り、今日は本が読みたい気分だったので、志乃のより小さめの本棚から小説を取り出す。俺が好きな作家さんのシリーズ本だ。
一冊を持ってベッドに向かい、仰向けになりながら本を読み始める。窓から差し込むオレンジ色の夕焼けがライトとなり、細かい文字を読みやすくしてくれている。だが、太陽は自転して西の空へと下っていくので、俺がキリの良い所で本を閉じた時には、部屋全体が薄暗くなっていた。どうやら相当読み耽っていたらしい。
やがて風呂が開いた事が告げられ、風呂を出た後に夜飯を腹に放り込む。また部屋に戻って、さっきの本の続きを進めた。
俺は内容や言葉を噛みしめながら読む人間なので、読むのはけっこう遅い。区切りが良いと思った所に栞を挟み、時計を見てみると、二二時を回っていた。明日志乃と録音するというのに、夜更かしするわけにはいかないだろう。
そう考えた時、俺はふと、今日志乃と明日の件について話していない事を思い出した。いや、別に前日だから何か特別な事をしなきゃいけないってわけじゃないのだが、何か落ち着かない。俗にいうミーティングって奴だ。
俺は自室を出て志乃の部屋へ向かった。あいつは、俺が部屋に入るのを拒んでいるわけじゃない。なら、ノックさえすれば入ってもいい筈だ。ノックは重要事項だ。それを、俺の部屋を自分の部屋だと勘違いしてやがる家族の皆様から教えてもらっている。奴らは一向に直そうとしないがな。
俺の部屋の二つ隣にある志乃の部屋の前に着き、静かにドアを叩く。どこか緊張している俺の心を抑え、声が上ずらないようにドアの向こうに話しかける。
「志乃、俺だけど。明日の事で話したい事があるから、入っていい?」
話したい事というのは、たった今浮かんだものだ。単に『ピアノの録音方法』について聞きたいという、簡単な内容だ。後は、何かあるかな。ああ、カラオケまでにどうやって機材を持ち運ぶかについても話すか。志乃は「そんなの明日にでも決めれば良い」って言いそうだけどな。
それにしても、志乃が応答してくれない。あれ、もしかして寝ちゃったのか?いや、あいつは基本二三時以降に寝ていると予想している。何故なら、その時間帯からピアノの鍵盤を叩く音が聞こえてくるからだ。明日が本番だろうと、あいつの性格的に生活リズムを一日だけ壊す事は無いだろう。
「志乃?起きてる?」
それでも反応が無く、俺は仕方なく部屋に戻ろうとした。まぁ、こんなの俺の突発的な考えだし、実際問題、明日でも大丈夫だし。
ちょっとだけガックリしながら部屋の前を離れた時、中からガタンという音がした。そして「わっ」という、廊下にまで聞こえる可愛らしい悲鳴まで聞こえてきた。それを聞いて、俺は軽い安堵を覚え、その次に軽くは無い怒りが血液のように全身を駆け巡った。あの野郎、無視してやがったのか……!
そう思って、ノック無しで志乃の部屋を勢いよく引く。このまま怒鳴ってやるつもりだった。
「お前、居留守はひで、え……って」
だが、俺の声は部屋の内情を見て少しずつ小さくなっていく。そして、視界の中央に映るそれを見て、思考がプツンと途切れた。
そこには、辺りに私服の体操服を散らばせ、下着姿で耳にヘッドフォンを装着し、ピンクのパジャマのズボンに足を通している途中の志乃がいた。
「……」
「……」
互いに何も発さぬまま、時が止まったかのように静止する。俺にはそれが一時間か半日ぐらいに長く感じられた。というか、今の状況にどうすればいいかが分からない。
俺の問い掛けに無視していたと思ったら、着替え中だった。そんな答えをいきなりぶつけられても、途中の方式が無いのだから頭が追い着く筈が無い。そもそも、こんな事自体初めてで、これを乗り越えるための式が存在するかどうかも分からなかった。
とりあえず、茫然として手の動きすら止まっている志乃に、挨拶してみる。多分、ヘッドフォンしてるから聞こえないだろうけど。
「……よっ」
そう軽い調子で声を掛けてみる。だが、数秒後に志乃は今まで見た事がないぐらい顔を真っ赤にして、突然俺に近くに置いてあったゴキブリジェットを向けてきた。そして、神速の如くしゃがみ込み、片方の手でヘッドフォンを取ってから低い声で呟いた。
「兄貴、○○○だしな」
「ぎゃあああああ!妹にすげえ事言われた!出すわけあるか!」
ゴキブリジェット。その名が示す意味、それは人類の絶滅。いや、あれを食らった事が無いので分からないが、内部に噴き込まれたら多分終わる。殺虫性のあるあれは、恐らく人間の性器にも効果がある。つか、あれ人殺せると思うぞ。
過去に志乃にあれを向けられた時を思い出し、背筋に冷たい汗が流れ落ちる。よし、ここは理由を言って奴の非を掴まなければ。
「確かに悪かった!でも、お前が着替え中だったなんて思わなかったんだよ」
「私を襲いに来たの?ならそれは無理ね。私には兄貴を殺す事が出来るだけの武器がある」
「襲わねえよ!でもって危ないもんを部屋に隠してんじゃねえ!」
「どうせ私のほぼ全裸に近い身体を見て興奮してるくせに。そういうのは妹じゃなくて彼女にしなよ」
「だからしてねえって!俺は明日の事について話そうと思っただけで!」
「そんなの、明日に決めればいいじゃん」
やっぱり言った。でも、それ言われちゃおしまいなんだよな……。
今も上半身ブラとパンツだけの志乃を見て、思わず変な気分になってしまう。くそ、ちゃんとしろよ、俺。相手はちっぱい代表の志乃だぞ。俺が望んでるサイズはCカップの筈だろ……!
「あぁ、じゃあ明日でいいや。悪かったな」
とりあえず、ここは退散。これ以上こいつと一緒にいると血圧上がって鼻血出ちゃいそう。
だが、相手は俺の妹だ。そう簡単に逃がしてくれるわけが無かった。
「兄貴」
俺がドアの方に足を向けた時、後ろから淡々と俺を呼ぶ声がした。感情の入っていない平坦な声に、俺は思わず身の毛がよだつ。
「これで済むと思ってんの?」
俺は慌てすぎて話す順序を間違えた。最初にヘッドフォンを付けていた事を攻めようとしたのだが、半分パ二くっていた俺の思考は、先に自分の目的を話してしまった。
さあ、どうする?ここを安全にすり抜ける方法はあるか?
俺が冷静に考えている間にも、志乃は怨念めいた声を発し、俺の頭の中を掻き回す。
「兄貴はもっと物事をよーく考えた方がいいね。じゃないと、またこういう事になるから」
ヤバいヤバいヤバいこれ以上なく、ヤバい。
ここはいっそ逃げるか?ダメだ、逆に追い込まれて最終的に終わる。
「まぁ、今はいいや。明日は大事な録音があるし」
……あれ?今何て言った?だが、ここが現実なのは変わらない。つまり、志乃は許してくれたのか?
ついさっきまでの緊迫感が無くなり、俺は恐る恐る後ろを向いてみた。のだが――
「おわぁあ!」
後ろを向いた直後、顔面に水が掛けられた。しかも……
「いってええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」
自分でもびっくりするような絶叫を発し、顔面――特に目に生じる痛みを必死に訴える。俺は堪らずうずくまり、両手で顔を押さえる。痛い痛い痛い痛い痛い。シャンプーが目に入ったような鋭い痛み。不純物を取りたいのに出て行ってくれない焦燥、苛立ち。目が取れちまうような錯覚を覚え、心臓がバクバクしている。
頭上から志乃の声が聞こえる。
「大袈裟、とは言わない。それが普通の対応だから。これはシャンプー小量とハバネロ小量と水小量を加えて作った催涙スプレー。他にも種類はいっぱいあるけど、これが一番弱い」
ハバネロォ!?なんてもんスプレーに仕込んでやがるんだこいつ!つか、マジでやってくるとは思わなかった……!
「兄貴には死んでほしくないから、このぐらいにしとく。じゃあ、お休み」
そう言って俺を引きづって廊下に放り出し、ドアを静かに閉める。そして、そこには俺の呻きと本来の夜らしい静けさだけが残っていた。
*****
次の日。俺は肌がヒリヒリし目がジンジンするのを我慢して、志乃の部屋に向かった。志乃が「眠れた?」といやらしい笑みを浮かべながら言うので、俺は「グッスリな」と嫌味たらしく言っておいた。
午前中に志乃のピアノの録音を終え、午後にカラオケに行き俺の声の録音をする。まぁ、その間には動画のための編集の時間が加わるので、もし上手くいかないようなら、声は明日になるかもしれない。
俺は機材の準備をする。志乃も手伝うと言ったのだが、パソコンのパスワードを打ち込んでもらい、後はピアノ慣らしをしてもらった。この前一度機材のセットをしたので、やり方は覚えている。
マイクなどのボーカル用の機具は抜きにするので、準備はすぐに終わった。後は志乃に軽く練習してもらい、余裕を持って録音をやりたい。
だが、志乃は準備が終わって三分ぐらいしてから「もうOK」と声を掛けてきた。
「え、早くね」
「大丈夫。それに、私が満足しなかったら何度もやり直すから」
まぁ、志乃とて最初から出来作が仕上がるとは思ってないんだろう。俺は一発で行けると思ってんだけど。まぁ、素人の俺が言っても説得力は無いな。
そう思いながら、録音の準備を始める。
志乃のパソコンにダウンロードされた編集ソフトを立ち上げ、説明書やネットを見て設定をしていく。全てが英語で書かれており、ぶっちゃけ理解出来ないのだが、とにかく録音出来る状態にまで持っていくのが最重要だ。オーディオトラックを用意し、録音対象を決め、入力、出力装置をUSBに変更する。これ、プロの人って全部分かってやってんのかよ。やべえ。
続いてオーディオインターフェイスにUSBケーブルを各位置に差し込む。パソコンに続くケーブルとピアノに付けられたUSB差込口に続くケーブル。それらは自然と三角の幾何学模様を生み出し、室内の雰囲気から乖離していた。
そして、オーディオインターフェイスの電源を入れ、レベルメーターで音を調節する。後は録音のボタンを押せばピアノの音が録れるというわけだ。
「準備出来たぞ」
「じゃあ、始める。私の合図でボタン押して」
「分かった」
志乃はすぐさま点呼を始めた。「三、二……」という声に、ボタンを押す指に力が入る。
そして最後、「ゼロ」という言葉を聞いて、俺はすぐボタンを押す。それから一秒程の空きを経て、志乃は鍵盤の上の手を動かし始めた。
あの時聴いた、志乃のピアノの音。こうしてまた聞いてみると、やはりそれは良いものだった。前回どこが間違っていたのか分からなかった俺は、今回の演奏も完璧にしか聞こえなかった。二回目にも関わらず、演奏が始まった瞬間、一気に鳥肌が立つのだ。
原曲が原曲なだけに、そのテンポは異端している。だが、志乃はそれを何食わぬ顔でこなし、三分程の曲はあっという間に終わってしまった。
俺はボタンを押し、録音を終わらせる。危うく曲に夢中で気付かないところだった。
そして、俺を魅了した音を生み出した妹に、感想を聞いてみる。
「どうだった?」
「……いまいち。もう一回いい?」
そういう志乃はどこか納得いかないような顔をしている。その嫌な感触は分かるので、俺はすぐに了承し、録音を改めて行う事にした。
*****
最初の録音から約二時間。一曲が三分ぐらいで休み無しだったから、恐らく三〇回ぐらいは同じ曲を弾いている。この集中力の高さには、けっこう本気で驚いた。俺は一度休憩した方が良いと言ったんだけど、志乃はそれをあっさり拒否し、ずっと同じ曲を奏で続けた。
そして今。無限に思えた時に終わりが来た。
「これでお願い」
「マジ?」
「一番満足出来た」
志乃がスッキリしたような顔を浮かべ、俺に言ってくる。その顔がとても可愛らしく、俺は何故かドキッとしてしまう。全く、こいつは何の合図も無くやってくるんだから困る。
とはいえ、志乃の伴奏は上手くいった。ちゃんと録音もしてある。後は原曲を弄って、志乃オリジナルの伴奏を組み込めば、声以外の中身が完成する。動画と合わせるのはまだまだ先の話だ。
「志乃、ちょっと休憩してから手伝ってくんね?これ、俺には難しすぎて……」
「兄貴は使えない子なの?」
「酷い言われようだ」
そこで俺も休憩するために自室に戻り、ベッドに飛び込む。ずっと同じ体勢で構えてたから大の字になった時に何ヶ所かの骨がポキポキと鳴った。
天井を見ながら、俺はふと考える。
ついにここまでやって来た。志乃の伴奏が終わり、編集した後に俺の声を搭載する。後は本家動画を拝借すれば、俺達の作品は完成する。
それで終わりなのか?
完成したら全部終わるのか?
俺としては、もっとやりたいんだけど、それは志乃次第か。俺は引き立て役だしな。ボーカルなのに。
「兄貴、何勝手に戻ってんの」
その時、部屋の入り口から志乃の声がした。そうだ、まだ終わっちゃいない。こんな辛気臭い事考えてないで、今はじっくり楽しもう。
*****
俺は再び志乃の部屋に戻り、実際の編集に取り掛かる事にした。
まず最初に、公式に認められているガヤガヤ動画のサイトから曲をダウンロードする。そして、それをDAWソフトという奴に取り込んだ。
そのソフトに搭載されている機能を使い、原曲を俺達色に料理していく。まぁ、曲のピアノ部分を削ったのと、曲の始まりの前にオリジナルの伴奏である事を示した空きを入れただけなんだけど。
そして、ピアノの音を原曲に合成させ、下地がほぼ完成する。後は声を入れればいいだけだ。
「意外と早く終わったな」
「今は時代が違うから」
そんな爺臭い会話を自然と交わしながら、俺達はひとまず昼飯を食べ、少し休憩した後、機材を持ってカラオケ店に向かった。
マイクスタンド以外はそれぞれのバッグに収納出来たのだが、スタンドは仕方なく俺が手で持っている。あまり見られない姿に、周囲の人に声を掛けられる事もあった。
そして、駅前のカラオケ店に辿り着き、俺は志乃に小さな不安を漏らす。
「ここまで来て言うのもなんだけど、承諾してくれるかな?」
「兄貴はヒーローだから大丈夫」
そのヒーローが、自分の活躍を利用して料金タダにしてもらった件については内緒だ。
俺達は重たい荷物を持って階段を上り、店内に入る。けっこう汗をかいているので、クーラーでも点けてほしいと愚痴りたくなった。
店員は「その荷物どうしたんですか?」と当然のように聞いてきた。そこで俺は、「スタンドあった方が調子上がるんで」と言ってその場をやり過ごした。別にいちいち理由を話す必要は無いっしょ。
指定された部屋に入った時、志乃に
「兄貴、入口で言ってた不安はどうしたの?」
とワザと聞かれ、苦笑いするしかなかった。
まだ時間はある。だが、歌はあまり時間をかけられない。何度も歌ってれば、喉の調子が悪くなり、余計下手になるからだ。
「とりあえず、最大一〇回な。それでもダメだったら、また次回やらせてもらう」
「分かった」
俺の無茶に、志乃は何の心配顔もせず楽々と了承する。それは承知の上、という事だろうか。何だかバカにされているような気がするが、今は気にしないでおこう。
テーブルに機材を置き、ケーブルで各機材を繋げる。さっきと違うのは、ボーカル関係の物が新たに加えられているところだ。
全ての準備が整い、俺はヘッドフォンを付け、マイクスタンドの位置を調節する。もろに耳から曲が流れるという、いつもと違う感覚に緊張が高まる。緊張を解そうと深呼吸をして、志乃に声を掛ける。
「とりあえず、一曲二曲歌わせてくんね?」
*****
カラオケで声出しをすると、やはり喉の感じが違う。発声練習の仕方覚えないとなぁ。
「兄貴、いい加減発声練習とかしなよ」
「俺も今それを考えてたところだ」
そう言いながら耳にヘッドフォンを付け直し、今度こそ志乃に合図を送る。
志乃は小さく頷き、編集された曲をパソコンから流し始めた。
最初に、志乃のピアノの音。パチモンじゃないという証拠のために加えたもの。志乃はこれを「ユーザーにはいらない場面」と言われたが、これが無ければ志乃の実力が証明されないので、入れる事を強く推した。
数秒後、ピアノの音と同時に原曲が始まる。さあ、ここからは俺の出番だ。
そこからは完全に曲を歌う事にのめり込んでいた。心の中は穏やかで、自分が自分を急かす事も無かった。これまでに感じた事の無い、圧倒的、安堵。
曲は難しいのに、歌っていても苦しい部分が無い。まさに『楽し』かった。
そんな優雅なひと時はすぐに終わりを告げ、志乃のピアノで曲が終わる。ヘッドフォンを取り、志乃の方を見る。すると、志乃は満足そうな顔で俺に言ってきた。
「やるね」
その三文字に、俺は何故かウルッときてしまった。いや、ホントに何でだろう。ただ、志乃に普通に褒められるのがあまりにもびっくりした。
「兄貴、何泣きそうになってんの?わりと気持ち悪いよ」
「うっせ」
全く、この妹は本当に妹かっての。もしかして俺の姉なんじゃねえの?全然俺よりしっかりしてんぞ。ああでも、俺がダメなだけかもな。
俺は今の録音を聴いてみた。自分の声を聞くというのが、予想以上に恥ずかしかった。隣で志乃がニヤニヤしているのが何ともムカつくので、平静を装っていたのだが。
そして、全てを聴き終えた上で、俺は自分の感想を伝える。
「その、俺はこれがすげえ良いと思えたんだけど。お前はどう?」
思い切って聴いてみると、志乃は少し悩むように頭をわずかに下に向けるも、ゆっくり顔を上げて答えた。
「私は問題ないと思うよ」
「そ、そっか」
「……」
「……」
そこで謎の静けさが訪れた。恐らく、これでほぼ完成という事で、それに対する言葉を探しているのだ。
実感は無かった。まさか、一ヶ月半ぐらいで完成まで辿り着けるだなんて、正直考えていなかった。
でも、ここで現に完成しようとしている。
「……これって」
「?」
俺は自然と言葉を漏らしていた。別に何か考えて言い出したわけじゃないのに。志乃は突然声を上げた俺をじっと見ていた。
「これって、後は動画を付ければ完成なんだよな」
その次に出たのは、別に特別性など無い、ただの確認の言葉だった。
「そうだね。まぁ、動画は本家の奴使えばいいんじゃないの」
志乃はそれに対し相槌を打ち、続いて言葉を吐き出した。
「とりあえず、作品の大部分は完成した。お疲れ様」
「お、おおう。でもなんか、そういう感じがしないな」
俺は素直に今の心境を話す。もっと盛り上がると思ってたのに、実際はそうでもなかった。
だが、それは外面での話だ。
志乃に「お疲れ様」と言われて、俺の中に溜まっていた何かがドッと溢れた。次に現れたのは途轍もない達成感と脱力感。何か大きな事をやり遂げた時に味わう醍醐味だった。
「けど、俺今、すげえ嬉しいわ」
気が抜けて、俺が素の笑顔を向けると、志乃はプイと顔を背け、黙って機材の回収をした。俺はそれには気にせず、作業の手伝いを始める。
もうこれで全てが終わってしまうかもしれないという一抹の不安を感じながら。
後書き
歌い手さんの事を調べた結果、このような形で描写させていただきました。実際の作業方法や順序との違いがありましたら、それは作者である自分の責任という事でご了承ください。
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