蒼き夢の果てに
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第5章 契約
第95話 オメガの扉
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第95話を更新します。
次回更新は、
8月20日 『蒼き夢の果てに』第96話。新章の開始。
章タイトル 『流されて異界』
タイトルは、『狭間の世界』です。
そうして……。
そうして、ゆっくりと差し出されるヴィルヘルムの右手。
この右手を取って仕舞えば――――
刹那。乾いた音を響かせ払い除けられるヴィルヘルムの右手。その瞬間、俺の精神は……。いや、俺を取り巻く世界の在り様は、冬の属性の風が吹き付け、白い氷空からの使者が視界を覆い尽くそうとする、冷たいけれど、それでも通常の世界を取り戻した。そう、この行為により寸でのトコロで自らの立ち位置を、異界との境界線にまで押し返す事に成功したのだった。
「――それで?」
差し出されるヴィルヘルムの右手を大きく振った右手の甲で弾き、出来るだけ冷たい言葉で答える俺。
もっとも、一度強く瞳を閉じた後のこの行為だっただけに、この行動や口調が虚勢で有った事はキュルケにさえも気取られた事は間違いないでしょうが。
但しこれ以上、この目の前の存在にイニシアチブを取られ続けると、本当に精神を操られる可能性が有りますから。そう判断しての、少し相手を徴発し兼ねないような、危険で強い拒絶を示した訳ですし。
流石に、現状で精神を汚染されるのは問題が有りますから……。
そう、現在のここは危険な場所へと変化しているのは間違い有りません。テスカトリポカが顕現し掛けた異常な呪力が未だ蟠って居るこの場所に、また違う世界が重なり合おうとしている状態。
ここに留まるだけで一瞬毎に……。一呼吸毎に正常な感覚が削り取られ、何か良くないモノへとその削り取られた部分が生け贄として捧げられているかのように感じる。
そんな危険な場所へと……。
「確かに、何だか判らない存在に操られるのは気分の良いモンやない」
未だ少し焦点の合わない瞳に力を籠め、揺れ続ける視界と足元に喝を入れる俺。呼吸を整え、丹田で練り上げた気を身体中に巡らせ、一気に戦闘可能状態へと持って行く。
確かに俺に命令を出来るのはこの世界でただ一人。そいつ……俺以外には存在しません。
しかし、ヤツ……ヴィルヘルムが言う事が真実ならば、その俺が自分で考えた事さえ、実は誰か判らない存在。一般に神と呼ばれる存在の思考誘導により、ヤツラの思惑に乗って居る事に成るのでしょう。
但し――
「それでも、今、俺が感じて、考えた事は俺自身の考え。其処に何も不都合な部分はない」
何モノかの思惑に乗って居ようが、居まいがそんな事は関係ない。すべてが自分の考えで選んで来た選択肢の結果。それが現在の俺の立ち位置。
誰かに強制された訳ではない。確かに、タバサの使い魔に成った経緯や、ガリアの王太子の影武者役などは少し状況に流された感は有るけど、無用な軋轢を生むよりは双方の主張の落としどころを模索した結果の立ち位置ですから、自分的には大きな問題が有るとは思っていない状態。
「俺の足りない……。経験の浅い脳ミソでは難しい事は判らない。せやけど、それ……俺の行動の結果や思考が何モノかの思惑により作り出された物だろうが、それ以外の何だろうが関係ない。
俺は今まで通り、自分で判断して、自分のやりたいようにやって行くだけ」
正直、気分的に言えば、それがどうした。……と言う気分。
神の思惑だろうが、ヴィルヘルムの思惑だろうがそんな事は知った事じゃない。
もう一度言う。それがどうした……だ。
確かに、もし、タバサが前世の記憶を有して居る理由が俺の業に起因する物ならば、彼女に対しては多少の責任と言う物が発生すると思います。
が、しかし――
それでも、それ……。前世からの因縁を受け入れたのは彼女だって同じ。転生の際にすべてをリセットする。……俺などに関わらない転生を望む事だって可能だったはずなのに、彼女はその人生を歩む事を拒み、俺と共に在る人生を望んだのですから、彼女だって共犯者と言う間柄。
ふたりの間には、どちらかが一方的に負わなければならない責任など存在しない。
「まして、オマエやって似たようなモンやないのか、ヴィルヘルム。オマエやって、何処に繋がって居るのか判らへん糸に操られた操り人形やろうが」
そう、返す刀で斬り返す俺。
いや、この目の前の東洋風イケメンは、俺なんかと比べものにならないぐらい酷い……危険なヤツに繋がっている可能性が高い。
そもそも、コイツ。この目の前のゲルマニア皇太子ヴィルヘルムはヤツの一顕現に過ぎない存在。コイツがすべての黒幕で有りながら、末端の。……何時でも切り捨てられる存在でも有るはずですから。
ヤツ――這い寄る混沌に取って、人間として転生した肉体などはその程度の扱い。
それに、ヴィルヘルムが言う、俺を手の平の上で踊らせている神と言うのはヘブライの神と北欧神話に繋がるアース神族の事でしょう。
故に、それぞれの思惑の元、俺に能力を与えるような加護を与えながら、最終的には死が待って居るオーディンの神話やナザレのイエスに繋がる聖痕を付けて行って居る。
この混乱を鎮め、世界に滅びの兆候をもたらせている存在の排除が終れば俺のような人間は用済み。その際に後腐れなく俺を消す為に、最期に死する……と言う英雄たちの伝説を追体験させているのでしょうから。
その未来を指して、手の平の上で踊らせられている、と表現するのなら、それはおそらく事実でも有ると思います。
俺の言葉に少し苦笑のような表情を浮かべ、肩をすくめて見せるヴィルヘルム。この瞬間、それまで周囲を閉ざして居た邪気が薄れ、白い結晶と冷たい風が支配する世界が完全に戻って来た。
そして、
「やれやれ、忘れていましたよ。貴方が、世界中すべての人間と大切な相手。どちらか片方しか救えない場合にどう言う行動を取る人間か、と言う事をね」
東洋風の整った顔に貼り付いた笑顔の所為で、何故か非常に楽しそうに聞こえるその言葉は俺に取って簡単な答えしか出し得ない言葉であった。
その答えは……。
「そんなモン決まっている。見も知らん他人よりも自分に取って大切な相手」
俺は別に世界を救う英雄に成りたい訳じゃない。まして、神に選ばれるのも御免被る。
少なくとも、英雄や救世主と呼ばれた連中が最終的にどうなったのかを知って居たら、神に選ばれたと言って喜ぶ事は出来ないと思いますしね。
先ほどまで、俺やタバサの相手をしていた元東薔薇騎士団所属の騎士殿が、その典型的な例。神に選ばれた存在と言うべきでしょうし……。
しかし、
「いいえ、違います」
それまでは柔らかな口調。確かに、多分に毒を含んだ内容ながらも、口調自体は非常に柔らかな口調だった物が、少し強い断定系の言葉使いに変わる。
もっとも、違うと否定されたトコロで、俺が優先するのは身近な人間の方だと思うのですが……。
ヤツ。ヴィルヘルムが知って居る相手と言うのが、すべて俺ならば。
「確かに大切な人を優先するのは変わりませんが、貴方はその他大勢を見捨てた事などありません。ふたつの選択肢しか与えていないはずなのに、何故か三つ目の選択肢を選んで仕舞う」
それが貴方の性と言えば、性なのかも知れませんが。
それまでの顔に貼り付いた作り物めいた笑顔などではなく、本当にヤツ自身が苦笑したかのような気さえして来る笑顔をこちらに見せ、そう続けるヴィルヘルム。
そう。何故かその瞬間だけは目の前に居る黒い闇を纏う存在が、ごく当たり前の人間であるかのように俺には感じられた。
「大切な人を護り、更にその他大勢も護ろうとする。代わりに自らの生命を生け贄と捧げて」
正に、英雄の魂を持つ存在としての面目躍如と言った所ですか。最後の最期の瞬間に、愛する人たち以外のその他大勢さえも護った上で、自分は生命を落とすのですから。
本当の俺を知らない……。明らかに買いかぶり過ぎの台詞を続けるヴィルヘルム。しかし、もし、ヤツが言うのが俺……の前世の姿ならば、それは間違いなく買いかぶり過ぎ。
おそらく、大切な相手を護ろうとするのも、ギリギリまでその他大勢を護ろうとするのも間違いではないでしょう。見も知らない他人の生命だとは言え、簡単に見捨てて仕舞うと流石に目覚めが悪いでしょうから。但し、最後の最期の瞬間に自らの生命を落とす事が多いのは、自らが望んで……大切な相手を含む世界全てと自分の生命を秤に掛け、これならば見合う対価だと判断。その結果、世界と自らの生命を等価交換した訳などではなく、甘い見通し……。根拠のない自信で事に望んで力及ばず、自分の生命を失っただけ。
確かに自分で考え付く限りの策を打つのは間違いない。しかし、それでも足りずにギリギリの部分で生命を落としているのでしょう。
まして、残されるよりは先に逝く方がマシだと言う、少し後ろ向きに考えた結果の可能性も高い。
もっとも、俺の事を買いかぶり過ぎて居ると言っても、わざわざ指摘してやる必要もない相手なので、この場は沈黙を持って聞き流す事で充分でしょうが。
会話が途絶えた。頭上に五山の送り火が輝き、除夜の鐘が響いて居た時のこの森の中は様々な生命の息吹に溢れた、生命のるつぼと言う世界で有った。
但し、今では……。
静寂と停滞に支配された白の世界へと変化して居た。
しかし……。遅い。
状況が状況だけに、この場で腕時計を確認する訳には行かないのですが、それでもキュルケが現われてから、少なくとも十分以上は経過して居るはず。
しかし、未だルルド村に残して来た戦力が此方に辿り着く気配はなし。
更に、リュティスに残して来た湖の乙女やティターニアがオルニス族のシャルを伴って増援に現われたとしても不思議ではないのですが……。
彼女らには、茜色に染まったルルド村でラバンとの会話を始める前に連絡を取ってあるので、ある程度の俺やタバサの巻き込まれている事件の予測は付いて居るはずなのですが。
「そうそう。ルルド村に残して来た方々は、ここに現れるには後しばらくは時間が掛かると思いますよ」
何気ない。本当に明日の天気に付いて語るような、何気ない雰囲気でそう話し掛けて来るヴィルヘルム。
しかし、その内容はまるで俺の心を読んだかのような内容。
そうして、
「伝承の中の一節。数多の魔獣を操り、と言う部分をお忘れですか」
……と言葉を続けた。
その瞬間、俺の脳裏に一人の青年の姿と、ラ・ロシェール、ゴアルスハウゼンの事件が浮かぶ。
いや、港町ブレストの事件もそうでしたか。
ただ、もしそうだとすると……。
其処から更に不吉な予想が俺の脳裏に浮かぶ。魔物が騒ぐ理由が月の魔力だけでなかった場合は。
いや、ラ・ロシェールの事件以外の時には、明らかに聞こえて来てはいけない召喚用の呪文が聞こえて来ていましたか。
但し、今の俺には何も感じない。少なくとも彼女らは何十キロも離れた場所で戦って居るはずはない――ルルド村周辺での戦いを俺やタバサが感じないはずはない。
……と言う事は、
「彼は慈悲深き副王。彼に従わない魔の物は存在しませんよ」
それが例え、本来はミーミルの井戸を護る為に配置された黒龍だったとしてもね。
俺の考えを補足するかのように、ヴィルヘルムはそう言った。
成るほど。あのラグドリアン湖の異常増水事件も、矢張り、こいつらの仕業だったと言う事ですか。
もっとも、先にヤツが言った台詞。人が望んだから事件を起こした。……と言う言葉を信用するのなら、事件が起きる事を誰かが望み、それをこいつ等が叶えようとしたと言う事に成るのですが。
おそらく、ルルド村自体が異界化現象に巻き込まれているのでしょう。まして、この場にはヴィルヘルム。いや、妙な東洋的笑みを浮かべ続け、他者をシニカルに見つめ続けて居る存在が顕われている以上、この場所自体も既に異界と化して居る可能性が高い。
しかし……。
少し思考がずれ掛かったのを元に戻す俺。少なくとも、この目の前の薄ら笑いを浮かべたイケメンと、忌まわしき書物に記されているアイツとがイコールで繋げられる存在ならば、こいつ自身がこの場で俺に仕掛けて来る可能性は低い。
それよりも今重要なのは――
今までこの目の前の薄ら笑いを浮かべた男や、自称名付けざられし者が関わって来た事件は、最悪の結末を迎えた場合は世界自体の破滅を招きかねない事件だと思うのですが……。そんな事件が起きる事を願う人間って……。
そこまで考えてから、しかし、少し考え方の方向を変えて見る俺。
それは……。
それは、本人たちが破滅する未来など予測をしていなかっただけ、……と言う、非常にマヌケな可能性が有る事に気付いたから。
そう、今まで俺たちが巻き込まれた事件を直接起こした連中を思い起こして見ると、この可能性が高いように思えて来る。
かなり甘い見通しと、敵対者の存在すら考えて居なかったかのような行動。それに、自らが何モノかに選ばれた存在だと言う思い込み。
特に、この思い込みの部分が大きかったようには感じるのですが。
「それに、ここ。ルルド村の事件に貴方とシャルロット姫が派遣されて来た、と言う事は、リュティスを挟んで反対側。鬼門の封じは既に破られたと言う事ですね」
鬼門の封じ!
次から次へと動く事態に対処する為に、思考がダッチロールを繰り返していた俺を無理矢理、現実界に引き戻すヴィルヘルムの言葉。
確かに、ここルルド。ガスコーニュ地方は、リュティスから見ると裏鬼門と言う方角に当たる。そして、北東に当たる方角と言えばゲルマニアとの国境付近。ゲルマニアとの戦端が開かれれば、其処は最初の主戦場と成る可能性の高い地方。
ブリミルの降誕祭の間は戦闘行為が禁止されている、と言うから、流石にその間にゲルマニアが国境を侵して来る可能性は低いと考えて居たので……。
しかし現実は、そんな宗教的禁忌などを超えた場所で推移する、と言う事ですか。
それに、流石は電撃戦で第二世界大戦の緒戦を制した国ですか。自らが強く信奉する宗教の教義よりは、戦の勝ち負けの方が重要だと言う事なのでしょう。
この部分に関しては素直に感心するしかない。そう、心の中でのみ首肯く俺。
普通の人間ならば見たい物……。見たい現実だけを見ようとする。この場合の固定観念はブリミルの降誕祭の間は戦闘行為が禁止されている、と言う同じ人間相手の時にのみ通用する約束事。
更に言うと、ガリアの聖戦に対する態度は保留の状態。確かに国内の空気は戦争回避と言う方向に流れつつある事は、少し情報収集をしていたのなら判るでしょう。
しかし、それでも尚、ガリア国としての正式な回答を待たずの侵略行為。こりゃ、ゲルマニアやロマリアからガリアの人間は、同じブリミル教を信奉する人間扱いはされていない可能性も有りますか。
もっとも、備えあれば憂いなし。相手がハルケギニアの常識に囚われない戦略を講じて来るのなら、こちらはハルケギニアの魔法使いの常識に存在しない魔法が有ります。
少なくとも、リュティスには湖の乙女と妖精女王ティターニアが。ゴアルスハウゼン……ヘルヴェティア地方には未だマジャール侯爵麾下の飛竜騎士団が存在して居るので、そう易々と国境を侵されるとは思いませんが。
何故ならば、イザベラにはデカラビアとオリアスと言うソロモン七十二の魔将の中でも諜報。特に、軍の動きを探らせたのなら双璧の能力を持つ魔将と契約を結ばせているのです。更に、彼女の傍には俺の式神。黒き智慧の女神ダンダリオンも配置してあるのですから。
おそらく、ゲルマニア軍が国境を侵した瞬間に、陸軍はティターニアや湖の乙女。それに地霊たちが目の前に立ち塞がり、飛竜や飛空船の前には、マジャール侯爵率いる飛竜騎士団やリュティスに残して来たソロモン七十二の魔将第四席ハルファスが立ち塞がる事と成るので……。
リュティスに関しては、今のトコロ問題はないでしょう。
問題は――――
現有戦力で、この場をどうやって切り抜けるか、と言う事だけですか。
刹那!
一瞬にして数メートルほど離れた灌木の影にタバサを生来の能力。重力を操る能力で移動させる俺。
それと同時に、その跳ばされたタバサの方向。右側が紅い霧に覆われた。
紅い液体を撒き散らせながら上空に向かって跳ぶ細長い物体。そして、その物体を追うかのように俺の右肩から十センチ程下の部分より吹き出す紅い液体。まるで、その部分に鮮やかな紅い花が咲き誇って居るかのような場違いな感想さえ思い浮かんで来る非現実的な光景。
そうして――
そうして、重力の法則に従い跳ばされた俺の右腕と、飛び散った紅い液体が大地へと到着した瞬間。
その時、ようやくふたつの悲鳴が周囲に響き渡った。
ひとつは、生まれてから三度目に聞く事と成った少女の悲鳴。
もうひとつは、俺が傷付いた事に因って悲鳴を上げてくれるのか、と感謝すべき相手。
「やれやれ。最後の瞬間にも他人の事を一番に考えるのかね」
鈍い光を放つ二振りの偃月刀を手に現われる青年。ただ、何故か一太刀目は神明帰鏡の術で完全にヤツ……自らの事を名付けざられし者だと自称するヤツに返したはずなのに五体満足の状態での登場。
但し、右の袖は、肩から下の部分が完全に無くなって仕舞っていましたが。
そう。背後より吹き付けるように感じた鬼気。その瞬間に……刹那の時間を数十、数百倍に引き伸ばし神明帰鏡の術を行使。呪符として作成出来ると言う事は、咄嗟に術としても行使出来ると言う事。
生涯で二度やれと言われても出来ないだろうと言う刹那の時間に術式の構築を行い、バルザイの刃が届くより一瞬早く俺の身体を覆う物理反射。その術式の効果により最初の一刀は完全に無力化。しかし、僅かな時間差。現実の時間で言うのならコンマ一秒にすら満たないであろうと言う時間を置いて飛来するタバサを狙う一刀は――
術式の同時起動。バルザイの偃月刀に籠められた呪力から考えると、生半可な防御壁を構築したトコロでミサイルを紙で防ごうとするような物。
ほんの一瞬、タバサに刃が到達するのを遅らせたら良いだけ。それだけあれば、彼女を移動させられる。その為になら、一時的に右腕の一本ぐらい!
「もっとも、そんな感じだからアイツに選ばれたのかも知れないけどな」
何せアイツと来たら、周りの連中が自分の事ばかり考えて生きて居る事が気に食わないと言って、旅に出て仕舞うようなメンド臭い女だからな。
普段通りのかなりやる気を感じさせない雰囲気で独り言を呟きながら、右腕を一閃。
その瞬間、ヤツの右手の甲が強烈な光輝を放ち――
一瞬毎に寄り集まる呪力。それは幾千もの小さな魔力の渦を形成。うねり、たわみ、重なり合い。
やがて、確かな重みと質感。更に異様な臭気を伴う七色の光を放つ球体へと変化して行く。
――ヨグ・ソトースの球体!
片腕を失った事により、普段よりもかなりバランスの悪い身体を操り残った左腕を一閃。暗闇を斬り裂くような光輝の斬撃が、地の底より発生した虹色の球体のひとつを斬り裂く。
同時に術式起動。雷の気を操る青竜としての俺。故に、腕を失った激痛は神経を遮断する事に因り既に感じなく成って居る。更に、吸血姫の血の伴侶と成った事に因り、夜の貴族の不死性を多少受け継いだ身体は、おそらく、腕を跳ばされたぐらいなら徐々に回復して行くでしょう。しかし、鋭利な刃物。骨の断面すら露わな傷口から失う血液を最小に抑えなければ、いくら仙人の能力を持った俺でも直ぐに出血性のショックで意識を失う。
時間と材料さえあれば――。仙人の俺に取って一番簡単な解決方法は、俺の属性……木行に属する物質で急場しのぎの腕を形成する事。これが一番簡単なのですが、流石にそんな余裕を与えてくれるような連中とは思えない。
この場に存在する連中は……。
故に、ここは一時的な止血を行う術式を起動させるだけに止める俺。
空間すら斬り裂くかのような光の断線が一瞬、ヨグ・ソトースの球体の動きを止めた。
そして次の刹那!
強い異臭を放ちながら、強く明滅を繰り返すヨグ・ソトースの球体。しかし、その一瞬の後には翼を持つ牡牛の姿へと変じ――
――にィつがまぁい、ザイウェソ、うぇかと・けぇオそ、クスネウェ=ルロム・クセウェラトル。メンハトイ、ザイウェトロスト・ずい、ズルロごス、ヨグ・ソトース――
但し、それは囮。丁度中心の辺りから上下に切り離され、どう、とばかりに大地に倒れ込む第二の球体。ソロモン七十二の魔将ザガンと同一視される第二の球体ザガンが巻き起こした震動が、元々バランスの悪かった俺の安定を僅かに狂わせる。
「ヴィルヘルム。シノブとタバサには手を出さない約束だったじゃないの。お願い、今すぐ止めさせて!」
倒れ込む俺の耳に、キュルケの叫びが飛び込む。
しかし、その程度の事でヴィルヘルム……は判りませんが、新たに現われた自称名付けざられし者の心には漣ひとつ立つ事はなかった。
大地に倒れ込むのと同時に、そのまま横に転がる俺。大地と氷空に浮かぶ炎の五芒星。そして、戦って居る最中のタバサや、彼女の式神たちの姿が目まぐるしく入れ替わる。
そう。氷空から降り注ぐ天からの御使いが一瞬にして白く冷たい刃と化し、タバサの正面に居た女性。蛇を右手に巻き付かせた美女を切り裂く。
魔将マルコシアスが、正面から突進して来た赤い騎兵を、その掲げる戦旗ごと紅蓮の炎へと包み込み、
ウヴァルが。そして、レヴァナが、それぞれヨグ・ソトースの球体から変じた使い魔と相対していた。
――オラリ・イスゲウォト、ほもる・あぁたなとすぅ・ないうぇ・ずぅむくろす、イセキロロセト、クソネオゼベトオス、アザトース。クソノ、ズウェゼト、ウロボ――
非常に不明瞭な声。まるで世界の裏側から聞こえて来るような呪いの言葉。その声からはヤツ独特の抑揚にざらつきと、奇妙なうねりのようなモノを感じる。
これは――この世界に対する鎮魂歌か……。
「流石にアウグスタの頼みでも、それは難しいですね」
次に回転をして上空を見上げた時に、俺の瞳に映る黒い影。
十羽以上。おそらく、二十数羽のカラスが俺に向かって殺到。視界のすべてがその瞬間、黒き羽根によって覆われて仕舞う。
無様に――。片腕を失い、急場に思い付く選択肢の少なさから、無様に大地を転がりながらその黒き羽根を躱す、躱す、躱す。
これはおそらく、ヨグ・ソトース第五の球体ドゥルソンの使い魔の攻撃。
「彼に関しては、既に別口で先約が有りますから」
鋭い爪とくちばしの攻撃を躱され大地に降り立つカラス。
しかし、それですべてが終わった訳ではなかった! その瞬間――。カラスが大地に降り立った瞬間、ドゥルソンの使い魔が内側から爆散したのだ!
赤い霧と気味の悪い細かな肉片。そして、それがカラスで有った証の黒い羽根を残し、次々と爆散して行くドゥルソンの使い魔たち。
そのひとつひとつの爆散は、所詮カラス程の大きさの物体が爆発した物。精霊の護りを纏う俺に取って、そう警戒すべき爆発ではない。
しかし、次々と降り立つ度に爆散を繰り返すカラス。その度に、俺の周囲で水面に石を投げ込んだ時に発生する波紋のような物が出来上がり、阻まれた爆風が土煙を巻き上げる。
五、六、七――
大地を転がりながら、爆発の数を数え続ける俺。ドゥルソンの使い魔の数は二十二体。そのすべてを躱し続けられたら、俺にも反撃のチャンスが来る!
十、十一、十二、十三――
其処で反転。左手と後頭部で逆立ちをするような要領で倒立。当然、今の俺の身体能力では、こんなムチャな動きは出来ない。これは、生来の能力を多少駆使して行って居る動き。
その体勢から跳ね上がろうと力を溜めた、正にその瞬間!
十八、十九、二十、二十一、二十二!
一気に五羽のカラスが俺を取り囲み!
俺の周囲――何もない空間に行き成り艶やかな赤き花が咲き誇るかのような、凄艶な炎と爆風が発生した。
その瞬間。大気自体がたわみ、何かが歪み、削り取られるのを感じた。それは、そう。見えない壁として俺の周囲を覆っていた、活性化した精霊たちが儚い火花として散って行く感覚。
無数の小さな生命が散華して行く際に発する生命の煌めき。俺を護ってくれていた小さき者たちが、本当に微細な光の断末魔をあげて……滅びて行く。
儚い。生命とさえ言えないような、自らの意志さえ持たぬ者たちの死の穢れを一身に受け止める。
しかし、それを悼む暇も、哀しむ時間も用意されている訳はない。
爆発の勢いで吹き飛ばされ、大地に叩き付けられる俺。身体中を打ち付け、一瞬、息が止まる。
しかし、それだけ。完全に勢いを殺し損ねたが故に、大地を二度ほどバウンドしてから停まる結果と成ったが、おそらく身体の被害は軽微。ほぼ息をするように一瞬の内に発動させられる生まれついての能力は、ここでもギリギリの場面で俺の身体を護ったと言う事。
――ウン、クイヘト・けそす・いすげぇぼと・ナイアーラトテップ。ずい・ルモイ・くあの・どぅずい・クセイエラトル――
もっとも、未だ精霊の護り以外に斥力フィールドのような物を身体の周囲に常態的に展開させて置く事は出来ないのですが。
普段に比べるとかなり鈍い反応で跳ね起きようとする俺。同時に大きく息を吸い込み、体内を巡る気を練り上げようとする。
「それに、大丈夫。彼はここで死ぬ事は有りませんから」
彼を殺せば、このハルケギニア世界は簡単に滅んで終いますからね。
ヴィルヘルムとキュルケの会話が聞こえて来る。確かに、ヴィルヘルムがヤツの顕現ならば、此の言葉も妥当。何故ならば、ヤツの目的は世界の破滅などではない。
いや、結果的に世界が滅びるのならそれも一興、と考えて居る存在。
多くの人間の刹那的な望みを叶えて行きながら、ヤツに力を求めた人間たちが、その力に溺れ、振り回され、結局、滅んで行く様をシニカルに見つめ続ける。それがヤツ。這い寄る混沌と言う存在。
俺のような存在が居れば、その滅びゆく過程に置いて、色々な興味深い経過が見られるはずですから。
双方が無様に足掻く様をね。
――イシェト、ティイム、くぁおうぇ・くせえらとぅ・ふぉえ・なごお、ハスター。ハガトウォス・やきろす・ガバ・シュブ=ニグラス。めうぇと、クソソイ・ウゼウォス――
しかし、そんな思考は一瞬。俺が体勢を整え、体内で気を練り上げた瞬間!
俺の足元が突如、その様相を変えた。足元の土。……元々存在していた腐葉土は確かに自らの足元に未だ存在する。そう言う堅い感触を靴底に伝えて来ている。しかし、その大地の底深くから湧き上がって来る無数の気泡。
その様はまるで熱を伴わない溶岩に覆われた大地の如し。そして、その気泡から発生する異臭。
「ダルブシ、アドゥラ、ウル、バアクル。
顕われ出で給え、ヨグ・ソトースよ。顕われ出で給え!」
異世界の詩を歌い続けていた名付けざられし者……いや、門にして鍵が、呪文の最後の部分の詠唱を行った。
それは、この世に絶対に顕現させてはならない……禁忌の扉。
但し――
「やれやれ。矢張り、完全に顕現させるには至らなかったか」
勢いを増し、空を完全に覆い尽くす炎の五芒星。そして、その五芒星に対応するかのように大地に現われるΩの文字。
大地に着いた俺の両足が焼け、そして爛れて行く。
骨まで露わになりながら、しかし、足首の部分。聖なる傷痕が付けられた部分から上にその爛れが広がって来る事はない。これは……この爛れは大地が発生させた熱により焼け爛れている訳ではないと言う事。
そして地が鳴動し、狂った風が唸りを上げる。
咄嗟にタバサの方に視線を向ける俺。同時に能力を発動。おそらく、この両足に広がる爛れは霊障。それも、呪詛の類。故に、聖なる傷痕より上に爛れが広がらない可能性の方が高い。ただ、そうとは言え、現状、自らの足で立って居る事さえ難しい状態に成ったので上空へと退避を試みる俺。
しかし!
しかし、まるで大地に深く根を下ろした大樹の如き頑健さで、俺が上空に退避する事を拒む大地。
そして、そんな俺の姿を見つめる蒼の少女から、彼女に似合わない悲鳴と、そして、その声に相応しい表情が発せられた。
彼女が無事で有る事に安堵し、そして同時に、笑顔を見るよりも前に深い絶望に覆われた顔を見る事に激しい後悔の念を。
そして、何も出来ずに異世界に。おそらく、脱出する事の出来ないこの世界の直ぐ隣に存在する無限の闇に沈められる無念の重りを両足……。いや、身体全体で感じる。
不定形な泡に覆われた大地は何時の間にか消失。いや、すべては気泡として散じ――
やがて、扉。此の世と彼の世の境目に存在する扉が、世界を軋ませる大音声と共にゆっくりと開いて行く。
ここから……。この足元に開いた次元孔からは誰も自由になれないと感じる絶望。根源的な恐怖のイメージ。
……何処か。最早一歩も動かす事の出来ない足元からとも、氷空に浮かぶ炎の五芒星からとも付かない、何処か彼方から聞こえて来る猥雑なフルートとドラムの音。
「じゃあな、アイツらに宜しく伝えてくれ」
この異常な空間に有って尚、それまでと変わらない少し疲れたような。そして、やる気をあまり感じさせない声。
理性も……。意志も完全に千切れ跳ぶかのような苦痛の波間に喘ぐ俺の耳にも、その言葉だけはしっかりと届いた。
そして……。
そうして、その言葉を最後の手向けとして、俺の意識と身体は混沌が渦巻く異界の彼方へと果てしなく落ちて行ったのだった。
後書き
這い寄る混沌ニャルラトテップの別名は燃える三眼です。
それでは、第96話より新章スタート。
次章タイトルは『流されて異界』。
次回タイトルは『狭間の世界』です。
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