夫婦蕎麦
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1部分:第一章
第一章
夫婦蕎麦
二人でこの店をはじめて何年になるか。ふと考えた。
「確かあれか?」
「そうですよね。もう五十年ですかね」
「六十年だったかな」
夫の菱岡忠義は眼鏡をかけた柔らかい顔がある首を少し捻って述べた。髪は丹念に後ろに撫で付けている。
「それ位かな、もう」
「いえ、そんなに経ってませんよ」
けれど妻の和栄はそんな夫に対して笑顔で告げる。頭はもう完全に白くなってしまったが目は優しくまだ若い日の面影を残している。二人とも白い帽子と服を着て店の厨房にいて後始末の掃除をしていた。二人はこの店で長い間蕎麦屋をしているのである。
「まだ六十年は」
「そうか。まだだったかな」
「まだですよ。だって屋台をはじめたのか」
「そうだったなあ。あれは杉浦忠がデビューした時で」
ここで決して長嶋とは言わないのだった。忠義にしろ和栄にしろ巨人は嫌いだからだ。
「その時だったからなあ」
「二人共やっと高校を卒業して」
「あの時代高校を卒業するのもなあ」
夫はふとその時代のことを思い出した。まだものが足りなく日本中が慌しかった時代である。
「大変だったからなあ」
「今と大違いですね」
「全くだよ」
続いて今の時代のことも話すのだった。
「本当に何もかもが違うからなあ」
「そうですよねえ。けれどうちの蕎麦の味は」
「いや。変わったよ」
厨房の中を濡れた雑巾で拭きながら述べる。
「本当にね。変わったよ」
「変わりました?」
「味はよくなったな」
またその杉浦忠がデビューした時代を思い出しながらの言葉である。
「絶対にな」
「だといいですけれどね」
「最初はわしだけが作っていてなあ」
その屋台の時代のことだ。
「婆さんは後片付けや掃除で」
「そうでしたね。私はそれだけで」
「わしは蕎麦を作って練って」
そこからはじめている本格的な蕎麦なのであった。これは最初からだった。
「それで茹でてな」
「おつゆも取って」
「わしだけでやってるとな。どうもな」
その時のことをまた思い出しているのだった。
「味がよくなかったな」
「何言ってるんですか。その時から評判だったじゃないですか」
和栄もまた濡れた雑巾で厨房の中を拭きながら夫に言葉を返すのだった。二人はそれぞれ手分けして厨房の中を丁寧に掃除し続けていた。
「物凄く美味しいって」
「それが違うんだよ」
しかし夫はこう言うのだった。
「これがな。どうしてもな」
「違うんですか」
「そうだな。違うな」
ここで一旦雑巾を絞る。そのうえでまた厨房の水道の水で洗って絞ってそのうえでまた拭いていく。本当に丁寧に念入りに掃除をしていた。
「掃除だってな。婆さん一人だけだとしんどかっただろう?」
「いえいえ、全然」
口ではこう答え笑顔で返す和栄だった。
「そんなの。平気でしたよ」
「そんなことはない筈だよ。だってこんなにしんどいんだからな」
忠義は笑いながら掃除をしつつ語る。
「二人でこれなのに一人だと余計に」
「ですから。お爺さんはお爺さんでお蕎麦作ってたし」
「それが駄目だったんだよな」
また昔のことを思い出して言うのだった。そして。
「あの時のこと。覚えてるかい?」
「ああ、あの時ですね」
和栄も言葉を聞いてすぐにそれが何か思い出したのだった。
「屋台をやっていた最後の方で」
「店を持つすぐ前のな」
「はい。その時にでしたね」
二人でその銀色の厨房の中を掃除しながら話を続ける。蕎麦を茹でる釜もうどんを茹でる釜も掃除している。ただだしの入った鍋だけはそのままである。
「あの人が来たのは」
「誰だったかな、名前は」
その人のことを思い出しながら二人はその時に戻っていく。二人が屋台で出会ったその人のことを。
屋台をはじめて数年。二人の蕎麦の売れ行きはよく二人は忙しくかつ充実した日々を過ごしていた。金も貯まりもうすぐ店を持てるというその時に。彼が来たのだった。
「毎度」
「あいよ」
来たのは如何にもといったサラリーマン風の男だった。頭は前から見事に禿げていて歯が出ている。身体は痩せているがもう腹が出てきていてネクタイもスーツもくたびれ外見はお世辞にもいい男ではなかった。その彼がふらりと屋台の中に入ってきたのである。
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