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あさきゆめみし―テニスの王子様―

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7月7日、涙… その四 『逢いたい』

「はあっ……はあっ……!!」


 夜雨で濡れたアスファルトをサンダルのヒールで蹴る音が、静まり返った住宅街にやけに甲高く響く。

 既に帳の降りた街は本来の姿を取り戻したのかごとく、ネオンの明かりで満たされており、じっと見ていると吐き気に襲われそうになる。

 大阪に越してきてから早四年、ようやくこの場所にも居心地良さを感じられるようになったが、この光の海にはどうも慣れそうにない。

 いつもならば、深夜に限らず駅前から漏れてくる軽快なBGMなんて滅べば良いと願っていたのに、今はとても頼もしく思う…なんて虫が良すぎるだろうか。



『あのテニスコートで待っとる』



 自分の名前の由来でもある七月七日もそろそろ終わりを迎える頃、滑り込んできた一通のメール。

 身だしなみもろくに整えず、最低限の持ち物だけを持って家を飛び出した。

 幸い、あの人が出て行ってから男手で彼女を育てている父は今日も仕事でいない。

 戸締りや火の回りを徹底して確認するのはもう慣れた。


『これ、渡しとくな』


『何?』


 そう、渡されたのは一切れのメモだった。


『俺のメアドや』


『一度でもメールしてきた時点で、俺のことが好きやって見なす。どや?簡単やろ』


『そう…だけどっ……逆にメールしなかった場合は?』


『だから、気の長い賭けやって言うとるんや。俺から告白しといてふられてもいない相手をそう簡単に忘れたらそれはほんまの好きとちゃう』


『そんなんお遊びや』


 こう言うのは、世間一般的で評される告白と言うのだろうか。

 Yes以外の答えを認めないとでも言うような瞳の強さに負けて思わず、了解してしまった。

 アドレス登録したとしても所詮はメール、しなければ意味がないただの記号だ。

 そうは思っても、ホンマかっ!?と、聞き返す侑士(ゆうし)は先程までの大人びた表情とは打って変わり、何とも子供らしく無邪気に笑っていた。


『それにしても、何でメールなの?忍足(おしたり)君も四天宝寺に行くんでしょ?』


 それに釣られてか、幾分か緊張が解れたなの花は賭けを持ちかけられてから気になっていた疑問を聞いてしまった。

 ……それが、今でも後悔している要因になるとは露程にも思わずに…。

 卒業にはまだ早いとは言え、そう遠くはないのが小学五年生。

 年が明けて四月になれば、最高学年。

 だが、その前から来るべき未来を見据えている者たちは自分の行き先を既に定めていた。

 彼女もその一人で、大抵のクラスメイトは四天宝寺中学校に進学することを心に決めていた。

 だから、返ってくるはずの答えも同じものだとなの()は確信していた。

 それなのに……。


『引っ越すんや。……明日…』


 その途端、頭の中が真っ白になった。

 気がついた時には、前髪を乱してその場を走り出していた。

 聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、このまま居ることができなかったのだ。

 掌を握り締めると、ぐしゃりとメモの角が当たった。



(何でっ…なんでっ……ナンデッ!!!)



…だって、今までそんな話、誰もしていなかった。

 クラスの男子も今日はどこに行こうかとまるで、方向違いな会話で盛り上がっていた。


『…っ……はっ…はあ……』


 涙が溢れて今、どこを走っているかなんて解らなかった。

 ただ、別れ際の彼が不器用に笑った姿だけが胸を埋め尽くしていた。

 ……それが何故か気づいた時にはもう、侑士(ゆうし)が東京に引っ越していった翌日の朝だった。


「はあ…はあ……っ……」


 あんな思いはもうたくさんだっ。

 ようやく目的の場所に付いた頃には再び雨が降り出した。

 もう、昨日になってしまった七月七日は七夕なのに、記憶に残ってないほど晴天に恵まれたことはない。

 今頃、空の彼方では年に一度だけ逢瀬を許された恋人達が今までどおり、天の川に隔てられてお互いを想っていることだろう。

 その一方、地上は雲と雨で目隠しをされ、せっかく笹に掲げて天に託した願いも全て濡れてしまっている。


「……はあ……はっ……っ……」


 フェンスを乗り越えて着地する際に捻った右足がまだ鈍く痛むが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 ここでメールしてからだとしても、甘く見積もっても、二時間以上は待ちぼうけしているはずの送り主を想像するだけで自然と歩調が速くなっていた。


「……久しぶりやな。……って、どないしたんや!?泥だらけやんっ!!」


 苦笑交じりにこちらに近づいてきた人物は、あの頃よりも随分と身長も声色も変わってしまったが、……見覚えがある。


忍足(おしたり)君っ…なの?」


「ん?…何や、あまりの男前に惚れ直したか?」


 そう言い、伊達眼鏡をくいと、指で持ち上げる彼のレンズ越しの瞳はイタズラをした子供みたいに笑っている。


『アホ。そんなん俺に決まっとるやないか』


『いんや、まだ口説き中。邪魔せんといて』


「うっ…」


間違いない。


「おいおいっ。今度はどないしたっ?」


 目の前でオタオタする彼をお構い無しに涙が止め処なく溢れてくる。


「……堪忍な」


「っ…」


 不意に背中を強く押され、そのまま侑士の胸に倒れ込む。


「泣かせるつもりはなかった……なんて、典型的な言い訳やな」


 あの日、引っ越すことが前々から解っていた彼はどうしても彼女に己の持て余している気持ちと共に伝えたかった。


 …しかし、いざとなるとそんな勇気はなく、どうしたものかと悩んでいたあの昼休み、図書室から教室に戻ってきた侑士の耳に女子たちの楽しそうな声が聞こえてきた。


『なあなあ、なの()はどっちが好きなん?』


『えー……っと』


 その後から如何にも困ってそうな少女の声が聞こえてきた。

 以前にもその内容でクラスの女子が騒いでいたのを思い出し、胸が熱くなるのを感じた。

 (きぬた)なの()は一体どう答えるつもりなのだろう?

 そう思う反面、聞きたくないと思う自分もいた。

 だから、彼女がそれを口に出す前に…


『アホ。そんなん俺に決まっとるやないか』


 つまらない男の意地でなの()を独占したかったのだ。


「…今まで、……待たせてしまってごめんなさい」


 東京と大阪。

 決して遠くではないが、気軽に訪れることができるほど近くもない。

 そんな距離をわざわざイタズラなどの目的で果たしてくるだろうか。

 もしも、そんな人間がこの世にいるならば、それはどんなに寂しいことなのかと想像するだけで涙が溢れそうになる。


『逢いたい』


 そうメールして時は過ぎてしまったが、こうして来てくれたことが今は酷く嬉しい。


「……ほな、これからは小学生のお子様にはできないことをしよか。今まで離れていた分、な?」 
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