カサンドラ
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第六章
第六章
「では私が行く方がいいか」
「パリス、いいのか」
「兄上、ここはお任せ下さい」
彼は強い声で兄に答えた。
「私が見事アキレウスを倒して御覧にいれましょう」
「そうか。それならばだ」
「はい。ではイオラトステスよ」
「はい」
「そなたの提案受けよう」
毅然とした声でイオラトステスに告げた。
「その言葉をな」
「有り難き幸せ」
「アキレウスはギリシアきっての英雄」
パリスもそれはよくわかっている。だからこそその表情は厳しいものになっていた。しかし彼も王族であり尚且つ己の腕には自身があった。退くつもりはなかった。
「あの男を倒せばギリシアには勝利したも同じだ」
「そうです。だからこそ」
イオラトステスはまたパリスに話した。
「ここはパリス様が」
「あの男の足の腱を撃とう。それでいいのだな」
「その通りです」
こうしてアキレウスの相手はヘクトールではなくパリスが務めることになった。すぐにギリシア側に一騎打ちを申し出、ギリシア側もそれを受けた。翌日の正午からの開始となった。
カサンドラはまずは長兄が助かったことに安堵した。だがここでまたあることを思うのだった。
「けれど」
己の予言のことである。
「どうしてあの若い士官は」
イオラトステスの名はまだよく知らなかった。
「私の言葉を信じてくれたの?まさかあの人こそ」
ふとそう思う。だがそれはすぐに打ち消した。
「いえ」
首を横に振って言うのだった。
「そんな筈がないわ。この世で一人だけだというのに」
アポロンの呪いを思い出しての言葉である。
「それなのに。このトロイアにいるなんて」
そのことを信じていなかったのだった。今は希望を自分で打ち消す。そうしてとりあえずはヘクトールが救われたことを一人喜ぶ。その次の日の正午。トロイアの正門前にパリスは立っていた。向かい側、ギリシア軍を背にしてアキレウスが立っている。
「アキレウス殿だな」
「その通り」
アキレウスはパリスを見据えつつ答える。既に二人はその手に弓を、背に矢を入れた筒を装備している。互いに申し出を守っていた。
「私がそのアキレウスだ」
「私の名はパリス」
パリスもまた己の名を名乗った。アキレウスを見据え臆するところがない。
「トロイアの第二王子にして将軍の一人だ」
「話には聞いている」
アキレウスもまた臆してはいない。それどころか言葉の一つ一つからも自信が見える。二人共鎧も株とも身に着けず弓矢を扱い易い軽装だがアキレウスは最初から鎧も兜も不要と言わんばかりであった。己の不死身の身体のことを知っているからこそであろうか。
「トロイア一の弓の使い手だな」
「トロイア一ではない」
だがパリスもまたそのアキレウスに負けない程の自信をここで見せた。
「私の腕はな」
「では何だ?」
「この世界で最もだ」
こう言うのであった。
「私に弓で勝てるのは偉大なるアポロン、アルテミス両神だけだ」
「言うものだな。神に次ぐか」
「そうだ。だからこそ見せよう」
言いながら背中に手を回した。そこにある矢を手に取る。
「今ここで。その弓を」
「望むところ」
アキレウスも彼と同じ動作をする。いよいよだった。
「一つ言っておく」
「何だ?」
アキレウスの言葉に応える。二人の間の中空に黄金色の日があり青い空と黄の大地を照らしている。城壁にはトロイア軍、その向かい側にはギリシア軍がいてそれぞれ二人を見守っている。どちらもこの一騎打ちの行く末を固唾を飲んで見ているのだった。
「私に敗れたことは恥ではない」
「どういうことだ?」
「私は不死の身体を持っている」
やはり言うのはこのことだった。
「如何なる刃も私を貫くことはできず槌もまた跳ね返す」
「弓もか」
「無論だ。それがなくとも私の力と技は誰にも敗れたことはない」
自信の源は不死の身体だけではないのだった。
「その私に敗れてもな。それは言っておこう」
「果たしてそうかな?」
だがここでパリスは不敵な言葉を口にするのだった。
「果たして。貴殿の言葉通りになるか」
「私は嘘は言わぬ」
「ではその言葉を嘘にしてみせよう」
互いに弓を構えつつの言葉だった。
「今ここでな」
「ならば」
「参る」
いよいよだった。
二人の弓が極限まで引かれそのうえで矢が放たれる。二人は同時に弓矢を放った。パリスは弓矢を放つと同時にすぐに身体を右に捻ってみせた。
既にアキレウスが自分の身体の何処を狙っているか読んでいたのは。それは左の胸だ。外すことのないアキレウスの弓でも何処を狙っているかわかればかわすことは彼にとっては容易いことだったのだ。
だからこそかわすことができた。矢はアキレウスのものの方が速かった。放つと同時にもう身体を右に捻ったパリスの側を通り抜けトロイアの壁に突き刺さった。その石の壁さえも半ば貫いていた。恐るべき力だった。
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