軽い男 堅い女
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第四章
第四章
「けれど何で私にだけ」
だが洋子はここで俯いて困った顔をしてそう呟く。
「何でなのよ。困るじゃない」
「本当に困ってるの?」
ここで早苗は不意にそう尋ねてきた。
「貴女本当に困ってるの?」
「何言ってるのよ」
そう言われるとこう言い返すしかなかった。
「困ってなければ誰もこんな話しないわよ」
「それもそうね」
頷きはしたがその声には感情が篭ってはいなかった。
「わかるでしょ?早苗は彼氏もいるし」
「付き合って間もないけれどね」
まだ三ヶ月程である。キスどころか手を繋ぐことすらない。
「だから。私はそんなこと今まで一度もなかったし」
「そうだったの」
「そうだったのじゃないわよ。そんな男の子の方から声をかけられるのも。あんなにしつこくつきまとわれるのも」
「そんなに嫌だったらストーカーで通報すればいいじゃない」
「それも考えたわよ」
口をシャコ貝の様な形にさせて答える。実に苦々しげな顔になっていた。
「けれど・・・・・・可哀想じゃない」
「可哀想なんだ」
「そりゃ。あんな奴だけれどね」
口調がまるで何かを必死に打ち消すかのようなものになっていた。
「それでも。そんなことしなくても」
「それじゃああいつずっと貴女につきまとうわよ」
「わかってるわよ」
「じゃあ通報しなさいよ。それで万事解決よ」
「解決なんかしないわ」
「あら」
早苗はそれを聞いて一瞬目の色を変えた。だがそれは決して洋子には見せはしなかった。
「そんなことしても。あいつはいいけれど私はよくないのよ」
「貴女がなのね」
「そうよ。気が済まないわ」
「じゃあづすればいいのよ」
「決まってるじゃない」
洋子は早苗を見上げて言った。二人は部室の左右にあるロッカーを背にし合って向かい合った。
「あいつが私から離れれば。それでいいわ」
「それでいいのね」
「それができたらね」
洋子はそう言いながらちらりと横に目をやった。どういうわけかその目の中に自信が影を差していた。
「どんなにいいでしょうね」
「わかったわ」
早苗はそれを聞いて頷いた。やはり感情は篭ってはいない。
「じゃあ私に任せておいて。彼はこれから貴女の側にはいないわ」
「本当に!?」
それを聞いて顔が晴れやかになる洋子であった。だが晴れやかなものの後ろには陰があったりするものである。
「もし本当にそうなれば」
顔は晴れやかであったが目は何故か泳いでいた。
「もう何もいらないわ。そうなるのならね」
「じゃあ本当にそれでいいのね」
「ええ」
洋子は頷いた。
「貴女にできることなら。お願いするわ」
「わかったわ。それじゃあ」
そして早苗は言った。
「御礼は後でね。それでいいわね」
「あれ、後でって」
「すぐにわかるから。それじゃ」
そう言いながら部活を後にした。
「後で呼びに来るから。少し待っててね」
「ええ」
こうして早苗は部室を後にした。洋子は一人になると部室の端に置いてあった椅子に座った。何の変哲もないパイプ椅子であった。かなり古くあちこちに錆があるがそれでも座った。そして考え込んだ。
「本当に大丈夫かなあ」
正直かなり不安であった。
「何かいつも大事な時は早苗に助けてもらってるけど」
二人はそうした関係なのであった。
小学校一年の時に同じクラスになってから付き合いははじまった。遊ぶ時はいつも一緒だったし中学校も高校も一緒であった。部活も中学校でも高校でも同じバレー部であった。早苗は洋子に何かあればいつも黙って助けておくれた。洋子も早苗が困っている時には側にいた。そうした二人であったのだ。
だが今回は何か様子が少し違っていた。早苗はこうした時はいつもなら感情を露わにして相手に飛び掛からんばかりになる。しかし今回は不自然なまでに冷めていたのだ。
「どうしたんだろう、早苗」
それは洋子にもわかっていた。彼女はそれに関して不思議に思った。だがそれでも自分自身のことはわかってはいなかったのである。早苗に話している時の自分の姿を。それがわかれば早苗のそうした態度もわかったかも知れない。いや、まだ彼女には無理であろうか。
「何かあったのかな、今日」
その何かにも気付いていないのである。そのことに関して全く知らない者はある意味において無敵である。何故なら恐れも全く知らないからである。
自分のことより早苗のことを考えはじめた。そこで部室の扉が開いた。
「誰!?」
「私よ」
声は早苗のものだった。それを聞いた洋子は身構えかけていたがそれを解いた。
「何だ、よかった」
そう言って安堵の息を漏らす。
「あいつかと思ったじゃない。驚かさせないでよ」
「驚きたかったの?」
「まさか」
それには首を横に振った。
「馬鹿なこと言わないでよ」
「まあそうだけれどね」
やはり早苗の態度は素っ気無かった。そして彼女は素っ気ないまままた言った。
「それで彼だけれど」
「どうなったの!?」
洋子は思わず身を乗り出してきた。
「まだいるの!?」
「いいえ」
早苗は首を横に振って答えた。
「もういないわ。安心して」
「そう」
ほっとしたような、がっかりしたような顔であった。
「よかった」
「よかったのね」
「勿論よ」
迷わずにそう答えた。
「これで明日から元の生活に戻れるんだから。清々したわ」
「そう。それじゃあいいわ」
早苗は感情の抑制のない声でそう述べた。
「じゃあ帰りましょう。もう暗いし一緒にね」
「ええ」
こうして二人は部室を出た。確かにもう暗くなっていた。
洋子はその暗くなった学校を見回していた。そしてある程度見回したうえでほっと安堵の息を漏らした。
「これでいいわ」
「いいのね」
「うん。今まで鬱陶しくて仕方がなかったのよ」
その大きな目を少し怒らせて言った。
「うざくて。私の他にもどうせ声をかけまくってるんでしょうけれど」
「今はそうじゃないらしいわ」
「そうなの」
「稲富君ね、一人の女性に声はかけるけれど二人の女性には声をかけないのよ」
「そうだったんだ」
「だから今声をかけていたのは洋子だけなのよ」
「ふうん」
それを聞いて何故か複雑な気持ちになった。
「そうだったんだ」
「どうかしたの?」
「え、いや」
それを聞いて慌てて首を横に振った。
「何でもないわ、何でも」
「わかったわ」
「もういなくなったし。これで勉強にも部活にも専念できるし」
「そうね」
「ねえ、前から行きたかったラーメン屋さんがあるのよ。一緒に行かない?」
「いいわよ」
「それじゃあ今から行きましょう。とっても美味しいんだって」
洋子は朗らかな声で早苗を誘って学校を後にした。そこに友一はいなかった。それが洋子にとってはこれ以上にない喜びであった。今のところは。
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